古代史掲示板

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カテゴリ:[ 歴史 ] キーワード: 日本古代史 古代史 渡来人


9505件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[10018] 日本ピラミッド方位ライン

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月16日(水)01時40分6秒   通報   返信・引用   編集済

昨晩、ジャカルタのグヌング・パダン巨石遺構・ピラミッドの推定年代がスンダランドが存在した2・3万年前ごろ以降となり、また日本の旧石器時代とも重なることから、仮にスンダランドにいたであろうY-D系統などが、日本列島へと移住していった場合、この巨石遺構・ピラミッドのようなものが日本にも存在するのではないかと考えたことがありました。

そこで、日本の日本のピラミッド・巨石遺構について調べていくと、下記のサイトにその一覧が掲載されていましたので、まずそれを引用いたします。

日本のピラミッドと言われているのは、葦獄山(広島県)、位山(岐阜県)、尖山(富山県)、皆神山(長野県)、千貫森山(福島県)、大石神(青森県)、弥山(広島県)、野貝原山(広島県)、三輪山(奈良県)、五葉山(岩手県)、黒又山(秋田県)などである。これらの日本ピラミッドと言われる山の頂上や周辺にイワクラが存在しているが、ピラミッド山自体も人が造ったものであるなら巨大なイワクラとも考えられる。
http://mysteryspot.org/report/ashitake2/ashitake02.htm

そして、そのピラミッド状の山を方位ラインで結んでみたところ図1のようなラインが出てきました。

まず、青森の大石神ピラミッド⇔黒又山⇔葦嶽山⇔弥山⇔百花台旧石器時代遺跡を結ぶ40度偏角のラインがあります。

次に同じく大石神⇔位山⇔三輪山のラインがあり、また富士山⇔三輪山⇔百花台遺跡の20度偏角ラインがあります。

また富士山⇔千貫森山⇔五葉山ラインがあり、加えて千貫森山⇔皆神山⇔位山のラインがみえます。

その他、尖山⇔皆神山の東西ラインがありますが、若干の東偏角を持ちます。

同じく弥山⇔野貝原山のラインは、先の百花台遺跡⇔弥山ラインに対して90度に近い偏角を持つようです。

こう見ていくと、かなり正確に測量された位置にピラミッドがあることがわかりますが、これは先のジャカルタのグヌング・パダンのピラミッドが、山地をそのまま削ってピラミッド型にしたように、日本でも適当な測量位置(つまり図の黒メッシュの方格上)にあった山地を同様に削ってピラミッド型にして、その上にグヌング・パダンと同様に巨石遺構を配置したものが、後代イワクラとして残ったことを予想します。

その年代も、百花台旧石器時代遺跡を測量起点としていることからみて、やはりグヌング・パダンと同時代の1・5~3万年前と考えるべきかもしれません。

その担い手は、おそらくはスンダランドから北上した旧石器時代人の祖先、Y-D系統あたりだったのではないでしょうか。

特に富士山を山立てとして測量起点にしているのは、先日も分析した東日本の旧石器時代遺跡を結ぶ方位ラインの特徴でもありますから、同系統の集団によったと考えるのが妥当でしょう。

なお黒又山が大湯環状列石と関連づけうることは、旧石器時代人の遺跡や測量技能を、その後の縄文(後期?)人が継承した可能性を示すものですが、同様に三輪山については、はるか後代の弥生・古墳時代まで祭祀面でも重視されていることがあり、神道の起源を考える上で重要となってくるかもしれません。

これらの文化を追求するうえでも、海底に沈んだスンダランドの文化・風習・技術・言語といったものを復元していくことが欠かせないように感じますね。またその辺でお気づきの点ございましたら、よろしくわかちあいください。




[10017] 球面三角形…

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月15日(火)07時53分51秒   通報   返信・引用

正六角形で球体(または限りなくそれに近いもの)は作れますか??
正六角形は平面を埋め尽くすコトのできる図形でしゅから不可能でしゅ。(正五角形を混ぜる必要がありましゅ。)https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1239669377

私たちは普段,平面上での幾何学に馴れっこになっていますが,球面上では少し様子の異なる幾何学が展開されます.
球面三角形の角度
球面上に描いた三角形では,内角の和が 180°よりも大きくなります.
曲面上の幾何学には,ほかに楕円体上や双曲面上で図形を考えるものなどがあります.これらは一般に非ユークリッド幾何学と呼ばれます.曲率が正の曲面上では三角形の内角の和は  度以上,曲率が負の曲面上では三角形の内角の和は  度以下になります.

正五角形の古典的作図法。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/幾何学
ユークリッド幾何学では定規は直線を引くためだけに用い、コンパスは紙から離したらすぐに閉じねばならない(何かの長さをコンパスでとり他の何かの長さと比較するなどして他の何かの長さを推察できない)という厳格なルールがある[8]。
角αと角βの和が180度より小さければ、点線の方向に線を延長していくと二つの直線はいつか必ず交わるというのが平行線公理。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/幾何学#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3AParallel_postulate_en.svg

命題4ー13(作図.正五角形に円を内接) 与えられた等辺等角な五角形に 円を内接させること。https://euc-elements.matrix.jp/04/E-Elements0413.html

  H 型 …
一筆書き…オイラーの定理…
問題 4.4 2色定理を証明せよ.Hint(必要条件の証明は容易,十分条件の証明にはある国から 別の国に国境を越えて行くとき,横切る国境の個数が偶数か奇数かは行く順路によらない)
定理 4.5 すべての正則な地図がn色で塗り分け られれば,その地図は n 色で塗り分けられる.
証明 地図のある頂点を図[1]だとすると,図[2] のように頂点に円を作る.するとこの周りのす べての頂点の次数は 3 になる.次数が 3 でない すべての頂点にこの操作を施すと正則な地図な る.図[3]のように,新しい地図はn色で塗り分 けられる.加えた円を縮小すると, 元の地図に なり,円の内部の国は消滅し,元の地図は n 色 で塗り分けることができる.
トーラス上の地図は何色で塗れるかhttps://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~katayama/KIKA2latexhitotumasu.pdf
定理 4.8 正則な地図は5色以下で塗り分けることができる.
正多面体は何個あるか
定義 3.1 正多面体とは,全ての面が同辺数の正多角形で,全ての頂点における多面角(頂点に おける角度)が同面数である凸多面体のことである.
定理 3.2 正多面体は,正四,正六,正八,正十二,正二十面体の五種類だけである.

一筆書きの六芒星https://ja.wikipedia.org/wiki/六芒星
等辺六芒星が正三角形を2回に分けて描かれる性質上、六芒星の一筆書きは一見不可能のように見える。だが、実際には一方の正三角形の描画途中に、交点で他方の正三角形の描画に移り、他方の正三角形の描画が終わった時点で先の正三角形の残りの部分を描画すれば、図形上の何れの位置からスタートしても一筆書きが可能である。スタートを交点とすれば、より簡単に一筆書きが出来る。
交点で折り返さずに一筆書きができる六芒星も考案されている。一筆書きの六芒星の図のように正六角形の頂点を何個かおきに飛ばして結んで、丁度アルファベットの「N」(もしくは「Z」)を続けて書く六芒星である。この六芒星はセレマでしばしば用いられるシンボルの一つであり、発案者のアレイスター・クロウリーの名を冠して「クロウリーの六芒星」などと呼ばれる。だが、目視でも確認できるように内角が等分不可能なため、やはり星型正多角形ではないということになる。

「トポロジー」が構築された段階では、それが世の中の役に立つかどうかなど誰も考えていなかったかもしれません。しかし現在では、私たちの生活の身近なところでもこの幾何学の考え方は大いに利用されています。
 具体的には、「一筆書き問題」、 「色の塗分け問題」、 「路線図」、 「電気回路」、 「化学構造」、「DNAの結び目」、 「たんぱく質の構造」などがこの考えをもとに表されています。また、数学以外の研究分野では「宇宙論」、「物理学」などでも数多く活用されています。
 今後、この幾何学の研究が進めば、さらに他の研究分野でも新たな発見が生まれる可能性が開けてくるでしょう。 https://www.kyoto-su.ac.jp/project/st/st01_01.html



[10016] シュタイナーが110年前に述べた「頂点は日本です」の意味 …

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月15日(火)07時19分54秒   通報   返信・引用

「日本は、地球の頂点に位置する」https://ameblo.jp/miyairikuro/entry-12036330053.html
「地球は、球体ではなく、四面体だ」
と言っていて、このあたり、ややこしい面もありますので、図で少し解説しておきたいと思います。
四面体というのは、一般的には下のような形をいいます。
シュタイナーによると、「これらの三角形の平面をいくらか湾曲させ」たものが、地球の形であるようです。
…丸くなった四面体が、私たちの地球なのです。これは、ある程度まで確認できることです。地球四面体の縁を見出すこともできます。地球を平面図で描いてみましょう。
北米・南米があり、その中間に中米があります。そしてアフリカがあり、ヨーロッパがあります。小アジア、ギリシア、イタリア、スペイン、フランス、つまりヨーロッパです。上にはスカンディナヴィア、イギリスがあります。それからアジアです。
下に南極があります。南極のまわりには、たくさんの火山があります。上に北極があります。私たちは線を引くことができます。メキシコ南西部のコリマ山のあるアメリカ中央部から発して、アンデス山脈を通って、南極にいたる線です。地球の縁は丸くなっています。
…丸くなった四面体が、私たちの地球なのです。これは、ある程度まで確認できることです。地球四面体の縁を見出すこともできます。地球を平面図で描いてみましょう。
底面には、アフリカ、南米、太平洋の南部全体があります。このような湾曲した四面体、一種のピラミッドとして、地球は宇宙のなかに存在しています。これが地球のもともとの形です。

「地球は丸くなった四面体」
地球の形態を正しく思い描きましょう。四面体と呼ばれている形態です。
三角形が四つあります。底辺に三角形があり、さらに三つ三角形があって、ピラミッド形になっています。三角形が四つ境を接しているのが四面体です。
さて、これらの三角形の平面をいくらか湾曲させる、と考えてみてください。そうすると、やや異なってきます。丸くなりますが、まだ固定していません。直線だった三角形の辺は丸くなります。こうして、丸くなった四面体ができます。
マカバが活性化すると球体っぽくなるようです。https://bach-iruka.com/ミステリアスな宇宙/13759/



[10015] ポリネシア・トライアングルの東端…

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月15日(火)07時04分40秒   通報   返信・引用

ポリネシア・トライアングルの東端…イースター島
イースター島(イースターとう)は、チリ領の太平洋上に位置する火山島。現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語: Rapa Nui)。また正式名はパスクア島(パスクアとう、スペイン語: Isla de Pascua)と言い、"Pascua"はスペイン語で復活祭(イースター)を意味する(後節も参照)。日本では英称由来の「イースター島」と呼ばれることが多い。
モアイの建つ島として有名である。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。最も近い有人島まで直線距離2000km余と、周囲にはほとんど島らしい島が存在しない絶海の孤島となっている。「ラパ・ヌイ」とはポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」(大きな端とも)を意味する[4]。かつては、テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)、マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)などと呼ばれた。これらの名前は、19世紀の後半に実際に島にたどり着けたポリネシア人が付けたものである。https://ja.wikipedia.org/wiki/イースター島
緯度:南緯27.15度 経度:西経109.42度
閉鎖された空間に存在した文明が、無計画な開発と環境破壊を続けた結果、資源を消費し尽くして最後にはほぼ消滅したというダイアモンドらによる説は、現代文明の未来への警鐘として言及されることが多い[16]。
ポリネシア人がラパヌイ島に着いたとされる時期の森林は島を覆い尽くすほど茂っていたが、16世紀末頃までにほぼ消滅した。花粉分析から1300年頃までに椰子を初めとする全樹木類の花粉が減少してイネ科やカヤツリグサ科などの草本の花粉が急増していき、場所によりばらつきはあるが1500年~1600年頃までには椰子、ハケケ、トロミロ、灌木の花粉が消滅する。椰子の実の化石を放射性炭素年代測定で分析した結果でも1500年以後のものは皆無である。環境破壊をしたのは島民自身であるという説[6]と、島民が持ち込んだネズミによるという主に2説がある。



[10014] 地球規模 五芒星(一筆書き)測量?

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月15日(火)06時55分10秒   通報   返信・引用

南アフリカのムプマランガにあり、いくつかの根拠によって75,000年前に作られたとされる直径30mのストーンサークルが立っています。
アダムのカレンダー:世界最古の巨石遺跡?http://mystery-hunter.net/?p=284

プマプンク遺跡標高4000mの場所にある。https://asspra.com/アフリカ/176/
プマプンク遺跡は現代の技術を持ってしても説明ができない。
世界各国にある遺跡にはプマプンク遺跡と同じようにミステリーが数多く隠されている。

南緯30°×東経30°…
地球上で唯一宇宙人が造った『H』の遺跡https://matome.naver.jp/odai/2139202801033397101
  ↓  角度に注目…(想定してみて…)
https://matome.naver.jp/odai/2139202801033397101/2139231599148712203

ギョベクリ・テぺ遺跡
ギョベクリ・テペ(Göbekli Tepe[1]: "Potbelly Hill"[2] ) は、アナトリア半島南東部、シャンルウルファ(前 ウルファ、エデッサ)の郊外(北東15km)の丘の上に在る新石器時代の遺跡。紀元前10000年~紀元前9000年頃に狩猟採集民によって建立された、世界最古と言われる石造の宗教建築(神殿)が発見されている[3]。地名は「太鼓腹の丘」の意。https://matome.naver.jp/odai/2137069821550120801

赤道0° 東経120(360°÷3…)
スンダランドhttps://ja.wikipedia.org/wiki/スンダランド




[10013] スンダランド2

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月15日(火)00時32分37秒   通報   返信・引用   編集済

また昨晩に続いて、スンダランドと旧石器時代人の件を調べているんですが、ジャカルタ周辺にグヌング・パダン巨石遺構というのがあるそうですね。年代がスンダランドの時代らしく、高度な石造文明の跡があるそうな。

下記のサイトにその詳細が掲載されています。写真も図1,2として引用しますね。


炭素年代調査によって表面から3~4メートルの深さは6500年前、8~10メートルでは1万3000年前、さらに3~12メートルで1万6000年前という数字が出た。
・       少なくとも深さ15メートルまでは人工的構造物があり、その下に大きな部屋がある。
・       遺跡全体の大きさは25ヘクタールで、中部ジャワにあるボロブドゥール仏教遺跡の16倍。

2013年には東側斜面に溝を掘り考古学調査を行い、オールコアボーリング調査(地面に筒を刺して地層サンプルを取る)を行って、さらなる発見があった。

・       考古調査の結果、玄武岩が水平に積まれており、自然の構造物ではないことが確定された。
・       さらに玄武岩が古代セメントで接着されていた。このセメントは鉄分45%、シリカ(二酸化ケイ素)41%、炭素を含む土分14%で構成されており自然には存在しない。「これは理想的な接着剤であり、冶金術の存在を示す」とダニー・ナタウイデジャ博士。
・       オールコアボーリング調査でも5~15メートルの深さで古代セメントが抽出された。このセメントを米国マイアミの権威あるBEALABに送付して炭素年代を調べたところ1万3000年から2万3000年前のものという数字が出た。
この2年間の調査でグヌング・パダン巨石遺構は、最終氷期(7万年前に始まって1万年前に終了)の時代に存在していたことが判明した。
https://www.shundaichi.com/124641249212531124641253912497124801253124040307073698627083.html


以前掲示板で論議したトルコの1万2000年前のギョベックリ・テペ遺跡とも石造技術面で関係しそうな遺跡ですね。

そのときは、Y-CF系統の関与を予想しましたが、今回はY-DかKあたりが関与しているのではないでしょうか。

間接的には日本の後期旧石器時代人ともかかわりそう。このグヌング・パダン巨石遺構と日本の旧石器遺跡との間に相関性が見出せると面白いのですが・・・・。

こちらのサイトにも写真とそのピラミッド状遺構の想像図が掲載されてますね。図3として引用します。


これまでの調査では、構造物は人工的なものである可能性が高く、ピラミッド状。ただし、完全な石積みではなく丘を利用してその回りを石積みした物らしい。(ボロブドゥール寺院遺跡に似た構造ですね。)
この遺跡は地表から3~4m下の地層の放射性炭素年代測定によると、6500年前という結果が出た。8~10m下の場合は、12500年前という結果となった。また、地表の遺物は4800年前という結果だった。
https://matome.naver.jp/odai/2144366966684165601


ジャカルタは昨晩指摘したスンダランドの南辺にあたりますが、そもそもジャカルタの語源はスンダクラパというそうなのでまさにスンダランドの本拠のようです。ジャカルタの位置と語源については下記参照。

古くはスンダクラパ(Sunda Kelapa, 397年 - 1527年)と呼ばれ、その後ジャヤカルタ(Jayakarta、1527年 - 1619年)、バタヴィア(Batavia、1619年 - 1942年)、 ジャカルタ(Djakarta[4]、1942年 - 1972年)と変遷した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF


東側のオーストラリア・ニューギニア方面にはY-K2b系のS・Mあたりが残り、その西側のスンダランドやフィリピンにY-D1やD2、C、K2a,Pあたりがいたことを予想したのですが、そのスンダランド南辺のこの遺跡のあたりは後者の領域となるでしょう。

これだけの石造・治金技術をもつ文明の子孫が日本の旧石器時代人だったならば、その旧石器遺跡が、先日指摘したような正確な方位測量をされた位置にみえてくるのも理解できるような気がします。

このスンダランドから日本方面へと旧石器時代人が北上したとすると、ルートとしては、マレー半島から南西諸島あたりを経由して北上した可能性が高そうですね。

特に、その痕跡が中間地点の南西諸島あたりに見えてくると面白いのですが、以前紹介した与那国島の海底遺跡や、私のほうで指摘する石垣島北西部にみえるピラミッド型の地形ですね、この辺をもう少し考えていく必要がありそうです。

あと、その古代セメントでの接着で、鉄分45%、シリカ(二酸化ケイ素)41%、炭素を含む土分14%で構成されているとの点、これが重要になってくるかもしれない。

エジプトのピラミッドの巨石自体をコンクリートだという研究者もいるみたいだけど、写真の四角柱状の遺物も切り出しではなくて、コンクリートだったりすると面白いんだけどね。

与那国島の海底遺跡も実に綺麗に加工されてるけど、ほんとに全部切り出しだったのかな・・・。

日本の旧石器時代遺跡の近くに、そういう人工的な加工石造物があって、それが、このスンダランドのそれと相関性をもつならば、いよいよ、旧石器時代人の故郷としてスンダランドがみえてきますね。

ちょっとその辺の石造物がないかどうか探してみましょう。



[10012] Re: 李陵とハカス :これぞ古人骨の威力!研究の蓄積の賜物!嗚呼、幸せだなァ...w DNA人類学って、なんて良いんだろう、なんて素晴らしいんだろう!これを何に繋げるか、何に応用するか、だな。

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月14日(月)23時48分21秒   通報   返信・引用 > No.10010[元記事へ]

これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> これぞ古人骨の威力!研究の蓄積の賜物!古匈奴と古羌のハーモニー♪
>
> 【図の見方】
> ・赤矢印:mt-G3の移動ルート(丸=古人骨。西北モンゴルのはG3a、新疆東端Shirenzigou遺跡はG3b)
>
> ・青矢印:O-M134の移動ルート(丸=古人骨〔斉家文化・磨溝遺跡と遼河文明・夏家店上層文化〕、四角=多様性最大地域=起源集団所在地〔アバ・チベット族チャン族自治州〕)
>
> 黒矢印はエボニーな人たちの移動ルート。笑
>


なかなか図・・力作ですね!

Y-Оの移動はスンダランドをかすっていたのかな・・?



[10011] (無題)

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月14日(月)09時10分6秒   通報   返信・引用

>約5万年前に絶滅したデニソワ(Denisovan)人の姿は長らく謎のままだった。…https://www.afpbb.com/articles/-/3245503
デニソワ人とネアンデルタール人は、約40万~50万年前に現生人類ホモ・サピエンス(Homo Sapiens)とは別に枝分かれした系統。(c)AFP/Clothilde Mraffko

絶滅した人類デニソワ人がネアンデルタール人と同時期に生活か、現生人類との関わりは?https://switch-news.com/science/post-28086/
絶滅した太古の人類種とされる“デニソワ人”が、シベリアの洞窟でネアンデルタール人と同時期に暮らしていた可能性が最新の研究で明らかとなり、注目を集めている。
デニソワ人は現生人類とも交配していた?
デニソワ人のDNAを持つ人々は南シベリアから4970マイル(約8000キロメートル)も離れた地に暮らすオーストラリアの先住民アボリジニと、ニューギニアに非常に多く見つかっている」という。

5万年前-4万年前
5万年前
たくさんのアボリジニの石器がオーストラリアのシドニーのキャッスルリーフ(英語版)の砂利堆積物の中で発見された。この発見物が発見された当初は異論が多かったが、同じ地層の最新の年代決定は、この年代を修正し傍証している[10][11]。
北アフリカでムスティエ多雨期(英語版)が始まる。
4万5000年前?4万3000年前
現代人類の最初期の証拠がヨーロッパ(南イタリア)で発見される[12]。
4万3000年前?4万1000年前
レバノンのクサルアキル(英語版)で現代人類の装身具や骨格埋蔵品
デニソワ人がアルタイ山脈(ロシアや中国、モンゴル、カザフスタン)に住む。
https://ja.wikipedia.org/wiki/後期旧石器時代
約5万年前まで中期旧石器時代の旧人類から[1]殆ど変化がなかったが、解剖学的現代人類(英語版)(例:ホモ・サピエンス)は約2万年前に現れたと信じられている。この時期はネアンデルタール人の絶滅(英語版)の一因となるユーラシアを通じた現代人類の拡大(英語版)と合致している。
後期旧石器時代には貯蔵穴のあるものでキャンプ場の形態における組織された集落の証拠として知られる最初期のものがある。芸術作品(英語版)が洞窟画やペトログリフ、骨や象牙への彫刻と共に花咲いた。人類の漁業の最初の証拠は、南アフリカのブロンボス洞窟(英語版)のような場所の人工遺物からも発見されている。もっと複雑な社会集団が更に変化に富み信頼できる食料源や特別な道具類に支援されて発生した。このことは恐らく集団認識や民族の増加に寄与した[2]。
5万年前から4万年前までに最初の人類がオーストラリアに上陸した。4万5000年前までに人類はヨーロッパの北緯61度に暮らした[3]。3万年前までに日本に到達し、2万7000年前までに人類は北極圏内のシベリアで暮らしていた。後期旧石器時代の終わりには人類のある集団がベーリング地峡を渡り、急速に北米と南米の各地に広まった[3]。



[10010] Re: 李陵とハカス :これぞ古人骨の威力!研究の蓄積の賜物!嗚呼、幸せだなァ...w DNA人類学って、なんて良いんだろう、なんて素晴らしいんだろう!これを何に繋げるか、何に応用するか、だな。

投稿者: これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年10月14日(月)02時58分48秒   通報   返信・引用   編集済 > No.10009[元記事へ]

これぞ古人骨の威力!研究の蓄積の賜物!古匈奴と古羌のハーモニー♪

【図の見方】
・赤矢印:mt-G3の移動ルート(丸=古人骨。西北モンゴルのはG3a、新疆東端Shirenzigou遺跡はG3b)

・青矢印:O-M134の移動ルート(丸=古人骨〔斉家文化・磨溝遺跡と遼河文明・夏家店上層文化〕、四角=多様性最大地域=起源集団所在地〔アバ・チベット族チャン族自治州〕)

黒矢印はエボニーな人たちの移動ルート。笑

・赤塗は東から、
(1) ブリャート人(mt-G3aが50%, G3a3か?)と同共和国北部のエヴェンキ人(G3aが100%)。

(2) G3aの古人骨が出る西北モンゴル・フブスグル県(~紀元前1300年の前匈奴および紀元前350年~紀元前150年頃の匈奴)。

(3) トゥヴァの下、クルグズ(キルギス)の名を冠するヒャルガス(Khyargas)湖があるウブス県。

(4) 匈奴の右校王として古代クルグズ人を率いた李陵の大邸宅ともされる遺跡が出土したハカス共和国。ハカス人のG3aの比率はGにおいて100%。

・青斜線は、前匈奴人のゲノムを最も多く継承するトゥヴァ人とアルタイ人。

注意:割合はすべてGにおけるG3aの割合。

嗚呼、幸せだなァ...w
DNA人類学って、なんて良いんだろう、なんて素晴らしいんだろう!これを何に繋げるか、何に応用するか、だな。

そして、私の関心は、中央アジアに進出した同胞に移行している。すなわち、カザフのO-F444やクルグズのO-M117。

青点線は仮説。羌族がチャンタン高原経由で南シベリアにヤク放牧を齎したというのは既存の仮説。



[10009] Re: 中央アジアのクルグズ(キルギス)人の李陵伝説: 李陵とハカス

投稿者: これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年10月14日(月)01時11分54秒   通報   返信・引用 > No.10008[元記事へ]

図1:ハカス共和国
図2:李陵と匈奴妻・胡赤。いかにもO-M117&mt-G3a。

李陵とハカス
南シベリアのハカスで発見された漢風の大邸宅を右校王・李陵のものに比定する学者もいる。

ウィキ:Possible palace in Khakassia
Some archaeologists have tentatively identified a unique Han-Dynasty architecture palace discovered in Russia's Khakassia (southern Siberia) as the residence of Li Ling in the land of the Xiongnu.[7][10][11][12]https://www.youtube.com/watch?v=lLTod82acu4

In 1940, Russian construction workers found ancient ruins during the construction of a highway between Abakan and the village of Askyz (Аскыз), in Khakassia. When the site was excavated by Soviet archaeologists during 1941-45, they realized that they had discovered a building absolutely unique for the area: a large (1500 square meters) Chinese-style, likely Han Dynasty era palace. While the name of the high-ranking personage who lived there is not known, Russian archaeologist L.A. Evtyukhova surmised, based on circumstantial evidence, that the palace may have been the residence of Li Ling (see ru:



[10008] 中央アジアのクルグズ(キルギス)人の李陵伝説

投稿者: これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年10月14日(月)00時52分59秒   通報   返信・引用

私が『史記』を読むようになるとはなァ…
漫画だけどンwww

匈奴の右校王となった李陵が、漢軍との戦闘中に友人を見かけ、友人に矢文を射って逃げるよう告げた、
そのことがバレて自決しようとするが狐鹿姑単于に止められる場面。うん、創作だろうが、感動した!

李陵と言えば、面白い話しが2つある。
李陵が『キングダム』の李信の子孫に当たることではないw

ひとつめは、中国人は、カザフ人の部族ナイマンを李陵の子孫だと考えている。確かに、現代ナイマンの半分が漢族とも共有するO-F444に属する。

もうひとつは、中央アジアのクルグズ(キルギス)には「李陵伝説」がある。李陵がクルグズ人を率いて漢と戦ったというもの。クルグズ人のうち黒髪の者は李陵の子孫とされる。現代クルグズ人のほとんど黒髪なんだけど。笑

ナイマンと異なり、クルグズのハーンは李陵の後裔を標榜してたらしい(ウィキ・ロシア語版Li Ling  i Kyrgyzskii Kaganat)。
さらに、鮮卑の拓跋も李陵の子孫を標榜したりしてる。

どうだろうなァ?
一応、李陵の子孫は漢でも匈奴でも根絶やしにされたことになってる。
また、ナイマン自身は李陵の後裔を称していないと思う。

まあ、一種の判官贔屓だろうことは分かる。
それでも、李陵麾下の漢人兵って線もあるし、100%あり得ないというわけではない。

ナイマンや西モンゴルでO-F444が多いのは確か。一般的には、カザフはモンゴルと同じC2優勢、クルグズはタジクやアフガンと同じクレードのR1a優勢だが、カザフ人にしてもクルグズ人にしても比較的新しく形成された民族なんで(クルグズという名称自体は古いけどね)、部族ごとにハプログループが異なる可能性がある。

例えば、クルグズのR1aはナルン州のジュムガルという地域のクルグズの例であって、南部山岳地帯のモングシュなどではNが多く出ていて、これは南シベリアのハカス人と同じ。多分、これが原テュルク。

また、クルグズのウスク湖州やナルン州にはO-F444の兄弟ハプログループのO-M117も5%を超えない範囲で見られる(日本での比率と同じくらい)。おそらく、O-M117はO-F444に混ざった形で西漸した。

ナイマンなどのO-F444はNに接触してテュルク化したんだろうね。または、ナイマンの半分がカラ・キタイであることからモンゴル化の後にテュルク化。



[10007] スンダランド

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月14日(月)00時14分2秒   通報   返信・引用   編集済

先日、最後に旧石器時代人、おそらくはY-Dの故郷として南方のスンダランドとそこにあったであろう文明の件について触れましたが、そのスンダランドについてもう少し調べてみたいと思います。Y-CやKなどの故郷の可能性もありそうですね。wikiに下記のようにあります。図も引用します。


スンダランド(Sundaland)とは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷期に形成した広大な沖積平野の呼称。

スンダランドと想定されている範囲は、現在ではタイランド湾から南シナ海へかけての海底に没しており、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚がそれに当たる。氷期に、海面が100メートル程度低くなり広大な平野であった。最近では、紀元前70000年頃から紀元前14000年頃にかけてのヴュルム氷期には陸地であった。紀元前12000年頃から紀元前4000年にかけて約8000年間にわたる海面上昇により海底に没した。オセアニアにもオーストラリアとニューギニアの間に海面下にしずんだ平野がありサフルランドと呼ばれている。

モンゴロイドとの関連
モンゴロイドの南方起源説によると広大なスンダランドはモンゴロイドの故郷とする説がある。それによると「スンダランドに住んでいた現生人類が紀元前50000年頃から一部が北上しモンゴルやシベリアにまで広がり、徐々に寒さに適応して新モンゴロイドになり、更に彼らの一部はシベリアから陸続きになっていたベーリング海峡を越え、アメリカ大陸に広がっていった」とする。これは、古モンゴロイドとされる縄文人が、新モンゴロイド優性の東アジアの他集団と異なり、「スンダランド型」の歯列を持つものが多いという特徴があるためである[1]。

一方、尾本惠市や崎谷満などの分子人類学者は出アフリカ後の東アジアへの人類到達はヒマラヤ山脈の北方を経由したとする「北ルート説」を唱えている。崎谷は著書[2]において、ミトコンドリアDNA・Y染色体といった分子人類学的指標、旧石器時代の石刃技法という考古学的指標、成人T細胞白血病ウイルスやヘリコバクター・ピロリといった微生物学的指標のいずれにおいても、東アジアのヒト集団は北ルートから南下したことを示し、南ルートからの北上は非常に限定的であったと述べている。この説が正しいとすれば、モンゴロイドのスンダランド起源説は完全な誤りということになる。

なお、出アフリカ後南ルートで東南アジアに至ったオーストラロイドは、スンダランドと陸続きになっていたジャワ島やバリ島から海を渡りオセアニアに移住した[2]。

中国と朝鮮半島、日本に囲まれた黄海も平野であった。ここは、スンダランドと平野で繋がっていた。
ペルシャ湾全体が平野であった(エデンの園に比定する説がある)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89


この図をみると、スンダランド西側のボルネオ・スマトラ・ジャワ島・フィリピングループと、東のインドネシア・オーストラリアとは海峡を隔てて分離していたように見えますね。これが、もしかすると、遺伝子面でも分離として見えてくるかもしれません。

図2がY染色体のハプロ分岐図ですが、この東のインドネシア特有なのがK2b1のSとMです。

かれらは、氷河時代でも海峡を渡ってインドネシアまで行けたということかな。図をみると微妙に島伝いで渡れた可能性はありそうです。ところが、氷河期が終わって、海峡が広くなるとともに取り残されたと考えるのが自然ですね。

一方、わたらなかったのが、Pおよび、その親のK2bの兄弟種のK2aで、つまりNOの祖先となるのでしょう。

彼らの多くは氷河期が終わる1万3000年前ごろから、スンダランドの水没とともに北上していかざるを得なかったのでしょう。

その中には古い系統のCもいたかもしれない・・。

しかし日本のY-Cは、中東と直結している初期系統だから、スンダランド経由ではない・・のかな。でも、氷河期が終わるとともに日本列島へとやってきたわけだから、やはり赤道近くで中東からインド周辺にいたのかもしれない。

ただ、旧石器時代人とみられるY-Dは、それ以前にすでに3万年前には日本列島へと渡っていたはず。

旧石器時代人の故郷をスンダランドと仮定すると、Y-Dの分布はフィリピンのD1bによくあらわれているわけですね。

ただY-D1a2が旧石器時代人だとすると彼らは2万年前には津軽海峡は越えてるから、やはり船をもっていたと考えるしかないね。

しかし、D2は、下記のwikiだと、ナイジェリア・サウジアラビア・シリアにみえるから、彼らは、DEと同様に、中東に残ったグループで、D1のみが東遷したことになる。

https://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_D-CTS3946

D1bがフィリピンに取り残された理由はなんだろう・・。D1aから、チベット・アンダマン・日本人が出てくる。

D1の時代に、まだ氷河期でフィリピンへと渡るものがいて、その後氷河期があけて、フィリピンに残されたのがD1bだとすると、それより新しいチベット・日本などのD1a1,2は1万3000年以降の拡散になって、旧石器時代人でなくなってしまうね。

あれれれれ。。。フィリピンが海峡隔てて離れるためには、3万年前よりさらに前、5万年前あたりにフィリピンがまだ陸続きに近い状態であったころに、まずフィリピンへ向かったものがいて、その後の3万5000年前ごろからの間氷期で、海進があってそこでまず独立する。

その後の氷河期で再度海峡が狭くなっても、このフィリピンのD1bはマレーシア方面へ戻らなかったので、いまもフィリピンのみに独立しているということなのかな・・・。

そうすると、フィリピンよりあたらしい日本やチベットのD1a1,2は、その3万5000年前以降に日本へと移住したことになるね。

それが旧石器時代人だとすると、それより古い旧石器時代の遺跡は日本ではほとんど出てこないことになる。

彼らの故郷はフィリピンに近いスンダランド周辺だったと考えると理解しやすいね。

しかもフィリピンやインドネシアではなく、スンダランド西側のマレー・スマトラ・タイといったあたりかな。

その辺に、旧石器時代人の石器の初期型のものとの類似品とか、関連習俗や言語が残っていれば、さらにこの件は明らかにできるでしょう。何か似たようなものはないかな・・・。

世界の後期旧石器時代については、下記のようにwikiにありますね。

後期旧石器時代(英語: Upper Paleolithic/Later Stone Age、約3万年前 - 約1万年前)
バラドスティアン文化(英語版)
シャテルペロン文化
オーリニャック文化
グラヴェット文化(英語版)
ソリュートレ文化(英語版)
マドレーヌ文化(英語版)
ハンブルク文化(英語版)
アーレンスブルク文化(英語版)
スウィデリアン文化(英語版)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3


年代的にはこちらのそれが日本の旧石器時代のそれに近いのかな・・。

Périgordian is a term for several distinct but related Upper Palaeolithic cultures which are thought by some archaeologists to represent a contiguous tradition. Thought to have existed between c.35,000 BP and c.20,000 BP[2] the Perigordian was theorized by prehistorians (namely Denis Peyrony [fr]).[3]

The earliest culture in the tradition is the Châtelperronian[4] which is thought to have produced denticulate tools and flint knives. It is argued that this was superseded by the Gravettian with its Font Robert points and Noailles burins. The tradition culminated in the proto-Magdalenian.[1]

Critics have pointed out that no continuous sequence of Périgordian occupation has yet been found, and that the tradition requires it to have co-existed separately from the Aurignacian industry rather than being differing industries that existed before and afterwards.[5]
https://en.wikipedia.org/wiki/P%C3%A9rigordian

この辺も勉強になりそう・・。
https://en.wikipedia.org/wiki/Upper_Paleolithic



[10006] 匈奴人復元

投稿者: これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年10月13日(日)23時24分27秒   通報   返信・引用   編集済

図:匈奴人復元図

ここれは…指名手配の暴力団構成員か爆弾犯?w
女性の方は、片桐はいり?w もっといいのないのでしょうか...
(いや、縄文人復元図よりはちょっとマシだろうかwww)

こうして見ると、テュルク・モンゴルというよりは、ツングースの狩猟民の顔ですね。
まあ北アジアの狩猟民が遊牧文化を取り入れたので、そうなるのは普通です。

ともあれ、おめでとうございます!
ミトコンドリアDNAハプログループG3=匈奴確定パチパチパチパチ。
地図のマルは古人骨出土地。西北モンゴルがG3a、新疆北東がG3b、極北東・北海道のはG1b。

(1) 紀元前1300年以前の西北モンゴル前匈奴フブスグル人でG3a。

(2) 紀元前紀元前350年~紀元前150年頃の匈奴(同じくフブスグル県)G3a。

(3) 紀元前200年頃の新疆北東Shirenzigou遺跡でG3b。

(4) Shirenzigou遺跡人の東ユーラシア系の割合は平均45%で、「イテリメンやウリチ、ナナイなどの北東アジア人」に由来する。

(5) Gは極北東のチュクチ・カムチャッカ語族を中心に27~68%の高比率(ただしG1b)。GにおけるG3の高比率は現代南シベリア・バイカル地域のトゥヴァ、ブリャート、エヴェンキ等でも確認できる。

以上から、G3が匈奴であることは確定的。
前匈奴と匈奴が同じG3aで西北モンゴルにあるのは重要だろう。G3bは新疆北東。

ただ、起源地を推定する際に重要なそれぞれのハプルグループ内での多様性の高い集団等は不明。

こうしてみると、単純には、Gの起源地はロシアのサハ共和国南部・ザバイカリエ地方(バイカルの東)・黒龍江省辺りとも見える。極北東のG1bは少人数での移動後のボトルネック効果で他のサブグループが消失してしまいG1bが排他的になったと言えそうだ。

現代G3は中央アジア山岳地帯とチベット、バイカル地域に細々といるだけなので、後代にテュルク・モンゴルの拡大の波に乗ったG2に圧倒されていったのだろう。



[10005] Re: 訂正:写真2の童たちが本物のケット人です。 何のことはない普通の北方モンゴロイドですねw

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月13日(日)22時57分33秒   通報   返信・引用 > No.10003[元記事へ]

これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 間違えた。
> 写真3はこれに置き換えて下さいw

これがケットなら、ケットファンになっちゃうかも?

写真2をみると確かに北方モンゴロイドの影響が強そうですね!



[10004] 富士を繞るストーンサークル…

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月13日(日)09時52分19秒   通報   返信・引用

Re: 富士を繞るストーンサークル 2019年10月13日(日)09時36分43秒 https://8628.teacup.com/toraijin/bbs
5万年前…
ミトコンドリアDNAの ハプログループF は、中央アジアで、約5万年前にハプログループRから分岐したと考えられている。
ミトコンドリアDNAハプログループF系統 【南方系・アスリート型】
ミトコンドリアDNAのハプログループFは、中央アジアで、約5万年前にハプログループRから分岐したと考えられている。それ以来、その分布は拡散して、東アジア、東南アジア、南マレー諸島、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ニューギニア沿岸に広がった種類。特に東南アジアで顕著に見られる(注1)。https://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/mtDNA%20F系統
青谷上寺地遺跡(鳥取県鳥取市青谷町青谷)から出土した弥生人(BC200~AD200)の古人骨をDNA解析したところ、ミトコンドリアDNAを抽出できたものが10体あり、ハプログループD4が2体、D4*が4体で、ハプログループD4系統が計6体(60%)、ハプログループF*が1体、FまたはF2とみられるものが1体で、ハプログループF系統が計2体(20%)、ハプログループNが2体(20%)ということが明らかとなった(注1)。
琉球・尚寧王陵4号石棺の人骨のミトコンドリアDNAは、ハプログループFである(注1)。
明治天皇の高祖父で古今伝授伝承者、能書家・閑院宮典仁親王(諡号:慶光天皇, 1733-1794)のミトコンドリアDNAは、ハプログループF1bである。これは、同母妹にあたる倫子女王の遺体をDNA型鑑定した結果に基づくものである。慶光天皇の実母は、家女房の左衛門佐讃岐(伊藤一中娘)である(注1)(注2)。

約4~5万年前…
ハプログループB
ハプログループBは先程のハプログループDについで2番目に大きい集団で、日本人の約15%がこのグループです。
約4~5万年前にアジアで分岐し、新天地を求めて東南アジアへと広まっていきます。
大陸から離れた島々へも広く分布し、優れた航海技術を持っていたことが伺えます。
その凄さはハワイの先住民であるポリネシア人が証明しています。
このポリネシア人の約9割がこのハプログループBで、海を渡ってハワイ島へたどり着いたことが推察できます。
さらにアメリカの先住民からも検出されているので、アジアから太平洋を横断し、アメリカ大陸へたどり着いたことになります。
ハプログループM7
4~5万年前に東中国で誕生したグループで、地殻変動で沈んだ「スンダランド」と呼ばれる陸地を起源としています。
氷河期に海の水が凍り、地続きになったことで台湾や、インドネシア、フィリピンに広がったと考えられています。
日本へは沖縄や北海道を通ったと考えられており、本州7%、北海道(アイヌ人)16%、沖縄23%の割合となっています。
このM7グループは日本以外では朝鮮半島周辺でしか確認されておらず、日本固有のグループという見解です。
ハプログループA
北アジアで3~5万年前に誕生したグループです。
アジア地域では少数派で、シベリアや北アメリカでは過半数を占めています。
旧石器時代はシベリアなど極寒の地域でマンモスを主食とする優秀な狩猟民族だったのではないかと推察されています。
誕生場所として最も有力なのは生物進化の博物館とも称されるロシアのバイカル湖です。

古代イスラエルから日本へ
3度に渡ってたどり着いたhttps://note.mu/hirokaichi/n/n67d2310dce3e
・一度目日本人のルーツとなる縄文人が日本に定着。彼らは中近東から比較的早い段階で来たと思われる。人類のグレートジャーニーの動き、人種が別れたばかりのセム系直系の遺伝子的に色濃い人々が日本を目指して移動したことがわかる。

人類の起源地 4万7千年前 3千年前 2万年前 4万年前 4万-2万5千年前 7万-6万年前 ミトコンドリアDNAと考古学的な証拠から見た 人類の世界拡散の経路
[PDF]
DNAから見た日本人の起源 - 雲南懇話会-ホームhttps://www.yunnan-k.jp/yunnan-k/attachments/article/893/20160319-36-05-shinoda-slide.pdf

約5万年前に絶滅したデニソワ(Denisovan)人の姿は長らく謎のままだった。…



[10003] Re: 訂正:写真2の童たちが本物のケット人です。 何のことはない普通の北方モンゴロイドですねw

投稿者: これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年10月13日(日)00時59分6秒   通報   返信・引用   編集済

間違えた。
写真3はこれに置き換えて下さいw



[10002] 訂正:写真2の童たちが本物のケット人です。 何のことはない普通の北方モンゴロイドですねw

投稿者: これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年10月13日(日)00時57分13秒   通報   返信・引用

訂正

このちょっと濃い顔した人たち、南シベリアのケット人だと思ってたんですが、ケット人じゃなかったです。Ketって検索するとこれ出てきちゃうんですよ。インパクト強かったんで、つい。

で、これ、カフカスのダゲスタンだそうです・・・
お詫びして訂正(汗)。良く考えればシベリアにこんなの住んでません(汗)。

写真2の童たちが本物のケット人です。
何のことはない普通の北方モンゴロイドですねw
ケット人には新大陸に多いQ1a2が多いので、写真3(北米インディアン)のようなエキゾチックな感じかなとちょっと期待してたんですが・・・まー、写真3も典型的な米先住民じゃないですね。

私のmt-G3aも出た紀元前1300年以前の前匈奴人フブスグル人(西北モンゴル)のゲノムは、トゥヴァ人、アルタイ人、次いでケット人に近いのですが、フブスグル人は、西ユーラシア・ステップ人と余り混血せずに遊牧文化を受け入れたことも分かってるんで、エキゾチックな感じは期待できないでしょう。



[10001] Re: ←岩宿⇔後野

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月13日(日)00時15分39秒   通報   返信・引用 > No.9997[元記事へ]

山田さんへのお返事です。

> 上田城址公園の句碑
> ひと恋し火とぼしころを桜ちる
>    白雄 (自筆)
> ふるさとや梅に柳にはなしあり
>    白雄 揮毫者 矢羽勝幸
>
> 金澤 途中吟
> あか/\と日は難面もあきの風
> 小松と云所にて
> しほらしき名や小松吹萩すゝき
>            「おくのほそ道」
>
> ・・
> 台風19号、岩宿⇔小保戸ライン南端あたり狙ってるかな?


今回は、群馬と神奈川の相模川沿いがひどいですね。これからの時間、多摩川・荒川・利根川・相模川などの下流域へ水が押し寄せるので注意が必要です。古代だとすでに氾濫してたんでしょうね。彼らはそういうところには、住まないようにしていたのかな・・。今夜も皆さん気をつけてお過ごしください。



[10000] Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月13日(日)00時12分33秒   通報   返信・引用 > No.9992[元記事へ]

これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>

> 難病なので分かってないと思いますが、地中海病とは言うものの、多いのは中東だそうです。
>
> この彼女の闘病歴には涙が出ます。
> 日本では珍しいため最近まで「地中海病」だと診断が付かず、怠けてるだの仮病だの言われたそうだ。子供時代には「大人はみんな自分と同じ痛みを乗り越えた」と信じ、大人を尊敬していたという…
>

そうですね、私の知り合いにも難病患者が数人いますが、遺伝病が多いようですね。その難病患者の当事者で遺伝病理にも詳しい知り合いが言うには、彼と同じ病気になる人はみんな同じ顏してることが多いらしく、同じ人種だ!と話していたのが印象的でした。

その病気が多い地域ではよく知られる病気も、遠く離れていると発見しづらいといったケースもあるのかもしれませんね。



[9999] アーリア人…

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月12日(土)15時46分35秒   通報   返信・引用

アーリア人は現代日本人に進化してきたのだ。(参考HP)
日本人の遺伝子はユダヤ系?ルーツや由来に関する海外の反応まとめhttps://soma-kaeru.com/8847/

アジアに限らずゲルマン人の南下やアーリア人の南下が起きている。万里の長城は紀元前214年に秦の始皇帝によって建設されたというが、これも匈奴のような北方の異民族の侵攻に対抗するためだ。
日本人の起源:ブリヤート人が日本の祖先なのか http://hiroshi-kizaki.hatenablog.com/entry/2017/09/19/125647
20万年前にアフリカで「新人」が発生し、ヒマラヤ山脈を北上したグループがさらに日本列島に流れてきたという。
Wiki(参考3)によると、Dタイプには、竹村健一や堀江貴文、Eタイプにはアインシュタインやオバマ、ヒットラー、ナポレオン、マンデラ、ライト兄弟が列挙されている。
日本人の起源は今後のDNAやRNA分析によって、もっと正確な系統がきっと究明されるだろう。正しい歴史観を持つことは日本人としてのアイデンティティを確立することにつながる。日本語とヘブライ語の共通点などの理由も明らかになるだろう。以前、国際会議に参加した時に、各国の代表者が国名のABC順に座った。東アジアからの参加者は日本だけだったので、Japanの隣に座ったJordanからの代表者に仲良くしてもらった。ゲルマン系とラテン系が喧々諤々に議論する様子を見ながら通信の標準化は実質的にこの欧米での議論がリードしているのだというのを痛感するとともにイスラエル系の人との遺伝子的な距離の近さを感じた。

インド・ヨーロッパ語族に属する人々は、紀元前2000年頃から大規模な移動を開始
ヒトラーはアーリア人こそが優越民族だと唱えましたがこのアーリア人というのは人種的にどういった人たちですか? アーリア人とは元々、中央アジアからイラン高原付近に住んでいた遊牧民族です。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1224549022
アーリア人(Aryan)はユーラシア中央部を出自とし、主にインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派(アーリア語派)に属する言語を話す人々。 民族的にはアーリア民族、人種的にはコーカソイド(白人)である。
ヒトラーが想定していたのは、ゲルマンやアングロサクソンのようですね。インド北部やチベット辺りの民族をアーリア人の祖とみていたようです。
アーリア人の概念を否定する説も有力です。

ローマ人とラテン人の起源は、インド・ヨーロッパ語族に属するイタリック人のイタリア半島への移動と定住化に求めることができる。https://information-station.xyz/3254.html
インド・ヨーロッパ語族とは、古くは、紀元前6000年頃に、黒海・カスピ海周辺の草原地帯(中央アジア西部から現在のウクライナのあたり)で農耕や牧畜、遊牧生活などを営んでいた人々を祖先とする語族(言語系統)であり、インド・ヨーロッパ語族に属する人々は、紀元前2000年頃から大規模な移動を開始し、ヨーロッパから、トルコ、イラン、インドへとわたる広大な地域において現在まで続くそれぞれの民族の祖先となっていきます。
彼らの内の一部は、アーリア人としてインドに侵入し、原住民であったドラヴィダ人を征服してカースト制(ヴァルナ・ジャーティ制)に基づく身分制度社会を形成し、別の一派は、小アジアやイラン高原へと南下してヒッタイト帝国やペルシア帝国を築いていくことになりますが、そのインド・ヨーロッパ語族の内で、西へ西へと進んでいった部族の一派が、イタリア半島へとたどり着くことになるのです。



[9998] 匈奴はハプロで言うアメリカ先住民に多いQが多い。…

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月12日(土)15時19分8秒   通報   返信・引用

R1
ノース人とアイルランドケルト人の混血
サマーレッド・マクギレブリデhttps://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y染色体R1a系統
ヴァイキングを討伐したスコットランドの英雄・サマーレッド・マクギレブリデ(Somerled MacGillebride, 1100-1164)のY染色体は、ハプログループR1a1a1b1a3a1a1(R-L176.1/S179.1)である(注1)(注2)(注3)。サマーレッドは、ノース人とアイルランドケルト人の混血として生まれ、スコットランド南西のアーガイル領の豪族であったが、1156年1月6日、マン島の領主でノルウェー王の配下のオラフ1世の率いるヴァイキングの軍勢をアイラ島北岸で打ち破り、当時、ヴァイキングに統治されていた、ヘブリディーズ諸島からヴァイキングを撤退させた(注4)。この功績によって、サマーレッドは、ヘブリディーズ諸島南部の島嶼(アイラ島、ジュラ島、マル島など)の領主となった。サマーレッドの孫、ドナルドの一族は、スコットランドの有力氏族として代々アイラ島を治め、「島嶼卿(ロード・オブ・ジ・アイルズ)」と称して繁栄した。サマーレッドの子孫はマクドナルド家、マクドゥーガル家、マカリスター家など、現在50万人を数える(注5)。アイラ島は、スコッチ・ウィスキーのアイラ・モルトの産地として名高く、マクドナルド家の末裔・マクドナルド兄弟は、アメリカ合衆国に本社を置く大手ハンバーガーチェーン店の創始者として著名である(注6)。
ノース人
ノース人という名称の由来は「北方からやってきた人々」で、彼らはフィンランドをはじめ、西はカナダやグリーンランド、東はウクライナやエストニアにまで進出し、各地でノース人の国を作った。特にスコットランドに渡ったノース人はケルト系民族と混合して、独自の氏族社会をつくった。フランスのノルマンディーは、ここに、フランス国王より土地を与えられたヴァイキングの呼称、ノルマン人に由来する。
ノース人は北ゲルマン語に属する古ノルド語を使っていた。古ノルド語は、のちにデンマーク語やアイスランド語、ノルウェー語、スウェーデン語へ分岐する。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ノース人

ヴァイキングが活躍していた時代、古ノルド語はスカンジナヴィアと海を隔てた植民地でノース人によって話されていた言葉です。https://origine-mundi.xyz/about-old-norse-1/
古ノルド語
古ノルド語の"hallr"「平らな石」と北欧神話の男神トールから。 名前の意味はだいたい古ノルド語のもので書きましたが、ノルド祖語やゲルマン祖語まで遡れるものも多かくありました。https://ameblo.jp/kajakas/entry-12232426409.html
ゲルマン祖語
古ノルド語(こノルドご、 norrønt mál 、 英語: Old Norse,ON )とは、インド・ヨーロッパ語族 ゲルマン語派 北ゲルマン語群に属する言語である。https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/古ノルド語
ゲルマン
色白、碧眼、大型化(北欧、ゲルマン人)が、ネアンデルタール人の影響であると、最近の研究で考えられているのだ。

ネアンデルタール人や北京原人と交雑
ハプログループCの親戚にあたるこのグループはフィン人、サーミ人、ロシア人、ハザーラ人などの北方で検出されるほか、朝鮮半島や日本人からも検出されます。https://遺伝子検査キット.com/mitocondrial-haplo/
進化の過程で当時存在していたネアンデルタール人や北京原人と交雑し、そのDNAが受け継がれたものもあります。
そのため様々な枝分かれを遂げ、ハプログループというものが生まれました。
もちろん日本人も様々なハプログループに分類され、日本人が該当するのはなんと12種類もあります。
mtDNAハプログループZは極北地域を中心にサーミ人、フィン人、シベリア、北東アジア、中央アジア、朝鮮、日本などで観察されており[3]、Y染色体ハプログループN1と同じような流れが想定され、ウラル語族の拡散との関連を示唆するものと考えられる。
ヘルシンキ大学法医学部は、北ユーラシアのフィン・ウゴル語系に対する集団遺伝学の研究を2002年から2008年にかけて実施した。その結果、フィン・ウゴル語系集団のほとんどが、西ユーラシアおよび東ユーラシアの遺伝子プール、遺伝的浮動、連続創始者効果の混合を有していることが明らかになった。北ユーラシアのフィン・ウゴル語系集団は南の集団よりも遺伝的に下のハプロタイプの多様性を示す異種群であることが判明した。北ユーラシアのフィン・ウゴル語系集団には、分子集団遺伝および北ユーラシアの北方、北極の領域への順応によって形作られた複雑な遺伝的変化により、固有の遺伝子的特徴がある[4]。

4万~3万年前になると、ネアンデルタール人と現生人類はヨーロッパで共存していた。 ハプロ・グループMはアジアだけに、Nはアジアとヨーロッパにひろがった。https://ameblo.jp/cyrus2/entry-11380096260.html
エチオピア~アラビア半島~南アジア~4万年以上前にはオーストラリアというルートが想定されている。
スンダランドからサフールランドに渡った。
サフル人(アボリジニとニューギニアの高地の人々)、マレーシア先住民、アンダマン諸島の人々が
最初に出アフリカを果たしたMグループの人々の直系と考えられている。
この時期は氷河期の海水面が低下した時期なので、当時の海岸線は海底に没している。
オーストラリアのQはMから、ニューギニアとオーストラリアのPはNから派生している。 https://ameblo.jp/cyrus2/entry-11380096260.html
M2はドラヴィダ語族に多い。
母系のミトコンドリアDNAだけで見ると、インドの人々の60%はMに属し、15%がN~Rと派生したUに属する。
北方のスキタイの中でも、ヨーロッパ系の形態を持つ人骨からも東アジア系のDNAが検出されている。
(カザフスタンやアルタイ共和国での話。G,N9a,D,Fなど。M10は中妻と同じ配列だった)
Uは後からインドに入ったのではなく、出アフリカ直後に分岐して古くから存在している。
R7は分布の中心をインド東部に持ち、オーストロアジア集団の分布と重なる。
古くからインドにいると仮定しがちだが、考古学では稲作と共にインドに来たとされる。
Mは北方でなく南アジアを経由したグループ。
N、R、A、U、Y、B、Fはアーリア系からの派生なのだから、
スキタイ、月氏、真の漢人(単なる中国人という意味でなく)、真の韓人、新羅人、そして出雲人、倭人、ニギハヤヒ朝ヒノモトの東北人、あるいは 関東の中期(倭系)縄文人に追われて北上した古くからの縄文人 といった人々が考えられるわけです。
アーリア系からの派生…
インド・アーリア系(注1)シャーキャ族(注2)の尊者である ガウタマ・シッダールタ (注3)のY染色体は、 ハプログループR1a1a1b1a2 (R-S466/Z280)(注4)であると推定されている(注5)(注6)。
ハプログループR-S116

ケルト人に関連する遺伝子としてハプログループR-S116が挙げられる。https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/5188

現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられているが、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。 https://ja.wikipedia.org/wiki/アーリア人

古代の遊牧民、例えば鮮卑や契丹などは縄文人の末裔だったhttps://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12519406748.html
⑤ 日本語の起源(参考)、、、日本語は中国大陸で広く喋られていた。
⑥ 契丹古伝によると、契丹や鮮卑など多くの非漢民族が殷人をルーツとして、古代中国大陸に活躍して原日本語を喋っていた(参考)
⑦ 縄文人は中国大陸にも生活して、殷王朝を樹立して、漢字のルーツの甲骨文字を発明したが、秦などの末裔は結局のところ日本に渡来した

Y染色体ハプログループQ1a2系統
殷・帝辛紂王https://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y染色体Q系統
古代中国・殷の末代王である帝辛紂王(在位:BC1075-BC1046)のY染色体は、ハプログループQ1a2(Q-M346)であると推定される(注1)(注2)。

Y染色体ハプログループR1a1系統 【スキタイ系】
シベリアで出土した北方アジアの騎馬遊牧民族・スキタイ人の男性ミイラ(約2,500年前)18体のY染色体を解析した結果、17体がヨーロッパ系のハプログループR1a1(R-M459)で、1体がアジア系のハプログループC(C-M130)に属することが明らかとなった(注1)(注2)。これらのミイラは、金髪碧眼で刺青の特徴があった。https://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y染色体R1a系統



[9997] ←岩宿⇔後野

投稿者: 山田 投稿日:2019年10月12日(土)12時48分50秒   通報   返信・引用

>ひたちなか市
 後野遺跡 北緯36度23’22”東経140°33′29″
>みどり市
 岩宿遺跡 北緯36度23’56”東経139°17′07″

浅間山火口外輪の南縁 N36度24分03秒 E138度31分08秒
上田城址公園 N36度24分16秒 E138度14分34秒
石川県小松市   N36度24分30秒 E136度26分45秒

上田城址公園の句碑
ひと恋し火とぼしころを桜ちる
   白雄 (自筆)
ふるさとや梅に柳にはなしあり
   白雄 揮毫者 矢羽勝幸

金澤 途中吟
あか/\と日は難面もあきの風
小松と云所にて
しほらしき名や小松吹萩すゝき
           「おくのほそ道」

・・
台風19号、岩宿⇔小保戸ライン南端あたり狙ってるかな?



[9996] 私は、前述のD4b2bの女性に敬意を表して、彼女のルーツを私と同じ「匈奴」に認定しようと思う!彼女のD4b2bは、AやGとは異なり、前匈奴には見られないが、匈奴で出て来る。地中海病は中東人由来なれど、彼女の我慢強い性格はまさに匈奴に由来するだろう!さらに

投稿者: これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年10月12日(土)02時36分23秒   通報   返信・引用

基本に立ち返ろう!

個体において、yDNAや核のゲノムより「ミトコンドリアDNA」の方が重要だというお話。
次いで、核ゲノム。yDNAは言語系統と親和性があるものの、3番手だ。

核DNAは細胞の中に2セットしか存在しないところ、mtDNAはひとつのミトコンドリアに複数個含まれる。
さらに、ミトコンドリア自体も1つの細胞に数百、心臓の筋肉細胞や肝臓のように大量のエネルギーが必要な細胞だと数千個も含まれている。なので、一個人の体の中には核のDNAより遙かに多くのコピーが存在している。体質や疾病にも関わるとされる。男女ともが持っているという点でも重要だ。

そこで、私は、前述のD4b2bの女性に敬意を表して、彼女のルーツを私と同じ「匈奴」に認定しようと思う!彼女のD4b2bは、AやGとは異なり、前匈奴には見られないが、匈奴で出て来る。地中海病は中東人由来なれど、彼女の我慢強い性格はまさに匈奴のミトコンドリアに由来する!
さらに、baGatur(英雄)の称号も授与したい。

以下、前匈奴・匈奴およびShirenzigou遺跡人の東ユーラシア系mtDNAハプログループを復習しよう。
ーーーーーーーーーーーーーーー
前匈奴および匈奴のmtDNA
1. 前匈奴の後期青銅器フブスグル人(~紀元前1300年、西北モンゴル)では、D4j5、D4e1、A、【G3a】、G2aが出ている。20人中Cが7名で最多。
西ユーラシア系は1体のみである。
C(7/20)(C,C4a), D(5/20)(D4,D4j5,D4e1,D5a2a), A(2/20), G(2/20)(G3a,G2a), B5b1(1/20), F2a(1/20), U5(1/20), データなし(1/20)

D4j5とD4e1は、北アジアおよび新大陸に汎く出る。
・D4j5:イタリア、オーストリア、チェコ、ドイツ、イラン、ウイグル、クルグズ、内蒙古、ブリャート、
ユカギール、サハ、エヴェンキ、エヴェン。

・D4e1:D4e1aが東アジア、タイ、チベット・ビルマ。D2が中央アジア、アレウト、古代カナダ、チュクチ、シベリア・エスキモー、ユカギール等。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2. 匈奴
モンゴル西北部
(1) DA41, XiongNu, 紀元前350ー紀元前150年 (モンゴル西北部・フヴスグル県) mtDNA: 【G3a3】、Y-DNA: R1b(R-PH200 ?)
(2) 紀元前160年ー紀元前130年の匈奴で【D4b2b2b】が出ている。DA45, XiongNu, 紀元前160ー紀元前130 BCE (ウムヌゴビ県)、mtDNA: D4b2b2b
, Y-DNA: O3a3b2(O-P164〔O-M134の親〕)

・D4b2b2bはロシア。その親D4b2b2は中国 、姉妹が中国、日本、ブリャート、ロシア。D4b2b2a3は日本、D4b2b2a4は北東インド、トゥヴァ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
3. 鉄器時代Shirenzigou遺跡(トカラ語集団と匈奴の混血。新疆北東端、紀元前200年頃)
mtDNAで7割と支配的だったのは現代および古代の西ユーラシア人集団に一般的なものだったが、東ユーラシア由来のmtDNAも3割含む。東ユーラシア由来のmtDNAは、【G3b】, D4j1b ,A17が各1個体づつ。

・G3bはチベット系の型。
・D4j1bもチベット人やワンチョ人(北東インド北端・アルナチャル州)、ネパールにいることから、チベット・ビルマ系。その姉妹ハプロD4j1aもチベット・ビルマ系が独占している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【まとめ】
こうして見ると、前匈奴・匈奴・Sirenzigouに共通して現れる東ユーラシアmtDNAは、M8(C)、G3、D4j、Aの4つということになる。本拠としては南シベリア~西北モンゴル。

全ゲノム的には、前匈奴人はトゥヴァ人とアルタイ人に最も近く、次いでケット人と近い。トゥヴァ人については、GのうちG3aが40%を占めている。アルタイ共和国のカザフ人とブリャート人で50%。ハカス人およびブリャート共和国のエヴェンキ人で100%。G3においては、mtDNAと全ゲノムが一致する。

嗚呼、「DNA人類学」って、なんて良いんだろう、なんて素晴らしいいんだろう!!!笑



[9995] 2万年前…BC1万8000年頃…それは、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月12日(土)02時03分11秒   通報   返信・引用

> いずれにしても、この氷河期の極寒の世界で、少人数でこれだけの精度の測量ができたというのは驚きに値するとおもいますし、2万年前の旧石器時代ですからね、彼らがどこからきて何を考えて生活してたのかもっと知りたいところです。

BC1万8000年頃
中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年頃。
ケバラン人から
テーマ:日本人のルーツ(515) https://plaza.rakuten.co.jp/phoenix3/diary/201403090001/
ケバラン人
BC1万年より少し下がった頃、ケバラン人系譜のナトウフ人が、カルメル山の山麓から パレスチナのエリコの町にやって来ます。https://plaza.rakuten.co.jp/Phoenix3/diary/200903280000/

イベリア人【イベリアじん】
前6世紀ごろのイベリア半島の住民。白色人種群のうちの地中海人種に属す。後にケルト族,ゲルマン族と混血。現代スペイン人の人種的・文化的形成に重要な要素を占める。新石器~鉄器時代にわたるアルメリア文化を残す。歴史的にみてバスク人と関連が深い。 https://kotobank.jp/word/イベリア人-32154

アメン神の象徴は羊…  2019年10月12日(土)01時31分20秒 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs
ローマのファウヌスや、ケルトのケルヌンノス…

クロマニョン人がゲルマン人、スラブ人、ケルト人イタリック人、イベリア人等になったのですかNo2です。
いまの有力な説では、人類はアフリカで進化してクロマニヨン人となり、10数万年~数万年前にアフリカから中近東、ヨーロッパにわたって現生人類となったといわれています。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11040394.html
ですから、ゲルマン人、スラブ人、ケルト人、イタリック人、イベリア人はもちろん、黒人や黄色人種もすべてクロマニヨン人から進化しました。

ケルトっていうのは、ギリシア人が彼らのことを、「ケルトイ」(よそ者って意味)と呼んでいたことに由来するんだ。ローマ人は彼らのことを、「ガリ」と呼び、彼らの住む地を「ガリア」と呼んでいた。
最後の氷河期が終わって、ヨーロッパの原野に人が住めるようになると、いろんな民族がぼつぼつ移り住むようになって、その中にケルト人もいたらしい。http://www.script1.sakura.ne.jp/essey_h/e083.htm
いわゆる、インド・ヨーロッパ語族って人たち。

ケルトにおける狩猟と動物たちの神で、冥府神(死神)としての顔も持つ。角を持ち、角の形はメイン画像のような鹿角が代表的だが牛角であることもある。https://call-of-history.com/archives/20558



[9994] 北海道の旧石器時代遺跡方位ライン

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月12日(土)00時51分21秒   通報   返信・引用   編集済

先日の東日本、昨晩の九州につづいて、最後に残っていた北海道の旧石器時代の遺跡を結ぶ方位ライン図を作成してみました。図1のとおりです。

参考にしているのは先日と同様に、下記のwikiの旧石器時代の遺跡一覧などです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7#%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%83%BB%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%9C%B0%E6%96%B9

なお、全体のラインに2度の西偏角がありましたので、図では傾けて0度にして見やすくしてあります。

こうみると、やはり九州、東日本のそれと同様に、三角測量が基本になっているようです。九州の3万年前ごろのそれに比して、年代は2万年前ごろと新しい遺跡が多く、比較的シンプルで精度が高まっているようにも見えますね。

具体的なラインとしては、特に祝梅三角山(千歳)⇔暁遺跡(帯広)の東西ライン、暁遺跡⇔白滝遺跡の南北ラインあたりが中心軸になっているように感じます。

そこから白滝遺跡⇔豊里遺跡の東西ライン、暁遺跡⇔帯広空港南A遺跡の南北ラインが派生し、また白滝遺跡⇔嶋木遺跡⇔祝梅三角山遺跡の直角三角形ラインが応用形としてみえてきます。

そして、嶋木遺跡⇔祝梅三角山遺跡⇔ピリカ遺跡の斜めラインも出てきます。

あと、ピリカ遺跡⇔祝梅三角山遺跡⇔桔梗2遺跡のラインは72度の二等辺三角形になってます。

また樽岸遺跡⇔ピリカ遺跡⇔大関遺跡も72度なので、この角度に何か意味がありそうです。

常呂遺跡あたりは、これは海岸沿いにあるのですが、図でみると黒メッシュの角にきていて、やはりそれなりに測量された位置にある拠点だとおもいますね。他の遺跡も黒メッシュのライン上におおむね載ってくるので、特定の測量尺度をもとに位置を決めていたこともわかります。

あと、樽岸⇔帯広空港南A遺跡の東西ラインは本来は偏角0となり、これは測量精度が高まっていることを意味していています。

その位置的には帯広のそれはもっと西寄りに拠点があったのではないかと思うのですが、そのズレの意味を考えると、その樽岸遺跡が1万年以前とされていて、他の遺跡に比して1万年くらい新しいので、それで測量方式が変化して、偏角0となった可能性を感じます遺跡ね。

この偏角は、北極星か春分・秋分の日の出角によるとおもうのですが、1万年違うと地軸角含めてかなり変化するので、その辺の計算からこの誤差を明らかにすべきでしょう。

もう少し各遺跡のC14年代とかを調べて、年代別のカテゴリーにしてラインをみていくと、その偏角や誤差の関係も理解しやすくなるとおもうんですけどね。その筋の研究団体でも立ちあげないと難しいかな・・・。

あと、今回は東日本の富士山や、九州の桜島・阿蘇山のような目印となる山立てなどを起点として測量しているのかどうかが不明なことがあります。大雪山にしても羊蹄山にしてもラインに絡んでこないので、山立てなしでも測量できる技術を身に着けた時代の測量だったのかなとも感じますが、祝梅三角山遺跡の三角山?といったあたりが、それに代わるものだったのかどうかも気になるところではあります。

いずれにしても、この氷河期の極寒の世界で、少人数でこれだけの精度の測量ができたというのは驚きに値するとおもいますし、2万年前の旧石器時代ですからね、彼らがどこからきて何を考えて生活してたのかもっと知りたいところです。



[9993] (無題)

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月12日(土)00時51分19秒   通報   返信・引用

> しかし、これだけ正確な測量ができた背景には、この旧石器時代人がかつて住んでいた地域に、そこそこの文明とでもいうべきものが成立しており、その末裔が日本列島へと渡ってきたということを想定すべきなのではないかと感じ始めています。
>
> その文明があった地域については、氷河期ですから、やはり赤道周辺の温暖な地域でしょう。スンダランド方面か中東・インド方面か・・。
氷河期…
中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年頃。 それは、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たっていました。https://plaza.rakuten.co.jp/Phoenix3/diary/201006160001/

BC1万1000年頃、地球的規模の寒気の揺り戻しがあり、旧モンゴロイドから新モンゴロイド誕生。
BC9500年頃、遊牧民のウラル・アルタイ語族【ツラン族】が、西シベリアのオビ河とイエニセイ河の上流域に発生し、後に、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族が生まれました。
BC3700年頃、バビロンのジクラットにいた、シュメール系エジプト族、インドに南下したシュメール系ドラヴィダ人、チュルク族が移動を始めこの4氏族の長である苗族とナーガ族が真っ先に移動を開始。https://plaza.rakuten.co.jp/Phoenix3/diary/200903280000/
エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な地域を移動し、その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となってBC3500年頃、古代ウバイド人(苗族)を征服し、バビロンの地に侵入しました。【史記】の伏犠氏は、この人々です。
シュメールの【ウル第一王朝】始まります。…

環状列石 シュメール人 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1885
緯度 042°04′′ 経度 140°35′ 浜町(はまちょう) A遺跡縄文時代後期のストーン・ サークルや 甕棺墓 ( かめかんぼ ) など様々な形態の墓が発見されたことです。 函館市 (旧戸井町北緯41度46分 東経140度44分 大森勝山遺跡環状列石 ...
サークルストーンや遺跡など、世界中に残された20万を超える共通記号の秘密に迫る。 ...
甲骨文字、楔形文字など、人類は数多くの文字を使ってきた。しかし、1万年以上前、実は世界中で同じ文字が使われていた!?
サークルストーンや遺跡など、世界中に残された20万を超える共通記号の秘密に迫る。そして、その記号が日本では北九州に集中していることに注目。北九州に巨大文明が存在していたのではないか?沖ノ島にそれを裏付ける海底神殿の遺跡を発見。
なんと、そこには神を模したと思われる両性具有の2体の金属製の像が!緻密な造りで高度な製作技術を伺わせる謎の神像がスタジオで披露される!
http://www.tv-tokyo.co.jp/nihonmystery2/

鷲ノ木5遺跡から出土した道内最大の環状列石(ストーンサークル)
緯度 42°04′′ 経度 140°35′

ユリゲラーの聖数11の関係性を考えるhttps://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1848
甲骨文字、楔形文字など、人類は数多くの文字を使ってきた。しかし、1万年以上前、実は世界中で同じ文字が使われていた!?
サークルストーンや遺跡など、世界中に残された20万を超える共通記号の秘密に迫る。そして、その記号が日本では北九州に集中していることに注目。 北九州に巨大文明が存在していたのではないか?沖ノ島にそれを裏付ける海底神殿の遺跡を発見。
なんと、そこには神を模したと思われる両性具有の2体の金属製の像が! 緻密な造りで高度な製作技術を伺わせる謎の神像がスタジオで披露される!

4万年前に世界中で使用された「32の幾何学文字」が存在したと判明! データ分析でガチ判明、学者戦慄(最新研究)
世界各地の洞窟で、古代人が壁に刻んだ模様や図画は“ロック・アート”や“洞窟壁画”と呼ばれて歴史ミステリ―としての側面でも注目を集めているが、ある古人類学者は、はるか太古の我々の祖先が石や岩肌に刻んだ幾何学的な模様の中に、32の“世界共通文字”がある可能性を指摘している。世界最古の書き文字は全世界で通じる共通語なのかもしれないというのだ。
3万年もの間に描かれ続けた32の“幾何学記号”https://tocana.jp/2019/08/post_104546_entry.html

「人類発祥の地であるアフリカにこの(幾何学記号の)起源がある可能性はますます高まっています」(ペッツィンガー氏)
 幾何学記号は、話し言葉をそのまま示した表現ではなく、人々が身の回りで見たものを様式化した抽象的な表現であると考えられるという。https://tocana.jp/2019/08/post_104546_entry_2.html



[9992] Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)

投稿者: これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年10月12日(土)00時41分13秒   通報   返信・引用 > No.9990[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。


> 4. この病気の原因はわかっているのですか
> 家族性地中海熱はMEFV(familial Mediterranean fever gene)遺伝子と呼ばれる遺伝子の異常が関連しています。この遺伝子は炎症をおさえる蛋白質を作る働きがあり、もしこの遺伝子が変異をおこしたら、適切に炎症を抑える事が出来なくなると考えられています。この病気に関係している分子機構の解明が進んでいるところです。但し、MEFV遺伝子変異が認められない場合もあります。
> 病気というのが、集団の移動拡散ルーツを探るファクターとなる可能性を感じます。こちらでも関連史料がないか探してみますね!
>


難病なので分かってないと思いますが、地中海病とは言うものの、多いのは中東だそうです。

この彼女の闘病歴には涙が出ます。
日本では珍しいため最近まで「地中海病」だと診断が付かず、怠けてるだの仮病だの言われたそうだ。子供時代には「大人はみんな自分と同じ痛みを乗り越えた」と信じ、大人を尊敬していたという…



[9991] Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)

投稿者: これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年10月12日(土)00時36分0秒   通報   返信・引用 > No.9988[元記事へ]

これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

管理人さん過去投稿を再掲

「日本人のルーツさんの家系の遺伝子には、アジア以外の欧州系の遺伝子も見られるとのことで、その新漢人の家系と、なんらかの接点がないかどうかお尋ねしたいところです。ご先祖の出身地域が解れば、渡来系集団ならば、ある程度、私のほうでも割り出せるかもしれません・・・」。

ー福井と佐渡にルーツがあることは言いました。はよ割り出しておくれ!笑

↓以下、過去投稿引用。
日本人のルーツさんのご家系は、580年代に中国、朝鮮経緯で北陸方面へ渡来したとの結果になるのでしょうか。

奇しくも、それは、先述した新漢人等の渡来ルート推定に近いものがあります。年代はやや遡りますが、この集団は北朝の北燕の遺民で、北燕が滅んだ400年代から朝鮮へ数十万単位で流れ込み、各国とも対応に困っている記載がありました。

それでその一部が、500年代前半に、九州や、滋賀、北陸方面へと渡来・移住していった経緯を予想しています。そして彼らの首長が、北陸から出てくる継体天皇となったことを考えるわけですが、その新(いまき)漢人等は、当時最新の大陸系技術、中国文化に精通していたことから、後々まで遣隋・唐使に乗ってバイリンガル的な活躍を見せていく一方で、九州では豪族磐井のような新進気鋭の豪族となり、また関東では藤原氏の元となる那珂臣、中臣氏として勢力をつけていったようです。

それで、その九州の磐井は岩戸山古墳に残した石人文化にみられるように、かれらは北燕時代にシルクロード交易をして中国に出入りしていたゾグド人等と交流があったようで、また当時シルクロードで往来していたガラス・金銀装飾品などを、北燕や北魏王朝へともたらしていた集団の末裔にあたるようです。

それゆえ、5~6世紀代の天皇陵や渡来系新漢人等の古墳から、それらの装飾品が出土するのですが、また同時期の新羅などの古墳からも、多数のガラス・金銀装飾品が出土しており、かれらがもたらしたものと個人的には考えています。こちらのサイトに、新羅の古墳から出土した金銀装飾遺物の写真が掲載されています。

その中には、ケルト黄金剣など、あきらかに東欧系と思われる意匠も多くみられ、それらの金属精錬技術が、北燕の甲冑制作技術などともにも、滋賀・北陸方面へと流れ込んだ形跡が見られますので、2世、3世といった形で、ゾグド人、また東欧系職人集団の子孫が、彼らに混じっていたことを予想しています。

その点で、日本人のルーツさんの家系の遺伝子には、アジア以外の欧州系の遺伝子も見られるとのことで、その新漢人の家系と、なんらかの接点がないかどうかお尋ねしたいところです。ご先祖の出身地域が解れば、渡来系集団ならば、ある程度、私のほうでも割り出せるかもしれません・・・。



[9990] Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月12日(土)00時20分25秒   通報   返信・引用 > No.9988[元記事へ]

これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。

> >
> > Y-Dの言語・・、個人的にはかなり古い系統、アフリカの言語とかに近いのではないかと予想しますが、ほとんど語彙的にも残ってないのでしょうね。残っているとすると、山間部や田舎の縄文人の末裔が隠れたところの方言とか、声調とか、イントネーション・・といったものなのではないでしょうか。あとはやはりアイヌ語ですね。
> >
> >
> アフリカのy-Dの言語はアフリカとOOA後しばらくはあったでしょうが、すぐ分かれて違う語族になっていったでしょうね。そもそも現存する語族形成時期に重なりません。
>

そうですね、かなり早い時期に、DEがおそらくはメインのCFから分かれでたのではないでしょうか・・・。

> それから、日本の田舎の縄文人の言語のトーンが残っている可能性は、こういうものこそすぐ変わったり消え去ったりします。一世紀前の言語学では声調など類型による系統論が行われていたようですが。
>

なるほど、逆に声調などは残りにくいんですね・・。


> やはり、y-Dは、古いことと、狩猟採集民だったことが痛いです。
> (でも、日本人の「縄文人崇拝」は変ですねぇ。ヨーロッパの狩猟採集民はK2a~NOですが、ヨーロッパ人のルーツの議論はどれも農耕牧畜民から始まります。本来、日本人の起源のルーツも農耕民から始めるべきなのでは?)
>

なるほどですね・・、と、農耕民の言語がなぜ残りやすいのか、実はよく理解できてないんですけど、狩猟民のそれと比して、どの辺がかかわってくるのでしょうか?


> ところで、
> Living DNAのコミュニティーで繋がっている知り合いの女性が家系図を辿っていったところ、遣唐使に名を連ねていた人物に辿り着いたそうです。あと、高句麗かもしれないと。この辺りのことを北燕遺民との関係で管理人さんが触れていましたよね。
>
> これですかね?↓
> 「それとは別に昨晩もお話した5世紀前半に滅亡した北燕の遺民が、5世紀中葉から6世紀前半にかけて順次、朝鮮から日本へと渡来してきたので、彼らを旧来の漢人と区別して、新(今来)漢人と呼んでいたのですが、彼らの遺伝子に、北方遊牧民やゾグド人、東欧系ケルト人などの遺伝子の痕跡がみられないかどうかが、昨晩も課題となっていたわけですね」。
>
> 彼女のルーツは、北縁遺民=新漢人と関わるのでしょうか?
> 彼女には「地中海病」という持病があって、そこから遺伝人類学に興味が出て、DNAテスト始めたそうです。なんでも、医者に「この病気はシルクロード沿いに運ばれた遺伝病」と言われたそうです。彼女のmtDNAはD4b2で日本には珍しい型です。
>
> これに関して、管理人さんに何か付け足してもらえれば良いのですが。彼女に伝えて人気者になりたいですw



実に興味深い話ですね!こちらの疾患でしょうか。
この病気は地中海沿岸域の人々や、中近東(ユダヤ人、トルコ人・アルメニア人)に多い疾患ですが、日本でも患者さんがいることがわかっています。

4. この病気の原因はわかっているのですか
家族性地中海熱はMEFV(familial Mediterranean fever gene)遺伝子と呼ばれる遺伝子の異常が関連しています。この遺伝子は炎症をおさえる蛋白質を作る働きがあり、もしこの遺伝子が変異をおこしたら、適切に炎症を抑える事が出来なくなると考えられています。この病気に関係している分子機構の解明が進んでいるところです。但し、MEFV遺伝子変異が認められない場合もあります。
http://www.nanbyou.or.jp/entry/4447


その方のご祖先の家系をたどっていって、やはり同じような病気の記録が残っていたりするといよいよ、興味深いですね。

病気というのが、集団の移動拡散ルーツを探るファクターとなる可能性を感じます。こちらでも関連史料がないか探してみますね!



[9989] Re: 武蔵野台地の旧石器遺跡

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月12日(土)00時08分49秒   通報   返信・引用 > No.9987[元記事へ]

山田さんへのお返事です。

> 茂呂遺跡 N35度45分16秒 E139度40分32秒
> 栗原遺跡 N35度45分17秒 E139度40分21秒
>
この東西ラインは間違いなさそうですね!


> 岩宿遺跡発掘の次に東京板橋の茂呂遺跡が旧石器だとわかった(1951)。石神井川沿いにあって、すぐ隣接する栗原遺跡はそれより早く1938年早期縄文式の撚糸文土器と刃部磨製石斧が採集されていた。1
> 「・・こうして東京・武蔵野台地の関東ローム層中から、原位置でそれも日本最古の確かな年代を示す地層(第X層、約四万~三万二〇〇〇年前)から、立派な磨製石斧が出土し「無土器文化」の所産であることが確かめられた。」
>
> 詳しくは、
> http://ac.jpn.org/kuroshio/kurihara/oda201705.htm
> 多摩考古 第47号
> 世界最古の磨製石斧と栗原遺跡
>  -列島最古の旧石器文化を探る 小田静夫
>
> この「多摩考古 第47号」に羽村山根坂上遺跡のストーンサークルを論じたものが載っているのですが、未見。
>

栗原遺跡があるんですね・・!先の旧石器時代の遺跡一覧に載ってない著名な遺跡もまだたくさんあるのですかな??

>
> 追記
> 岩宿⇔小保戸の南北ライン。遺跡と余り関係ありませんが、北に伸びると只見「手打ちそば処八十里庵」

方位ライン遺跡探索ツアーの昼食用によさそう??



[9988] Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)

投稿者: これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年10月11日(金)22時01分49秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9975[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

> > y-D固有の言語としてはアンダマンのオンゲ語族しかないですが、この言語さえもオーストロネシア化したという説もあります。彼らよりも農耕民との接触度が遥かに多かった縄文人の諸言語は、古い層の言語は残りずらい、狩猟採集民の言語は農耕民の言語に置き換わるという原則通りに「消滅した」と考えるのが普通でしょう。
> >
>
> Y-Dの言語・・、個人的にはかなり古い系統、アフリカの言語とかに近いのではないかと予想しますが、ほとんど語彙的にも残ってないのでしょうね。残っているとすると、山間部や田舎の縄文人の末裔が隠れたところの方言とか、声調とか、イントネーション・・といったものなのではないでしょうか。あとはやはりアイヌ語ですね。
>


アフリカのy-Dの言語はアフリカとOOA後しばらくはあったでしょうが、すぐ分かれて違う語族になっていったでしょうね。そもそも現存する語族形成時期に重なりません。

それから、日本の田舎の縄文人の言語のトーンが残っている可能性は、こういうものこそすぐ変わったり消え去ったりします。一世紀前の言語学では声調など類型による系統論が行われていたようですが。

やはり、y-Dは、古いことと、狩猟採集民だったことが痛いです。
(でも、日本人の「縄文人崇拝」は変ですねぇ。ヨーロッパの狩猟採集民はK2a~NOですが、ヨーロッパ人のルーツの議論はどれも農耕牧畜民から始まります。本来、日本人の起源のルーツも農耕民から始めるべきなのでは?)

ところで、
Living DNAのコミュニティーで繋がっている知り合いの女性が家系図を辿っていったところ、遣唐使に名を連ねていた人物に辿り着いたそうです。あと、高句麗かもしれないと。この辺りのことを北燕遺民との関係で管理人さんが触れていましたよね。

これですかね?↓
「それとは別に昨晩もお話した5世紀前半に滅亡した北燕の遺民が、5世紀中葉から6世紀前半にかけて順次、朝鮮から日本へと渡来してきたので、彼らを旧来の漢人と区別して、新(今来)漢人と呼んでいたのですが、彼らの遺伝子に、北方遊牧民やゾグド人、東欧系ケルト人などの遺伝子の痕跡がみられないかどうかが、昨晩も課題となっていたわけですね」。

彼女のルーツは、北縁遺民=新漢人と関わるのでしょうか?
彼女には「地中海病」という持病があって、そこから遺伝人類学に興味が出て、DNAテスト始めたそうです。なんでも、医者に「この病気はシルクロード沿いに運ばれた遺伝病」と言われたそうです。彼女のmtDNAはD4b2で日本には珍しい型です。

これに関して、管理人さんに何か付け足してもらえれば良いのですが。彼女に伝えて人気者になりたいですw



[9987] 武蔵野台地の旧石器遺跡

投稿者: 山田 投稿日:2019年10月11日(金)11時07分22秒   通報   返信・引用   編集済

茂呂遺跡 N35度45分16秒 E139度40分32秒
栗原遺跡 N35度45分17秒 E139度40分21秒

岩宿遺跡発掘の次に東京板橋の茂呂遺跡が旧石器だとわかった(1951)。石神井川沿いにあって、すぐ隣接する栗原遺跡はそれより早く1938年早期縄文式の撚糸文土器と刃部磨製石斧が採集されていた。1951年、55年と栗原遺跡の発掘調査がありソフトローム層とハードローム層の境で礫群や黒曜石剥片が認められた。翌56年第四次調査で、「栗原遺跡は無土器時代、縄文時代、弥生時代、そして奈良・平安時代にかけての大集落遺跡であることが確認された。」
1973年、栗原遺跡の遺物包含層の本格調査が行われた。ソフトローム層から局部磨製石斧の出土、これはさらに数m深い立川ローム第二黒色帯下の「第X層」上部に包含されていることが確認された。
「・・こうして東京・武蔵野台地の関東ローム層中から、原位置でそれも日本最古の確かな年代を示す地層(第X層、約四万~三万二〇〇〇年前)から、立派な磨製石斧が出土し「無土器文化」の所産であることが確かめられた。」

詳しくは、
http://ac.jpn.org/kuroshio/kurihara/oda201705.htm
多摩考古 第47号
世界最古の磨製石斧と栗原遺跡
-列島最古の旧石器文化を探る 小田静夫

この「多摩考古 第47号」に羽村山根坂上遺跡のストーンサークルを論じたものが載っているのですが、未見。


追記
岩宿⇔小保戸の南北ライン。遺跡と余り関係ありませんが、北に伸びると只見「手打ちそば処八十里庵」N37度21分36秒 E139度17分37秒、この少し先の塩沢というところで幕末長岡藩家老河井継之助が落命。八十里越えという難所の峠を戸板に載せられて越えたという。

このライン南に伸びて海辺は大磯町郷土館になる。N35度18分19秒 E139度17分27秒、近くに鴫立庵という著名な俳諧道場がある。曾我物語の虎御前は大磯の遊女だったそうです。



[9986] (無題)

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月11日(金)03時25分41秒   通報   返信・引用

旧石器時代の遺跡一覧https://ja.wikipedia.org/wiki/旧石器時代の遺跡一覧
網走支庁遠軽町(旧白滝村)白滝遺跡群
町内、赤石山(1172m)の山頂付近(800m)から無尽蔵(推定60億トンともいわれる)ともいえる黒曜石を採取し、山の上から、粗砕き(700m)を行い、分業で、簡易加工(500m)して各地に運ばれている。採石場の活用は6千年間に及ぶといわれている。白滝の黒曜石は、北海道内はもとよりサハリンやシベリア、縄文時代の青森県三内丸山遺跡にまで及んでいる。白滝遺跡群は90ヶ所以上ある。
渡島支庁今金町美利河(ピリカ)遺跡
昭和58年(1983年)ころ、ダム建設予定地を調査したところ、1585㎡から11万点にものぼる旧石器時代の石器類が出てきた。ピリカ遺跡の場からは石器類の材料は発見されておらずどこからか運ばれてきたと思われる。頁岩(けつがん)は近くで採石されているが、黒曜石は遠く旧白滝村や十勝三股、余市町赤井川村や置戸町から集められていることを考えれば、幅広いネットワークの存在が浮かび上がってくる。ピリカ遺跡は1万年に渡って石器の加工場であったといわれている。
十勝支庁上士幌町嶋木遺跡(旧石器時代の遺跡は、十勝でおよそ100ヵ所見つかっている)
恵庭岳が約1万8千年前に噴火したとき飛んできた火山灰よりも下の地層から見つかっている上士幌町嶋木遺跡は約1万9千年前と考えられている。石刃などの打製石器が発見されている。
十勝支庁帯広市、新帯広空港建設で発見された遺跡
黒曜石はこの地方では十勝石といわれ、 石刃、尖頭器、石錐、細石刃などの打製石器が発見されている。地層から約2万3千年前と考えられている。
十勝支庁帯広市、暁(あかつき)遺跡
およそ1万6千年前、暁遺跡周辺では、旧石器時代人が細石刃をはじめとする、いろいろな石器を作っていた作業場だったようだ。
網走支庁(旧女満別町)大空町豊里遺跡
北見市常呂遺跡
オホーツク海沿岸に沿って展開する遺跡、旧石器文化から縄文文化(早期・前期・中期・後期・晩期)、続縄文文化、オホーツク文化、擦文文化、アイヌ文化まで幅広い年代・多期にわたっていることも大きな特長である。
岐阜第二遺跡(約2万年前)
サロマ湖東岸に近い標高約10~15mの台地上にある。小沢の両側には擦文時代を中心に縄文・続縄文時代の住居跡がある。常呂地域の旧石器時代の遺跡は今のところ岐阜第二遺跡だけだが、北海道内でも最古に位置づけられる遺跡として知られている。
千歳市祝梅三角山遺跡
2万年近く前と考えられている。この頃の人々は剥片石器を使用していた。石刃などの打製石器が発見されている。多くの文献に北海道最古と紹介されているが果してそうであろうか?祝梅三角山遺跡より遥かに古い遺跡が発掘されていると見られるからである。
函館市桔梗2遺跡他
約2万年前(洪積世)ウルム氷期に、アイヌの祖先は、今の北シベリアから来たと考えられる。もっとも古い遺跡(函館市桔梗2遺跡他)は、約2万数千年前のものである。
二海郡八雲町上八雲大関遺跡群
昭和34年(1959年)大関小中学校グラウンド整地の際、40数点の石器と石片が採取され、旧石器であることが確認された。その後、次々と遺跡が発見された。
上磯郡知内町湯の里遺跡
湯の里遺跡は旧石器時代から続縄文時代(弥生時代)にまでおよぶ遺跡であることが判明した。旧石器時代に所属する土擴から発見された墓様のものは、現在、日本最古の墓と考えられている。
寿都郡黒松内町中ノ川樽岸の遺物
北海道における旧石器時代の調査は最初の方である。1954年調査、出土の遺物は、全て石器類で、硬質頁岩の一種マールを材料としている。およそ1万年以前のものと推定されている。

おしょろかんじょうれっせき【忍路環状列石】https://kotobank.jp/word/忍路環状列石-1443518
北海道小樽(おたる)市忍路町2丁目の通称「三笠山(みかさやま)」の麓(ふもと)にあるストーン・サークル。幕末ごろよりその存在が知られていた。標高20メートルほどの緩斜面に、大小さまざまな河原石を並べている。規模は南北33メートル、東西22メートルで楕円(だえん)形に並んでおり、中央部西よりに高さ1メートルの角柱状立石が1本立っていた。1880年代に田内捨六(すてろく)によって約33平方メートルほど試掘されたが、浜石が層をなしていただけであった。その後、1949年(昭和24)に本遺跡西方の地鎮山頂上から同様な遺跡が東京大学の駒井和愛(こまいかずちか)によって発掘され、これらの遺構は縄文時代後期の墓と考えられるに至った。

西崎山環状列石
北海道余市郡余市町栄町
ストーンサークルです。https://drive.nissan.co.jp/SPOT/detail.php?spot_id=38503
小樽市と余市町の境界線付近の西崎山の海抜約70mの尾根にある縄文時代後期の石造遺構です。
日本海を見渡す山の上に、直径1~2mの遺構が7箇所密集して、一つの大きなサークルを形成しており、長径17メートル、短径12メートルの楕円形に大小数百個の自然石が並べられています。
小さいサークルの一つ一つは墓穴とされ、土器や石鏃が発見されているそうです。

北海道深川音江の環状列石https://www.youtube.com/watch?v=BPnjLAeE4zU
音江環状列石(おとえかんじょうれっせき)は、北海道深川市音江に所在する縄文時代の環状列石群である。別称は、音江環状石籬である。

外帯と内帯の間には「日時計状組石」が置かれている。
大湯・時計状組石
北海道・北東北の縄文遺跡群( 暫定リスト)https://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/jomon/index.html



[9985] (無題)

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月11日(金)02時57分56秒   通報   返信・引用

 鈴木遺跡
35°43'06.6"N 139°29'47.7"E
東経139度29分48秒
小平市鈴木町1-487-1
武蔵野台地のほぼ中央、東京都小平市の東部、石神井川源流谷頭部を馬蹄形に囲んで形成された後期旧石器時代の遺跡。東京都指定史跡。総面積約22万㎡と、都内では最大級の面積を有する。標高約73~75mの武蔵野段丘上に位置し、約2km南には野川流域の遺跡群が展開する。

北緯36度45分54秒
東経139度29分27秒
男体山(なんたいさん)は栃木県日光市にある標高2,486mの火山。https://ja.wikipedia.org/wiki/男体山

北緯36度28分27秒
東経139度37分40.5秒
栃木市は、旧石器時代の石器や縄文時代の集落跡が見つかるなど、古くから人が住む地域https://www.tochigi-kankou.or.jp/tochigi/history
星野遺跡(ほしのいせき)は、栃木県栃木市星野山口付近(栃木市市街地から西北約10キロ、足尾山塊(チャートや珪岩を産する秩父古生物層から成る)から発する永野川左岸の山口台地上にある。)にある縄文海進時代の遺跡である。縄文時代の遺物が、田畑の表面のそこらじゅうにちらばっている。付近は永野川流域にあり、永野川に沿って同様の遺跡が他にも散在している。旧石器時代の石器に似た遺物が、畑を耕していた所から発見されたのをきっかけに、1965年(昭和40)から1978年まで5次にわたって東北大学の芹沢長介教授らにより調査が行なわれ、その後遺跡記念公園・遺跡記念館が作られ、訪れる者も増えた。発掘の結果は原人が活躍した前期旧石器時代で約8万年前の遺跡として発表されたが、多くの問題点が残った。
厳密には旧石器時代の遺跡の新発見がなされた記念の場所ではなく、その探索が初めて行なわれた記念の場所と、現在では考えられている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/星野遺跡



[9984] 九州の旧石器時代の方位ライン

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月11日(金)01時57分29秒   通報   返信・引用   編集済

先日の東日本の旧石器時代の方位ライン分析に続いて、九州のそれについても方位ラインを作成してみました。図1は九州全域のライン図で、図2は北部九州のその拡大図です。

こうみると、まず気づくことは、桜島と阿蘇山を、目安の測量していることです。噴火で煙があがっていたので、それを目安にしたのではないでしょうか。

具体的には、桜島に関するものとしては、横峯遺跡⇔桜島⇔石飛遺跡⇔百花台遺跡のライン、同じく桜島⇔岩戸遺跡⇔丹生遺跡のラインがあります。

また阿蘇山に関するものとしては、阿蘇山⇔百花台遺跡の東西ライン、早水台⇔阿蘇山(東部)⇔石飛遺跡のラインが見えます。

その他、野岳遺跡⇔岩戸遺跡の東西ライン、ケイマンコー遺跡⇔泉福寺洞窟の南北ライン、泉福寺洞窟⇔丹生洞窟の東西ライン、早水台遺跡⇔岩戸遺跡の南北ライン、野岳遺跡⇔水迫遺跡⇔横峯遺跡のラインもあります。

昨晩の東日本の旧石器時代の方位ラインは、富士山を目安にしていましたが、九州では桜島・阿蘇山といったものを目安にして測量していったことがわかります。

そして九州のラインは図2のように1度前後の西偏角を有していることも特徴的ですが、東日本では同じく1度前後の東偏角を有していることと対照的です。

双方おそらくは同じ測量技術をもっていたはずですが、春分・秋分の暦の取り方か、北極星の位置にかかわる測量問題で東西にそれぞれ1度偏角の相違が生じていった可能性を感じます。

なぜ、そういう目印をもとに住処を決めなければならなかったかについて考えていくと、まず、先の投稿のように、きわめて人口が少ない時代であったことが関係してくるでしょう。

この時代は多くて九州では数千人だったようですから、後代のように道路工事をして街道を整備するだけの人口がいないわけです。道路がないのに、いかにして九州・日本全域を支配し、各地で交易するかを考えると、自然と山などを目安にして移動するようになるでしょう。

その精度を高めるために、簡易的な測量を行って、その特定位置に集落を造って生存をかけたわけですね。

それが方位ラインとか区画として、こうやって地図に現れてくるわけです。このラインがあって、はじめて全国各地での交易が可能になり、各地から黒曜石なりを仕入れることができて、安定して狩猟を行い得たのでしょう。

ただ、数百とか数千人レベルの集団が、はたしてどこまで正確な測量技術を獲得し、交易を行い得たのかを考えていくと、限界点も見えてくるでしょう。

しかし、これだけ正確な測量ができた背景には、この旧石器時代人がかつて住んでいた地域に、そこそこの文明とでもいうべきものが成立しており、その末裔が日本列島へと渡ってきたということを想定すべきなのではないかと感じ始めています。

その文明があった地域については、氷河期ですから、やはり赤道周辺の温暖な地域でしょう。スンダランド方面か中東・インド方面か・・。

特にこの九州の旧石器時代遺跡をみていて気付くのは、東日本のそれよりやや古いことですね。
3~4万年前の遺跡もあります。東日本では2~3万年前がメインですから、そうすると、九州の集団が、後に東日本へと拡散していった可能性が見えてくるわけです。

ただ、その件は残りの北海道の旧石器時代の遺跡群をしらべてみないと結論が出せない感じですが、ともあれ、九州と東日本については、おそらくは同じ測量技術をもった集団であったと考えうるでしょう。年代的にも近いですし、強いていればY-Dの可能性がありますね。

ただ、大分の早水台遺跡が約5万年前をはじき出しているのが、やはりきになるところで、Y-Dの拡散時期としては、早すぎるのではないでしょうか。この年代推定が正しいのかどうか、考えものですね。



[9983] 日本に旧石器遺跡が少ない理由

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月11日(金)01時19分51秒   通報   返信・引用   編集済

先日少し触れたのですが、西日本の九州以外に旧石器時代の遺跡が少ないことがあり不可解に感じていたことがあります。

それで少し調べているのですが、下記のwikiサイトに旧石器時代から縄文弥生時代にかけての各地の人口分布の予想値が表にされています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

そこに、図1として引用する縄文・弥生時代の人口分布がありますが、こうみると、関東・東北・中部・東海、九州以外の近畿・瀬戸内・中国・四国といった瀬戸内海沿いの遺跡数が圧倒的に少ないことがわかります。それにしたがい人口推定もそれぞれ200人~400人と、恐ろしく少人数しか住んでいなかったことが予想されているわけです。

縄文後期には十倍増してますが、瀬戸内周辺の人口増加は芳しくないように見えますね。

それで、ひとつ思いつくこととしては、まず旧石器時代は氷河期ですから、最大で100m以上の海退状態にあり、2~3万年まえの間氷期でも、おそらくは50mは海退していたのではないでしょうか。

そうすると、下記のグーグルマップを利用した海抜をみていくと、瀬戸内海は40m行かないので、ほとんどは陸地と化していたことがわかります。適当に地図をクリックすると海抜が表示されます。
https://keisan.casio.jp/keisan/googleMap.php?latitude=ido&longitude=keido&altitude=koudofukasa&lang=&is_pc=1

つまり、旧石器時代人の遺跡は、いまの瀬戸内海の海底にある可能性が高いわけです。だからまず瀬戸内の旧石器時代の遺跡が見えてこないのでしょう。

また縄文時代になると今度は海進状態になるので、やはり瀬戸内海の平地が沈んでしまい、わずかな平地しか残らないこともわかります。こちらの海進地図で13mくらいにするとわかります。図2です。
http://flood.firetree.net/

関東平野や九州中・南部、東北・北海道の内陸部の平地は沈まないので、ここで縄文人は繁栄できたのでしょう。

結局この2つの海進・海退の要因で遺跡が海底に沈んだりしているので、瀬戸内の旧石器・縄文遺跡が少なく、人口統計も少なく見積もられているのではないかと感じます。

瀬戸内海でも遺跡のありそうな地点を決めて、そこを数m掘れば、旧石器時代の遺跡とか出てくるのではないでしょうか。その遺跡のありそうな地点を割り出すのが、ここ数日やっている旧石器時代の遺跡を結ぶ方位ライン・区画の存在です。この区画上に遺跡を構築する性質を理解すれば、ピンポイントで遺跡を探し出すことができるわけで、真の意味での「ゴッドハンド」が現れる可能性も秘めている点で注目してほしく感じてます。



[9982] Re: 富士山  見える 北限…

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月10日(木)22時50分53秒   通報   返信・引用 > No.9978[元記事へ]

荊の紀氏さんへのお返事です。

> 北限からとらえた 308キロ先、福島・花塚山https://mainichi.jp/articles/20170117/k00/00m/040/029000c
> 北緯37度39分11.8秒 東経140度40分05.5秒
>
>

これは驚きですね。福島まで富士山が見えるとは・・。

富士山は近世に噴火する前はとがってたそうですから、なおさらよく見えたことでしょう。

予想以上に遠くから富士山を目安に測量していた可能性を感じますね。



[9981] Re: 遠野、他

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月10日(木)22時46分19秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9980[元記事へ]

山田さんへのお返事です。

> 遠野はおもしろい処だよ。
> 昔話郷土館みたいな所に入ると、歩いていくとあちこちで昔話の語りがはじまる。話の中身はかなりキチガイじみているから、おもしろいけど、付き合いきれない。あちこちで機械的に語りだす。…そう、まったく自分が相対化されるのがわかる。
>
> 先日の投稿で、岩宿⇔小保戸ラインにあきるの雨間地区遺跡が乗るというの、少し訂正。グーグルで雨間検索すると秋川の川向こう、南岸になる。実際、雨間地区というのは北岸の五日市線に近い区域になる。ま、位置的に大きな誤差はありませんが。…それより発見したのは、この雨間地区、筑波ー富士ラインに乗るんですね。このラインは趣味的に追求してるので、発見でした。
>


遅くなりましたが、山田さんから、ご指摘あった雨間地区遺跡と鈴木遺跡の関連のライン図、作成してみましたので添付いたします。

まず、雨間地区遺跡が、岩宿⇔小保戸ライン上にあることは間違いないです。鈴木遺跡と雨間地区遺跡の東西ラインも1度の東偏角を考慮すれば、まず間違いないでしょう。

あとご指摘の筑波山⇔富士山ライン上に雨間地区遺跡が載るかどうかですが、こう見ると微妙ですが、意図的な感じがしますね!鈴木遺跡と雨間地区遺跡の東西ラインとあわせて山田ラインと命名してもよいかと思います(^^)



[9980] 遠野、他

投稿者: 山田 投稿日:2019年10月10日(木)22時07分42秒   通報   返信・引用

遠野はおもしろい処だよ。
昔話郷土館みたいな所に入ると、歩いていくとあちこちで昔話の語りがはじまる。話の中身はかなりキチガイじみているから、おもしろいけど、付き合いきれない。あちこちで機械的に語りだす。…そう、まったく自分が相対化されるのがわかる。

先日の投稿で、岩宿⇔小保戸ラインにあきるの雨間地区遺跡が乗るというの、少し訂正。グーグルで雨間検索すると秋川の川向こう、南岸になる。実際、雨間地区というのは北岸の五日市線に近い区域になる。ま、位置的に大きな誤差はありませんが。…それより発見したのは、この雨間地区、筑波ー富士ラインに乗るんですね。このラインは趣味的に追求してるので、発見でした。



[9979] (無題)

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月10日(木)11時16分58秒   通報   返信・引用

遠野 遺跡の画像https://www.bing.com/images/search?q=%e9%81%a0%e9%87%8e+%e9%81%ba%e8%b7%a1&qpvt=%e9%81%a0%e9%87%8e%e3%80%80%e3%80%80%e9%81%ba%e8%b7%a1&FORM=IGRE

遠野市に合併された旧宮守村達曽部金取にある「金取遺跡」で、中期旧石器時代の8万5000年前の阿蘇山の火山灰層から石斧、掻器など7点の旧石器が発掘されたそうです。
阿蘇山の火山灰層とは、8万5000年前、九州の阿蘇山の巨大噴火によるもので、朝鮮半島から北海道までを火山灰が覆い尽くしたそうです。
旧石器が発掘された「金取遺跡」の火山灰層には木炭片、焼けた礫(れき=石ころ)が多く見られたそうで、旧人がキャンプをした場所と考えられています。
この時代の人類は、「旧人」の段階で、類人猿→原人→旧人と進化し、現代の「新人(ホモ・サピエンス)」に代わる前の時代です。https://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/9aa12511e556f8101e2a09b4691156fb
張山遺跡」で発掘された「石製有孔装飾品」です。…
有孔装飾品…
>黒曜石のビーズ / Credit: Israel Antiquities Authority
これまで新石器時代のユダヤ地域には、人は住んでいなかったと考えられてきた。今回の発見は、従来の歴史認識を一変させそうだ。
>9千年前の古代都市がイスラエルで発掘 従来の説を覆すhttps://nazology.net/archives/41927



[9978] 富士山  見える 北限…

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月10日(木)11時03分29秒   通報   返信・引用

北限からとらえた 308キロ先、福島・花塚山https://mainichi.jp/articles/20170117/k00/00m/040/029000c
北緯37度39分11.8秒 東経140度40分05.5秒

稜線も巨岩が続く
霊山・女神山・花塚山とも展望があって良い山なんですね 現在の線量もアップしてあるので、参考になった方が大勢いらっしゃるのではと思われます。
堅岩 モアイ像にも似た高さ30メートルの岩塔

旧石器時代 福島盆地(信達地方)に人々が住むようになる。http://www.city.fukushima.fukushima.jp/soumuka-soumu/shise/goannai/shokai/2013020101.html

会津笹山原遺跡http://www.aidu.server-shared.com/~ishida-a/page008.html

日本の歴史と会津http://www.aidu.server-shared.com/~ishida-a/page053.html
旧石器時代の遺跡が、東北地方で最も集中している笹山原遺跡(会津若松市湊町)
 会津地方に人間が住むようになったのは、約3万年前です。市内湊町笹山原にある県「会津レクリェーション公園」周辺には、多数の旧石器時代の遺跡が発掘調査で確認されています。



[9977] (無題)

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月10日(木)10時34分47秒   通報   返信・引用

金取遺跡(かなどりいせき)は、岩手県遠野市宮守町に所在し、中期旧石器時代に属する日本列島の遺跡である。
なお2003年7月に報じられたところとして、8-9万年前と見られる土層から石器が出土し、日本国内最古との見方も出た[1]が、2009年9月に出雲市の砂原遺跡で12万年前のものと見られる石器が出土[2]、こちらが日本最古ではないかと報じられている[† 1]。 https://ja.wikipedia.org/wiki/金取遺跡
出典 ?
^ 「岩手・金取遺跡が国内最古 石器出土層9-8万年前」共同通信 2003年7月6日
^ 「日本最古、12万年前の石器みつかる」読売新聞 2009年9月30日
注釈
^ この問題に関しては、旧石器捏造事件に絡む日本考古学界の混乱に伴い、前・中期旧石器時代のものと見られていた数多くの出土品が否定され、確認された3万5千年-4万年前の石器を最古と見る説が有力視されていたが、本遺跡などから出土の旧石器時代の遺物が確認されたことを受け、捏造問題の影響と混乱から信頼を回復させる兆しを見せている。
金取遺跡 https://howlingpixel.com/i-ja/金取遺跡

岩手県遠野市宮守町にある金取遺跡
アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー博士は、「縄文人の祖先は約5万年前には中央アジアにいた集団であり、彼らが東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本列島でD1bが誕生した」とする説を唱えておられます。と
 出雲市多伎町砂原の砂原遺跡から、2009年8月に12万年前の古地層中から1点の小石片が発見された。この小石片が日本で最古の石を打ち砕いてつくられた打製石器です。また、岩手県遠野市宮守町にある金取遺跡からも、8~9万年前と見られる地層から打製石器が発見されています。すでに、日本でも人類が12万年前から住んでいたことになります。ただ、この砂原遺跡にしても金取遺跡にしても人骨は発見されていません。残念ながら、日本は更新世の火山噴火による火山灰が、瀬戸内、近畿地方を除く日本列島の大部分に降り注いだので骨を分解してしまう酸性土壌の占める地域が多く人骨が発見されないのです。
 この打製石器の材質に適していると言われる黒曜石も花崗岩で、日本は太古の時代から火山活動が盛んな土地柄ですから、世界でも有数の産出国だったのです。3万5,000年前の高原山黒曜石原産地遺跡群もあり、群馬県みどり市の岩宿遺跡でも1946年に赤城山南東の関東ローム層から黒曜石の打製石器が発見されています。ナウマン象とヤベオオツノジカも日本にいた。その遺跡も野尻湖から1948年に発見されています。そのナウマン象の骨は、3万年~5万年前のものだったらしい。最古の住居の遺跡としては大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡で、3万年~1万3,000年前の竪穴式住居が1986年に発見されています。高原山黒曜石原産地遺跡群、岩宿遺跡や野尻湖遺跡やはさみ山遺跡で発見された遺産には、その当時の人々の影が見えます。現在の日本人のY染色体のハプログループD1b(D-M64.1)は約35%にみられ、アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー博士は、「縄文人の祖先は約5万年前には中央アジアにいた集団であり、彼らが東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本列島でD1bが誕生した」とする説を唱えておられます。とすると。高原山黒曜石原産地遺跡群、岩宿遺跡や野尻湖遺跡やはさみ山遺跡で生活していた人達は、ハプログループD1b(D-M64.1)をもった縄文人の祖先となりますね。また、ミトコンドリアDNAハプログループで日本人に多いのはハプログループM7aで、約4万年以上前に誕生したアジア最大の母系グループ「M」型から分岐したM7より分岐したグループで、約2万5,000年前に「スンダランド」で誕生し北上して日本列島に到達した系統、あるいは、シベリア南部~極東あたりで発生した系統があります。
 では、砂原遺跡や金取遺跡で生活していた人達はどのような人類だったのでしょうか。Y染色体で人類の移動を説明している学者の人達は、ハプログループDの親グループのハプログループDEが約6万年前にホモ・サピエンスとしては初めて紅海を渡って、アフリカ大陸を脱出した。アラビア半島の南端から海岸沿いに東北に進みイラン付近に至ったと主張しています。では、12万年にいた日本人はホモ・サピエンスではないのでしょうか。ホモ・サピエンスは20万年前から10万年前にかけてアフリカで現生人類に進化し、約6万年前にアジアにやって来た。とすると12万年にいた日本人は、ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアにまで分布しており、旧石器時代の石器の作製技術を有し、火を積極的に使用していたネアンデルタール人だったのか。ネアンデルタール人は、約20万年前から生存し、ホモ・サピエンスが新人として世界に散らばった2万年前には絶滅していた。とすると、やはり12万年前にいた日本人は北京原人やジャワ原人のホモ・エレクトスではなく、ネアンデルタール人だと思う。その日本にいたネアンデルタール人とY染色体のハプログループDのホモ・サピエンスが約3万年前に混血して、現在の日本人がもつハプログループD1b(D-M64.1)と変わっていき、日本人だけがもつハプログループを形成されたのではないでしょうか。そのハプログループD1b(D-M64.1)が縄文人に受け継がれた。
 1880年に創刊され、現在アメリカ科学振興協会 (AAAS)によって発行されている学術雑誌『サイエンス』の2010年5月7日に発刊された記事によると、ホモ・サピエンスのゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数%混入しているとの説を発表している。
12万年前にいた日本人 https://blogs.yahoo.co.jp/hs_anriver/20555225.html



[9976] 旧石器時代方位ライン02

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月10日(木)02時20分47秒   通報   返信・引用   編集済

また山田さん、紀氏さんお返事ありがとうございます!

富士山がどこまで見えるかは私も以前から興味あるところですが、そうですか、茨城からも見えるんですね。埼玉からはもちろん見えましたよ。

昨晩の旧石器時代の遺跡を結んだラインに遺跡名を記してメッシュを加えてみました。図1は東日本全図、図2は関東です。

この時期の測量法にともなう1度の東偏角があるので、両図ではそれを見やすいように0度へと図を傾けて修正してあります。

両図をみると、まずは昨晩も指摘した茨城の後野遺跡⇔中砂遺跡⇔中東遺跡⇔一杯窪遺跡⇔富士山に至るラインがあります。

また茂呂遺跡⇔小保戸遺跡⇔富士山のライン、あるいは横針前久保遺跡⇔立石遺跡⇔富士山のラインもあり、やはり富士山をダイレクトに見て測量していた可能性が高そうです。

ただ、図1の岩手の金取遺跡⇔花泉遺跡⇔福島の平林遺跡⇔富士山へのライン、あるいは山形の高瀬山遺跡⇔群馬の岩宿遺跡⇔埼玉の末野遺跡⇔富士山のラインもあり、これは富士山が見えるわけない距離からのラインとなるので、富士山の代わりとなる目印を中間地点に立てるなどして測量した可能性が出てきます。

また、岩宿遺跡⇔後野遺跡の東西ラインは、中砂遺跡⇔水久保遺跡⇔成田空港遺跡の東西ラインと並行関係にあり、黒メッシュの方格でいけば、8区画分南北に距離を置いてます。

同様に昨晩も指摘した立石遺跡⇔小保戸遺跡の東西ライン、小保戸遺跡⇔岩宿遺跡の南北ラインがあり直角三角形を構成していますが、これとは別に、岩宿遺跡⇔稲荷台遺跡⇔茂呂遺跡のラインと、茂呂遺跡⇔小保戸遺跡⇔富士山のラインも直角を成しています。

これもこの時代の三角測量の応用事例だといえるでしょう。

おおむね、ほとんどの遺跡は図のように黒メッシュの方格ライン上に位置しており、測量がなされた位置に集落を構築していった様子がうかがえます。

この3万年~2万年前後までの旧石器時代人の一部が、東日本規模での測量、つまり地図作成をしていたこともわかるのですが、ただひとつだけ気になっているのが、岩手の金取遺跡の年代だけが8-9万年前と大幅に遡ってしまっていることです。

でも確かに図のように、この遺跡もライン上に載ってますから、そうすると、8万年以上前の人類、つまりY-Dではないネアンデルタール人などの旧人?も測量ができるだけの知恵を持っていたのかどうかとの問題に突き当たってしまいます。

ただこの遺跡が後代の旧石器時代の遺跡の下から偶然に、その8万年以上前の地層から発見されたのか、あるいはその8万年前という数値がそもそもおかしいのか、その辺についても考えていく必要があるでしょう。

同様に出雲市多伎町砂原の砂原遺跡も約12.2万年前とされていますから、この遺跡の位置が、九州方面の旧石器時代遺跡との位置関係で明確に測量された位置にあるかどうかを確認することで、その是非が明らかにされてくるかもしれません。

北海道の旧石器時代遺跡についても同様なことが言えそうですが、ただ西日本に遺跡がほとんど見えないのはどういうことなのかな?ちょっと気になってます。

仮に九州と関東・東海、そして北海道方面の3つの旧石器時代人の分布があったとすると、これは先日も指摘したY-Dの三つの大きな枝分かれに対応しそうですね。実際Yfullのサンプルでも、その3つの地域の出身者がそれぞれ3つの枝分かれにみえてましたから、いよいよY-Dと旧石器時代人とが関係づけれるかもしれません。

その後、Y-Cが1万2千年前に渡来してきて縄文時代が始まるわけですが、ここでY-DがCとどのように融合していったかも先日も課題でした。そしてその際の言語的な融合・消滅過程、ここがルーツさんとの議論で先ほどもみえてきた問題点なわけですね。また気づいたことなどございましたら、お気軽にわかちあってください!



[9975] Re: 【復習】 真に日本人のルーツに関連する古羌・チベット系O-M117分布図の見方(1)

投稿者: 管理人 投稿日:2019年10月10日(木)01時36分58秒   通報   返信・引用 > No.9966[元記事へ]

これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>

> 念のため、私は縄文人の言語が日本語において重要だとは全く言っていません。
> そう解されたのなら曲解です。
>
> 正確に言うと、日本のD2の言語は消滅したという前提において話しています。
> 縄文諸語なるものがあったとすれば(多分ないはずです)、D2の本来の言語は消滅してオーストロアジア語化していたかもしれないという話しです。
>
> y-D固有の言語としてはアンダマンのオンゲ語族しかないですが、この言語さえもオーストロネシア化したという説もあります。彼らよりも農耕民との接触度が遥かに多かった縄文人の諸言語は、古い層の言語は残りずらい、狩猟採集民の言語は農耕民の言語に置き換わるという原則通りに「消滅した」と考えるのが普通でしょう。
>

Y-Dの言語・・、個人的にはかなり古い系統、アフリカの言語とかに近いのではないかと予想しますが、ほとんど語彙的にも残ってないのでしょうね。残っているとすると、山間部や田舎の縄文人の末裔が隠れたところの方言とか、声調とか、イントネーション・・といったものなのではないでしょうか。あとはやはりアイヌ語ですね。


> これも、O1b2固有の言語が現存していないので証明する術が全くありません。日本語にオーストロアジア系の語彙があるのなら少しは分かってきますが、今の所ないです。
>
ううん。。。

> なので、きちんとした日本語の系統の議論というものは、過去においても現代においても存在が確認できるO-M134のチベット・ビルマ語やC2のニヴフ語などを基に解明されるはずです。
>
> 遼河のN1の言語がディガロ語で日本語にも影響を及ぼした可能性についても気になっています。こんなことを言ってる学者はもちろんいませんが。

遼河文明の影響は、縄文後期前半あたりから出てくるようですから、その辺は興味深いところです。



[9974] 安曇族(海人族)…縄文海進のピークは5300年ほど前まで続く…

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月10日(木)00時27分30秒   通報   返信・引用

旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡はなぜ同じところに集中しているのか?論理的に考えれば、当時はそこが最も暮らしやすい場所だったからでしょう。
旧石器時代に初めてやって来た人は舟で来たのだろうと思うのですが、長野にはいつ頃まで海があったのでしょうね?長野県には旧石器時代や縄文時代の遺跡がたくさんありますし、海ノ口・海尻・塩尻・塩川などの地名がたくさん残っていますから、少なくても縄文時代にはまだ海があったのではないかと思うのですが。http://sweetbasil2007.livedoor.blog/?p=2
安曇野や諏訪には「御船祭り」があり、海人族の安曇族は九州から船でやって来たようですし(^o^)。
そう言えば国立科学博物館ではフォッサマグナは地面が落ち込んでできたと言っていましたが、
http://sweetbasil2007.livedoor.blog/archives/2016-06-27.html
フォッサマグナの地元である長野県や新潟県の博物館には深い海だったとちゃんと記されていました(^_-)。
http://sweetbasil2007.livedoor.blog/archives/2016-05-05.html
これまで私には、中央よりも地方の資料館や博物館、中央の高名な学者さんの著書よりも「在野の研究者」と言われる方々の著書や推理作家の古代史推理の方がずっと参考になっていたのです\(^o^)/。
http://sweetbasil2007.livedoor.blog/archives/2017-01-11.html
http://sweetbasil2007.livedoor.blog/archives/2019-09-04.html
神職、学者、政治家は、頭脳も人格もあなたより聡明な人がいっぱいいますから」・・・私もそう思っています(^o^)。「日本会議とやらも、神話を史実と受け取っている人はそうそういないでしょう」・・・これもそう思います。でも、それならなぜ「神話」を史実とするような学説を発表したり、不正を犯してまで子供に「国家神道」を刷り込む学校を造ろうとしたりしているのでしょうね?ウソだと知りながらやっているのだとすれば、学究のためや子供のためではないと思いますけれど。
私は「盲目的に地方ばかりを崇拝している」わけではありませんし、「地域の博物館や資料館に行けば本当の歴史がわかる」と考えているわけでもありません。そもそも他人の眼や頭を通して歴史を見るのは止めようと思って始めたことですから(^o^)。
『記紀』のオハナシが史実かどうかを考えるのには、「それぞれの地域の本当のことが分かる」地域資料の方がずっと参考になるということを書いたのです。おっしゃるように中央は予算も人員も豊富でしょうし、立派な肩書や権威もお持ちですが、細かい所には眼が向いていないようですから。



[9973] 旧石器時代の遺跡は、大宮台地、武蔵野台地を中心に

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月 9日(水)23時56分4秒   通報   返信・引用

御岩神社(おいわじんじゃ)
ある宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めた時に、一か所から強い光が見える場所があり、調べてみたらそこが御岩神社だった! と云う凄すぎる逸話を持つ茨城県日立市の御岩神社。https://www.travel.co.jp/guide/article/12153/
祀ってある神様は188柱!日本のほとんどの神様をお参りできます。
創建の時期は不明ですが、721年編集の「常陸国風土記」に「太古よりこのかびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」と記され、考古学においても、それを裏付けるように、古代縄文人が神々を祀る祭壇遺跡などが発掘されているそうです。
宇宙から見えた光の元と云われる岩や、高千穂から分けてもらった天岩戸や、日本最古の岩石軍など、みどころがたくさん。ですが、軽い気持ちで登れる山ではありません。
頂上からの眺めも良く、北西には那須連峰を望めます。古くから、この山そのものが信仰の聖地として崇められ、江戸時代には水戸藩主が代々参拝に訪れています。https://tori-dori.com/kanto/2019/02/01/30125/

北緯36度38分6.45秒 東経140度35分19.8秒
当社は創建の時期は不明ですが、縄文晩期の祭祀遺跡の発掘や、日本最古の書の1つ「常陸國風土記」(721年)に「浄らかな山かびれの高峰(御岩山の古称)に天つ神鎮まる」とされる事から、古代より信仰の聖地であった事が窺えます。
御祭神は国之常立神 大国主神 伊邪那岐神 伊邪那美神 大山祗神 ほか20柱御岩山総祭神188柱を祀り、中世には山岳信仰とともに神仏混淆の霊場となり、江戸時代に至っては水戸藩初代徳川頼房公により出羽三山を勧請し水戸藩の国峰と位置づけ、徳川光圀公(水戸黄門さま)など藩主代々参拝を常例とする祈願所でありました。
仏像の現存、境内の遺跡、祭事内容など古代信仰(古神道)、神仏習合色が色濃く残り、「神仏を祀る唯一の社」として、他の神社、寺院に見られない独自の信仰を伝えております。http://www.oiwajinja.jp/jinjasyoukai.html

日本列島は、茨城県から始まった!?
茨城県で発見された、日本で最も古い5億3300万年前の地層http://www.pref.ibaraki.jp/bugai/koho/kenmin/hakase/info/38/index.html
茨城県日立市から常陸太田市にかけての山地で、日本で最も古い約5億年前の地層が発見されています。
日本最古の地層の年代値が更新されました。日立市から常陸太田市にかけての山地には古生代・カンブリア紀の地層が約50平方キロにわたって広がっています。

北緯36度00分
東経139度37分 歴史 町内各地には、旧石器時代から近世までの各時代の遺跡が分布している。土器や石器などの遺物も出土しており、原始から人々が生活の場としていたことがわかる。
伊奈町の概要http://www.town.saitama-ina.lg.jp/0000000338.html

伊奈町http://www.town.saitama-ina.lg.jp/0000003723.html
旧石器時代
 旧石器時代の遺跡は、県内では大宮台地、武蔵野台地を中心に数多く見つかっており、伊奈町域にも遺跡が残されています。伊奈町域の北東部に位置する向原遺跡からは、約2万5000年前の石器群が見つかっています。この石器群は大宮台地の中でも古い時期のグループに属する石器群と考えられています。伊奈氏屋敷跡や戸崎前遺跡からはナイフ形石器、角錐状石器などが、久保山遺跡からは小形のナイフ形石器が多く出土しています。大山遺跡からは小型で、形が入念に整えられたナイフ形石器や尖頭器が出土していますが、ナイフ形石器をもつグループの中で最終段階のものと推定されます。原遺跡からは長さ2cmの程の細石刃や細石核が出土しており、大宮台地でも検出例の少ない資料です。
 このように旧石器時代の遺跡から石器以外の資料が見つかることは非常に稀であり、当時の人々の暮らしの様子を知る手掛かりは非常に少ないと言えます。しかし、これらの石器は、紛れもなく人々がこの地域に生活していたことを示しています。
縄文時代
 縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つに区分されます。伊奈町では早期後半以降の遺跡が綾瀬川や原市沼川によって開析された台地の縁辺部を中心に見つかっています。戸崎前遺跡から出土した撚糸文土器・条痕文土器や炉穴から、縄文時代早期の人々の居住が認められますが、前期・中期のような集中した土地利用は見られず、安定した集落遺跡も見つかっていません。
 前期になると、温暖化に伴い海水面が上昇し、綾瀬川流域で貝塚が形成されるようになります。伊奈町では関山式期の大針貝塚、諸磯式期と推定される小貝戸貝塚(県指定史跡)があります。大針貝塚では、住居内の窪みに貝殻が堆積する小規模の貝塚、いわゆる住居内貝塚が見つかっています。
 中期になると、大きなムラが形成され、町域においても盛んに営まれるようになります。中期の遺跡としては、原遺跡・北遺跡・大山遺跡・志久遺跡・小室天神前遺跡などが挙げられます。特に原遺跡・北遺跡は中期の住居跡が数多く見つかっている大規模な集落遺跡であり、小さな谷を挟んで対峙しています。
 後期になると、町域における遺跡の数は大幅に減少します。戸崎前遺跡や向原遺跡など後期の遺物が見つかっている遺跡はありますが、中期のような大きなムラがつくられることは稀でした。しかし、本上遺跡のような長い期間何世代もの人々が同じ場所に居住し続けた結果つくられた「環状盛土遺構」を持つ集落遺跡も存在します。
 晩期の遺跡としては、後期から続く本上遺跡のほか、伊奈氏屋敷跡や大山遺跡、向原遺跡などで土器片などが見つかっています。
弥生時代
 伊奈町域では、弥生時代遺跡の発掘調査は現在まで行われていません。そのため、縄文時代晩期に属するいくつかの遺跡の調査例のあと、古墳時代初頭の小室天神前遺跡、向原遺跡までは空白の状態です。

縄文海進の最盛期には海がここまで及んでいた。
縄文時代には海面は現代より高く(縄文海進)、現代では海に面していない埼玉にも海が入り込んでおり多くの貝塚が形成されていた[10]。 埼玉の貝塚の数は110か所を越え、とくに縄文海進が進んだ縄文時代前期の貝塚の数は多い。 https://ja.wikipedia.org/wiki/埼玉県の貝塚の一覧
埼玉の海
関東では9000年前ごろより海水面は上昇し6500年ほど前には現代より2-3メートルほど海面があがった。この縄文海進のピークは5300年ほど前まで続く[13]。この時期には海は埼玉を越え栃木県西南の渡良瀬遊水地のあたりまで広がっていた。縄文早期後葉から縄文前期後葉の時期まで埼玉の貝塚の数は増える。しかしその後海面は一旦低下して埼玉の地から海は引き、縄文前期末葉には埼玉には貝塚はあまり見られなくなる[14]。その後、縄文中期初頭以降ふたたび海面は広がっている[15]。埼玉全体としては縄文前期の貝塚の数が多いが、国の史跡である岩槻の真福寺貝塚や県史跡である春日部市の神明貝塚、川口市にも県史跡に指定される貝塚群など縄文後期にも複数の貝塚があらわれる[7][14]。3500年ほど前から海は再び後退し始め2000年前には奥東京湾は消滅している[16]。
9000年前…

>9千年前の古代都市がイスラエルで発掘 従来の説を覆すhttps://nazology.net/archives/41927



[9972] Re: 旧石器時代方位ライン01

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月 9日(水)23時11分0秒   通報   返信・引用 > No.9971[元記事へ]

山田さんへのお返事です。
茨城県東海村から富士山が見える!
茨城県東海村のイオン東海店屋上駐車場より、富士山が頭だけ小さく見えました!イオン東海店近くのJR常磐線東海駅からで富士山頂まで206kmありますので、イオン東海店から富士山も200キロの距離はあるでしょう。そんな遠い距離の富士山が茨城県東海村から見えるのは驚きです!https://www.youtube.com/watch?v=9Dvi8cyEVD4

大甕日立研究所駐車場下の展望開けた狭い広場(海抜約220m)からの景色です。雲海奥には筑波山の主峰がそびえている。
雲海と筑波山と富士山(?)https://www.city.hitachi.lg.jp/picture/001/p059610.html




> 管理人さんへのお返事です。
>
> ひたちなか市
>  後野遺跡 北緯36度23’22”東経140°33′29″
> みどり市
>  岩宿遺跡 北緯36度23’56”東経139°17′07″
>
> 後野遺跡は後期旧石器で無文土器が出てるのは、注目です。
>
> 東京の旧石器遺跡はどこのスポットでしょう?
> 茂呂遺跡かな?
> ?
>
>
> 追記
> ひたちなか市から、筑波山とか富士山はよく見えるのでしょうか?
> 弓張月さん、どうでしょう?



[9971] Re: 旧石器時代方位ライン01

投稿者: 山田 投稿日:2019年10月 9日(水)18時56分33秒   通報   返信・引用   編集済

管理人さんへのお返事です。

ひたちなか市
 後野遺跡 北緯36度23’22”東経140°33′29″
みどり市
 岩宿遺跡 北緯36度23’56”東経139°17′07″

後野遺跡は後期旧石器で無文土器が出てるのは、注目です。

東京の旧石器遺跡はどこのスポットでしょう?
茂呂遺跡かな?
?


追記
ひたちなか市から、筑波山とか富士山はよく見えるのでしょうか?
弓張月さん、どうでしょう?



[9970] 岩宿遺跡54度  立石遺跡36度…

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月 9日(水)05時39分32秒   通報   返信・引用

>旧石器時代の遺跡を結ぶ方位ラインを作成してみました。https://userimg.teacup.com/userimg/8220.teacup.com/toraijin/img/bbs/0009967_3.png

36度線上に測量し設定されたレイ・ラインhttps://8906.teacup.com/toraijin/bbs/3627
・・・縄文人? は、 12進法(60進法) | 古代史掲示板(清談論議)
108度 72度 54度 36度 18度 の 魔星陣 五芒星 ペンタグラム 星形5角形の内角108度 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1681
そこでこの基本単位36度の2倍の72度、そして3倍の108度について見てみよう。
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-02/253.htm
この2数の変換を、1年を360日から365日に変換したと言われるエジプトの智慧の神トートにちなんでトート変換と呼び、ZONE-6で改めて見ていくことになるだろう。・・・

五芒星 108度 72度 54度 36度 18度 の 魔星陣 五芒 星 ペンタグラム 星形5角形の内角 108度 です。https://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2868

54度(五芒星関連角度)
五芒星 六芒星 古墳遺跡 古代測量ライン https://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1906



[9969] 新石器時代のユダヤ人…日本とは重要な関わりがあった?

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2019年10月 9日(水)05時13分16秒   通報   返信・引用

9千年前の古代都市がイスラエルで発掘 従来の説を覆すhttps://nazology.net/archives/41927
新石器時代のユダヤ地域には人が住んでいなかったという従来の常識が覆される大発見である

新石器時代(しんせっきじだい)は、完新世のうちのひとつの区切りである亜旧石器時代に続き、新石器革命を形成する耕作の発展によって開始したとされ、伝統的に石器時代の最後の部分とされる時代である。
名が示すとおり、定義としては完新世に属すること、文化には精巧に制作された打製石器や磨製石器が確認されていることがあり、必ずしも農耕の開始と関連付けるものではない。ただし、西アジア、ヨーロッパ、中国では農耕や牧畜が始まった時期と当てはまり、最古のものは紀元前8世紀、以降でも紀元前6世紀から5世紀までは遡ることができる。アメリカ大陸では紀元前4世紀から中央アメリカやアンデス山脈などで農耕の開始が確認できる。[1]
やがて銅器時代もしくは青銅器時代を経て、地域によってはこれを経ずに直接鉄器時代に入り、冶金術の成立によって金属による道具が広まったときに終了した。ただし、生産段階と道具が対応しない地域も存在する。日本では鉄器は6世紀頃まではもっぱら輸入に頼っており、アメリカ大陸や南洋地域では15世紀以降のヨーロッパの進出でもたらされたものの、製造技術の獲得に至らなかった。
中国における新石器時代
ヨーロッパで確立された遺物考証的な考古学方法論は、ようやく近年になって盛んになってきているが、南部での多湿、北部での戦乱などで散逸している遺跡も多い。しかしながら重要な発見も相次ぎ、最古の水稲栽培が確認された長江中流域の彭頭山文化の発祥は紀元前8千年紀にまで遡り、稲籾が見つかった玉蟾岩遺跡は紀元前1万4000年前まで遡る可能性がある。現在の時代同定ではこれらの長江文明は黄河文明や遼河文明より数千年は先んじている。
DNAの研究からは、紀元前10世紀頃の殷から周への政変の混乱を避けて海洋に逃れた人たちが日本へ漂着し、彼らは渡来人として同時に稲作を中心とした弥生文化を伝えていったとし、後の日本とは重要な関わりがあったとする考え方がある。
日本における新石器時代
日本の縄文時代は縄文海進が進んだおよそ1万3000年前からと定義できる。しかし、温暖化した気候に併せて木の実の採取や植林の痕跡は見られるようになったものの、これを「農耕」としては定義できておらず、また「牧畜」文化も発見されていないため、日本で新石器時代の語を定義するのはふさわしくないともされている[1]。日本では紀元前3世紀頃の青銅器が見つかっているが実用ではなく祭祀用として普及しているのみで、また鉄器についても日本での鋳鉄の技術の確立は6世紀頃まで待たなければならず、次時代の定義が他の地域とはやや異なる。これに代わり、日本での編年には土器がよく利用され、「縄文」「弥生」の名称は土器に因んでいる。石器としては縄文時代では打製石器に加え磨製石器の石斧や石棒が現れている。


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