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[3521] 神職に「日置」姓

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2016年 6月29日(水)10時34分22秒   通報   返信・引用

松山叢談』によれば、天明六年の松山隠士を選べる『名人異類鑑』中に、「諸芸の名ある 人」として両名が挙げられており「算上上」と記している。すなわち、和算の達人 ..... 明治 六年(一八七三)一二月、山崎昌龍門人、高阪金次郎俊則である。
伊予の和算家(略伝)http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/54/view/7248

伊佐爾波神社算額 22面https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/ken/isaniwa_sangaku.html
如何術 日置
田代神社算額資料 岐阜県の算額解説(高木重之著)より抜粋http://www.tagizou.com/main/elibrary/pdf/30tasiroshrinesangaku.pdf#search='%E5%A6%82%E4%BD%95%E8%A1%93+%E6%97%A5%E7%BD%AE'

麗爾なり、猶ほ靡麗のごときなり 、冂に従ひ、?に従ふ、其の孔(あな)?(うるは)し、?(じ)を聲とす、此れ爽と同意。http://jigen.net/kanji/29246
?:あき-らか
「爾ジ」 <色糸の結び飾り> と 「弥ビ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/1f2d70fca55319cbcf36d2420d58faa2
禰(祢) デイ・ネ  示部
解字 「示(祭壇)+爾(なんじ)」の会意形声。祭壇に祀ったあなた(なんじ)。祖先を祀る宗廟で、位牌に祀ってからの父をいう。
意味 (1)父のおたまや。廟にまつった父。「禰祖デイソ」(父と祖先のみたまや)(2)[国]ねぎ(禰宜=祢宜ねぎ)。宮司の命をうけ祭祀に奉仕する神官。
神官

出雲日御碕神社神官
日置へき
天一散人(てんいちさんじん) → 風水(ふうすい・日置へき/島、神職/俳人)
て(Adobe PDF) - htmlで見るhttp://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=5bk8PBxuCqUJ&p=%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%BE%8D%E9%96%80%E4%BA%BA+%E6%97%A5%E7%BD%AE+%E7%AE%97%E9%A1%8D&u=www.geocities.jp%2Fmanyoubitom%2F19te.pdf#search='%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%BE%8D%E9%96%80%E4%BA%BA+%E6%97%A5%E7%BD%AE+%E7%AE%97%E9%A1%8D'

山人(さんじん)
  風来山人

日置, 東都紀行,続の原,元禄 百人一句,風水塵,隠岐のすさび,すがむしろ_出雲日御碕神社神官_江戸前~中期 _1709没.
江戸時代俳人一覧http://haikai.jp/joho/database/db_haiji7.html

日御碕神社の所蔵資料よりhttp://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000158304
資料1:p279-280「日置風水(ひおき・ふうすい)」の項目があるが、日御碕上官となっていた。文人として記載が中心で、神官としての記述はなし。p108「小野有忠」の項に記述あり。小野有忠は日御碕神社検校・小野政通の子で、小野政近家を継ぎ、松田氏と称して松江市大野町の地頭職となる。有忠の子に有基がおり、大野庄の安堵状には「日置有基」の名前が見られ、「松田を称せるに今又日置を称する所以は日置は基本氏なるを以てなり」とされている。よって、日置氏はもともと小野氏から出た家であることがわかった。資料2:p467に「日置清政」「日置風水」「日置政高」の項目あり。「日置清政」は「御崎社検校」と、「日置政高」は「日御碕神社検校の一族」となっている(2人とも南北朝期の人)。「日置風水」は江戸時代中期の人で、「日御碕神社・社家の日置氏に養子に入り」と書かれていたので、江戸時代では日置氏は日御碕神社の上官社家と位置づけられていたようである。なお、同じくp150-151「小野尊俊」(江戸時代前期)は「日御碕検校」とされている。
「松田を称せるに今又日置を称する所以は日置は基本氏なるを以てなり」とされている。よって、日置氏はもともと小野氏から出た家であることがわかった。
「小野」http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01204.htm
【小野氏】
 孝昭天皇を出自とする春日氏の裔、妹子が近江国滋賀郡小野村に住して「小野」姓を称したと伝えられている。
 小野妹子は遣隋使として著名だが、同族からも遣唐使、渤海使などの外交の任に就いたものが出ている。
 また、峰守、篁、道風、小町など文化人が多く輩出しているのが、この家系の特長である。
 後裔は地方に土着して、武蔵七党の横山党、猪俣党が有名である。

小野(をの)・・枕詞(まくらことば)とは、主として和歌に見られる修辞で、特定の語の前に置いて語調を 整えたり、ある種の情緒を添える言葉のこと。序詞とともに『万葉集』 .... 浅茅原(あさぢ はら)→小野(をの)、茅生(ちふ)、つばらつばら; 浅茅生の(あさぢふの)→小野(をの); 朝露の(あさつゆの)→消(け)、...https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%95%E8%A9%9E
、『風土記』の例が地名にかかって賛美する例がおおいこと、また記紀歌謡などにみえる古い枕詞が土地や神名、あるいは人名など、固有名詞にかかる場合が多く、これらを讃美する表現とみられるためである。これが万葉集になると、一般名詞や用言にかかる枕詞も沢山使われるようになり、範囲が増大する。
小野(をの)
浅茅原(あさぢ はら)→小野(をの)、茅生(ちふ)、つばらつばら; 浅茅生の(あさぢふの)→小野(をの); 朝露の(あさつゆの)→消(け)、...https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%95%E8%A9%9E

 「天皇家に多くの后妃を送り出した豪族」
ワニ(和爾・和珥・丸爾)氏
ワニ氏の始祖は、孝昭天皇の皇子で孝安天皇の兄でもある天足彦国押人命(あめたら しひこくおしひとのみこと)とされ、同族には16もの氏族がいたとされています。『古事記』 孝昭天皇の条には、同族として、春日、大宅、小野、柿本氏などの名が記されています。http://kanko-tenri.jp/kanko_guidance/hokubu/wani.html
「春日氏と改称して本拠を奈良市の春日へ移したたためで、欽明朝以後、ワニ氏の名が見えないのもそのため」
この地域に古代から続く寺院や廃寺が多いのも、別れた一族がそれぞれに建てたからと見られています。

小野氏(おのうじ)は、「小野」を氏の名とする氏族。 7世紀前半から平安時代中期 にかけて活躍した氏族である。姓ははじめは臣であったが、八色の姓により朝臣に列せ られた。孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖と する和珥氏の枝氏である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B0%8F
源盛義を祖とし、美濃国小野に住んだことから小野を名乗った清和源氏義光流平賀氏系小野氏(武家)など、地名にちなむ小野氏もある。
近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市内)周辺を本拠とした。なお、山城国愛宕郡小野郷(現在の京都市左京区内)も支配下にあったと考えられており、京都市左京区上高野西明寺山の崇導神社内には小野毛人の墓碑がある。
小野氏は、遣隋使となった小野妹子をはじめ、遣唐使などを務めたものが多く、東北や九州などの地方官僚などを務めたものも多い。漢詩や和歌に優れ、参議にまで昇った小野篁や能書家として知られる小野道風などが有名であるが、鎮守将軍となった小野春風や追捕凶賊使として藤原純友の乱の鎮圧にあたった小野好古なども輩出している。
武蔵七党の筆頭の横山氏(猪俣氏)は、小野篁の末裔。横山氏(猪俣氏)の一族で、新田氏と自称した由良氏(横瀬氏)も小野を本姓としている。
平賀
清和源氏義光流平賀氏系小野氏[編集]
源義光の三男、源盛義を祖とする平賀源氏は惟義の代に伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護職を得て鎌倉幕府内で重要な位置を占める。惟義の孫義行が美濃国小野に住み、小野氏を名乗ったという。この一族の小野継胤は大江広元の嫡男大江親広の配下であったが、承久の乱により敗れた親広が出羽国寒河江荘に潜居した際付き従ったという。承久の乱では平賀氏当主で6ヶ国守護を継承した惟信も後鳥羽上皇に付き、後に配流された。小野継胤の子顕胤は、乱の後許された親広の子広時が鎌倉で幕府に仕えたため関東に居住したとみられるが、大江元顕が寒河江荘に入部した13世紀末頃小野一族も共に下向したとみられる。その後、寒河江氏譜代の家臣として活動するが、天正12年(1584年)寒河江氏が最上氏に滅ぼされると帰農したという。
伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護職

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年〈1728年〉- 安永8年12月18日〈1780年1月24 日〉)は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯 作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85
讃岐国寒川郡志度浦[3](現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門[3](良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされる。後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。源内の代で姓を白石から先祖の姓の平賀に改めている。

平賀源内は 風来山人という名前で戯作も書いている。
京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十四 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」http://kugayama05.exblog.jp/21522909/
  、の作者とも言われている
弓矢  糸 目
「糸目」とは、凧(たこ)につける糸のことで、 バランスや揚がり具合を調整するもの。そこから、「糸目はつけない」とは、制限しない ことを意味するようになった。http://wisdom-box.com/origin/a/itome/
「糸目」は、本来、「凧を引き締めている糸」のことを指しています。

>弥[彌] ビ・ミ・や  弓部
解字 旧字は彌で、「弓(ゆみ)+爾(ビ)」 の形声。ビは弭ビ(ゆはず)に通じる。ゆはずは弓の両端にあり、弦輪(つるわ)を掛ける部分。耳のかたちに似ているので弭ビと書く。弓を引くと両端のゆはずに力が伝わるので、「端までゆきわたる」意となる。新字体は、旧字の爾 ⇒ 尓に変化した。
意味 (1)あまねし。ひろくゆきわたる。「弥漫ビマン」(一面に広がる) (2)時を経る。ひさしい。「弥久ビキュウ」 (3)いよいよ。ますます。 (4)(ひろく覆って)とりつくろう。「弥縫ビホウ」(ほころびを縫いつくろう) (5)梵語の音訳語。「弥陀ミダ」「弥勒菩薩ミロクボサツ」 (6)[国]いや。や。「いよいよ」の意。「弥栄いやさか」「弥生やよい」(旧暦三月の別名・イヤオヒの転)
弓(ゆみ)
凧に弓状の「うなり 」をつけ、ブンブンと音を鳴らせながら揚げることもある。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A7
忍術書の『甲賀隠術極秘』(芥川家文書)には、源義家による奥州合戦金沢城責めの時、服部源蔵という芥川流の小柄な人物がいて、大凧を作らせ、大風が吹いている中、乗せて、空中より火を降らして、焼き討ちにしたという記述が残されている(絵図が見られ、凧に複数の日の丸状の仕掛けから火を出す)[9]。
永保 3 年(1083)源義家(八幡太郎)

凧 田弧
田という漢 字が成立したころ、中国には水田はなかった。 その証拠 ... 古代中国には、すでに『旧約聖書』はおろか、カッバーラが伝来していた。
凧揚げhttp://www.shundaichi.com/2002-209672556212370etc.html
、凧揚げの凧をタコとも、イカとも 呼ばない地域がある。長崎である。長崎では、凧のことを「ハタ」という。長崎のハタ文 化は500年ほどの歴史があり、記録によると、出島に来ていたオランダ人の付き人であ ったインドネシア人がもちこんだものらしい。

長崎の 凧=ハタには、他の凧とは違う、ある特徴が存在するのだ。その特徴とは、構造である。 長崎のハタの骨組みは、すべて十字になっているのである。そのため、外見は菱形をして いるのだ。
 長崎で十字といえば、十字架である。十字架はいうまでもなく、キリスト教の象徴。日 本で、長崎は、もっともキリスト教の教会が多いともいわれる。長崎の凧がハタと呼ばれ る理由は、この十字の骨組みにあるのではないか。
 というのも、日本では十字架のことを十字架と呼ぶようになったのは最近のことである 。日本人は十字架のことを古来「機物」と呼んできた。機物とはハタ物である。十字の骨 組みをもって、当時の人々がキリシタンになぞらえて、機物と呼んだ可能性は否定できな い。機物揚げが、やがて機揚げになったとしたら、どうだろう。

秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒である。よって、イエス・キリストが十字架に掛け られて死んだことを知っている。その十字架を何らかのシンボルとしており、それを見た 人々が秦氏のシンボルだという意味で、秦物と呼んだのではないだろうか。
 長崎では、松尾さんという人が多いと聞く。長崎や佐賀の松尾氏は秦氏である。秦氏の 末裔の人が、今も長崎でハタ揚げをしているのも、これは何かの因果かもしれない。

神輿が歴史の記録として記されたのは『続日本紀』が初めて。奈良の東大寺に造営され た大仏の開眼のこと。遠く、九州の宇佐八幡宮から神輿がやってきて、大仏開眼を祝福し たという。
 と、この程度なら、神道の本にでも書いている。重要なのは、だれが仕組んだのかとい う部分である。まず、祝福された側、すなわち東大寺の最高権力者、初代別当は良弁であ る。良弁は若狭の出身で、父親は白石神社の宮司で、名を秦常満という。つまり、良弁の 俗姓は秦氏なのである。
 一方、神輿を送った側の宇佐八幡宮には、神職を司る3つの氏族がいた。宇佐氏と大神 氏と辛嶋氏である。このうち、もっとも古いのが辛嶋氏である。辛嶋氏は、もともと辛嶋 勝氏といった。勝とは、これ秦部の人間に共通する姓である。つまり、早い話が、辛嶋氏 もまた、秦氏なのである。
 よって、神輿を出す側も、受ける側も、みな秦氏だったことがわかる。日本史上初の神 輿巡幸が秦氏によってなされているのは、けっして偶然ではあるまい。
 秦氏はユダヤ人原始キリスト教徒である。彼らは自らの文化、すなわち契約の聖櫃アー クをもとに神輿を作り上げたのである。今日、日本全国で神輿が担がれている光景を見る につけ、いかに秦氏の影響力が大きかったのか、改めて実感する。
 だが、かのロスチャイルドも、まさか神輿がユダヤ人原始キリスト教徒によるものであ るとは、恐らく知らなかったに違いない。

田とは何だろう。日本なら、田といえば田圃である。稲や蓮を植えた水 田を指す。が、中国では、そうとは限らない。田の本来の意味は、園である。いろいろな 植物が生えた園をもって、田と表現したのが最初である。
 とかく、日本の学校では「田」を田圃の象形文字だと教える。恐らく、小学校で多くの 人が、そう教わったはずだし、そう信じているだろう。田という漢字は、確かに水田をあ ぜ道で区切った光景を連想させる。四角く区切った田圃を表わした象形文字であると、だ れもが信じている。
 ところが、これは完全に間違い。言葉は悪いが、みな嘘を教えられてきた。田という漢 字が成立したころ、中国には水田はなかった。その証拠に、田という文字は、もともと四 角ではなく、丸い形をしていた。丸い円に十文字を描いた島津氏の家紋のような形をして いたのである。
 ちなみに、陰陽道では、○を陽、十を陰とする。○と十は、それだけで陰陽を表現して いる。よって、田という漢字には、陰陽道の迦波羅が隠されていることがわかる。ここに 隠された意味は、いずれ機会を改めて述べることにするが、今、重要なのは、○に十で、 園を意味していたという点である。
 古代中国には、すでに『旧約聖書』はおろか、カッバーラが伝来していた。カッバーラ によって、漢字は作られた。カッバーラという視点から、園を意味する○に十の田を見る と、いったい何か。
 エデンの園である!!
 アダムとイヴが住んでいた楽園のことなのだ。エデンの園は四方を囲まれており、その 中央には生命の樹と知識の樹が生え、さらに泉が湧き出ていた。泉から湧き出た水は河と なり、それが四方へ流れていた。
 ここでいう四方の囲いと中央の泉、それにそこから四方に流れる川を表現した園を意味 する漢字が田なのである。つまり、田という漢字は、本来、エデンの園を表現した漢字な のである。
 さて、ご存知のように、アダムとイヴはエデンの園に住んでいたが、罪を犯したために 、楽園を追放される。失楽園である。このとき、ふたりはエデンの東の方角に追放された 。再び彼らが戻ってこないように、絶対神はエデンの園の東に、きらめく炎の剣とケルビ ムを配置した。
 今でこそ、地図を描く場合、北を上にするが、かつては違った。古代中国では、南を上 にするのが普通。北は下であった。エデンの園を「田」として、その東とは、向かって左 になる。ここに炎の剣を意味する「火」を配置すると、どうなるだろう。そう、「畑」で ある。畑とは、すなわち失われたエデンの園を意味していることになる。こんなことは、 さすがの中国人でも、思いつかなかった。日本に来たユダヤ人原始キリスト教徒、秦氏が 考え出したに違いない。
 一方、エデンの園は、いずれ回復されると預言されている。復活した人類が住むエデン の園には、もはや闇はない。絶対神の栄光が地上を照らしている。「皇」という漢字が光 の王を意味するように、「畠」は絶対神の白い光に照らされたエデンの園を意味している のである。
 秦氏は、田に込められた原初の意味、すなわちエデンの園を知った上で、失われたエデ ンの園としての「畑」、やがて回復するエデンの園としての「畠」という漢字を作り上げ たのではないだろうか。

はるか西アジアからやってきた秦氏が敷衍した土地に、不可解なオーパーツ「聖徳太子の地球儀」が存在するのも、何かの縁だろうか。ひょっとすると、この地球儀を造ったのは秦氏だったのかもしれない。


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