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極楽寺のシダレザクラ

 投稿者:森の子狸  投稿日:2020年 2月18日(火)06時53分12秒
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  極楽寺は宇陀市の北端にある。所在する集落は「室生小原」の集落で、近鉄榛原駅から国道369号線を北へ8キロ余り、途中から県道へとはいった長閑な山村地帯である。標高数百メートルの小高い山々に囲まれた盆地状の地形で、水田稲作が生業かと思える。集落まではナビ頼りですんなりとたどり着けた。集落は数十戸の民家が建ち並ぶこじんまりとした集落で、一般的な寺の伽藍が見えない。場所を間違ったかとも思ったが、ムラの方に確認すると丘の上に存在するようだ。教えられた細道を走っていくと、目的とするサクラの古木が見えてきた。九十九折りの階段を登ると、其処は集落を見下ろす一番の高台であった。見事な眺望だ。寺は伽藍と言えるようなものでは無く、通常の民家の模様。融通念仏宗に所属されるようだが、明治32年に火災により消失したとか。現存するのは再建された物置(?)か集会所的な存在のようだ。無論、無住のお寺さんである。宗教行事は近隣のお寺さんが兼務されているのだろうか。

さて肝心のサクラだが、当然ながら開花状態では無い。枝葉も見られないような丸裸の状態だが、古色蒼然としたシダレザクラだ。何時もの如くザクッと目測してみれば、大きさは幹周りが2メートル位、樹高が15メートル位だろうか。数値的には巨木とは言えないだろうが、サクラは大木にはなりにくい。幹周り2メートル前後あればサクラとしては巨木だろう。樹齢はデーターによると300年前後のようだ、江戸時代中期の頃の植樹であろうか。境内にはこのシダレザクラ1本のみで、他の樹木は見当たらない。火災により焼失したのかもしれないが、サクラだけが偶然にも助かった模様だ。余談ながら宇陀市内には「極楽寺」が二カ所存在する。名称で検索すると、両者がごちゃ混ぜで登場するので検索にはご注意を。所在する住所での確認が必要なようです。

サクラの根元に座り込んで集落を眺める。歩き回るような人々の姿も耕作する姿も見えず、長閑でゆったりとした時間が流れて行く。弁当を食べるのに最適な環境だが、あいにく持ち合わせていない。持参したテルモスを取り出して、しばしお茶の時間を楽しむ。火災で焼失するまでは、住職さんも同様な思いで眺望を楽しんでおられたのではなかろうか。多分、茅葺きの古民家然とした小さなお寺であった・・・・・だろうと推測してみる。山のタヌキ達も遊びに立ち寄っていたのではなかろうか。小さな集落であり、近隣の集落までも遠いようなので、寺の経営はかなり困難だろうかと思える。自給自足的な生活がベースかと思えるが、周辺環境と長閑な雰囲気それに穏やかな時間を考慮すると、寺の小僧生活も楽しいかも知れませんね。
 
 

農閑期の農作業

 投稿者:森の子狸  投稿日:2020年 2月16日(日)06時34分52秒
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  今は2月の中旬、農閑期のど真ん中である。一般的な印象では、農閑期=暇・仕事無し、といった案配だろうか。しかしながら大きな仕事は無くとも細々とした作業は待ったなし、日々何事かの作業に勤しむのが百姓であろうか。現に農園にはそれなりに作業する仲間の姿が。主な作業科目は農園内の片付けと土壌の改良作業であろうか。農園内には撤去できていない野菜の残滓や資材等が残っている。これらの片付けをボチボチやったり、耕耘機を持ち出して土壌の改良作業をやったり・・・・・・・そんな作業が中心であろうか。とりわけ土壌の改良は今頃しか出来にくい。野菜が育っていない畝を中心に耕耘機を掛け固くなった土壌をほぐして空気を注入していく。これだけでも大きな効用だが、籾殻やくん炭或いは鶏糞等をすき込んでいくと尚更望ましい。子狸もこの手の作業を少しづつだが行っている。

仲間の大御所や長老もそうした思考とみえ、各所で掘り返した跡が。土壌改良の真っ最中といった状況のようだ。野小屋の側には鶏糞も山積みされていた。春から秋の耕筰シーズン中は耕地が空かない、従って農閑期の今時分しか対応できないのだ。3月下旬ともなれば種蒔き等が始まってくる。まさに今が適期の作業であろう。農園の側には竹林もあって、此の地の手入れも欠かせない。放置すればヤブとなるのは必定、定期的な介入が必要なのだ。農園から一段低い位置となってるため、階段を設置してるのだが破損してるようだ。本日は此処の作業に取り組もうかと思っている。竹を利用した階段のため、手すりにしろ足踏みにしろ劣化は避けられない。1~2年おき位に更新が入用なのは致し方ないであろう。それだけ仲間達が頻繁に利用していることの証、役に立って何よりだ。

かくして少なからず何事かの作業は存在している。日々農園へと通っても暇を持てあますことは無い。というか、某か作業を見つけて取り組むのは、「指示」では無く「発見」であるので、組織人とは違った楽しみかも知れない。大小の組織に属していると、多かれ少なかれ上部からの指示に基づいて動かざるを得ない。大人しく従える方はある意味幸福なのかも知れないが、天邪鬼である子狸他の仲間達には辛い場面であるのかも。農園という空間はある種の大きなキャンバス、何を描こうとも個々人の完全な自由である、この特権をフルに活用したいもの。かくして夢想家の仲間達はいそいそと本日も農園へと通うのだろう。
 

エンドウの成長

 投稿者:森の子狸  投稿日:2020年 2月14日(金)07時25分28秒
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  昨年11月に種蒔きしたエンドウがそこそこ大きくなってきた。画像が子狸のエンドウ畑だが、結構いい色合いをしてるかと思う。一番気がかりだったのが厳冬期の寒波だったが、どうやら今年は暖冬の模様、当地もまだ一度も降雪が無い。金剛山の頂部付近が少し白くなっただけ、街並みは穏やかなものだ。作業を行う者にとっては有り難い現象で、寒さにまどわされる事も無く作業に集中できる。例の「武漢肺炎」は蔓延中の模様だが、山間部の山里にまでは影響もあまり無いようだ。用心のマスク姿もほとんど見かけない。感染者や死者の数は発表された数字の数倍から数十倍との説もあるが、隠蔽が特異な彼の国とあらば噂の方が真実に近いかも知れない。このままの状況が続けば、期待の東京オリンピックも延期か中止の可能性が出てくるだろう。真夏の炎天下で大会を開催すること自体がとんでもない事案なので、秋頃まで延期するのが個人的には望ましいかと思っている。

さて肝心のエンドウだが、大きさは20センチ前後ともなってきた。順調な発育の模様だ。このまま順調に育ってくれれば、後二ヶ月程で収穫となってくる。春先の貴重な野菜だ。エンドウはご存じのように3種に大別できる。①スナップエンドウ、②キヌサヤエンドウ、③実エンドウ、の3種である。子狸はこれまで3種全てを栽培していたが、今年は①、③の2種に絞り込んだ。同時期に大量のエンドウがあっても消化しきれないのだ。品種は①が甘いエンドウ、③がグリーンピースである。それぞれ2袋の種を蒔いたが、発育はグリーンピースが少し遅れ気味、発芽も少なめなようだ。同じ場所に同じ手法で、しかも草抜きの作業等も同様に行っていたのだから、種子の持つ生命力の相違だろう。発芽率は甘いエンドウが9割位、グリーンピースが8割位であろうか。

仲間達もほとんど全ての者がエンドウを栽培しているようだ。エンドウは何かと重宝される家庭が多いのだろう、差し上げても大変に喜ばれる。無論、子狸のエンドウも収穫物全てを消化出来る訳ではない、大半がご近所のマダム衆のキッチンへと運び込まれていくのだ。食膳に或いは弁当にと利用価値は多いようで、提供野菜の中でも喜ばれるトップスリーにはいるのではなかろうか。ただ難点は収穫が面倒なこと、一鞘ごとに切り取らざるをえず単調な収穫作業が続いていく。農家によっては通行人を畑に招き入れ、好きなだけ持って帰ってや・・・・・との対応を図る者も。出荷を行ってる農家だと家族総出の作業となってくるだろう。収穫、選別、袋詰め、搬送・・・・しかも4月の中旬から下旬と時期的に集中する。それこそ猫の手も借りたいような状況だろう。無論、我々のエンドウ畑はそれほどの分量でも無いので、ボチボチと収穫を楽しむ予定だ。仲間の長老は極早生のタマネギを栽培していた。それも同じように4月に収穫出来るだろう。4月は端境期、種蒔きや植栽は集中するが、収穫に結びつくのは少ないのだ。エンドウや早生のタマネギは貴重な端境期の野菜、大切に収穫しなければ。
 

神楽岡神社のスギ

 投稿者:森の子狸  投稿日:2020年 2月12日(水)07時27分25秒
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  神楽岡神社は宇陀松山城の城下町にある。城下から一段高くなった城山の中腹、つまり非常時には春日神社と同じく要塞としての機能をも併せ持たせたのかも知れない。従って、参拝の階段は細く、近くには駐車場も無い。少し離れるが「道の駅宇陀野」に車を止めて歩かれた方が良いだろう。江戸時代を偲ばせるような商店街が立ち並び、往事の城下町を復原したかのような印象だ。最も城下町としての役割は江戸時代初期までで、以後は伊勢街道筋の商家街としての役割だったのだろう。宇陀松山城は南北朝の時代に秋山氏によって築城され、戦国・桃山時代には数人の武将が城主を交代、関ヶ原の戦い前後には福島氏が城主となったが西軍との疑いで改易・廃城となったようだ。以降は織田氏が陣屋を築いて領したが内紛で自滅した模様。

細い石段を登って境内へとはいると城下の街並みが一望(画像上段)できる。境内はそう広くも無いが山の中腹とあってか防備には適しているようだ。一般に大手門の周囲に寺社を構えるのは砦の役割のようだが、神楽岡神社もそうした位置づけだったのだろうが、江戸時代初期で終わったようだ。廃藩と戦乱の無い世で、通常の神社へと戻ったのだろう。神社の正面には割拝殿があり、拝殿と本殿との間、狭いスペースに肝心のスギはあった。かなり窮屈そうだ。例によってザクッと目測してみれば、幹周りは概ね5メートル位、樹高は30メートル位だろうか。樹齢は残念ながら不明なようだ。樹種はスギということで、何処にでもあるような存在、格別珍しくも無いので興味が薄れるかも知れない。福島氏・織田氏の頃のスギと期待したいがどうだろうか。400~500年位の樹齢はあるかのようにも思えるのだが。

宇陀松山藩だが上述のように城主の移り変わりはあったが、石高は概ね2万石から4万石程度であったようだ。いわゆる小大名である。城郭を維持できるような財政力では無かっただろうと思う。石高が2~4万石なら、維持可能な人口も2~4万人程度、今日なら小さな市といった規模であろうか。現在の宇陀市が人口3万人前後、ほぼ同様規模で維持されてきたのかも知れませんね。宇陀市は薬草の栽培が盛んなようで、城下町には「薬草園」の存在もありました。何かの伝聞で聞いたかのように思えるが、「吉野葛」の産地は宇陀市だとかどうとか。確証はありませんが宇陀市の豊穣な大地を眺めていると、さもありなんとも思えてきます。
 

薪割り、飯炊き、小屋掃除

 投稿者:森の子狸  投稿日:2020年 2月10日(月)07時57分37秒
返信・引用 編集済
  「薪割り、飯炊き、小屋掃除、みんなでみんなでやったっけ・・・・・・」懐かしいフレーズだとご記憶の方も少なく無いかと思う。とりわけ、中学・高校・大学等の過程で山岳部に所属された方にとっては必修科目ではなかっただろうか。入部すればまず最初に教えられるのが「この歌」と「新人哀歌」であった。この歌とは、ダークダックス歌うところの「山の友に」である。記憶が間違ってなければ、確か成蹊大学山岳部の部歌ないしは寮歌だったかと思う。子狸は中学から入部したのだが、当時フレーズ通りで新人の最初の仕事は薪集め・薪割りであった。飯ごうがメインで薪で食事の準備をしていたものだ。やがて灯油ストーブ→ガソリンストーブとなり今はガスストーブが全盛だろうか。使ったタンクの処理に困るのが一つの難点なのだが。

この薪割り、今も必需なのが薪ストーブの愛好家である。薪ストーブは名称通りで、薪を燃やして暖を取る。従って乾燥した薪の準備が必要で、購入以外だと結構面倒な作業を要求される。我々も森の活動をやっているので、支障木や倒壊木など処分しなければならない樹木が発生するので、結構木を処理することがある。処理は焼却がメインだが、薪にして持ち帰る者も。本日は幸いにして「薪割り名人」が登場した。久方ぶりの参加だが、太めの幹や斧をみて炎が燃え上がったみたいだ。俺に任せろ・・・・・とばかりに斧を振り出した。薪割りは木の目を見極めることが肝心だそうで、目の位置に斧をたたき込むと簡単に割れるとか。言葉通りで大きめな樹木が簡単に割れていく。次々と割って小屋の横に積み上げた。1年ほど放置して乾燥を待つようだ。実は仲間の一人が薪ストーブの愛好家、焼却処分する材なら薪にして持ち帰っても同じこと、喜んで持ち帰るようだ。

薪ストーブは熱効果が高いようで、自宅に1台あればほぼ全室の暖房をまかなえるとか。無論、家の構造にもよるかと思うが、暖かいのは確かだろうと思う。但し我が国では燃料たる薪の入手がなかなか困難で、購入となれば少なく無い経費となる。石油やガスのストーブに頼った方が効率的だろう。山間部の集落や持山など薪の入手手段があれば実に効果的な暖房具であろう。何分、薪割りを行って燃料を作るとの作業は、結構楽しい作業でもある。上述の山岳部だが、薪を集めて燃焼させる場面はほとんど無くなった。新たな器具が開発され、用具の進化もあって合理的な山登りが出来るようになった。新人が薪割りを行う場面も見られないかと思うが、薪を集め割って燃やす過程は人間としての基本的な能力、是非とも失って欲しくない作業かと思うのだが。
 

春日神社の夫婦スギ

 投稿者:森の子狸  投稿日:2020年 2月 8日(土)08時30分5秒
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  世に「御三家」とか「三羽ガラス」といった言葉が存在する、いわゆるトップスリーをまとめて表現したものであろう。じゃあ、「大和の3名城」って尋ねられたら何と解答されるだろうか。個人的には、大和郡山城、高取城、それに宇陀松山城の3城かと思っている。今回の舞台はその宇陀松山城、ご存じかも知れないが典型的な山城だ。小高い丘の上に存在し、細い山道を30分程度登らなければ到着しない。以前に1回登ったが途中で2~3回座り込んでしまった。結構な急登なのだ。いざ戦闘となったとき、甲冑を着込んだ武士がどうやって城へ詰めたのだろうかと不思議に思える。無論、天守の跡は視界360度で、周囲の街や山脈が広がり展望だけでも登る価値がありそうだ。山城特有の土塁や掘り割り等が其処彼処に残っており、一度訪ねられることをお勧めします。今回の主役は松山城では無く、その麓にある春日神社、どうやら城の大手門(表玄関)にあたるようで神社自体が一つの曲輪でもあるようです。いわゆる戦闘時には城を守る要塞として機能したのでしょう。この神社の境内に残るのが、個人的に夫婦スギと呼んでる一組のスギの樹木です。画像でご覧いただきたいが、2本のスギが一体となった仲良しスギのようで御神木となっています。

ちなみに春日神社ですが、主たるご祭神は五十猛命(イタケルノミコト)で木の神様だそうです。紀州の伊太祁曽(イタキソ)神社から分霊された模様ですね。例によってスギをザクッと目測してみます。2本が繋がってますが、個々に見ると幹周りが4メートル位、樹高が40メートル位でしょうか、神社の解説はありましたが樹齢については触れられてなかったですね。金剛山の山頂付近にも夫婦スギがありますが、似たような印象です。一見したところ、樹齢は数百年位でしょうか。樹木自体は何処にでもあるスギの木で珍しくもありませんが、一体化して夫婦スギとなってるのは少数なようです。どうして2本のスギが一体化したのかは不思議なままですが。

この春日神社、以前に宇陀松山城に登ったときも訪問したのですが、スギの木には気づきませんでした。今回ふとした機縁でその存在を知り再訪した次第です。上述したようにこの神社が城の大手門にあたるようで、登城時の通路も神社横に控えております。幅員1メートル程度の山道で、ホンマに城に至るのかと不安になるような印象ですがそこは山城、山の上に登るのですから安心して登って下さい。踏み跡はしっかりしています。城跡を訪ねられるのは少ないようで訪問時も再訪時も1名程度でした。城下町については次回触れますが、山城の城下にしては綺麗に街並みが整っています。関ヶ原の戦いまでは生き残ったようですが、西軍に属したため破壊された模様です。
 

伊豆神社のスギ

 投稿者:森の子狸  投稿日:2020年 2月 6日(木)06時37分37秒
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  近鉄榛原駅より南東の方角に4キロ余り、国道369号線を走り込んだ小さな渓流沿いに広がる集落が「高井集落」である。民家が数十戸ほど川沿いに並んだ静かな街並みだ。実は奥にある仏隆寺のサクラを見るために何度か訪れていたのだが、集落内にお寺や神社がある事は全く気づかなかった。今回、ふとした機縁で存在に気づきスギがあるとの話なので訪ねてみた。国道から集落内にはいること100メートル余り、川沿いに神社とお寺が並んでいた。「真楽寺」と「伊豆神社」だ。お寺の境内に入って境内の中から神社に参拝するような構成、つまり別の宗教法人だが元々は一体として運用されていたのが伺える。かって存在した神仏習合の名残であろう。お寺は浄土真宗本願寺派に所属するようで、神社は無住のようだ。ひょっとしたら、昔々の時期にはご住職が宮司をも兼ねておられたのかも知れない・・・・・そんな想像もしてみたが。

寺の境内から神社の境内にはいると正面に拝殿、その左横にスギの木が見えた。かなり背の高い木で、国道からもその存在に気づくほどだ。例によってザクッと目測してみれば、大きさは幹周りが6メートル位、樹高が40メートル位、樹齢は先人の記録によると300年強ほどあるようだ。神社はいつ頃開設されたものか又ご祭神も不明だが、近くを「伊勢街道」が走っており、スギの樹齢とを考え合わせると相当な年数が経過してるかと思う。ネット検索をも行ってみたが、詳細な情報は皆目無いようだ。出てくるのは名称と住所位、恐らくだが集落住民のみでひっそりと祀ってこられた神社なんだろう。幾つもの集落で一つの神社を・・・・・・といった形態もあり得るが、高井の集落は国道沿いにポツンと存在しており、隣の集落までは結構遠い。集落の単独所有であろう。

上述のように神社の情報が皆目無く、集落内で古老と出会うことも無かったので、深く探索することが出来ない。神社の社格で言うと、無格社か村社程度であろう。注目すべきはスギの存在と近くを走る伊勢街道位だろうか。伊勢街道の跡は以前に少し走ってみたことがある。車1台がかろうじて通れる程度、対向車が来ればアウトだ。高井の集落から山中にはいるのだが、少し走った先に「関所跡」との記述がある集落にたどり着いた。山中で10戸程度の集落だったが、大和と伊勢との国境なのかも知れない。或いは宇陀松山城の城主が支配した藩境だったのだろうか。流石に現在は何の痕跡も残っていないが、かっては関所守がいてそれなりに賑わっていた集落だったのかも。宇陀地方は歴史の古い土地柄、各所にそれぞれの長い歴史が眠っているようだ。走り回りながら、少しづつ知見を広げられたらと願っている。
 

節分星祭り

 投稿者:森の子狸  投稿日:2020年 2月 4日(火)07時38分53秒
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  本日は2月4日、つまり立春ですね。といってもベースは旧暦、若干の時差があるのは致し方ないこと。今年は2月26日が旧暦の2月3日のようで、流石にこの時期ともなれば春が来たとの印象も湧き出すでしょう。やはり季節感は旧暦の方がピタリとくるようです。立春でもって新年と考えるのが旧暦の伝統、従って節分は大晦日に相当します。この日にヒイラギやイワシを飾るのは鬼を払うためとか。豆まきもそうですが、鬼は外、福は内・・・・のかけ声に端的に表現されてるようです。従って問題となるのは、鬼とはなんぞや・・・・との疑問でしょうが、場面によって鬼の正体は変わるようで、節分時の鬼は邪気のようですね。つまり季節の変わり目は気候変動があって体調を崩しやすい、つまり季節変動からの体調不良を追い払って健康を維持したい・・・・・そんな願いが習俗となって伝統行事へと変わっていったのでしょう。ついでに商魂たくましくあやかったのが「恵方巻き」の業界でしょうか。なんで巻き寿司を食べるのか、今もって良くわかりませんが、私宅も便乗して巻き寿司の登場と相成りました。ヒイラギは生け垣全部がそうで、イワシは巻き寿司と一緒に胃袋の中へ。

さて伝統行事といえば「豆まき」でしょうが、当地の古刹である「観心寺」では例年盛大に実施されます。興味深いのは豆をまくのでは無くモチが降ってくることです。櫓の上から大量のモチがまかれ大勢の人々が競って拾う様はなかなか壮観です。子狸も仲間に入って拾いたいのですが、画像が撮影できないので遠目に眺めるだけ、例年1個の収穫もありません。無論、かけ声は、鬼は外福は内、の定番用語ですね。中には記号を書かれたモチもあるようで、あたった方には記念品が贈呈される模様。午前と午後の2回開催されますので、お寺さんにとっては多大な出費かと思われますが、参加無料、かなりの太っ腹のようです。観心寺はご存じのように楠公さんの学問所であった場所、国家鎮護の使命に燃え生涯を国のために尽くした楠公さんを偲ぶのか、自衛隊員の方々も多数参加の模様でした。

節分が過ぎ立春となれば新年の開始、農作業も始まりです。無論、旧暦がベースですから実際には2月の下旬でしょう。ジャガイモの植栽がこの頃ですから作業と旧暦はピタリと一致してます。グローバリズムに合わせて新暦を採用したのでしょうが、日常生活とは旧暦の方が似合いそうですね。従って古文書や昔の書籍などを眺めるときは1ヶ月ほど時差修正が必要なので要注意ですね。一例として12月の14日、例の赤穂浪士による吉良邸討ち入りですが、雪景色の場面が描写されてます。江戸では12月には雪が降らないようですが、新暦換算すると1月の10日前後、これなら降雪も考えられますね。ともあれ新年は始まりました。時代がどう動くか予測はつきませんが、ボチボチと日々の役割を果たしていくのが人間としての努めでしょうか、平穏な日々であって欲しいものです。
 

ジャガイモの芽出し作業

 投稿者:森の子狸  投稿日:2020年 2月 2日(日)07時08分37秒
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  令和2年も既に1ヶ月が過ぎました。歳月の過ぎゆくのが速いこと、農閑期だと浮かれていたのが昨日のような気がしますが。2月ともなると新年度の農作業にボチボチと着手すべきでしょう、まず最初に処理すべきなのがジャガイモの芽出し作業。例年、初っぱなに取り組む作業です。最も作業と言っても体を使ってどうこうでは無く、種芋を多少加工する程度。具体的には購入したジャガイモの種芋を2~3個に分割し、室内の暖かくて日当たりの良い場所に並べて発芽を促すことです。種芋のままでも支障は無いのですが、発芽させた方が成長は早いようですね。実際に植栽するのは2月下旬ですから、凡そ1ヶ月の日向ぼっこでしょうか。切り口に薄い膜が出来て傷口を塞いでくれるのも有り難い現象です。

畝立ては既に終了してますので、芽が出始めたら植栽となりますが、およそ4ヶ月位で収穫となります。春作は6月頃の収穫でしょう、そして秋作が9月頃の植え込みで年末の収穫、二期作が可能な貴重な野菜ですね。ジャガイモと言えば例の武漢市、中共政府によって完全に封鎖されているようですが食糧は自給できているのでしょうか。兵庫県位の規模と言いますから農地も多いかと推測しますが、なんせ1100万の人口、しかも彼の国は土壌汚染や砂漠化それに農業用水の甚大な不足・・・・・等々を聞き及んでいます。農業国家のイメージがありますが、実際には食糧の大規模な輸入国家、アメリカと本格的なケンカが出来ないのもここらがネックとなってるからでしょう。武漢市も食べ物が潤沢であることを願っています。

画像は近くの某ホームセンター、子狸が頻繁に通うお店です。種苗店では無いのですが、有能なスタッフがおられるようで、適期に適切な用品を品揃えしてくれます。ジャガイモも各種の品種を多数にそろえてくれました。選択の余地が大きいのは有り難いことですね。選んだのは例によってダンシャク、子狸の好きな品種です。秋作も確かダンシャクを作っていたような・・・・・・。ちなみに種芋を埋め込んでしばらくすると茎が伸びてきます。1個の種芋から5~8本程度の茎が伸びますが、茎が多いとジャガイモの粒が小さく、茎が少ないとジャガイモは大きくなるようです。通常は2~3本程度に縮小しますが、各位のお好み次第でしょう。種芋の横に元肥を埋め込みますが、追肥は不要なようです。ジャガイモやサツマイモ等は収穫時に掘り出す楽しみがあります。隠れた土の中から獲物が飛び出すのは何とも言えない喜び、百姓冥利に尽きるでしょう。年に何度もこうした喜びが舞い込むのですから、世に百姓に勝る職業も少ないのでは無いでしょうか。
 

村のコンシェルジュ

 投稿者:森の子狸  投稿日:2020年 1月30日(木)07時16分52秒
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  千早赤阪村ではコンシェルジュの養成を始められた模様だ・・・・そんなニュースを聞き及んで冷やかし半分に覗いてみた。安部さんの発案かどうかは不明だが、地方創生の呼び声は喧しい。しかしながら中央政府が大きな声を上げようと補助金をバラまこうと、肝心なのは当事者の意識だろう。大阪の末端にある小さな自治体がどのような取り組みを、否、小さな自治体だからこそやれることがあるはず、そんな期待で見守っていこうと思っている。キーパーソンとなるのは画像中段の「村立資料館」、無論地元のヒーローでもある楠公さんが中心だ。一説には村立資料館では無く、「楠木資料館」と名称変更したらとの声もあるようだ。大事なことかとも思う。小さな程、あれもこれもの展示は難しい。戦時でも兵力の分散は最も避けること、重点項目に絞り込んだ方が訪問客を納得させやすいかと思われる。

村の概況を眺めてみると、大阪府下では唯一の村、しかも金剛山や葛城山を背景とした山村だ。近い存在と言えば能勢町位だろうか。この特質を生かして山村生活を垣間見れるような施策が出せないものかと考えている。インバウンドの来客が望むのはグルメやショッピングでは無く、その地ならばの体験に移っているとも聞く、内国人も同様だろう。個人的には人間を3種類に分類している。山での生活を基盤とする山人、里での農耕を基盤とする里人、海での採取等を基盤とする海人だ。上述のように、村は山人の世界で里人の生活が若干加わるようなタイプだろう。千早赤阪村を訪ねたら山人の生活を体験できる・・・・・そんな展開が出来ないものだろうか。幸いにして古老や古民家等の資源も眠っているようだ。主役は村で長年暮らしてきたじじ様やばば様の生の体験、それらを伝承し体験してもらう・・・・そんな工夫が出来ればと願っている。

ちなみにコンシェルジュという概念、何事なのか良く解らなかった。その手の書物をヒモどけば、ホテルの総合案内人とかの解説があった。どうやらよろず相談係的な存在のようだ。似たような概念に観光ボランティアとの既成用語もあるが、違いは何だろうと尋ねてみる。いろいろと説明があったが、非常に単純化すれば、観光ボランティアがガイド的な面が中心となるのに対し、村のコンシェルジュは発信がメインの機能となるようだ。それにしても何でカタカナ用語なんだろう、漢字で表現できないものなのか・・・・との疑問は何時もの通りなんだが。まあ個人的な疑問はともあれ、村の小さな取り組みに大きな賛同を寄せたいと思う。恐らく予算も人材も時間も不足しまくりだろう、無いものねだりでは始まらない、小さな分野でもいいから始めることから始まるのではなかろうか。

余計な話だが画像下段は資料館に展示してあった武者人形、かの千早城の戦いで楠公さんが用いた「わら人形戦法」のレプリカであろう。先日テレビを見ていたら貨物船の欧州航路への航海が放映されていた。例によってソマリア沖を航行するのだが、海賊対策としてマネキンにヘルメットを被せ武器を持った兵士が乗船してるかのように見せかけていた。楠公さんが用いた戦法が今も通用しているのだから、人間の考えることはあまり進歩しないのか、それとも楠公さんが優れすぎていたのか。
 

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