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カテゴリ:[ 歴史 ] キーワード: 日本古代史 古代史 渡来人


8677件の内、新着の記事から50件ずつ表示します。


[9134] Re: RE:秦野先生

投稿者: 秦野北斗 投稿日:2019年 8月22日(木)15時01分32秒   通報   返信・引用 > No.9038[元記事へ]

山田さんへのお返事です。

ギリシャ語聖書、本日到着しました。

これからフン族の歴史に突入する、何かの縁だろう。楽しみです・・


> これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
>
> > 山田さんへのお返事です。
> >
> > > 過分なお便り、深謝。
> > >
> > > ギリシャ語聖書はクロス装クリーニングして置きました。重厚な造りで発送を思案中。アラビア語コーランは表紙のヤケのほか本文しっかりです。
> > > 奥様になにか付録とともに、近日、発送いたします。
> > >
> > > とりいそぎ。
> >
> >
> > ギリシャ文字もアラビア文字も秦野には読めない。猫に小判。
> > 改心して勉強をする見込みもない。
>
> ・・
> 秦野先生の奥方が「欲しい」と云ってるのだよ。火の玉将軍に他人の奥方の何がわかる?
>
> >
> > また、数ページしかないものは、正確にはクルアーン(コーラン)とは言わない。
> > 翻訳もそう。翻訳されたものはクルアーンではなく「解説書」だ。
> >
> > ついでに、クルアーンは書かれたものよりも「(声に出して)読むもの」(クルアーン)の方が「正」なのだ。
> >
>
> ・・
> どこの國でもそうだと思うが、出国入国について荷物の取調べきびしいはず。私がコーランと云ってるのは某国出国の際、調査官はこの本をみて礼拝の仕草をして私の他のものすべてパスになった。 私もアラブ語は読めんのだよ。イスラムの集会儀礼でつかう本だくらいの見当。
>
> 貴殿は貴殿の祈りに集中していればよいだけのこと。




[9133] Re: 新羅・慶州

投稿者: 秦野北斗 投稿日:2019年 8月22日(木)11時08分15秒   通報   返信・引用 > No.9131[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> kanjipediaが工具…あは、情けないね・・・
> つーか、かわいそ過ぎて突っ込めない。
> ↓
>
> > ?掩? エン・おおう
> > ①おおう。おおいかくす。「掩蓋(エンガイ)」「掩蔽(エンペイ)」 ②かばう。かくまう。「掩護」 ③不意におそう。「掩撃」「掩襲」 ④たちまち。にわか。
> > https://www.kanjipedia.jp/kanji/0000455800
> >
>



[9132] Re: 新羅・慶州:角杯

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月22日(木)09時14分11秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9081[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

角杯というのはグルジア人の友人に貰ったことがありますが、ローマ文化王国・新羅、そして日本でも出るんですね!

6世紀前半に「突如として」朝鮮半島に出現する。

日本では岡山・兵庫、福井・富山など。
とくに、福井と兵庫では角杯を生産していた跡がある。
また、5世紀から半島の文物が多数齎されていた和歌山でも、角杯を持ち上げる埴輪が出土している。
(ちなみに、角杯生産は一時的だった。角杯って酒を一気飲みするためのものって前のグルジア人から教わったんですが、日本では流行らなかったんですねw)

ハプログループで検討して見ましょう。

・福井はデータがないですが、富山ではO-M117とO-F444ともに7%。O-M188の19%が目立ちます。全国平均はいずれも5%。
・兵庫ではO-F444が10%と高い。O-M117は4%。
・和歌山はO-M117とO-F444がそれぞれ8%、9%。

角杯を自分たちで作っていたという点が重要です。ここにおいて、日韓とくに日本にソグド人などの渡来を敢えて想定する必要はないんじゃ?って気がしますが、どうでしょう?朝鮮半島ではソグド人が生産してたかも?!


また、装飾具についても、西アジアがルーツであることは明らかなであるものの、新羅のものは独特な形態を示しているそうです(山本ら『ユーラシアの風 新羅へ』)。



[9131] Re: 新羅・慶州

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月22日(木)08時35分49秒   通報   返信・引用 > No.9129[元記事へ]

秦野北斗さんへのお返事です。

kanjipediaが工具…あは、情けないね・・・
つーか、かわいそ過ぎて突っ込めない。


> ?掩? エン・おおう
> ①おおう。おおいかくす。「掩蓋(エンガイ)」「掩蔽(エンペイ)」 ②かばう。かくまう。「掩護」 ③不意におそう。「掩撃」「掩襲」 ④たちまち。にわか。
> https://www.kanjipedia.jp/kanji/0000455800
>



[9130] 「羅ラ」 <鳥あみ>  ラ・めぐる

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月22日(木)08時27分16秒   通報   返信・引用

昔者 ( むかし ) 、纏向の日代の宮に 御宇 ( あめのしたしろ ) しめしし天皇、 巡狩 ( めぐりみそなわ ) しし時、筑紫の国、御井の郡 の高羅 ( こうら ) の行宮に 御 ( いま ) して、国内を 遊覧 ( みそなわ ) すに、霧 ...
基肄城
【きいじょう】https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/howtoread/entry.html?entryid=109
緊迫する東アジア情勢、列島防衛の最前線
天皇、 巡狩 ( めぐりみそなわ )・・・
巡狩し、行りて鯀の水を治むるに無状なるを視、すなわち鯀を羽山に亟し以て死なしむ」とあります。https://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2351
ニニキネと海幸、山幸
それが79項で導き出した巡狩のルートと、もし一致すれば、 ... とヤマウシロ(山陰)地方の巡狩西の中国地方の安芸巡狩西宮神崎ツクシのウマシのウド(鵜戸)の仮宮ツクシ32県巡狩土地測量ホツマの国のハラアサマ宮(最終地点)です。 ...
http://www.geocities.jp/oden1947/toyotama81.html
卯の花(ウツギ)打つ木 禹津木?
ウツキネが自分にゆかりの「卯の花(ウツギ)」の時期(初夏)に新年を祝ったという故事にならって、豊作を祈願する祭りを行い、それがツクシ32県にも広がっていったと書かれています。
「渡る」と「度る」
http://www.geocities.jp/oden1947/187.html

巡狩 全国を巡行→土地測量https://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3557
海幸彦
ニハリ宮に坐すスセリ宮(次男サクラギ)は、昔ニニキネが全国巡狩の折に淡海の湖西 でサルタヒコから御饗(ミアエ)を受けた .... 地方の巡狩→西の中国地方の安芸巡狩→ 西宮→神崎→ツクシのウマシのウド(鵜戸)の仮宮→ツクシ32県巡狩→土地測量→ ...http://www.geocities.jp/ojyaru_24/toyotama81.html

蝦夷天文測量方. 測量の歴史・・・?? お気に入りの人に登録/削除 ... 卜占の結果を 整理した日本人学者によれば、黄河下流域における巡狩範囲がある程度推定できる という。 王者が直接監督できた範囲がそれによってわかるので版図も求められるという わけだ ...http://blogs.yahoo.co.jp/seyqxara/31514487.html

古代中国の地図 - 蝦夷天文測量方 - Yahoo!ブログ
このような湿地や砂漠では測量のために基準点の設定さえも不可能だったのだ。 殷の 王者は「巡狩」と言って、軍事演習を兼ねた諸国検察をよく行った。 そのときの巡航先を 亀甲で占ったことが甲骨文から解る。 この巡狩は確実に秦代まで ...http://blogs.yahoo.co.jp/seyqxara/31216251.html
小枝を組み合わせたポリネシアの海図は原始的な地図の祖型とされる。
プトレマイオスの地図は、地球の形状を考慮したかなり高度なものである。
その中間に大地を平面として扱ったものがある。

巡狩 ( めぐりみそなわ )・・・邏 ラ・めぐる
音符 「羅ラ」 <鳥あみ>https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/5a35acf0406e981958b47f7198b97172
解字 甲骨文は「网(あみ)+隹(とり)」 の形で、細い糸でできた目の細かいカスミ網で、隹(とり)を捕えること。篆文は、これに糸をつけて鳥あみが細い糸でできていることを表した。現代字は、网(あみ)⇒ 罒に変化した羅ラとなった。意味は細かい鳥あみ、(支柱を立てて鳥あみをいくつも)並べる、鳥あみのような細かい薄絹をいう。
意味 (1)あみ(羅)。鳥あみ。あみで捕える。「網羅モウラ」(網は魚をとるあみ、羅は鳥あみ。もらすことなく、すべて収め入れること)「雀羅ジャクラ」(雀をとらえるあみ)「門前雀羅モンゼンジャクラ」(門の前に雀羅を張れるほど人の出入りが少ない。さびれている) (2)(鳥あみを)つらねる。ならべる。「羅列ラレツ」(つらなり並ぶ) (3)うすい絹。あやぎぬ。「羅衣ライ」(うすものの着物)「綺羅キラ」(あやぎぬと、うすぎぬ。うつくしくきれいな衣服) (4)梵語の音訳。外国地名。「羅漢ラカン」(梵語のarhan(阿羅漢アラカン)の略。仏教修行の最高段階に達した人)「羅馬ローマ」(イタリアの首都) (5)「羅針盤ラシンバン」とは、磁石の針を利用して方位を知る装置。船や飛行機の航行に用いる。語源は、中国の風水術で地相占いに使われる羅盤ラバンというアミの目のように細かく方位が書かれた盤の中央に方位磁針を組み込んだので羅針盤と呼ばれた)
イメージ
 「とりあみ」(羅・邏・蘿)
 「とりあみにかかる」(罹)
 「ラの音」(鑼)
音の変化  ラ:羅・邏・蘿・鑼  リ:罹
とりあみ
邏 ラ・めぐる  之部
解字 「之の旧字(ゆく)+羅(とりあみ)」の会意形声。鳥あみの目のように細かくすみずみまで歩いて巡回すること。
意味 めぐる(邏る)。見回る。「邏卒ラソツ」(見回りの兵士)「警邏ケイラ」(見回って警戒すること。また、その人)「巡邏ジュンラ」(巡回して警備すること。パトロール)

「夷人=倭人は距離を測るに里数を知らず。但、これを計るに日を以ってす」2 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs/556
荊(うまら) 馬羅 羅馬(ローマ) | 古代史掲示板(清談論議)
貊(コマ、狛、貌)族、濊(エ)族、韓(ハン)族。 このチュシンの伝説は、先住民である貊族(熊トーテム)と濊族(虎トーテム)を外来の支配者層である韓族が取り込んでいく過程がもとになっているといわれます。 日本の古事記でも、外来 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2769

貌族一派の高句麗(中国-朝鮮間の民族)の勢力拡大. 前漢支配におかれた楽浪群滅ぼす. 7cに平壌を都とする 【朝鮮南部】韓族の3小国と中国支配の帯方群が存在. 韓族が帯方群滅ぼす. 新羅・百済が建国. 百済・倭(日本)連合軍を高句麗が破る ...
http://kantei.am/137177/

始皇帝の「秦」は元は北方の遊牧民であった。また諸葛孔明の「四頭八尾の八陣図戦法 」の武勲を象徴する「旗」であった。秦氏はこれらの「旗」の大義のもと、多くの渡来の 氏族を巻き込んで「八」の「旗」から「八幡(やはた)神」を生んだ。 ...
http://uzumasa-1962.at.webry.info/201105/article_11.html
神仏習合が始まる頃に「八幡」は「はちまん」となった。この社ではこれを「八幡」の名の派生由来とする。
のちの神亀元年(724年)宇佐神宮を造営するにあたり、神託によりこの社で斧立神事を行い、その際に仲哀天皇、応神天皇、神功皇后の3神を勧請したという。
斧立神事
通称 山の神 と呼ばれている。 木 落 神 社. 由 来 書. =斧 立 社 (よきたて しゃ) 屋船久々能知神 (やふねくくのちのかみ). お柱と ...
http://www.lcv.ne.jp/~mnoboru/page/simosya/09gatu.html
斧 立 神 社
大きな石が峰まで続く
・・・・




[9129] Re: 新羅・慶州

投稿者: 秦野北斗 投稿日:2019年 8月22日(木)06時09分37秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9128[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 青少年は騙されないw

可愛そうな奴よ、

高田貫太に銭を返して貰ったら・・・悔しいだろう。

高田貫太. 海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書)
Kindle版 ¥864

?掩? エン・おおう
①おおう。おおいかくす。「掩蓋(エンガイ)」「掩蔽(エンペイ)」 ②かばう。かくまう。「掩護」 ③不意におそう。「掩撃」「掩襲」 ④たちまち。にわか。
https://www.kanjipedia.jp/kanji/0000455800




> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
> >
> > AI君は偉いな、日本書紀の抜粋だ、
> >
> > 天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火右。」天皇曰、可。
> >
> > 「筑紫磐井、反掩」を「磐井の乱」と訳している、反掩は「くりかえし、かばう」で乱でないぞ・・。
> >
>
>
> あはは。
> バカジャナイノ。お前が第1義だけ調べて他の意味を知らないだけ。低レベル!
> 勝手解釈バカD原人3!!!www
>
> 青少年は騙されないw



[9128] Re: 新羅・慶州

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月22日(木)04時40分13秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9118[元記事へ]

秦野北斗さんへのお返事です。

> これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。
>
> AI君は偉いな、日本書紀の抜粋だ、
>
> 天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火右。」天皇曰、可。
>
> 「筑紫磐井、反掩」を「磐井の乱」と訳している、反掩は「くりかえし、かばう」で乱でないぞ・・。
>


あはは。
バカジャナイノ。お前が第1義だけ調べて他の意味を知らないだけ。低レベル!
勝手解釈バカD原人3!!!www

青少年は騙されないw




お前は無視虫箱から出てきちゃ駄目。お前の文章は意味がない。



[9126] 2019年

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月22日(木)04時21分44秒   通報   返信・引用

だよね!



[9125] Re: 新羅・慶州

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月22日(木)04時13分45秒   通報   返信・引用 > No.9119[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

・大阪万博が1970年。今は亡きasiさんによると「縄文ブーム」にも重なると言う。
・井上秀雄『古代朝鮮』によると、明日香村高松塚古墳の壁画の発見で「空前の日朝関係ブーム」が起きたのが1972年。

・y-Dに関する妄想からネトウヨを中心にバカジャナイノ縄文ブームが起きたのが00年代前半。
・ローマ文化王国ー新羅!ブームが起きたのも00年代前半。

興味深い。当時の様子を語って下さい!



[9124] Re: 新羅・慶州:高田貫太『海の向こうから見た倭国』

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月22日(木)02時39分7秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9123[元記事へ]

古代日朝関係を扱ったもので最近のものでは高田貫太『海の向こうから見た倭国』。
まだ全部読んでないが。

以下、引用:
この よう な 歴史 の 描き 方 は、 戦後 の 日本 社会 に 広く 受け入れ られ て いっ た。 そして、 大規模 な「 朝鮮出兵」 が 可能 なの だ から、 大和朝廷 は すでに 倭 を ひとつ に まとめ て い た だろ う し、 当然、 軍事 権 や 外交 権 も 大和朝廷 が にぎっ て い た、 そして 朝鮮半島 から 持ちこん だ 文物 や 技術者 を 地方 へ 配分 し た、 と 考え られ て いっ た。

...しかしながら、 一 九 七 〇 年代 には いる と、 この「 任那 支配」 論 の 根拠 と なっ て い た 二つ の 史料 は 徹底的 に 見直さ れ た。 それ によって 歴史的 な 事実 とさ れ た「 任那 支配」 が 架空 の でき ごと で ある こと が 浮き彫り と なっ た。

...しかしながら、 この「 任那 支配」 論 は、 今 の 日本 社会 で 命脈 を 保ち 続け て いる。 先日 と ある 書店 で、 中高生 に よく 読ま れる 漫画 による 日本 の 歴史 書 を ふと 手 に 取っ た。 パラパラ と めくっ て みる と、 四 世紀 の 朝鮮出兵、 大和政権 が 支配 する 加耶、 六 世紀 に 大和政権 は 朝鮮半島 の 一部 を 安定 し て 支配 し て いく、 という こと が ビジュアル に 描か れ て い た。

...一言 で まとめる なら ば、 これ までの 日本 の 学界 から 提示 さ れ た 日朝 関係 史 は、 所詮 は 倭 の 立場 から 描か れ た もの に 過ぎ ない のでは ない か、 という 批判 だ。 これ には 真摯 に むきあう 必要 が ある。

...三 世紀 後半 ~ 六 世紀 前半 の 日本列島 と 朝鮮半島 を、 海 と それ を とりまく 陸地 が 一体 と なっ た 環海 地域 と 把握 する。

...この よう な 構想 によって、 従来 の 倭 だけを 主役 と し た 静的 で 一方 向 的 な 歴史 像 を 刷新 し て、新羅、 百済、 加耶、 栄 山 江流 域、 そして 倭 が ダイナミック に 連動 し 交渉 を 重ねる、あらた な 日朝 関係 史 像 を 描きだす ことができるだろう。

高田貫太. 海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書) (Kindle の位置No.285-286). 講談社. Kindle 版.



[9123] Re: 新羅・慶州:井上秀雄. 日本人の朝鮮半島認識が50年前、70年代以前のまま, つーか戦前のままと言うことだ...

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月22日(木)02時36分18秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9111[元記事へ]

キンドルで買える本は古い本が多いが、井上秀雄という学者は地域研究から見て真っ当そうだ。日本人の朝鮮半島認識が50年前、70年代以前のままと言うことだろう。
ーーーー
ウィキ
井上秀雄
井上 秀雄(いのうえ ひでお、1924年(大正13年)12月1日 - 2008年10月7日)は、日本の歴史学者。東北大学、樟蔭女子短期大学名誉教授。専門は古代朝鮮史、日朝関係史。

人物
愛知県生まれ。京大では三品彰英に師事。通説とは異なった多くの問題提起をした。

倭≠大和朝廷、倭=朝鮮南部にいた人々
倭を大和朝廷とする通説に対して、朝鮮半島南部にいた人を倭人と呼んだ、などがその一例である(「倭・倭人・倭国」東アジア古代史再検討 第2部参照 人文書院)。

広義の倭人論、倭=中国王朝に従順な異民族の総称
朝鮮半島南部、中国江南・中国東北部・内蒙古に倭人がいたとする「広義の倭人論」の代表的な学者であり、1993年の第2回東アジアシンポジウムで、「倭の居住地は四地方に分散し、中国王朝に順な異民族の呼び名とされていた。『倭』=日本として一律に見ようとしてきたところに問題があるのでなかろうか」と述べている[1]。

倭=辺境地域の総称?倭=九夷?
これに対して沈仁安(北京大学教授)は、「史料の根拠に欠け、あるいは史料について誤解がある」として、「広義の倭人論」の根拠とする『漢書』地理志の「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳事を以て来り献見すと云ふ」の「楽浪海中」を「辺境地域」と解釈、「楽浪海中に倭人有り」を「楽浪郡の辺境地域に倭人がいた」とするが、この解釈は全く道理に合わず[2]、文の前後関係では「海中」とは文字通り「海にある」という意味であり、前文では、孔子は道が行われないと嘆き、桴に乗り、渡海して九夷へ行こうとする。後文では「楽浪海中に倭人有り」となるが、前後関係は相呼応しており、孔子が行こうとした九夷が楽浪海中にある倭人のところを暗示しているという[2]。

沈は、「広義の倭人論」を「倭・倭人とは古代日本の古代日本人に対する特定の呼称[3]」「同一人物が成人後再び幼児期の名前を使用しないで、別の寓意のある奥深い名前をつけるのと同じ[4]」「『山海経』以後から中国古籍の中の倭・倭人は終始一貫して古代の日本と古代日本人を指し、倭・倭人の命名は、古代中国人の古代日本人の修正に対する認識[4]」とした。

朝鮮古代史を『日本書紀』から論じるのではなく、『三国史記』や中国の関連古典から論じ、それに比して『日本書紀』等の朝鮮関連の記述は批判的に解釈するという研究手法。考古学に対する知見も豊富で、例えば新羅史基礎研究にその成果を見ることが出来る。



[9122] Re: 新羅・慶州: 新羅の羅、莱、東莱:伐殷後に殷の遺民は羌族諸侯に分割されたが、羌語=チベット・ビルマ語化したO1b2系の民族が釜山地域に渡った。

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月22日(木)02時08分0秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9119[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。


> その加羅と記される以前は、伽耶とヤ音をもちいる集団が主体だったようです。
>
> 言語的に分析すれば、きっと朝鮮の歴史ももっと紐解けてくるでしょう。任那問題もそうですね。


モンゴル、テュルク、ツングースではkharaという語があります。
(テュルク語ではqaryndashで「男性から見た妹」を意味します)

しばしばlはj(半母音)に転じますが、rがlに転じるかどうか。ああ、シナ語などはrからlに転じてますね。
また、腹(ハラ)の語頭音hはФから転じたと考えるのが妥当だと思います。借用語と考えることもできるでしょうが。



[9121] Re: 新羅・慶州

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月22日(木)01時56分29秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9117[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

> > となると、多氏が磐井の子孫だとすると、磐井の乱や吉備の反乱というのは、同族同士の争いということになるでしょうか。
> >
> そうなんです、筑紫君の磐井と、畿内から派遣された近江毛野が戦うときの会話が記録されていて、磐井は「かつて同じ釜の飯を食った仲なのに」と近江毛野に話しかけているんですね。
>
> 継体天皇?が、もともと新羅や高句麗に同族がいて、新羅に味方する磐井を最終的に見切った形になっているんでしょうね。
>

それは生々しいですね。
継体は天皇の地位と既力勢力とのコンセンサスを優先して、磐井ら「同じ釜を喰った同胞」を見限ったのですね。

しかし、この磐井の子孫は根絶やしにされず、多氏や中臣氏として後々も繁栄する。
当時の大和朝廷の限界も示してますね。




[9120] 今のところO1b2が水稲農耕民だったという証拠はないんですよ。弥生人とはO-JST002611やO-M188であって、朝鮮半島のO1b2は彼らから水稲農業を教わったのだと見とります。。

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月22日(木)00時27分12秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9116[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

> > 一方、O-JST002611は奈良と何故か沖縄に多く、O-M188は北陸で2割と非常に多い。
> > O-JST002611は畿内の在来勢力でしょう。O1b2を属民とする漁業・園耕・水稲弥生人の支配層です。O-JST002611はO1b系同様、沖縄など東シナ海に多く、フィリピンにも多いのです。ベトナムやビルマにも多い。O-JST002611とO1bは一緒に動いたと見るべきです。
> >
> > O-M188は新羅からの先発隊で先に北陸で地盤を築いて、O-M134の合流を待った。
> >
> > この新興勢力O-P201と在来勢力O-JST002611/O1b2のコンセンサスで大和朝廷(天神系O-P201・国神系O-JST002611豪族の連合政権)が成立する。
> >
>
> 南方系に多いんですね。でも、奈良については、特殊かな・・。4世紀前半に日向、おそらくは南西諸島方面から、畿内に侵入してきた南方航海民の習俗をもつ集団がいます。神武天皇や山幸彦といった伝承を残して、畿内を支配したはずです。
>
>


ええ。海洋民というのがポイントだと思いますね。

今のところO1b2が水稲農耕民だったという証拠はないんですよ。
一部は水稲農耕民であったかもしれない。しかし、それは山東から朝鮮中部に上陸し、反時計回りに満洲に入った一派であって主流ではないはずです。

やはり、O1b2は基本的に漁業・園耕民であって、同じ海洋型のO-JST002611の分布とも一致している点が重要だと思います。大渓文化にはO-M188のO-M7が排他的に出とります。

で、弥生人とはO-JST002611やO-M188であって、朝鮮半島のO1b2は彼らから水稲農業を教わったのだと見とります。漁民+水稲農耕民として、O-JST002611とO1b2は沖縄方面にも拡大しました(沖縄O-JST002611=10%)。



[9119] Re: 新羅・慶州: 新羅の羅、莱、東莱:伐殷後に殷の遺民は羌族諸侯に分割されたが、羌語=チベット・ビルマ語化したO1b2系の民族が釜山地域に渡った。

投稿者: 管理人 投稿日:2019年 8月21日(水)23時31分59秒   通報   返信・引用 > No.9106[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 一方で、新羅の羅(上古音*raj、中古音la)は、O1系民族集団っぽいところがある。
>
> 山東の先端に莱(上古音*ry:〔ルー〕、中古音lai)という国があり、古越語で「山」を意味すると言う。
> ただ、国姓は姜なので支配層は山東羌人。
> Tang Shanchun (唐善?) believes lái means "mountain" in the old Yue language,[1] while the Yue Jue Shu (越?書) says lai means "wilderness".[2]
>
> 釜山は東莱って呼ばれた。
> 伐殷後に殷の遺民は羌族諸侯に分割されたが、羌語=チベット・ビルマ語化したO1b2系の民族が釜山地域に渡った。
>
> 新羅の羅は昔の呼び名を復活させたということか?
> もっとも「羅」は斯盧国の「盧」として単に違う字をあてたってのもある。羅は現代朝鮮語ではra、盧はroだが。
>
> いずれにしても、やはり、伐殷後に羌語化したO1b2が先行して朝鮮半島に逃れ、釜山方面に行き着いた可能性はあるだろう。
>
>


そうですね羅は、新羅、加羅など多くみえますね。盧もよく出てきます。高句麗とか高麗もラ音です。ある時期に高句麗系集団は南下したようです。楽浪郡が滅んだときもそうだったかな。

その加羅と記される以前は、伽耶とヤ音をもちいる集団が主体だったようです。

言語的に分析すれば、きっと朝鮮の歴史ももっと紐解けてくるでしょう。任那問題もそうですね。



[9118] Re: 新羅・慶州

投稿者: 秦野北斗 投稿日:2019年 8月21日(水)23時29分13秒   通報   返信・引用 > No.9108[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

AI君は偉いな、日本書紀の抜粋だ、

天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火右。」天皇曰、可。

「筑紫磐井、反掩」を「磐井の乱」と訳している、反掩は「くりかえし、かばう」で乱でないぞ・・。
バカ学者の高価な本読んでるな、それと、磐井は人名でないぞ・・


>
> となると、多氏が磐井の子孫だとすると、磐井の乱や吉備の反乱というのは、同族同士の争いということになるでしょうか。
>
> O-M117は北九州・吉備・畿内に多い。
> 筑紫地域に那珂川というのもありますね。O-M117の地盤はこの地域ですね。
> これが中臣氏の地盤でもあったと!ますます大中臣はO-M117でしょう。
>
> 他の語でも-ng/-gと日本語-kaが対応してるので、中臣の「中」や那珂などがチベット語nang (中)・ギャロン語nag(中)で解けるような気もしてきます。
>
> ーーーーーーーー
> 以下、磐井の反乱につき、高田貫太『海の向こうから見た倭国』を引用します:
>
> この よう な 新羅 と 北部 九州 の 不断 の むすび つき が、 のち の「 磐井 の 乱」 の 際 に、 新羅 が 九州 の 大 首長 の 磐井 と 手 を むすぼ う と し た 動き へ つながっ て いく よう だ。 この こと について は、 第 7 節 で あらためて 検討 する。
> 高田貫太. 海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書) (Kindle の位置No.1775-1777). 講談社. Kindle 版.
>



[9117] Re: 新羅・慶州

投稿者: 管理人 投稿日:2019年 8月21日(水)23時24分22秒   通報   返信・引用 > No.9108[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>

>
> となると、多氏が磐井の子孫だとすると、磐井の乱や吉備の反乱というのは、同族同士の争いということになるでしょうか。
>

そうなんです、筑紫君の磐井と、畿内から派遣された近江毛野が戦うときの会話が記録されていて、磐井は「かつて同じ釜の飯を食った仲なのに」と近江毛野に話しかけているんですね。

磐井の墓の岩戸山古墳などにみえる石人・石馬の習俗と、近江・群馬の毛野氏が残した高崎の古墳群の人物とか馬の埴輪は、ここから考えても同族の習俗から派生したものといえるでしょう。

継体天皇?が、もともと新羅や高句麗に同族がいて、新羅に味方する磐井を最終的に見切った形になっているんでしょうね。

> O-M117は北九州・吉備・畿内に多い。
> 筑紫地域に那珂川というのもありますね。O-M117の地盤はこの地域ですね。
> これが中臣氏の地盤でもあったと!ますます大中臣はO-M117でしょう。
>
> 他の語でも-ng/-gと日本語-kaが対応してるので、中臣の「中」や那珂などがチベット語nang (中)・ギャロン語nag(中)で解けるような気もしてきます。


そうそう、筑紫にも那珂川ありますね。中臣の中=チベット語由来説は興味深いです!



[9116] Re: 新羅・慶州: 新興勢力O-P201と在来勢力O-JST002611/O1b2のコンセンサスで大和朝廷(天神系O-P201・国神系O-JST002611豪族の連合政権)が成立する。

投稿者: 管理人 投稿日:2019年 8月21日(水)23時18分19秒   通報   返信・引用 > No.9104[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> 詳しく説明して下さり、ありがとうございます。
>
> 多氏の拠点は九州、畿内、東国。チベット人卑弥呼も多氏であると!
> これは天孫・天神族が新羅・伽倻から九州、畿内に進出した伝説の神武東征と一致してます。
>
> yDNAの割合では、「日本語集団・推定初期天皇ハプロであるO-M117」が、九州・吉備・畿内・南東北に多い(長崎=10%、吉備=8%、畿内=8%、宮城=10%)。
> 多氏の三大拠点と一致します。(初期天皇の姓は「オオ」〔「大」?「王」?〕ではないでしょうか?)
>
> O-F444も九州・畿内に多いです。
>


なるほどですね。

> 一方、O-JST002611は奈良と何故か沖縄に多く、O-M188は北陸で2割と非常に多い。
> O-JST002611は畿内の在来勢力でしょう。O1b2を属民とする漁業・園耕・水稲弥生人の支配層です。O-JST002611はO1b系同様、沖縄など東シナ海に多く、フィリピンにも多いのです。ベトナムやビルマにも多い。O-JST002611とO1bは一緒に動いたと見るべきです。
>
> O-M188は新羅からの先発隊で先に北陸で地盤を築いて、O-M134の合流を待った。
>
> この新興勢力O-P201と在来勢力O-JST002611/O1b2のコンセンサスで大和朝廷(天神系O-P201・国神系O-JST002611豪族の連合政権)が成立する。
>

南方系に多いんですね。でも、奈良については、特殊かな・・。4世紀前半に日向、おそらくは南西諸島方面から、畿内に侵入してきた南方航海民の習俗をもつ集団がいます。神武天皇や山幸彦といった伝承を残して、畿内を支配したはずです。

それ以前は、弥生人と、その弥生末期にやってきた騎馬民族系の集団が群雄割拠していたのでしょう。

その後5世紀からは中国系、6世紀からは、北方遊牧民と関わる渡来人がやってくるわけですね。複雑ですが、きっといつかうまく分類できるでしょう。



[9112] 日本版ウリジナル

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月21日(水)22時08分36秒   通報   返信・引用

バカ原人2,3さんへのお返事ですw



[9111] Re: 新羅・慶州: 新羅の羅、莱、東莱:伐殷後に殷の遺民は羌族諸侯に分割されたが、羌語=チベット・ビルマ語化したO1b2系の民族が釜山地域に渡った。:(補足)

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月21日(水)22時05分29秒   通報   返信・引用 > No.9106[元記事へ]

> 一方で、新羅の羅(上古音*raj、中古音la)は、O1系民族集団っぽいところがある。
>
> 山東の先端に莱(上古音*ry:〔ルー〕、中古音lai)という国があり、古越語で「山」を意味すると言う。
> ただ、国姓は姜なので支配層は山東羌人。
> Tang Shanchun (唐善?) believes lái means "mountain" in the old Yue language,[1] while the Yue Jue Shu (越?書) says lai means "wilderness".[2]
>
> 釜山は東莱って呼ばれた。
> 伐殷後に殷の遺民は羌族諸侯に分割されたが、羌語=チベット・ビルマ語化したO1b2系の民族が釜山地域に渡った。
>
> 新羅の羅は昔の呼び名を復活させたということか?
> もっとも「羅」は斯盧国の「盧」として単に違う字をあてたってのもある。羅は現代朝鮮語ではra、盧はroだが。
>
> いずれにしても、やはり、伐殷後に羌語化したO1b2が先行して朝鮮半島に逃れ、釜山方面に行き着いた可能性はあるだろう。
>
>

『 三国史記』 智 證 麻 立 干 四 年( 五 〇 三) 冬 十月 の 記事 で ある。   群臣 が 相談 の 結果 智 證 麻 立 干 に 次 の よう に 申しあげ た。
始祖 が 国 を 始め て 以来、 国名 が 定まら ず、 あるいは 斯羅、 あるいは 斯盧、 あるいは 新羅 などと いっ て いる。 私 たち が 考え ます には 新 の 字 は〝 徳 業 は 日々 新た なり〟 の 意味 で、 羅 は〝 四方 を 網羅 する〟 の 意味 です から、 新羅 を 国名 に する のが よろしい。 また、 昔 から 国家 と いわ れる もの には、 みな 皇帝 と いっ たり、 王 と いっ たり する 者 が い ます。 の 始祖 が 国 を 建て てから 今 に いたる まで 二十 二 代 で あり ます が、 ただ 方言 を 使う だけで、 まだ 正式 な 王 号 が 決まっ て い ませ ん。 今、 群臣 が 協議 し た 結果、 あなた に 新羅 国王 の 尊号 を 謹んで 捧げ ます。

新羅 の 国号 は すでに 四 世紀 後半 から 使用 さ れ て いる。 それ が ここ で あらためて 取りあげ られ て いる のは、 時期 を 誤っ て いる と 考える 人 が 多い が、 この よう な 考え方 は 当時 の 朝鮮 や 日本 の 実情 から 離れ た 考え方 で ある。

井上秀雄. 古代朝鮮 (講談社学術文庫) (Kindle の位置No.1894-1899).  . Kindle 版.



[9110] Re: 新羅・慶州: 昔氏、任那は架空。高句麗と戦った倭とは日本ではない。

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月21日(水)22時01分29秒   通報   返信・引用 > No.9107[元記事へ]

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 新羅
>
> これなんか有名だよね。
> 新羅第4代昔氏はO1b2の47zだって話。
> んまー、O2やC2の進出でO1b2朝鮮人が日本に去って、また出戻ったってだけだと思うけど?笑
> どう解釈されますか?
>


※しかし、この昔氏は架空である。以下、『古代朝鮮』から引用:
新羅 王 の 政治的 権限 が 虚弱 な こと は 三 姓 始祖 神話 でも わかる。 この 三 姓 始祖 神話 とは、 新羅 の 現実 の 王、 金 氏 と 直接 かかわり を 持た ない 朴 氏 が 開国 の 始祖 となり、 朴 氏 七 代 に ついで、 貴族 にも ない 架空 の 昔 氏 が 八代 も つづく という ので ある。

井上秀雄. 古代朝鮮 (講談社学術文庫) (Kindle の位置No.1807-1809).  . Kindle 版.

※任那も架空。高句麗と戦った倭は日本とは無関係。以下、同書:
任那 日本府 の 名称 は 五 九 七年 に 百済 が 大和朝廷 に 国交 の 再開 を 求める ため、 大和朝廷 に 迎合 する 歴史 書『 百済 本 記』 を 記述 する 際 に 作っ た 語句 で ある。 朝鮮 古代 史 側 から いえ ば、 大和朝廷 の 朝鮮 南部 侵略 を 認め なけれ ば なら ない 根拠 は ない。

今 までの 研究 者 は、 広開土王 陵 碑文 にでて くる 倭 や『 三国史記』・『 三国遺事』 に みえる 倭 を ことごとく 日本 の こと と 決め て いる。 しかも その 記事 の 内容 が 倭 を 日本 の こと と する こと が でき ない 場合、 任那 日本府 という 出先機関 が あっ た の だ と 説明 し て き た。

任那 日本府 という、 史料 にも ない 幻 の 日本府 を 造作 する のでは なく、 まず、 それぞれ の 史料 に 即し て 新羅 人 が 用い た 倭( 任那 地方 の 別名) を 再検討する とともに、 古代 の 日本史・朝鮮 史 の 再 構成 を はから なけれ ば なら ない。

※倭は「日本」だけではない:
倭 は 日本 だけで なく、 後漢 時代 には 内蒙古 方面 や 南方 の 異種 族 をも さし て おり、 朝鮮 南部 にも 倭人 が い た と 考え て いる。 三 世紀 でも、 中国 の 知識人 は 倭人 の 確実 な 居住地 は 朝鮮 南部 だ と 考え て おり、『 魏志』 倭人 伝 は 珍しい 記事 として、 当時 の 人 たち の 好奇心 を そそっ た に すぎ ない。 倭 が 日本列島 のみ を さす よう に なる のは 五 世紀 以後 の こと で、 倭国 は 北九州 狗奴国( 福岡市 地方) を 指し て い た よう で ある。 厳密 に いえ ば、 中国 では 大和朝廷 を、〝 倭〟 と 呼ば ず〝 日本〟 と 呼ん で いる。

井上秀雄. 古代朝鮮 (講談社学術文庫) (Kindle の位置No.1890-1891).  . Kindle 版.



[9108] Re: 新羅・慶州

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月21日(水)19時18分46秒   通報   返信・引用 > No.9086[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

> > > 横穴墓を造った集団が、先の磐井の子孫でオオ氏で、常陸の那珂・中臣の祖先ですね。
> > >
> > > この集団は、中国の北燕遺民だと思うのですが、同時に石窟寺院など敦煌やその西方世界の習俗をもたらしているのだろうと考えてます。
> > >
> >

> それで常陸の仲国造というのがいて、ここから那珂臣が出て、さらに後代の祭祀家の中臣氏ともつながるとされていますが、鹿島神宮あたりの刀剣・武神伝承などもその影響ですね。
>
>

となると、多氏が磐井の子孫だとすると、磐井の乱や吉備の反乱というのは、同族同士の争いということになるでしょうか。

O-M117は北九州・吉備・畿内に多い。
筑紫地域に那珂川というのもありますね。O-M117の地盤はこの地域ですね。
これが中臣氏の地盤でもあったと!ますます大中臣はO-M117でしょう。

他の語でも-ng/-gと日本語-kaが対応してるので、中臣の「中」や那珂などがチベット語nang (中)・ギャロン語nag(中)で解けるような気もしてきます。

ーーーーーーーー
以下、磐井の反乱につき、高田貫太『海の向こうから見た倭国』を引用します:

この よう な 新羅 と 北部 九州 の 不断 の むすび つき が、 のち の「 磐井 の 乱」 の 際 に、 新羅 が 九州 の 大 首長 の 磐井 と 手 を むすぼ う と し た 動き へ つながっ て いく よう だ。 この こと について は、 第 7 節 で あらためて 検討 する。
高田貫太. 海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書) (Kindle の位置No.1775-1777). 講談社. Kindle 版.

例えば、 福岡県 長者 の 隈 古墳 から 出土 し た と 伝わる 金銅 製 の 鞍 で ある。 これ を 新羅 からの 舶載 品 と 評価 し て、「 磐井 の 乱」 に 先立つ 時期 に、 独自 の 交渉 権 を もっ て い た 九州 の 首長 が 独自 に 入手 し た と する 見方 が ある( 桃 﨑 二 〇 〇 九)。   また、 その 磐井 の 墓 と 目 さ れる 福岡県 岩戸山古墳 から 出土 し た 石馬 について も、 新羅 との かかわり が 注目 さ れ て いる。 岩戸山古墳 の 墳丘 の 周囲 には 埴輪 では なく て、 中 北部 九州 独特 の 石 製表 飾( 人物・動物・盾・甲冑 など 各種 の 器材 を かたどっ た 石製品) が 立て られ て い た。 その ひとつ に 石馬 が ある の だ が、 そこ に 表現 さ れ た 馬具 は 新羅 の 馬具 を 強く 意識 し て 表現 さ れ た のでは ない か、 と 指摘 さ れ て いる( 諫早 二 〇 一二)。

高田貫太. 海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書) (Kindle の位置No.1801-1810). 講談社. Kindle 版.

倭 王権 が 加耶 救援 の 動き を みせる と、「 筑紫 君 磐 井」 に対して 使者 を 送り、 その 派兵 阻止 を 要請 し て いる。 これ は、 倭 王権 と 九州 が 朝鮮半島 との 関係 で 必ずしも 一枚岩 では ない こと を 見抜い た うえ での 戦略 的 な 外交 工作 で あり、 それだけ 新羅 が 倭 の 情勢 に 通じ て い た こと の 証 でも ある。

高田貫太. 海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書) (Kindle の位置No.1814-1817). 講談社. Kindle 版.

北部 九州 の 大 首長 だっ た 磐井 は、 独自 に 朝鮮半島 との 交渉 を おこない ながら、 倭 王権 の 外交 政策 も 支え て い た。 しかし 新羅 の 加耶 侵攻 を 契機 として、 倭 王権 は 北部 九州 の 対外 交渉 権 を 掌握 しよ う と する。 そこで 磐井 は 新羅 と 手 を むすぶ 一方 で、 倭 王権 を 見限っ て 抗争 に 至っ た。   これ を 単に 地方行政官 の「 反乱」 と みる こと は でき ない。 むしろ、 対外 交渉 権 を めぐる 倭 王権 と 北部 九州 の「 戦争」 という 評価 が しっくり くる( 山尾 一 九九 九、 吉田 二 〇 〇 五 など)。

高田貫太. 海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書) (Kindle の位置No.2335-2340). 講談社. Kindle 版.

以上、 吉備 と 北部 九州 を 取りあげ て、 倭 王権 が 地域社会 の 対外 交渉 権 を 掌握 する 過程 について み て き た。 五 世紀 後半 から 六 世紀 前半 の 緊迫 度 を 増す 朝鮮半島 情勢 の ため、 それ までの 倭 王権 と 地域社会 が 野合 する よう な 形 では、 朝鮮半島 との 交渉 は 十分 に おこなえ なく なり つつ あっ た。 この こと で、 王権 に 参加 する 地域社会 に対する 倭 王権 の 求心力 が、 ともすれば 一挙 に 低下 する 危険 が 生じ た。 だからこそ、 倭 王権 は 対外 交渉 権 の 一元化 を めざし た。 それ に 反発 し た のが、 吉備 の 中心 勢力 で あり、 北部 九州 の 磐井 だっ た。

高田貫太. 海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書) (Kindle の位置No.2401-2405). 講談社. Kindle 版.



[9107] Re: 新羅・慶州

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月21日(水)19時05分37秒   通報   返信・引用 > No.9086[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

新羅

これなんか有名だよね。
新羅第4代昔氏はO1b2の47zだって話。
んまー、O2やC2の進出でO1b2朝鮮人が日本に去って、また出戻ったってだけだと思うけど?笑
どう解釈されますか?

あと、井上秀雄の『古代朝鮮』によると、任那には日本の通商団があっただけで、高句麗と戦った「倭」というのも日本でなく別種の倭らしいですね。


「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」

「脱解尼師今が即位した。(または吐解ともいう。)王はこの時、年が六十二歳であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千(百)里の所にある。・・・(林英樹訳)」

コピペw
 脱解王とは新羅第4代の王。はっきりと外国から来たと書かれていますよね。それも倭国の東北千里の地からと。当時の新羅は、日本の中心を九州当たりと想定していましたから、そこから東北に1000里、おそらくこれは朝鮮里のことでしょうから1里400mとしてだいたい400kmに当たります。そこで日本地図を改めて眺めると北部九州から400km前後で朝鮮半島に渡る事の出来る土地として鳥取県、兵庫県北部、京都府北部あたりが浮かび上がります。昔の国名でいうと因幡、但馬、丹後あたり。



[9106] Re: 新羅・慶州: 新羅の羅、莱、東莱:伐殷後に殷の遺民は羌族諸侯に分割されたが、羌語=チベット・ビルマ語化したO1b2系の民族が釜山地域に渡った。

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月21日(水)18時47分33秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9086[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

一方で、新羅の羅(上古音*raj、中古音la)は、O1系民族集団っぽいところがある。

山東の先端に莱(上古音*ry:〔ルー〕、中古音lai)という国があり、古越語で「山」を意味すると言う。
ただ、国姓は姜なので支配層は山東羌人。
Tang Shanchun (唐善?) believes lái means "mountain" in the old Yue language,[1] while the Yue Jue Shu (越?書) says lai means "wilderness".[2]

釜山は東莱って呼ばれた。
伐殷後に殷の遺民は羌族諸侯に分割されたが、羌語=チベット・ビルマ語化したO1b2系の民族が釜山地域に渡った。

新羅の羅は昔の呼び名を復活させたということか?
もっとも「羅」は斯盧国の「盧」として単に違う字をあてたってのもある。羅は現代朝鮮語ではra、盧はroだが。

いずれにしても、やはり、伐殷後に羌語化したO1b2が先行して朝鮮半島に逃れ、釜山方面に行き着いた可能性はあるだろう。



[9105] Re: 新羅・慶州: 辰国

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月21日(水)18時43分19秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9086[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。

辰国

辰の上古音
(Baxter?Sagart): /*[d]?r/(ドゥル / ウル)
(Zhengzhang): /*dj?n/(デュン)
中古音:/d??i?n/(ヂン)

辰の語源
下記の(2)龍説が妥当だろうが、(3)と(4)も興味深い。
「時」はチベット語でdugsで日本語のtokiと対応する(s>h>i)。
(1)>(4)は「天孫・天神」に通じる。
「龍」か「時」か「荒ぶる神」。

Wiktionary
Etymology
(1)“to vibrate”
Related to 震 (OC *tj?n, “to shake”) and 振 (OC *tj?n, *tj?ns, “to excite”), from Proto-Sino-Tibetan *dar ~ d(u/i)r (“to tremble; to shiver”) (Schuessler, 2007).

(2)“fifth earthly branch”
Norman (1985) suggests that it is from Austroasiatic; compare Proto-Mon-Khmer *t?la(a)n (“python”), whence Vietnamese trăn, Khmer ?????? (thlan), Mon ???? (kl?n). However, Ferlus (2013) points to reconstructions like *d?r (Baxter & Sagart) and *?dz?r (Ferlus) and remarks that those do not match any animal's name in Mainland Southeast Asian (MSEA) languages. Therefore, 辰 might have been associated arbitrarily with the dragon (龍).

(3)“time”
From 時 (OC *dj?, “time”) + nominalizing suffix -n, literally “that which is proceeding” (Schuessler, 2007). This word partially converges with 晨 (OC *dj?n, *?lj?n, “morning”) (ibid.).

(4)“heavenly body”
The endopassive of 振 (OC *tj?n, *tj?ns, “to shake; to stir”), literally “to stir oneself”, i.e. “when life begins to stir” > “heavenly bodies that mark time” (ibid.).



[9104] Re: 新羅・慶州: 新興勢力O-P201と在来勢力O-JST002611/O1b2のコンセンサスで大和朝廷(天神系O-P201・国神系O-JST002611豪族の連合政権)が成立する。

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月21日(水)18時38分38秒   通報   返信・引用 > No.9086[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。


> オオ氏については、多氏で知られてますが、神武天皇の息子の神八井耳の子孫で、九州に本拠があります。意富臣とも記されます。
>
> 後に東遷して、常陸や福島方面の国造という管理者にもなるのですが、一説には、九州、常陸、福島にみえる壁画横穴墓の流れともかかわるとされてます。
>
> その横穴墓を造った集団の渡来時期が6世紀初頭で、ちょうど筑紫君の磐井とか、近江や群馬の毛野氏、そして新漢人等が歴史上に表れてくる時期と重なってくるのですが、彼らが擁立したのが継体天皇で、近江や越に本拠がありました。
>
> その継体天皇はオホド王で、その系譜もオホが称号となってます。その語源が、王なのか、大なのか、どちらにしろ中国語と関わるはずですが、気になるところです。
>
> それで常陸の仲国造というのがいて、ここから那珂臣が出て、さらに後代の祭祀家の中臣氏ともつながるとされていますが、鹿島神宮あたりの刀剣・武神伝承などもその影響ですね。
>
> そのオオ氏の中に、小子部(ちいさこべ)連がいて、この氏族が宮中の護衛を任されていたのですが、童子を宮中に提供したので小さい子の部とされたとの話があるのですが、これも小がオだとすると、元はオコ部とか言ってた可能性もありますね。
>
> この小子部の話は、天皇を護衛した氏族のそれを思わせるものですが、護身剣にかかわる大陸系要素が強いのではないかと考えてます。もしかすると中国のみならず、ケルトやシルクロードあたりにも似た話がないかな??と期待しますが・・・。つまり昨晩の新羅王墓から出るケルト黄金剣のことです!引用しますね!
>
>


詳しく説明して下さり、ありがとうございます。

多氏の拠点は九州、畿内、東国。チベット人卑弥呼も多氏であると!
これは天孫・天神族が新羅・伽倻から九州、畿内に進出した伝説の神武東征と一致してます。

yDNAの割合では、「日本語集団・推定初期天皇ハプロであるO-M117」が、九州・吉備・畿内・南東北に多い(長崎=10%、吉備=8%、畿内=8%、宮城=10%)。
多氏の三大拠点と一致します。(初期天皇の姓は「オオ」〔「大」?「王」?〕ではないでしょうか?)

O-F444も九州・畿内に多いです。

一方、O-JST002611は奈良と何故か沖縄に多く、O-M188は北陸で2割と非常に多い。
O-JST002611は畿内の在来勢力でしょう。O1b2を属民とする漁業・園耕・水稲弥生人の支配層です。O-JST002611はO1b系同様、沖縄など東シナ海に多く、フィリピンにも多いのです。ベトナムやビルマにも多い。O-JST002611とO1bは一緒に動いたと見るべきです。

O-M188は新羅からの先発隊で先に北陸で地盤を築いて、O-M134の合流を待った。

この新興勢力O-P201と在来勢力O-JST002611/O1b2のコンセンサスで大和朝廷(天神系O-P201・国神系O-JST002611豪族の連合政権)が成立する。

「葛城 氏、 和 珥氏 ら は 大和朝廷 が 樹立 さ れ た 四 世紀末・五 世紀 初め より 前 から 大和 の 各地 に 割拠 し、 蟠踞 し て、 そうとう 強大 な 権勢 を ふるっ て い た と 解す べき で あろ う( 次 の 畿内 豪族 分布 略図 参照)」。
江上波夫. 騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ [改版] (中公新書) (Kindle の位置No.4012-4014).  . Kindle 版.

あとは、新羅の王族と初期天皇のハプロ確定を待つだけです!



[9103] 〉学者には注意、執拗に迫られると怒り出すので注意して下さい。

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月21日(水)16時15分46秒   通報   返信・引用

理解できます
茨城県三昧塚古墳出土品 一括(考古資料) - 明細は以下。所有者は茨城県。茨城県立歴史館保管。2018年(平成30年)10月31 日指定 [10] [11]。 金銅馬形飾付透彫冠 1点 金属製品 一括 砥石 1点 玉 7点 竪櫛残欠 1点 石棺 1組 ...
沖洲古墳群
所在地
茨城県行方市沖洲
(三昧塚古墳農村公園内)
位置
北緯36度9分17.30秒
東経140度21分57.26秒
座標: 北緯36度9分17.30秒 東経140度21分57.26秒
形状
前方後円墳
規模
墳丘長82.1m
高さ8m(後円部)
埋葬施設
組合式箱式石棺
出土品
副葬品多数・埴輪
築造時期
5世紀中葉-後半
史跡
行方市指定史跡「三昧塚古墳」
有形文化財
出土品(国の重要文化財)
三昧塚古墳
東海道終点の国 常陸 「狼」と「 狐」 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs/3707

[5024] 三昧塚古墳~北上 ↑ https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/5024

洗骨 紀元前の騎馬遊牧民、スキタイなんかもやっ てる ...https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/3698
10月30日 県立歴史館の 『三昧塚古墳とその時代』特別展へ 行き 明大名誉教授 大塚初重氏のお話を聞き 埋葬者は 洗骨葬 されたと 思いました。
茨城県三昧塚古墳で発見されたものは、馬てい形 の装飾があり、馬に開係の探い騎馬民族の王冠であることが分かる。
シュメールから騎馬遊牧民スキタイ4~スキタイの強大な影響~http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=273129
勾玉(まがたま)はけっして日本列島独自のものではなく、伽耶、新羅の遺跡からも多く発見されていて、勾玉の形をしたヒスイは、新羅王の冠の装飾にも使用されていた。古来、ヒスイは神秘的な力を持つとされていたが、新羅古墳のヒスイの産地は、三内丸山の縄文遺跡で、埋葬品と共に発見された大きなヒスイ同様新潟県の糸魚川周辺と考えられる。つまり、糸魚川周辺のヒスイは、数千年の昔から列島および半島の日本海沿岸で広く知られていたのである。このことは、古代の日本海は大陸との交流の障壁どころか、西洋の地中海と同様、重要な交易・交通ルートだったことを示している。
 さらに新羅や伽耶の樹木冠(じゅもくかん)(王冠)が日本でも発見されている。群馬県二子山古墳と奈良県の藤ノ木古墳、茨城県三昧塚古墳で発見されたものは、馬てい形の装飾があり、馬に開係の探い騎馬民族の王冠であることが分かる。と同時にこれらの文化もまた、西アジアの伝統の延長上にあるといえよう。
 スキタイ文化は、黄金を非常に珍重したが、新羅の古墳からも夥しい量の黄金製品が発見されている。新羅の金冠は鹿の角と樹木をデザインしたもので、直接に紀元前後の黒海北岸出土のスキタイの金冠に結びつくものである。
金冠だけではない。遊牧民の冑(かぶと)(製作は新羅・伽耶地域)についても、5~7世紀には、同じ型の冑ドイツのドナウ川沿い、ウルム地域でも使用されていたことが分かっている。
宵は武人の属する部族と地位を示す重要な品であり、同型の冑が着用されていたというのは、同じ文化的なルーツが双方にあったことを意味するものであろう。少なくとも、ゲルマン人の部族が、北アジア・中央アジアの遊牧民と直接に交渉したということは確実だ。
 こうしたことからも、騎馬遊牧民の行動半径の広さには驚くべきものがあると分かる。同様に、日本列島の古墳時代の衣服や冠も騎馬民族との共通点が多く、5世紀前後にスキタイ伝統を引く騎馬民族が侵入したことを示している。蒙古鉢形冑(もうこはちがたかぶと)が和歌山と奈良県の古墳から発見されているが、これは伽耶や新羅の古墳群からも多数出土しているものであり、高句麗や亀茲(くちゃ)近郊の壁画にも見られる遊牧民系の宵なのである。
 6~7世紀は、イスラムの勃興を始め、ユーラシア全域で大きな民族移動と社会変動が発生した時期でもあった。アヴァール人は6世紀半ばに中部ヨーロッパに侵入したアジア系の遊牧民族で、彼らは蒙古鉢形冑を使用していた。興味深いことに、このタイプの冑が世界で最も数多く出土するのはかつての新羅と伽耶で、慶州(新羅)から70余点、釜山(伽耶)から20余点(5世紀)、そして日本では2点、発見されている。
-------------------------------5に続く

葛城氏は倭の王族か?
四~五世紀(古墳時代前期)の日韓状況を「未来を前にした現実」として理解しなければならない。金官加羅すなわち狗邪韓国はヤマト王権と連合を構成する一つのクニだったのだ。ここを根城に半島攻略が試みられ、また高句麗などとの闘争が行なわれた。一方では列島も未だ統一されず、三つのクニに分かれていた辰韓(後ちの新羅)の諸部族はさかんに日本海側に渡来していたはずだ。また、建国(征服)された百済からも権力闘争のたびに列島へ渡来があったはずだ。(注)」
「(注)渡来氏族(部族)には、韓人や倭人という倭族だけではなく、高句麗や百済王族のツングース族系の者たちもいたことだろう。どれがどの氏族や王族だとは解明しがたいが、ヤマト王権中枢に非常に近いところでツングース族の血が流れ込んでいたとしても何の不思議もない。」
複合王朝としてのヤマト王権---葛城氏の正体 http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-80.htm
ツングース族の血

辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属し ながら、韓人・倭人を支配していた。 .... 新羅の支配階級は、シベリアを横断して日本海 側を南下して、迎日湾付近から慶州平野へ進出したスキタイ族に近い ...
天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/11/2410.html
馬韓(後の百済)ではツングース系の扶余族が呉越系の韓人・倭人を直接支配し、弁韓(後の伽耶)では扶余族が韓倭農耕連合を服属させ、辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属しながら、韓人・倭人を支配していた。
これが、古代朝鮮の支配構造である。

海人はスキタイの墳墓崇拝を継承し九州の朝倉地方に王朝を遷都させる際に宇佐神宮 の前の亀山に卑弥呼の遺物を改葬したのですが、百済王子を大倭王朝の王に迎えた・http://6825.teacup.com/dragonsuplex/bbs/504
つまり 東遷した際に遺物の大倭へ戻す事を中止させ無駄に貢ぎを使わず倹約した事を象徴している訳です。

洗骨葬の風習は、中国、北米先住民、アフリカ、インド洋諸国、東南アジア、オセアニアにも広く分布していると言われます。http://matome.naver.jp/odai/2146191669461654201
沖縄諸島では「シンクチ(洗骨)」といい、奄美群島では「カイソウ(改葬)」と称する。

沖縄のお葬式では、洗骨と埋葬の二度のお葬式を行う「二回葬」があります。本土では、 なじみの無い洗骨ですが、埋葬した遺体が朽ちる数年後に掘り出して、骨を出し洗う というものです。洗骨後の骨は、骨壺に入れて、再度お墓に埋葬します。http://matome.naver.jp/odai/2135123003295356301/2135243753133149503

カザフスタン・ロシア・アルタイ共和国のスキタイ墓の人骨は形態学的(見た目)には 欧州特徴だがM-DNAはアジア由来。 ...
日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス)http://d.hatena.ne.jp/j-m/20071107/1194464416
ヘロドトスもスキタイは欧州の顔と伝えている。

173:中央アジアで出土した3遺跡合計七体中(コーカソイドの容貌が確認されているのは南カザフスタン遺跡の一体のみだが)アジア系ハプログループは五体(残り二体は判別不能)ある。紀元前5世紀から紀元前後まで中央アジアのこの地はアジア母系の影響が強い。ーDループ領域のDNA配列からF、D、/G、M10、N9aと判断される。

舟塚山古墳群 測量台説 公認なるか? https://8906.teacup.com/toraijin/bbs/2868
 昨日 ある学芸員の方に 舟塚山古墳(石岡)6号墳 11号墳 21号墳 の描く 三角形や 円墳の大きさによる角度が五芒星(ゴボウセイ)型測量と関係すると電話で伝えましたが、調べて連絡するとの事でした。
舟塚山古墳から離れた周辺の前方後円墳間の描く角度が126度 108度 72度 54度 36度 18度 ピタリ一致しているのです。

五芒星
108度 72度 54度 36度 18度 の 魔星陣 五芒 星 ペンタグラム 星形5角形の内角 108度 です。 http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/245
約9度。 ☆(9度のズレ) ⇒そのときの様子は「 邪馬台国時代の北天の星空 」の 4枚目の作図。にあります。(http://blog.goo.ne.jp/himejiitikawa/e/eed21d5be5bf4ab1991f0ae387afb175
・星空の回転の中心(天の北極)の近くに二つの星(コカブとポラリス)
        ・北斗七星もズレる。全天ずれる。
・1400年前。聖徳太子の時代。
   半径、約7度。
      このころ、天の北極が(コカブ)付近から(ポラリス)の方に移動。
                   天帝・太極⇒⇒⇒天皇大帝・北辰?

茨城県石岡市舟塚山古墳群再訪 ? 古墳横穴及同時代遺跡探訪記録帳2
前方後円墳6基、円墳20基、方墳1基、墳形不明14基の計41基が確認されているが、 現存するのは22基である。 ○権現山 ... 舟塚山古墳(舟塚山6号墳). 全長186m、後円 部径90m、高11m、前方部幅100m、高10mの規模を誇る、東国第2位の大型前方後円 墳。太田天神山と ... 舟塚山の東側周庭帯上、13号墳の南側にあり、舟塚山古墳の陪 塚の一つと考えられている。 南から ... 大日塚古墳(舟塚山21号墳).
http://paralleli.life.coocan.jp/kofunblog2/?p=3881

舟塚山古墳http://www.asahi-net.or.jp/~ZT8M-TKHS/funatsukayamakofun.html
5世紀項半の築成
648年
648年    「日本書紀」に磐舟の柵の記事
磐舟柵(いわふねのき、いわふねさく)は、古代日本の城柵の一つで、越国におかれた。 石船柵とも書かれた。648年に現在の新潟県村上市岩船の辺りに置かれ、廃絶の時期 は不明だが8世紀初めまで存続した。正確な場所は判明していない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E8%88%9F%E6%9F%B5
『日本書紀』の大化4年(648年)是歳条に、「磐舟柵を治めて蝦夷に備え、越と信濃の民を選んではじめて柵戸を置いた」とある。磐舟柵の設置を記したものである。この前年には渟足柵が造られており、ともども北方の備えにあたったが、磐舟柵のほうが北の荒川と三面川の両河口のほぼ中間地点あったとされ、最前線の拠点だったと考えられている。
その後、『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)12月21日に越後国に石船柵を修理させた。文武天皇4年(700年)2月19日には越後国と佐渡国に石船柵を修営させた。

常陸国府跡は、霞ヶ浦に注ぐ山王川と恋瀬川によって形成された石岡台地上に位置 する古代の官衙遺跡である。 遺構は、7世紀末から11世紀にかけての変遷が認め られる。http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/shiseki/12-28/12-28.html
7世紀末には、桁行六間の身舎の東に廂をもつ南北棟を正殿とし、東西棟の脇殿、南北棟の前殿が整然と配される。

「立評」(評の設置)時期については『常陸国風土記』の説により大化5年(649年) あるいは白雉4年(653年)と考えられている ....

「立評」(評の設置)時期については『常陸国風土記』の説により大化5年(649年)あるいは白雉4年(653年)と考えられているが、全国一斉の行われたものなのか、地域差があったのかについて意見が分かれている。因幡国の豪族伊福部氏に伝わる『伊福部系図』には、大化2年(646年)に初めて水依評が設置されたという記述が存在する。

また、従来の国造が廃止あるいはそのまま評に移行されたのか、それとも国造などの支配に属していない朝廷支配地を対象として導入されたのかについても意見が分かれている。
・・・・・



[9102] Re: 八旗八幡神社

投稿者: 秦野北斗 投稿日:2019年 8月21日(水)13時09分6秒   通報   返信・引用 > No.9101[元記事へ]

バカ2の原人さんへのお返事です。

神功皇后が絡むので・・・創作の特定に時間がかかる、また、総てが江戸時代の創作だけどな・・
知りたければ日本書紀(百済捏造)、古事記、万葉集を読めば真実が理解できる。
ほぼ、学者は手も足もでない、結論は江戸時代の創作で行くかです。
学者には注意、執拗に迫られると怒り出すので注意して下さい。

> 八旗八幡神社http://yassite.jp/JB/Zen/jinja/51_100/Z054.php
> 、境内となっている森の中に、古墳時代後期の横穴式石室古墳3基からなる八旗神社古墳群がある。
> この内南側斜面にある1号古墳は、斜面を掘下げて副室の横穴式石室を築いている。
> ここからは、金メッキを施した刀の柄頭、耳環の金銅製品が出土している。
>
>



[9101] 八旗八幡神社

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月21日(水)11時39分32秒   通報   返信・引用

八旗八幡神社http://yassite.jp/JB/Zen/jinja/51_100/Z054.php
、境内となっている森の中に、古墳時代後期の横穴式石室古墳3基からなる八旗神社古墳群がある。
この内南側斜面にある1号古墳は、斜面を掘下げて副室の横穴式石室を築いている。
ここからは、金メッキを施した刀の柄頭、耳環の金銅製品が出土している。



[9100] 〉八旗の構造は元々満洲人に存在した部族(氏族)における族長と構成員の主従関係である主(ベイレ)

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月21日(水)11時32分37秒   通報   返信・引用

オスマン=ベイ
オスマン=ベイ/オスマン1世 13世紀後半に小さなトルコ系遊牧部族を率いて小アジア北西部に自立し、後にオスマン帝国初代の君主とされた。https://www.y-history.net/appendix/wh0803-010_1.html
トゥグリル=ベク
トゥグリル・ベクの用語解説 - トルコ系セルジューク朝初代のスルタン(在位1038年―1063年)。始祖セルジュークの孫。https://kotobank.jp/word/トゥグリル・ベク-854960
中世 西アジア セルジューク朝のトゥグリル=ベク がバグダードに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受ける ...https://kuhuu.info/2017/10/29/nenpyou/

,ベクbek,ベイbey,ビーhttps://howlingpixel.com/i-ja/ベグ
元来の意味は遊牧部族長のことで、突厥のテュルク語碑文にあらわれる語である。
語源
語源は、漢語の伯[1]、サーサーン朝などイラン系の君主号として用いられた「神」を意味するイラン語、「バグ」 bag からの借用語とする説[2]など、諸説がある。
各国語での呼称
アラビア語・ペルシア語文献ではバク/ベグ ??bak/bek 、ビーク/ベイグ ??? bīk/ ??? beyg などの表記が用いられる。現代のテュルク諸語ではトルコ語はベイ(bey)、ウズベク語ではビー(bi)など、様々に転訛している。
「ベグ」から派生した「ベーグム(Begum)」は、王族や貴族の妻・娘が帯びる称号として使われた[3]。
歴史
イスラム教を受け入れたテュルク人の間でも遊牧部族や軍事集団の長の称号として、アラビア語のアミールとほぼ同義に用いられ、セルジューク朝の君主トゥグリル・ベグのように固有名詞の一部としても使われた[2]。
アナトリアでは地方の軍司令官、県知事の官職を指す称号となった。ルーム・セルジューク朝では軍隊の総司令官にベグレルベギ(beglerbegi, 「ベグたちのベグ」の意)という称号が用いられ、オスマン朝に受け継がれてベイたちの上に立つ州総督の官職ベイレルベイ(beylerbeyi)になり、アナトリアとバルカンにそれぞれ1名ずつのベイレルベイが置かれた。オスマン朝におけるベイの称号は次第にパシャに継ぐ高級官僚の称号に変化し、末期には佐官クラスの軍人の称号としても用いられている。現代トルコ語では、ベイは男性の名前(ファーストネーム)につけて呼びかける敬称になっている。
16世紀以降の西トルキスタンのウズベク社会では、都市・村落を統治する部族長たちは「ベグ」の称号を用いた[2]。16-17世紀の東トルキスタンでも、支配階級の身分を表す称号として用いられた。1760年以後の清の支配下でも地主・豪族・官吏などの支配階級の称号として使われ続け、伯克と音訳された[2]。1884年の新疆省設置に伴ってベグ制度は廃止されたが、中華人民共和国初期までベグは在地の有力者としての立場を保ち続ける[1]。

アラム語は今のシリアを中心としてその周辺(レバノン、ヨルダン、トルコ、イラク)に住むアラム人の言語だった。アラム人は主に農民だったが、アレッポやダマスカスに代表される都市の住民もあった。後に通用範囲を広げて中東全体のリンガ・フランカとして使われるようになったが、7世紀にアラビア語に押されて衰退した。現在でもアラム系諸言語の話者は存在するが、周辺のアラビア語やクルド語の強い影響を受けている。20世紀にはいるとアラム語が使われる範囲は縮小した[4]。
アラム語(???? ?????, ラテン語: Lingua Aramaica)は、かつてシリア地方、メソポタミアで遅くとも紀元前1000年ごろから紀元600年頃までには話されており、かつ現在もレバノンなどで話されているアフロ・アジア語族セム語派の言語で、系統的にはフェニキア語やヘブライ語、ウガリト語、モアブ語(英語版)などと同じ北西セム語に属す言語である。アラマイ語とも呼ばれる[3]。https://ja.wikipedia.org/wiki/アラム語
言語系統
アフロ・アジア語族
セム語派
中央セム語
北西セム語
アラム語
表記体系
アラム文字, シリア文字, ヘブライ文字, マンダ文字, アラビア文字 (日常語) デモティック[1]、漢字[2]の碑文が少数ながら見つかっている。
紀元前3世紀頃から後のアラム語は2つのグループに分けられる。
西方アラム語(英語版)は、かつてアラビアのナバテア人、パルミラ人、サマリア人、パレスチナのキリスト教徒やアラム人ユダヤ教徒によって話された。イエスは西方アラム語の方言をおもに話したと言われる。現在は、シリアのマアルーラ (Ma'loula) 村など三つの村で話される現代西方アラム語を除いてまったく消滅している[29][30]。
東方アラム語(英語版)は、シリア語 (Syriac) やマンダ語 (Mandaic)、現代アラム語(英語版)などを含む。現代アラム語の話者はキリスト教・ユダヤ教・マンダ教徒などがあり、シリア・イラク・イラン・トルコ・グルジア・アルメニアで話されているが、いずれの土地でも宗教的弾圧を受け、多くの話者が移住を余儀なくされている。アラム語を話すユダヤ教徒の一部は、現代のイスラエルとロサンゼルスへ移住したが、アラム語を話す能力を失いつつある。キリスト教の聖書のアラム語版はシリア語の方言であり、現代のキリスト教徒によって話される主な言語にアッシリア現代アラム語(少数民族アッシリア人(スリョイェ)によって話され、「アッシリア語」とも呼ばれる)、カルデア現代アラム語がある。これらと大きく異なる言語にトゥロヨ語や最近絶滅した Mlahsô 語(英語版)がある。
アイヌがニヴフのことを「スメレンクル」とよんでいた…
スメル(sumel)→ 神を奉る、というヘブライ語 からシュメール=スメルが気になるわけです https://blogs.yahoo.co.jp/somin753_0210/19398426.html

当時はアイヌがニヴフのことを「スメレンクル」とよんでいたため、林蔵も彼らを「スメレンクル」としている。
樺太の民ニヴフ(ニヴヒ)http://m-mikio.world.coocan.jp/nivhk.html

アイヌ語でニヴフをスメレンクルと呼んだ これはアイヌ語の方言でキツネを指すsumeriが語源と考えられる 実際にニヴフは逆三角形のキツネ顔が多く、またアイヌとはヒゲの濃さがまるで違う キツネ顔は朝鮮人の顔のパターンの一つで ...
スメル、ヘブライ語にもスメルがありました。https://blogs.yahoo.co.jp/somin753_0210/19398426.html
スメル(sumel )→神を奉る

カレンの歴史を伝える語り部である酋長は、「その祖先はバビロン人でその滅亡と共に大移動を続け、 朝鮮、日本にまで移住した」と言う記録を持っている。(『日本人のル-ツ』加治木義博著より)
もし日本民族とカレン人が同じ源流にあるのだとすれば、日本民族の先祖もまたバビロン人であると言えるであろう。
カレン人は彼らの言い伝わる歴史によると、バビロンから移動し朝鮮 半島に入った後、中国の江南に行ったが、ここで圧迫されたのでビルマ、タイに逃げたと言う。
これは中国の正史にもちゃんと記録されている。正史によると、前漢を乗っ取った王奔(おうもう)は、高句麗を討ってその農民を江南に強制移住させている。 農民は当然種子や技術も持っていく。これがカレン人である。日本の米や文化に近いものが江南にあるのも当然である。
同じ米や技術があるから「日本民族の源郷は中国江南地方ではないか」という説もあるのだが、すでに見て来たカレン人の足跡からこれは説明できる。
第一章 民族のルーツをさがす旅http://kurodakango.web.fc2.com/01.html

カレン族に先祖代々伝わるヤハウェ信仰 ミャンマー(旧ビルマ)のカレン族は、創世記の記録に 驚くほど似通った記憶を、先祖代々言い伝えてきた。http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/077karen.htm
東南アジアのミャンマー(旧ビルマ)に、少数民族カレン族がいます。約一五〇万人からなる彼らは、先祖代々言い伝えられてきた神への信仰を持っていますが、その信仰は多神教ではありません。唯一神信仰なのです。
彼らは唯一神「ヤァ」を信じる
 しかも、彼らはその神を固有名詞で呼び、「ヤァ」と呼んでいます。これは聖書に啓示された神の御名ヤハウェの短縮形「ヤハ」(ヤァ)と同じです。
 たとえば、聖書に出てくる「ハレル・ヤ」は"ヤァをほめよ"の意味です(ハレルは、ほめよの意)。また旧約聖書・詩篇一一八・五の、
 「私は主を呼び求めた」
 の「主」のヘブル原語には、ヤハウェの短縮形ヤァが使われています(そのほか詩篇六八・四、一八)。「太郎」や「花子」が個人の名であるのと同じく、ヤハウェ、ヤァは、真の御神の固有の御名なのです。
 ミャンマーのカレン族は、自分たちの民族が始まった時以来、ずっと聖書の神の御名ヤァと同じ呼び名で、彼らの神を呼んできました。
一八三〇年頃、サウカァラというカレン人が、旧ビルマの英国領事館において、自分の民族のルーツについて語りました。それによると、カレン族はもともとはヨーロッパ人と兄弟民族だったというのです。
 大昔の先祖から出た弟がヨーロッパの白人となり、兄がカレン族その他の部族を形成したということでした。
 そして、弟の白人は真の神に関する記録を書物として注意深く保存したが、兄のほうは、ならず者だったのでそれを失ってしまった。だから、いつの日か白人は、船に乗ってカレン族のもとに来てくれるだろう、そして真の神に関する本をもたらし、神の知識を回復してくれると信じているとのことでした。
 実際、その回復の時はやって来ました。一八一七年、敬虔なアメリカ人宣教師アドニラム・ジャドソンが旧ビルマにやって来たのです。彼は船でやってきました。そしてその手には、一冊の聖書がかたく握られていたのです。
・・・



[9099] 〉八旗の構造は元々満洲人に存在した部族(氏族)における族長と構成員の主従関係である主(ベイレ)

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月21日(水)11時04分59秒   通報   返信・引用

オスマン=ベイ
オスマン=ベイ/オスマン1世 13世紀後半に小さなトルコ系遊牧部族を率いて小アジア北西部に自立し、後にオスマン帝国初代の君主とされた。https://www.y-history.net/appendix/wh0803-010_1.html
トゥグリル=ベク
トゥグリル・ベクの用語解説 - トルコ系セルジューク朝初代のスルタン(在位1038年―1063年)。始祖セルジュークの孫。https://kotobank.jp/word/トゥグリル・ベク-854960
中世 西アジア セルジューク朝のトゥグリル=ベク がバグダードに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受ける ...https://kuhuu.info/2017/10/29/nenpyou/

,ベクbek,ベイbey,ビーhttps://howlingpixel.com/i-ja/ベグ
元来の意味は遊牧部族長のことで、突厥のテュルク語碑文にあらわれる語である。
語源
語源は、漢語の伯[1]、サーサーン朝などイラン系の君主号として用いられた「神」を意味するイラン語、「バグ」 bag からの借用語とする説[2]など、諸説がある。
各国語での呼称
アラビア語・ペルシア語文献ではバク/ベグ ??bak/bek 、ビーク/ベイグ ??? bīk/ ??? beyg などの表記が用いられる。現代のテュルク諸語ではトルコ語はベイ(bey)、ウズベク語ではビー(bi)など、様々に転訛している。
「ベグ」から派生した「ベーグム(Begum)」は、王族や貴族の妻・娘が帯びる称号として使われた[3]。
歴史
イスラム教を受け入れたテュルク人の間でも遊牧部族や軍事集団の長の称号として、アラビア語のアミールとほぼ同義に用いられ、セルジューク朝の君主トゥグリル・ベグのように固有名詞の一部としても使われた[2]。
アナトリアでは地方の軍司令官、県知事の官職を指す称号となった。ルーム・セルジューク朝では軍隊の総司令官にベグレルベギ(beglerbegi, 「ベグたちのベグ」の意)という称号が用いられ、オスマン朝に受け継がれてベイたちの上に立つ州総督の官職ベイレルベイ(beylerbeyi)になり、アナトリアとバルカンにそれぞれ1名ずつのベイレルベイが置かれた。オスマン朝におけるベイの称号は次第にパシャに継ぐ高級官僚の称号に変化し、末期には佐官クラスの軍人の称号としても用いられている。現代トルコ語では、ベイは男性の名前(ファーストネーム)につけて呼びかける敬称になっている。
16世紀以降の西トルキスタンのウズベク社会では、都市・村落を統治する部族長たちは「ベグ」の称号を用いた[2]。16-17世紀の東トルキスタンでも、支配階級の身分を表す称号として用いられた。1760年以後の清の支配下でも地主・豪族・官吏などの支配階級の称号として使われ続け、伯克と音訳された[2]。1884年の新疆省設置に伴ってベグ制度は廃止されたが、中華人民共和国初期までベグは在地の有力者としての立場を保ち続ける[1]。

アラム語は今のシリアを中心としてその周辺(レバノン、ヨルダン、トルコ、イラク)に住むアラム人の言語だった。アラム人は主に農民だったが、アレッポやダマスカスに代表される都市の住民もあった。後に通用範囲を広げて中東全体のリンガ・フランカとして使われるようになったが、7世紀にアラビア語に押されて衰退した。現在でもアラム系諸言語の話者は存在するが、周辺のアラビア語やクルド語の強い影響を受けている。20世紀にはいるとアラム語が使われる範囲は縮小した[4]。
アラム語(???? ?????, ラテン語: Lingua Aramaica)は、かつてシリア地方、メソポタミアで遅くとも紀元前1000年ごろから紀元600年頃までには話されており、かつ現在もレバノンなどで話されているアフロ・アジア語族セム語派の言語で、系統的にはフェニキア語やヘブライ語、ウガリト語、モアブ語(英語版)などと同じ北西セム語に属す言語である。アラマイ語とも呼ばれる[3]。https://ja.wikipedia.org/wiki/アラム語
言語系統
アフロ・アジア語族
セム語派
中央セム語
北西セム語
アラム語
表記体系
アラム文字, シリア文字, ヘブライ文字, マンダ文字, アラビア文字 (日常語) デモティック[1]、漢字[2]の碑文が少数ながら見つかっている。
紀元前3世紀頃から後のアラム語は2つのグループに分けられる。
西方アラム語(英語版)は、かつてアラビアのナバテア人、パルミラ人、サマリア人、パレスチナのキリスト教徒やアラム人ユダヤ教徒によって話された。イエスは西方アラム語の方言をおもに話したと言われる。現在は、シリアのマアルーラ (Ma'loula) 村など三つの村で話される現代西方アラム語を除いてまったく消滅している[29][30]。
東方アラム語(英語版)は、シリア語 (Syriac) やマンダ語 (Mandaic)、現代アラム語(英語版)などを含む。現代アラム語の話者はキリスト教・ユダヤ教・マンダ教徒などがあり、シリア・イラク・イラン・トルコ・グルジア・アルメニアで話されているが、いずれの土地でも宗教的弾圧を受け、多くの話者が移住を余儀なくされている。アラム語を話すユダヤ教徒の一部は、現代のイスラエルとロサンゼルスへ移住したが、アラム語を話す能力を失いつつある。キリスト教の聖書のアラム語版はシリア語の方言であり、現代のキリスト教徒によって話される主な言語にアッシリア現代アラム語(少数民族アッシリア人(スリョイェ)によって話され、「アッシリア語」とも呼ばれる)、カルデア現代アラム語がある。これらと大きく異なる言語にトゥロヨ語や最近絶滅した Mlahsô 語(英語版)がある。



[9098] Re: 「支配者の支配者」…八旗のオロチ?

投稿者: 秦野北斗 投稿日:2019年 8月21日(水)10時48分20秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9097[元記事へ]

バカ2の原人さんへのお返事です。

AI君これなに? ハプログループ、何処のコピペ

> 扶余族は、モンゴル高原を遊牧する騎馬系遊牧民(タタール人=ヒッタイト人)だったと考えて良い。
> 女神 女真族 八旗のオロチ?
> 〉太古地母神《女神》を中心にした文化はアナトリアを中核として地球一周しました。
> 〉ストーンサークルやドルメン、メンヒルなど、これらの祭祀が彼らの残した足跡です。
>
> 女真 満州関係記事の一覧 満洲(地名) 満洲語 満洲国 満洲文字 満漢全席 旗人 チャイナドレス - 満洲民族の民族服が元になっている。 李成桂 - 李氏朝鮮の創始者。女真人説がある。
> 満州民族(満洲民族、まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満州族(満洲族、まんしゅうぞく、マンジュぞく、満州語: ?????
> ?????? 、転写:manju uksura)は、満洲(中国東北部、沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中華人民共和国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八つのグサ(=八旗)に組織され(=満洲八旗)、モンゴル人や漢人の八旗のメンバーとともに旗人とも呼ばれた。同系のツングース民族にシベ、ナナイ、ウリチ、ウデヘ、オロチなどがある。中華人民共和国による民族識別工作では、蒙古八旗や漢軍八旗も含む「旗人の末裔」全体が「満族(まんぞく, マンズゥ)」に「識別」(=区分)され、「55の少数民族」の一つとされた。2010年の中国の国勢調査では人口1,038万人とされ、「少数民族」としてはチワン族・回族に次ぐ人口である
> 女真(ジュルチン)の由来は、満州語で「人々」や「民」を意味する言葉とされる。漢人が満州人に「お前たちは何者だ」と問うたところ、「人々(ジュルチン)だ」と答えたことから「女真(ジュルチン)」という漢字を当てられたのだという[8]。
> 遺伝的特徴
> 満洲民族のY染色体ハプログループは多数の系統が存在する。最も多いのは漢民族を特徴づけるO2系統であり、37%みられる[9]。次いで多いのはC2系統であり、アルタイ諸語を話す民族に関連するタイプである。満洲語はアルタイ語族のツングース諸語に属すが、C2系統は25.7%[10]と特段多いとは言えない。3番目に多いのはウラル語族に関連するN系統であり、14.3%みられる[11]。N系統は遼河文明の担い手であり[12]、かつては満洲地域に高頻度に観察されたようであるが、現在は後から進出したO2系統やC2系統に上書きされたかたちとなっている。また日本人に高頻度のO1b2系統も15%前後観察され、東アジア諸民族の中では比較的日本人とも共通性は高いと言える[13]。O1b系統からは華南や東南アジアに多いO1b1も低頻度見られる。O1b1はオーストロアジア語族[14]に、O1b2は弥生人に関連すると想定される。その他西ユーラシア起源のR1aやJも僅かながら見られる。
> また、HLAハプロタイプは、日本の日本海沿岸に特徴的なB44-DR13、B7-DR1がよく見られる[15][16][17][18]。
> 満洲人は八旗と呼ばれる8グループに分けられた集団に編成されて、清を支える軍人・官僚を輩出する支配民族となる。
> 満洲民族の特徴
> 満洲民族の姓氏は、本来、愛新覚羅等に見るように満洲語に基づいたものだったが、現代満族の多くは、中国式の姓氏を用いている。これは、清末期の滅満興漢の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、文化大革命等による中国当局の弾圧を避けるための方便であったと考えられる。しかしながら、アイシンギョロ(愛新覚羅)は金または趙に、グワルギャ(瓜爾佳)は関に、イェヘナラ(葉赫那拉)は葉または那、イルゲンギョロは趙または佟に、ニオフル(鈕祜禄)は郎、フチャ(富察)は富または傅に、ヘシェリ(赫舎里)は赫、何または英に、トゥンギャ(佟佳)は佟に、ワンギャ(完顔)は王のように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族―哈喇漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。
> 本来、満洲民族は漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣は無く、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は例えば「グワルギャ氏のオボイ(満洲語:gūwalgiya hala-i oboi) 」という呼び方をしていた。
> 満洲民族は、清朝時代に支配者階級として長城以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。1990年の人口調査資料によれば、満族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41%で、全国22.21%、漢族21.53%よりも遥かに低く、中国各民族中で最低であった[21]。2007年10月現在のデータは不明。
>
> オロチ (民族)https://ja.wikipedia.org/wiki/オロチ_(民族)
> オロチョンの用語解説 - 北方ツングース系の一種族。バイカル湖からアムール川流域、中国の黒竜江省にかけて居住。馬やトナカイの飼育や漁労を生業とする。https://kotobank.jp/word/オロチョン-455595
> ウィルタ(オロッコ)とニヴフ(ギリヤーク)と“オロチョン” http://shosuzki.blog.jp/archives/70269327.html
> 本来オロチョン族は黒竜江、内蒙古地域に住む人口7000人ほどの少数民族。関東軍の特務機関が対ソ情報収集に当たらせた。特務機関は阿片を用いて工作したと言われる。
> 間宮林蔵はニヴフを「スメレンクル夷」と記している。これはアイヌ人の呼称で、「キツネびと」を意味する。
> もともと、満州北部の民族が黒竜江沿いに北上し、各地に拡散したといわれる。しかしこれには多くの異説(珍説)があり、Y染色体ハプロ(C2系)との突き合わせが必要である。
>
> ユダヤ=イスラエルの民(アブラハムの相続財産を受け継ぐ)という選民意識が根本にあり、自分たちの主と呼び求める神を待ち望んでもあるのですhttps://8906.teacup.com/toraijin/bbs/384
> 「忌」は「己の心」と書く通り、日本の支配欲の為に施した大掛かり な呪術は、まさに忌まわしい欲望による謀略だっ ..... 神話のルーツもヒッタイト神話 にあり、ヒッタイト帝国の首都もハットウシャ(漢字で書けば「八頭蛇」)だった。 ...
> http://jew-beast.seesaa.net/category/8380784-2.html
> 「八頭蛇」
> 八旗
> 八旗(はっき・ジャクン・グサ、満州語: ?????
> ???? メレンドルフ転写:jakūn gūsa)は、清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことである。また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。
> 八旗は旗と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設される。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は旗人(きじん、gūsa i niyalma)と総称され、清の支配階層を構成した。
>
> 八旗の構造は元々満洲人に存在した部族(氏族)における族長と構成員の主従関係である主(ベイレ)と大臣(アンバン)と民(ジュシェン)、家(ボー)における主僕の関係である主(エジェン)と奴僕(アハ)の関係をそのまま発展させたものである。
> 清朝の皇族である愛新覚羅氏の旗王が置かれ、グサイ・ベイレ(gūsai beile)、省略してベイレ(beile、貝勒)と呼ばれた。
> ベイレ(beile、貝勒)
>  (満州語ベイレ beile (貝勒)の複数形ベイセ beise を語源とし、諸王の意) 中国、清代の爵位。第四等の爵位として、清朝の皇族や藩部の諸王に授与。https://kotobank.jp/word/貝子-598761
>
> ベイレルベイ (Beylerbey , Beylerbeyi オスマントルコ語: ????????) とは、ルーム・セルジューク朝、イルハン朝、サファヴィー朝、オスマン帝国など、中世後期から近世にかけての西イスラーム世界における高官である。 「ベイの中のベイ」、すなわち「司令官の司令官」「支配者の支配者」を意味し、当初のテュルク諸語では「ベグレルベグ(Beglerbeg[i])」であった。
> 最初は最高指揮官を示す言葉だったが、最終的には上級地方知事を表すようになった。 この官位が最も長く残っていたオスマン帝国では、最も大きくて重要な地方の総督を意味していたが、のちには単なる名誉職へと変わっていった。 アラビア語ではアミール・アル・ウマラー、ペルシア語ではミーリ・ミーラーンがこれに相当する。 この称号はまた、インド(のちにはパキスタン)藩王国のカラートのハーン家にも使われていた。
> 【ベグ】より
> …〈首長〉〈支配者〉を意味する称号。地域と時代によりさまざまな用法があり,語形にもbäg,ベクbek,ベイbey,ビーbīなど多くの変化形があるが,すべては古代トルコ語のbägにさかのぼる。本来のトルコ語ではなく,他の言語からの借用語で,語源に関しては,ペルシア語のbag(神聖な)とする説と,中国語の〈伯〉とする説がある。…https://kotobank.jp/word/ベイ-8578
>
> 釈迦も満州から来たヒッタイト一派の系譜だった可能性が高い。http://new-world-friends.blog.jp/archives/36091265.html
> 三国史記と失われたイスラエル10支族の謎
> 現在のカザフスタンはロシア語が使われているが、日本人とカザフスタン人のDNAは90%同じで、ゾロアスターが誕生した地でもある。
> イラン・インドのアーリア人のルーツとなった中央アジアの遊牧アーリア人は、夢蛇鬼説ではヒッタイト人である。
> 彼らは司祭を中心とし、部族単位で麦を栽培し、自然現象を神として信仰していた。
> 紀元前646年、エラムはアッシリアに滅ぼされ、スサは完全に破壊された。
> その後、ペルシア帝国が興り、紀元前550年頃にメディアが滅ぼされ、ペルシア人との同化が進んだとされているが、スサの王(スメラ族)の騎馬部隊は北東アジアに進出した。
> この頃には、もう一方のヒッタイト人(新ヒッタイトを築いた騎馬民族)との違いは分からないが、いずれもユーラシア大陸を闊歩する遊牧民タタール人になったことは間違いないだろう。
> アリオンによると、スサノオの父の名前は「フツ」だという。
> 確かに、出雲の宇美神社には、スサノオの父である「布都御魂(フツノミタマ)」が祀られている。
> 更に、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神社には、「布都御魂」「布都斯御魂(フツシノミタマ)=スサノオ」「布留御魂(フルノミタマ)=ニギハヤヒ」「宇摩志麻治尊(ウマシマジノミコト)=ニギハヤヒの長男」が祀られており、フツ、フツシ、フルという名前は、モンゴル系民族の名前だという。
> これは、シュメール出身のスメラ族がヒッタイト人となり、スサに移住した後に、モンゴル高原に進出してきたことを物語っているのではないだろうか。
> ちなみに、石上は石神に通じ、青森の鉄・巨石文化を象徴する磐石信仰に通じる。
> 「いそのかみ」という読み方は「五十の神」に通じ、シュメールの「五十柱の神」にも通じる。
> また、『日本書紀』には、スサノオが「五十猛神(イタケルノカミ)」を率いて天降ったことが記されている。
> だが、モンゴルに定住したスメラ族が、朝鮮半島から日本列島に渡来したのかというと、それがどうも違うのである。
> ・・・・
>



[9097] 「支配者の支配者」…八旗のオロチ?

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月21日(水)10時38分55秒   通報   返信・引用

扶余族は、モンゴル高原を遊牧する騎馬系遊牧民(タタール人=ヒッタイト人)だったと考えて良い。
女神 女真族 八旗のオロチ?
〉太古地母神《女神》を中心にした文化はアナトリアを中核として地球一周しました。
〉ストーンサークルやドルメン、メンヒルなど、これらの祭祀が彼らの残した足跡です。

女真 満州関係記事の一覧 満洲(地名) 満洲語 満洲国 満洲文字 満漢全席 旗人 チャイナドレス - 満洲民族の民族服が元になっている。 李成桂 - 李氏朝鮮の創始者。女真人説がある。
満州民族(満洲民族、まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満州族(満洲族、まんしゅうぞく、マンジュぞく、満州語: ?????
?????? 、転写:manju uksura)は、満洲(中国東北部、沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中華人民共和国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。清朝では、民族全体が八つのグサ(=八旗)に組織され(=満洲八旗)、モンゴル人や漢人の八旗のメンバーとともに旗人とも呼ばれた。同系のツングース民族にシベ、ナナイ、ウリチ、ウデヘ、オロチなどがある。中華人民共和国による民族識別工作では、蒙古八旗や漢軍八旗も含む「旗人の末裔」全体が「満族(まんぞく, マンズゥ)」に「識別」(=区分)され、「55の少数民族」の一つとされた。2010年の中国の国勢調査では人口1,038万人とされ、「少数民族」としてはチワン族・回族に次ぐ人口である
女真(ジュルチン)の由来は、満州語で「人々」や「民」を意味する言葉とされる。漢人が満州人に「お前たちは何者だ」と問うたところ、「人々(ジュルチン)だ」と答えたことから「女真(ジュルチン)」という漢字を当てられたのだという[8]。
遺伝的特徴
満洲民族のY染色体ハプログループは多数の系統が存在する。最も多いのは漢民族を特徴づけるO2系統であり、37%みられる[9]。次いで多いのはC2系統であり、アルタイ諸語を話す民族に関連するタイプである。満洲語はアルタイ語族のツングース諸語に属すが、C2系統は25.7%[10]と特段多いとは言えない。3番目に多いのはウラル語族に関連するN系統であり、14.3%みられる[11]。N系統は遼河文明の担い手であり[12]、かつては満洲地域に高頻度に観察されたようであるが、現在は後から進出したO2系統やC2系統に上書きされたかたちとなっている。また日本人に高頻度のO1b2系統も15%前後観察され、東アジア諸民族の中では比較的日本人とも共通性は高いと言える[13]。O1b系統からは華南や東南アジアに多いO1b1も低頻度見られる。O1b1はオーストロアジア語族[14]に、O1b2は弥生人に関連すると想定される。その他西ユーラシア起源のR1aやJも僅かながら見られる。
また、HLAハプロタイプは、日本の日本海沿岸に特徴的なB44-DR13、B7-DR1がよく見られる[15][16][17][18]。
満洲人は八旗と呼ばれる8グループに分けられた集団に編成されて、清を支える軍人・官僚を輩出する支配民族となる。
満洲民族の特徴
満洲民族の姓氏は、本来、愛新覚羅等に見るように満洲語に基づいたものだったが、現代満族の多くは、中国式の姓氏を用いている。これは、清末期の滅満興漢の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、文化大革命等による中国当局の弾圧を避けるための方便であったと考えられる。しかしながら、アイシンギョロ(愛新覚羅)は金または趙に、グワルギャ(瓜爾佳)は関に、イェヘナラ(葉赫那拉)は葉または那、イルゲンギョロは趙または佟に、ニオフル(鈕祜禄)は郎、フチャ(富察)は富または傅に、ヘシェリ(赫舎里)は赫、何または英に、トゥンギャ(佟佳)は佟に、ワンギャ(完顔)は王のように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族―哈喇漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。
本来、満洲民族は漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣は無く、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は例えば「グワルギャ氏のオボイ(満洲語:gūwalgiya hala-i oboi) 」という呼び方をしていた。
満洲民族は、清朝時代に支配者階級として長城以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。1990年の人口調査資料によれば、満族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41%で、全国22.21%、漢族21.53%よりも遥かに低く、中国各民族中で最低であった[21]。2007年10月現在のデータは不明。

オロチ (民族)https://ja.wikipedia.org/wiki/オロチ_(民族)
オロチョンの用語解説 - 北方ツングース系の一種族。バイカル湖からアムール川流域、中国の黒竜江省にかけて居住。馬やトナカイの飼育や漁労を生業とする。https://kotobank.jp/word/オロチョン-455595
ウィルタ(オロッコ)とニヴフ(ギリヤーク)と“オロチョン” http://shosuzki.blog.jp/archives/70269327.html
本来オロチョン族は黒竜江、内蒙古地域に住む人口7000人ほどの少数民族。関東軍の特務機関が対ソ情報収集に当たらせた。特務機関は阿片を用いて工作したと言われる。
間宮林蔵はニヴフを「スメレンクル夷」と記している。これはアイヌ人の呼称で、「キツネびと」を意味する。
もともと、満州北部の民族が黒竜江沿いに北上し、各地に拡散したといわれる。しかしこれには多くの異説(珍説)があり、Y染色体ハプロ(C2系)との突き合わせが必要である。

ユダヤ=イスラエルの民(アブラハムの相続財産を受け継ぐ)という選民意識が根本にあり、自分たちの主と呼び求める神を待ち望んでもあるのですhttps://8906.teacup.com/toraijin/bbs/384
「忌」は「己の心」と書く通り、日本の支配欲の為に施した大掛かり な呪術は、まさに忌まわしい欲望による謀略だっ ..... 神話のルーツもヒッタイト神話 にあり、ヒッタイト帝国の首都もハットウシャ(漢字で書けば「八頭蛇」)だった。 ...
http://jew-beast.seesaa.net/category/8380784-2.html
「八頭蛇」
八旗
八旗(はっき・ジャクン・グサ、満州語: ?????
???? メレンドルフ転写:jakūn gūsa)は、清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことである。また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。
八旗は旗と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設される。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は旗人(きじん、gūsa i niyalma)と総称され、清の支配階層を構成した。

八旗の構造は元々満洲人に存在した部族(氏族)における族長と構成員の主従関係である主(ベイレ)と大臣(アンバン)と民(ジュシェン)、家(ボー)における主僕の関係である主(エジェン)と奴僕(アハ)の関係をそのまま発展させたものである。
清朝の皇族である愛新覚羅氏の旗王が置かれ、グサイ・ベイレ(gūsai beile)、省略してベイレ(beile、貝勒)と呼ばれた。
ベイレ(beile、貝勒)
(満州語ベイレ beile (貝勒)の複数形ベイセ beise を語源とし、諸王の意) 中国、清代の爵位。第四等の爵位として、清朝の皇族や藩部の諸王に授与。https://kotobank.jp/word/貝子-598761

ベイレルベイ (Beylerbey , Beylerbeyi オスマントルコ語: ????????) とは、ルーム・セルジューク朝、イルハン朝、サファヴィー朝、オスマン帝国など、中世後期から近世にかけての西イスラーム世界における高官である。 「ベイの中のベイ」、すなわち「司令官の司令官」「支配者の支配者」を意味し、当初のテュルク諸語では「ベグレルベグ(Beglerbeg[i])」であった。
最初は最高指揮官を示す言葉だったが、最終的には上級地方知事を表すようになった。 この官位が最も長く残っていたオスマン帝国では、最も大きくて重要な地方の総督を意味していたが、のちには単なる名誉職へと変わっていった。 アラビア語ではアミール・アル・ウマラー、ペルシア語ではミーリ・ミーラーンがこれに相当する。 この称号はまた、インド(のちにはパキスタン)藩王国のカラートのハーン家にも使われていた。
【ベグ】より
…〈首長〉〈支配者〉を意味する称号。地域と時代によりさまざまな用法があり,語形にもbäg,ベクbek,ベイbey,ビーbīなど多くの変化形があるが,すべては古代トルコ語のbägにさかのぼる。本来のトルコ語ではなく,他の言語からの借用語で,語源に関しては,ペルシア語のbag(神聖な)とする説と,中国語の〈伯〉とする説がある。…https://kotobank.jp/word/ベイ-8578

釈迦も満州から来たヒッタイト一派の系譜だった可能性が高い。http://new-world-friends.blog.jp/archives/36091265.html
三国史記と失われたイスラエル10支族の謎
現在のカザフスタンはロシア語が使われているが、日本人とカザフスタン人のDNAは90%同じで、ゾロアスターが誕生した地でもある。
イラン・インドのアーリア人のルーツとなった中央アジアの遊牧アーリア人は、夢蛇鬼説ではヒッタイト人である。
彼らは司祭を中心とし、部族単位で麦を栽培し、自然現象を神として信仰していた。
紀元前646年、エラムはアッシリアに滅ぼされ、スサは完全に破壊された。
その後、ペルシア帝国が興り、紀元前550年頃にメディアが滅ぼされ、ペルシア人との同化が進んだとされているが、スサの王(スメラ族)の騎馬部隊は北東アジアに進出した。
この頃には、もう一方のヒッタイト人(新ヒッタイトを築いた騎馬民族)との違いは分からないが、いずれもユーラシア大陸を闊歩する遊牧民タタール人になったことは間違いないだろう。
アリオンによると、スサノオの父の名前は「フツ」だという。
確かに、出雲の宇美神社には、スサノオの父である「布都御魂(フツノミタマ)」が祀られている。
更に、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神社には、「布都御魂」「布都斯御魂(フツシノミタマ)=スサノオ」「布留御魂(フルノミタマ)=ニギハヤヒ」「宇摩志麻治尊(ウマシマジノミコト)=ニギハヤヒの長男」が祀られており、フツ、フツシ、フルという名前は、モンゴル系民族の名前だという。
これは、シュメール出身のスメラ族がヒッタイト人となり、スサに移住した後に、モンゴル高原に進出してきたことを物語っているのではないだろうか。
ちなみに、石上は石神に通じ、青森の鉄・巨石文化を象徴する磐石信仰に通じる。
「いそのかみ」という読み方は「五十の神」に通じ、シュメールの「五十柱の神」にも通じる。
また、『日本書紀』には、スサノオが「五十猛神(イタケルノカミ)」を率いて天降ったことが記されている。
だが、モンゴルに定住したスメラ族が、朝鮮半島から日本列島に渡来したのかというと、それがどうも違うのである。
・・・・



[9096] 『太平御覧』は韓国の創作

投稿者: 秦野北斗 投稿日:2019年 8月21日(水)10時29分11秒   通報   返信・引用   編集済

『太平御覧』977年から983年 新羅
斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

『太平御覧』977年から983年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%BE%A1%E8%A6%A7

『太平御覧』
意訳:斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏、時は曰く新羅、宋、時は曰く斯羅、或るいは韓に属し、或るいは倭に属し、斯羅國の王の葬儀を如何にするか、悩むこと2年、諱を募り秦とする。百済に奉り、古墳の名を健年とする。其の習わしを高麗に与える、相類には諱の文字は無く、刻木を範にする。云う語り待つ、百濟はしかるに、後れ通す焉(それでも好い)。
雑談:現在の高句麗の古墳と言われているのは鮮卑族、時族の古墳です。
刻木:アイヌの古式葬儀に刻木がある。

Wikipedia
斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。

韓国の歴史家は『太平御覧』斯羅國の文章が訳せない。原文は高麗の葬儀について、述べている。
Wikipedia:習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。斯羅國の文章に創作を追加している、文章には、梁の文字はない。
辰韓之小國也、文中の辰韓は馬韓、弁韓、弁辰の総称を云う、また、斯羅國は新羅と云うが、新羅は倭国の地にある。或屬韓或屬倭、文章の訳、或るいは韓に属し、或るいは倭に属し、斯羅國の所在は何処か不明。斯羅國は馬韓の速盧不斯國、の斯國に羅を入れ斯羅國。馬韓の時代には羅國はない。斯羅國を創作している。

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kanden/gisi_kanden.htm


10世紀から捏造ですか、日本書紀7世紀にも、百済(韓国)の捏造文がある。凄い血筋だな、
従軍慰安婦
https://ja.wikipedia.org/wiki/従軍慰安婦
徴用工訴訟問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/徴用工訴訟問題
こんなのは、ちょろい、ちょろい・・・ 歴史を捏造した実積がある。
韓国さん、百済の末裔は、捏造した歴史が読めず、また、捏造・・・頑張ってます。



[9095] 横穴墓…「クルガン」…

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月21日(水)08時22分14秒   通報   返信・引用

> 横穴墓を造った集団が、先の磐井の子孫でオオ氏で、常陸の那珂・中臣の祖先ですね。
> > >
> > > この集団は、中国の北燕遺民だと思うのですが、同時に石窟寺院など敦煌やその西方世界の習俗をもたらしているのだろうと考えてます。

「クルガン」はトルコ語起源のスラヴ人の単語である。
クルガン仮説は、クルガンを建設した人々がインド・ヨーロッパ祖語の話し手であったとする仮説である。
クルガン(кургáн, kurgan)は、ユーラシア大陸中緯度のステップ帯に分布する、青銅器時代の土による墳丘を伴う墓もしくは積石塚のマウンドを伴う墳墓である。墳丘墓の一種で、日本の古墳に近い。 https://ja.wikipedia.org/wiki/クルガン
クルガン型の墳墓は、青銅器時代のステップで活動した遊牧民の特徴を表す墳墓であって、アルタイ 地方から コーカサス、ルーマニアにまでまたがる範囲に分布している。このような墳丘墓は、内部に玄室をもつような複雑な構造が見られる。クルガンの中央部にある玄室には、支配階級の人々が副葬品や捧げ物とともに葬られ、時折その副葬品には、馬や(馬に引かせる構造の)戦車などもみられる。
パジリク (Pazyryk) 古墳群
トルスタヤ=モギーラ (Tolstiya Mogily) は、ウクライナ南部、ドニプロペトロウシクから南西120km、ドニエプル川下流の都市ザポリージャ、ニコポリ付近に密集して分布するニコポリ古墳群に属し、オルジェニキッゼ市に所在する紀元前4世紀のクルガンである。これはスキタイ貴族の墓で、クルガンを巡る周溝からは、葬儀のさいに行なわれた宴会に供されたと思われる多量の動物の骨と酒器として使用された土器が出土した。このクルガンは、遺体の別室から黄金製の直径30cmの三日月形をした胸飾りが出土したことで知られている。この胸飾りは、同心円状に三つに区分され、外側部分には、馬を襲うグリフォンなどスキタイ風の彫刻がなされ、中央部分には、植物を図案化した文様、内側部分には、母馬が子馬に、母牛が子牛に乳を与えたり、人が羊の乳を搾っている場面が見られる。

キルギスの語源は積石塚(クルガン)だそうな。 その墓を作った人々をクルガン人という。
クルガン人https://8628.teacup.com/toraijin/bbs/1936
クルガンII期からIII期は、紀元前4千年紀の後半にあたる。スレドニ=ストグ文化やマイコープ文化がこれに含まれる。ストーンサークルや馬に引かれる二輪の戦車、人型神の石彫が見られる。
ラテン人、ケルト人、ゲルマン人
ヨーロッパにおけるクルガンを伴う球状アンフォーラ文化は、第2の「原郷」であると考える。それが紀元前2300年前後にヨーロッパ中部及び南西部に広がる鐘形坏(ベル・ビーカー)文化と中・北欧に見られる縄目文土器文化に分離し、究極的にラテン人、ケルト人、ゲルマン人になっていった。
クルガン仮説のような約6000年前という見解とは全く異なって約10000年前頃が、インド・ヨーロッパ語族にとって画期となる重要な時代であったと考える説でもあるのだが、言語学者の間では、言語年代学上の根拠のみならずインド・ヨーロッパ語族が分岐して地理的にひろがっていく過程から考えても農業の発展と関連づけるのは難しいことから、クルガン仮説よりも支持を得られていない。
クルガン文化の担い手の遺伝的特徴 [編集]
Y染色体ハプロタイプSNPマーカーR1a という特殊な遺伝的形質をもつ人々は、いくつかの点でクルガン文化と関連性がある。この遺伝的形質は、中央アジアから西アジア、インド、イラン、東ヨーロッパのスラヴ人、ヨーロッパ中部や北部のゲルマン人に見られる特徴である。全般的にR1aが最も顕著に出る民族集団はスラヴ人である。一方、このR1aはヨーロッパの最西端にあたるバスク地方、イベリア半島西部、ブリテン島西部までは広がらなかったようである([1][2]参照) 。
Ornella Semino などの研究者によると([3]を参照) 、バスク人など Eu18 に属するハプロタイプの人々やハンガリー人やウクライナ人に見られる Eu19 に属するハプロタイプの人々は、2万年前から1万3千年前の最終氷期(ヴュルム氷期)に(アフリカから)イベリア半島を経由して移り住んできたことが確かめられたとする。そして、パキスタン、インド、中央アジアに見られる Eu19 に属するハプロタイプの人々が移り住んだ範囲が拡大していくこととクルガン文化の広がっていく過程と関連づける。
遺伝子からみた東ユーラシア人(PDF)
5.ネパール人. 6.タイ人. 7.サモア人. 8.韓国人. 9.日本人 ... 人の古代 DNA. ごく微量の DNA からねずみ算式に DNA を増幅 ... 人の骨からミトコンドリア DNA の塩基配列が決. 定され, ...
http://www.geog.or.jp/journal/back/pdf111-6/p832-839L.pdf#search='ネパール人 DNA'
日本人のルーツ - にほんブログ村
アッシリア人司祭 日本人はY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ事で有名である。 世界的にもチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっている。 ... 世界的にもチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっている。 中近東(中東と近東のこと) ...
http://www.blogmura.com/profile/387097.html
日本人のルーツ
http://rurunohana.blog.shinobi.jp/Entry/118/
ブリヤード人
シベリアの氷河期の遺跡 日本人
ブリヤード人は人口42万。 数の上ではシベリア最大の少数民族である。 ... データーベースから探っていった結果、縄文人のDNAと完全一致するブリヤード人の住む村を特定することができたのである。 ... ブリヤード人は昔から馬や羊の牧畜を行ってきた
http://kodaisi.gozaru.jp/kitanokodaisiB/kitanokodaisiB/hiyogaki/hiyogaki.html
シベリアから日本列島への人の流れは、全地球的な人類の歴史を紐解いてみるとますます確かなものとなる。
10万年前に始った人類拡散の世界的な流れの中に矛盾無く位置づけることができるのである。
 人類はもともと熱帯のアフリカで生まれた。世界中へ拡散していくときも、大部分の人びとは暖かい場所を選んで移動していった。其の中で、何故一部の人たちは極寒の北の大地を目指したか。
何故私たち日本人の祖先は、わざわざシベリアを通って日本列島までやって来なければならなかったか?

明確な墳丘「クルガン」を伴う墳墓を持った「文化」を仮に「クルガン文化」と呼び、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパへ伝播 ...
仮説 クルガンhttps://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1206
「クルガン文化」がインド・ヨーロッパ祖語の話し手であったとする仮説である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E4%BB%AE%E8%AA%AC
ギンブタスは、明確な墳丘「クルガン」を伴う墳墓を持った「文化」を仮に「クルガン文化」と呼び、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパへ伝播していったことをつきとめた。この仮説は、インド・ヨーロッパ語族の研究に重要な影響を与えた。ギンブタスを支持する研究者たちは、クルガン文化には、紀元前5千年紀から紀元前3千年紀にステップやヨーロッパ南東部に存在した原インド・ヨーロッパ語族の民族的特徴が反映されていると考えている。
第二の波は、紀元前4千年紀中葉であり、スレドニ・ストグ文化やその後の時代のマイコープ文化に由来すると推測される。スレドニ・ストグ文化は移動手段としての馬、マイコープ文化はクルガン、を伴う高度な文化を紀元前3000年ごろまでにヨーロッパに持ち込み、その結果その地域では球状アンフォラ文化が発生、発展したと考えられる。球状アンフォラ文化はポーランド中南部を中心として中央ヨーロッパに広まった。ギンブタスによるとクルガンを伴う高度文化がヨーロッパに流入するのは、インド・ヨーロッパ系の言語が中央ヨーロッパに入ってくる時期に対応している。この球状アンフォラ文化の中心地であるポーランド中南部からは、まもなく縄目文土器文化が発生することになる。

クルガンhttps://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1160
第1スンドークが古代天文観測所だとラリチェフ教授が教えてくれた。白イユース川左岸には頂上がテーブルのようになった残丘が5個か、数え方によってはそれ以上並んでいるが、そのうちの最も北の残丘の頂上はちょうど直方体のスンドーク(長持ち)の形に侵食されているので、遠くからも目を引く。それで、並んでいるほかの残丘も第2スンドーク、第3スンドークと言うふうに呼ばれている。この残丘第1スンドークには直方体のようになった岩を貫く隙間があって、そこで古代人が冬至や夏至、春分、秋分の日の出や日の入りを観察していたのだという。実はこれは専門家の間ではもう有名な仮説なのだが、日本から来た私は始めだ。教授によると、エジプト、ペルシャなどでは大犬座のシリウス星を観測の中心においたかもしれないが、ここ南シベリアでは牛飼い座のアルクトゥルス星で、春分のころ、その古代天文観測台の隙間の穴から見ると、日の出の15分前に沈むのだそうだ。
 教授はスラーヴァに、私をぜひそのスンドークに案内するように勧めている。しかし、その隙間はスラーヴァではわからないそうだ。もっとも、そこへ行き着くには岩の直方体をよじ登らなくてはならないから、高いところの苦手な私には無理だ。
 しばらく、教授はスラーヴァと研究の最近の成果について話していた、と思う。タルペック要塞やオンロ要塞(第1スンドークのあたりを土地の人はオンロと言うらしい)について話していたのだろう。私には断片しか理解できない。
タルペック山
 ここのクルガンの石にも彫り物がある。
『タフザッス』洞窟は19世紀末に探検され、動物の骨、土器の破片が見つかったほか、壁に鉱物顔料で書かれた中世キルギス人のルーン文字(オルホン・エニセイ文字、突厥文字)などが残っていた。『黒い悪魔』洞窟の入り口近くに男根の形をした石筍(鍾乳洞の床に見られる筍状の岩石。上壁から落ちるしずくの中に含まれている石灰分が沈殿して固まったもの)があって、そのまわりには2000年前という火の跡があり、古代シャーマンの占いの場所だったとされている。

バビロニア天文学https://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2515
日本人のルーツ、ウガヤ王朝はアッカド人とラガッシュ人(フツリ人とウル人の混血) ...
混血アーリアンのための宗教が必要だったからですが、やがてカースト差別の復活と ... ニギハヤヒ系月氏はインドに入ってカルデア人と混血した海ルートのカッシート。 ... の混血)の平貞盛と結んだツングース北倭武士団(アイヌ人)の藤原秀郷によって滅び、 ...
http://plaza.rakuten.co.jp/Phoenix3/diary/003000
【大いなる女神】が、ときに鳥の姿になったり蛇の【女神】になったりしながら、水の生命授与力を支配し、ヨーロッパとアナトリアでは雨を孕み、乳を与える、そういう文様が刻まれています。
アナトリアのチャタルフユィックの遺跡からは、母系で妻方居住の社会構造が現れました。
その構造は、チャタルフユィックからクレタに移住し、太古地母神《女神》と共に農業技術をもたらし、つづく四千年の間に、土器製作、織物、治金、彫版、建築、
その他の技能およびクレタ独特の生々とした喜びに満ちた芸術様式の進歩がありました。
そこでは富は、公平に共有されました。
年上の女性ないし氏族の長が大地の実りの生産と配分をつかさどり、実りは集団の全員に属するものとみられていました。
主要な生産手段の共有と、社会的権力は、すべての人の利益になるよう図られ、責任のもとに基本的に共同的な社会組織が生まれていました。
これは、パレスチナの世界最古の町エリコナトゥフの人々が成功していた共同社会につながると思われます。
太古地母神《女神》を中心に女も男も異なった人種の人々も・・・共通の幸福のために平等に協力して働いていました。
母系による相続と家系、至高の神としての女性、現世的権力をもった女司祭と女王の存在はありましたが男性の地位が低いということはなく、
両性は平等な協調関係を築いていました。
男女仲良く手に手をとった姿は、今でも道祖神のなかに見受けられます。
彼らは、たいへん自然に親しんでいて、アニミズム(精霊崇拝)はクレタだけでなく、ケルト民族にも伝わりました。
太古地母神《女神》を中心にした文化はアナトリアを中核として地球一周しました。
ストーンサークルやドルメン、メンヒルなど、これらの祭祀が彼らの残した足跡です。
前方後円墳の起源
前方後円墳の起源. 邪馬台国畿内畿内説では前方後円墳は畿内発祥で ... クルガンの語源はクルガン人という古族がキルギスあたりにいて彼等が墓に拘る人種で 土饅頭型の墓を作った事か ... 前出のクルガン人は墓にこだわるので墓の呼び名を種族名にされている。
http://www.geocities.jp/taru638/page008.html
参考HP 銅鐸の秘密を明かす位置関係 | 古代史掲示板(清談論議)
このウガヤはその名に因みつけられたのでしょう。 古代会稽の時の王の名も、帝禹と呼ばれていました。 ... 名は、文命(ぶんめい)、大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)、夏王朝創始後、氏を夏后とした。 ...
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2177
古代縄文人は、牡牛と蛇のトーテムをもっていた殷王朝の末裔民族は、後の倭人=出雲人につながる。 ... シュメール神話との共通性 『まず、第一 ...
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/8_J.html

横穴墓のルーツhttps://8906.teacup.com/toraijin/bbs/4282
横穴墓のルーツについてhttp://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-11854253233.html
横穴墓
“ そのルーツは中国江南の崖墓、崖葬だった ”
菊池、山鹿、人吉、大分、北九州、など九州には大量の横穴墓がありますが(北関東にも非常に多くの横穴墓が存在します)、通説に胡坐をかく考古学者どもは、あいも変わらず“横穴墓は古墳時代の後期(追葬でしかない物を年代判定に使っているのですが)”などと見当はずれな評価で済ましています。
この一事をもっても、学問になってないと考えるのですが、この起源に想いを巡らす時、南方か、中国大陸に求めるのはある種自然ななりゆきであるでしょう。
ここで思い出したのが四川の懸棺葬でした。中には百メートルもある垂直の断崖に掛けられたものもあるようで、まずは、驚愕の墓制と言えるでしょう。
このボー人の懸棺葬は四川観光がブームになり始めて以降、徐々に知られてきましたが、私は中国で崖墓、崖葬、岩窟葬…などと表現される、横穴墓の一類型と考えます。
岩が固い場合に桟橋を差し込む程度の穴を穿ち木棺を懸けるものと思うのですが、他にも木棺が入るだけの穴を横向きに掘り込み棺をはめ込むもの、九州北半や北関東などに色濃く分布する横穴墓と同様に縦に木棺、石棺を入れるもの、立派な玄室を持つものなどもあります。数も揚子江流域の支流を中心にそれこそ膨大な類型墓が確認できます。
あるサイトを読んでいると、その分布は12省に拡がるそうで、非常に面白いのは、これが、倭人、越人(倭人のルーツ)など海洋民族系統のものと言うのです。
現在、「崖墓」「崖葬」を中心に主として中国のサイトを検索し、簡略なデータベースを作成していますが、これまで、謎だった横穴墓のルーツが氷解し胸のつかえが降りた思いがしています。
 卑弥呼の死に際して大きな塚をつくったと「魏志」倭人伝は記している。
3世紀(古墳時代早期から前期)築造の古墳がないとみられてきた静岡県東部で、出現 期の大型前方後方墳の発見として注目を集めた静岡県沼津市の高尾山古墳。
「古代スルガの王」が出現か 最初期屈指の前方後方墳http://style.nikkei.com/article/DGXMZO87241610V20C15A5000000
津市教育委員会は230年 ごろ築造、250年ごろ埋葬との調査結果を昨年公表した。「古代スルガの王」を埋葬した とみられ、研究者は「古墳時代最初頭の重要遺跡」と指摘している。
古代スルガの王」を埋葬?「古墳時代最初頭の重要遺跡」http://kofun.jp/news/3768.html
崖墓、崖葬

墓地への坂道へ門前を通って行きます。 つまり「ソワ(崖)道」なのです。やはり「諏訪」は 「ソワ」だったという思いを強く感じました。 諏訪大社下社遷座祭(お舟祭り) 墓地(異界) への坂(境)道お墓は霊魂昇華の宗教的施設で家のシンボル(精神
圭(ケイ)は三角錐の形に土を重ねたさま。 窪の下部 ...救(久)母(蘇り)http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2438
坂はサカイつまり境と同じ意味の語源をもつ言葉だとされているゆえんなのです。 ... <坂は境である> 坂、そこは、地形的にも、人間にとって、住みにくい、立ち止まりにくい、しかも通過しくい場所であるかあらこそ、境(さかい)となったところに違いなく、また、
http://www.sakagakkai.org/tawara_archive/sakamichi_monogatari.html#1-4
崖と人間とのかかわりあいの場所

「はげしい」 - 蜻蛉・莞爾の無責任漢字樂院
・・・・



[9094] 日本語の原型がドラヴィダ語族の言語の影響を大きく受けて形成された

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月21日(水)08時03分3秒   通報   返信・引用

Y染色体ハプログループH系統https://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y染色体H系統
ドラヴィダ人 (Dravidian peoples)
古代からインドに定住していたと考えられる民族ドラヴィダ人(達羅?荼人, Dravidian peoples)のY染色体は、ハプログループHが32.9%で最も多く、以下、ハプログループO(13.6%)、ハプログループL(11.6%)、ハプログループR1a(11.0%)、ハプログループJ(10.5%)の割合である(注1)。インダス文明の担い手はドラヴィダ人であるとする説もあるが、反論もあり詳細は未解明である。ドラヴィダ人はアーリア人とは外見が異なり、アーリア人よりも一般的に肌の色が黒く、背が低いが手足が長い、ウェーブがかった毛髪などの特徴がある。
タミル・ナードゥ州出身でタミル語を母語としその文化を担うドラヴィダ人はタミル人と呼ばれるが、タミル(?????;Tamil)という語はドラヴィダ(???????;サンスクリット語 ??????, ??????, ???????;Dravida)という語と語源が関係している可能性が高い。タミル語は、日本語と文法が良く似ている言語で、語順は日本語と同様、基本的にはSOV型である。OSV型となる場合もあるが、動詞に接辞をつけて文相当の意味を持たせる場合はSOVが基本となる。複文を作るための関係詞はなく、日本語と同じく「水を-飲む-人」、「私が-見た-物」という順でつなげば良い言語である。また、詩歌(サンガム)には、五七五七五七……七、五七五七七、五七七の音節を持つものがあり、日本の七五調・五七調や三十一文字に類似するような形式が見られる。また日本の古語に多く見られるような「係り結び」も存在する。国語学者・大野晋は、日本語の原型がドラヴィダ語族の言語の影響を大きく受けて形成されたとする説を唱えている(注2)。



[9093] Re: 辰国

投稿者: 秦野北斗 投稿日:2019年 8月21日(水)07時57分35秒   通報   返信・引用 > No.9089[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

『後漢書』馬韓伝にあるんだ、辰国は馬韓、弁韓、弁辰、の総称になる。
無駄足を踏む奴だな、

> 辰国
>
> 辰の上古音
> (Baxter?Sagart): /*[d]?r/(ドゥル / ウル)
> (Zhengzhang): /*dj?n/(デュン)
> 中古音:/d??i?n/(ヂン)
>
> 辰の語源
> 下記の(2)龍説が妥当だろうが、(3)と(4)も興味深い。
> 「時」はチベット語でdugsで日本語のtokiと対応する(s>h>i)。
> (1)>(4)は「天孫・天神」に通じる。
> 「龍」か「時」か「荒ぶる神」。
>
> Wiktionary
> Etymology
> (1)“to vibrate”
> Related to 震 (OC *tj?n, “to shake”) and 振 (OC *tj?n, *tj?ns, “to excite”), from Proto-Sino-Tibetan *dar ~ d(u/i)r (“to tremble; to shiver”) (Schuessler, 2007).
>



[9092] 盧(ろ)姓のシンボルマーク

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月21日(水)07時45分9秒   通報   返信・引用

盧は「入れ物+皿(さら)+音符虎の略体」の形声文字で、つぼ型のまるいこんろのこと。
「タナハ(キリスト教における旧約聖書)」を重要な聖典に位置づけています。また、タナハの第一部「トーラ(別名 ...https://cocoiro.me/article/4363
エブス人(恵比須・胡・蛭子・戎・夷)やユダヤ人(大物主命・米俵を担ぐ大黒さん) の商人たちであり、その由来は『エビス・大黒さん』として現在でも各家庭に祭られています。https://plaza.rakuten.co.jp/Phoenix3/diary/200712200001/
エブス人と製鉄族のヒッタイト
人は船員として、またワジャック人が奴隷として乗っていました。
やがて彼らは重藤一帯に多くの『野タタラ』による製鉄所を築き上げました。同地に大量に
存在していた砂鉄を原料に、地元の薪を燃料にして、西南の風をタタラ(フイゴ)として
『ナマコ鉄』をつくり、武器や農具の鍛鉄製品に仕上げていきました。その際、先住民である
港川人らの縄文人に農業文化を教えながら、彼らを奴隷として使役しました。
大黒・・・盧の中味"黒い"

「胡虜コリョ」(北方のえびす。転じて、異民族)トーラ
盧の中味"黒い"という意味 https://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2766
姜姓国である甫(また呂ともいう)https://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2581
うつわ
器【解字】口は祝詞を収める器。 犬は犬牲。 犬牲を以て清める意http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2554
そろ【粗鹵/疎鹵/麁鹵】の意味は?国語辞典。 (名・形動)[文] ナリ 〔「鹵」は荒れ地。また「魯」に通じて、おろかの意〕そまつで役に立たない... また「魯」に通じて、おろかの意〕そまつで役に立たない・こと(さま) ...
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/115120/m0u/%E3%81%9D%E3%82%8D/
鼎部 - Wikipedia
鹵. 鹿. 麥. 麻. 12. ?. 黍. . 黹. 13. 黽. 鼎. 鼓. 鼠. 14. 鼻. 齊. 15. 齒. 16. 龍. 龜. 17. 龠 ... 伝説によると夏王朝の禹は九州を象徴する九鼎を鋳造したとされ、歴代王朝に王権の象徴として受け継がれた。 ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%8E%E9%83%A8
「鼎」字は三足あることから三つどもえの戦いの比喩として「三国鼎立」などと使われた。その他、六十四卦の一つとしても用いられる。
鹵鹸鹹鹽 「鹵」(ロ/しお) 象形。 岩塩をかごに入れた形。 ※「鹽」は「塩」の旧字 ... 鼎 「鼎」(テイ/かなえ) 象形。
「鹵莽」という熟語で大雑把な様子を表す意味があり、さらに「櫓」に通じて大きな盾、「擄」に通じて略奪するといった意味がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%B5%E9%83%A8
甲骨文字など古文字では区切られた4つの空間の中に点がある形であり、塩田の形に象るといった説、塩を浚う竹籠の形に象るといった説、塩を盛った器に象るといった説などがあるが、どの説も区画中央の点が塩を表しているとする。
4つの空間の中に点
(ロとは)=>隠れたひとの仕事=・・・呂口~ 路みち・タオ道??(呂は変わった形。四方を取り囲んだ数個 の部屋の意)とから ..
呂(集まる意=旅)https://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1007
呂姓の起源
、「昔、太嶽は禹の心呂の臣爲(た)り。 故に呂矦に封ぜらる」と、呂姓の起源について紹介する。 字形: 〔説文〕は背骨の象形 としているが、甲骨文・金文では口と口の間の線が無く離れている。http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%91%82
呂不韋(? - 前235年) - 中国戦国時代秦の政治家。呂氏春秋を作らせた
呂国 - 殷朝から周朝にかけての諸侯の国
呂県 - 中国にかつて存在した県。現在の江蘇省にあった
呂州 - 中国にかつて存在した州
呂 - 雅楽などの陰の音律
【呂馬(ロバ)】
羅馬 【馬】 馬の国 考 | 日本古代史掲示板(荊の紀氏)
【占+※】・・・路(ロ)道? 【呂馬(ロバ)】 「呂」 字義:せぼね. 解字:象形。 ... 以上「呂」は字 の中の「口」の意味と「侶」と「宮」 ... と、音符の呂(集まる意=旅)とから成る。 「とも」の意 。 「宮」 解字:会意。 http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-45.html せぼね「呂」=「 ...http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2648
ロマ - Wikipedia
単数はロム)はジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中 東欧に居住する移動型民族であるhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E
ロマにはコーカソイドとモンゴロイドの両方の特徴が存在しているからである。ロマの皮膚の色や髪の色はコーカソイドとモンゴロイドの中間に位置する人が多い。また、身体的特徴がコーカソイドに近くても、乳幼児期に蒙古斑のある人も多い。このため、コーカソイドとモンゴロイドの混血によって生じた民族、とする説が最も有力である。
歴史的経緯をたどると、ロマは西暦1000年頃に、インドのラージャスターン地方から放浪の旅に出て、北部アフリカ、ヨーロッパなどへとたどり着いたとされる。旅に出た理由は分かっていないが、西に理想郷を求めた、などの説がある。彼らがヨーロッパに史料上の存在として確認できるようになるのは15世紀に入ってからで、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けることとなる。ただしユダヤ人ほどこの事実は強調されていない。また、ユダヤ人はセム語族(ヘブライ語)に属するコーカソイドであることが明らかにされているが、ロマは前述の通り、言語的系統においても、人種的系統においても未分類である。
ただ、最新の遺伝子研究ではインド先住民のドラヴィダ人との関係が指摘されてきている[5]。
スキタイ ギリシア
もはや、スキタイ族/ギリシア神話を抜きにして、日本神話を語ることはできないといっていい。 問題の「天岩戸開き 神話」は、主に大地母神デメテルの物語として見出せる。http://plaza.rakuten.co.jp/kotoha/diary/200609050000/
失われたイスラエル10支族の本隊は、ユーラシア大陸を「北」へ向かい、「アルザル」なる地へいったとされます。
彼らは、今もある場所に膨大な数となっているようです。
そして、終末の時に、神の意思によって、再び集結する時を待っているといいます。
一方の別働隊は、途中から東へルートを取り、「スキタイ」をはじめとする、騎馬民族と合流して、北のステップロードを通って、東へ東へルートをとり、やがて、中国や朝鮮半島にやってきました。
そして、朝鮮半島の南端から、さらに極東の地、日本へと渡ってきます。
九州に上陸し、さらに、「神武東征」神話にみられるように、畿内へと侵入し、大和朝廷を打ち立てます。
にわかには、信じがたい説かもしれませんが、神道と古代イスラエルの関係などを見ていくと、ほぼ間違いないと思われます。

卑 実 虎 秘トーラ・・・ 胤 カバラ?
「わたしは確かにあなたを祝福し、あなたの胤を殖やして、天の星 のように、海辺の砂粒のようにする。」 ...
http://blog.livedoor.jp/mintkym/archives/1503003.html
ユダヤ=イスラエルの民(アブラハムの相続財産を受け継ぐ)という選民意識が根本にあり、自分たちの主と呼び求める神を待ち望んでもあるのですhttps://8906.teacup.com/toraijin/bbs/384
「忌」は「己の心」と書く通り、日本の支配欲の為に施した大掛かり な呪術は、まさに忌まわしい欲望による謀略だっ ..... 神話のルーツもヒッタイト神話 にあり、ヒッタイト帝国の首都もハットウシャ(漢字で書けば「八頭蛇」)だった。 ...
http://jew-beast.seesaa.net/category/8380784-2.html
「解かれた封印から赤い色を頼りに、隔り世から鬼が来る…」
鬼といえば、頭に角を生やし、虎の毛皮を腰に巻いた姿で描かれているが、これは鬼門が東北(丑寅)の方角に位置することに由来する。
陰陽道で「鬼」は、天津神に敵対する地上の悪神を指す言葉で、天津神に征討されて日本の東北地方に追いやられたとされる。
その為、北東の方角を「鬼門」と呼び、鬼は祟り神として忌み嫌われてきた。
尚、ヘブライ語で「敵対者」を「サタン」と言う。
チベット密教の『世界の王の予言書』によると、「白馬」に乗ったシャンバラ王カルキが、悪を一掃する為に軍隊を率いて地上に現れる時、木星に隠れた天体「ラジャ・サン」から地上を焼き尽くす炎が放たれるという。
焼き尽くす炎が放たれる・・・「炉」?

盧は「入れ物+皿(さら)+音符虎の略体」の形声文字で、つぼ型のまるいこんろのこと。
のち金属で外がわをまいた、または大形のかまどの意ともなる。
爐は「火+音符盧」で、盧(まるいつぼ・こんろ)の原義をあらわすため、火印をそえた。
火と戸で「炉」ですが、語源を教えて下さい。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1423038034

盧(ろ)姓のシンボルマークhttps://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/39b6c30aca962377b6747f660aff5b34
解字 甲骨文第1字は、つぼ形のうつわ(皿)の横に虎を描いた象形で、つぼの中に2点があり何かが入っていることを示している。第2字は、虎の略体が上にきて下部が鼎(かなえ)状の脚がある器の象形。虎の絵がはいったつぼ形または鼎形のうつわを表す。
 金文を解くには盧姓のシンボルマークが参考になる。このマークはつぼ(皿)と虎が描かれているのは甲骨文と同じだが、つぼの中に描かれているのは胃イである。胃は「田(胃袋のなかの食べた物)+月(からだ)」からなる字で、胃袋を表す字[音符「胃イ」を参照]。したがって金文の盧は、食べ物をいれたつぼと考えられる。では虎は何を表しているのだろうか。盧が姓のマークであることから、虎は盧姓(盧の一族)を守護する動物、すなわちトーテム(崇拝対象)であると思われる。
 金文の字形は上から、「虎の略+胃の田の部分+月(胃の月の部分)+皿(つぼ)」となり、シンボルマークと同じ内容を表している。篆文は、胃袋の部分がザルのような形になり、現代字で田に変化し、「虍+田+皿」の盧となった。意味は、姓に用いられる他、食べ物をいれるつぼから「めしびつ」となる。盧を音符に含む字は、「つぼ型のうつわ」「まるい」イメージを持つ。
意味 (1)姓のひとつ。「盧生ロセイの夢」(盧生という青年が立身出世して富貴を極めたが夢だったという故事。はかないことのたとえ)(2)つぼ。めしびつ。「壺盧コロ」(まるいつぼ)(3)すびつ(=炉)。火入れ。(4)くろい。くろいもの。(5)梵語の音訳。「盧遮那仏ルシャナブツ」(大日如来のこと)
イメージ
 「つぼ型のうつわ」(盧・炉・膚)
  「まるい」(蘆・廬・艫・轤・驢)
  「同音代替」(慮・虜・濾)
  「その他」(櫨)
音の変化  ロ:盧・炉・蘆・廬・艫・轤・驢・濾・櫨  リョ:慮・虜  フ:膚
虜 リョ・とりこ  虍部
解字 「力(ちから)+盧の略体(リョ)」の形声。リョは呂リョ(つらなる)に通じ、力ずくで捕らえて数珠つなぎにした捕虜(とりこ)をいう。部首は解字から言うと「力」であるが、字を虍と男に分け「虍」を部首としている。
意味 (1)とりこ(虜)。いけどる。「捕虜ホリョ」「俘虜フリョ」「虜囚リョシュウ」 (2)しもべ。めしつかい。どれい。③えびす。蛮族。「胡虜コリョ」(北方のえびす。転じて、異民族)
覚え方 とら(虍)につかまったおとこ(男)は、虜(とりこ)

盧の中味"黒い"
「暗黒アンコク」
くらい
黙 モク・だまる  黒部
解字 旧字は默で「黑(くらい)+犬(いぬ)」の会意。犬は死者と共に埋葬される犠牲獣で葬儀を示し、黒はくらい意。「諒闇リョウアン」(まことに暗し)は、天子が父母の喪に服する期間のことで、暗いは服喪する意味がある。黙は、葬儀に続く服喪の期間中、人々が行動をひかえ口数が少なくなること。転じて、口をつむぐ・だまる意となる。新字体は黙に変化。
意味 だまる(黙る)。口をつぐむ。「沈黙チンモク」「暗黙アンモク」「黙示モクジ」(黙ったまま、意見や考えを示すこと)
覚え方 くろ(黒)い夜は、いぬ(犬)が黙る。

暗黒星雲。星座北部にある。 由来と歴史 古代メソポタミアでは、狂犬 (the Mad Dog) またはカバ男と現在呼ばれる人頭獣身の姿が描かれ、バイソンマン(現在のケンタウルス座 )と対を成すとされた [2]。https://ja.wikipedia.org/wiki/おおかみ座#出典
おおかみ座(狼座、Lupus)は、南天の星座でトレミーの48星座の1つ。日本の多くの地域では高く昇らないので目立たず、また九州以南でなければ全体を見られない
特徴的なギリシャ神話はない。アルカディア王リュカオンにこの星座に関する神話がある[3]。これによると、神との宴に人肉を供したリュカオンが大神ゼウスにより狼に変えられた姿だという[3]。
古代ギリシアでは、この部分はケンタウルス座の一部とされていた。また、この動物を指す名がなく、単に野獣などと呼ばれた。ビチュニアのヒッパルコスが紀元前200年ごろにこの星座を分離させ、テリオン (Therion) と命名した。
日本では、おおかみ座は、ケンタウルス(ケンタウルス座)に捕まえられそうになっている狼といわれるが由来は分からない。

近赤外線で捉えた「光る」おおかみ座の暗黒星雲https://www.astroarts.co.jp/news/2003/02/10nao617/index-j.shtml

馬腹(ばふく ma3fu4 マーフ)http://prometheusblog.net/2015/11/23/1045138651/
馬腹は全体的に虎に似ていますが、腹部が馬で、頭部が人間の災獣です。半人半獣の姿はギリシャ神話のケンタウルスを連想させるため、ケンタウルス座のβ星を中国では馬腹一とも呼びます。
この馬腹は《山海経》の第五巻、蔓渠山で述べられています。西にある蔓渠山はふもとには竹藪が広がっており、山の上にはたくさんの金や玉がありました。そこは伊水の水源で、東に流れて洛陽へと至ります。その山に馬腹は住んでいました。馬腹は人面で虎の身体をしており、その声は赤子の鳴き声のようであり、人を食べるとあります。
別の解釈では、馬腹は文字通り馬のおなかのことで、、モンゴル人たちは馬を大事にしており、鞭を使わずに両足で馬に合図することで馬を速く走らせたということに由来しているという説もあります。

白澤は中国神話中の神獣で、天下にいる妖怪の名前、見た目、倒し方を知っていると言われていることから魔除けと福をもたらす神として崇められてきました。その後、白澤に対する畏敬の念は民衆の間で高まり、≪白澤精怪図≫が流行しました。この本の中には、白澤が知っていると言われている妖怪の名前と風貌、その倒し方が書かれており、人々が怪物に出会うとすぐにこの本を取り出し、どの怪物かを調べて対処しようとしました。
白澤は中国神話中の神獣・・・↓?
盧(ろ)姓のシンボルマークhttps://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/39b6c30aca962377b6747f660aff5b34



[9088] Re: ファイアー大将軍が知らない縄文時代

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月21日(水)04時59分4秒   通報   返信・引用 > No.9085[元記事へ]

バカ2の原人さんへのお返事です。



[9086] Re: 新羅・慶州

投稿者: 管理人 投稿日:2019年 8月21日(水)00時14分41秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9063[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
>
> > これなども、あきらかに普通の中國人ではなく、先のペルシャ人とかがもたらしたと考えたほうが早いですし、実際、ペルシャのリンココダツという舞に使う法具も、福島の壁画横穴墓からも見つかってます。横穴墓を造った集団が、先の磐井の子孫でオオ氏で、常陸の那珂・中臣の祖先ですね。
> >
> > この集団は、中国の北燕遺民だと思うのですが、同時に石窟寺院など敦煌やその西方世界の習俗をもたらしているのだろうと考えてます。
> >
>
>
> そのオオ氏というのは何者ですか。初めて聞きますが。
> まず、漢字はないんですか?
> あと、中臣って天神族ですから天皇集団と一緒に半島から来たんでしょ。
>
>


オオ氏については、多氏で知られてますが、神武天皇の息子の神八井耳の子孫で、九州に本拠があります。意富臣とも記されます。

後に東遷して、常陸や福島方面の国造という管理者にもなるのですが、一説には、九州、常陸、福島にみえる壁画横穴墓の流れともかかわるとされてます。

その横穴墓を造った集団の渡来時期が6世紀初頭で、ちょうど筑紫君の磐井とか、近江や群馬の毛野氏、そして新漢人等が歴史上に表れてくる時期と重なってくるのですが、彼らが擁立したのが継体天皇で、近江や越に本拠がありました。

その継体天皇はオホド王で、その系譜もオホが称号となってます。その語源が、王なのか、大なのか、どちらにしろ中国語と関わるはずですが、気になるところです。

それで常陸の仲国造というのがいて、ここから那珂臣が出て、さらに後代の祭祀家の中臣氏ともつながるとされていますが、鹿島神宮あたりの刀剣・武神伝承などもその影響ですね。

そのオオ氏の中に、小子部(ちいさこべ)連がいて、この氏族が宮中の護衛を任されていたのですが、童子を宮中に提供したので小さい子の部とされたとの話があるのですが、これも小がオだとすると、元はオコ部とか言ってた可能性もありますね。

この小子部の話は、天皇を護衛した氏族のそれを思わせるものですが、護身剣にかかわる大陸系要素が強いのではないかと考えてます。もしかすると中国のみならず、ケルトやシルクロードあたりにも似た話がないかな??と期待しますが・・・。つまり昨晩の新羅王墓から出るケルト黄金剣のことです!引用しますね!


名称
「蜾蠃」とは、『万葉集』巻第九1738の長歌に「腰細のすがる娘子」とあり[1]、腰の細い似我蜂を指す。「少子部」は「子部(児部)」と同様に、天皇(大王)の側近に仕える童子・女孺らの養育費を担当する品部であろうと思われ、『釈日本紀』も同様の説をとっている。小子部連氏は、『古事記』の神武天皇の項目や『新撰姓氏録』では、神八井耳命の子孫となっており、天武天皇13年(西暦685年)に「宿禰」の姓を賜っている[2]。

経歴
『日本書紀』雄略天皇六年三月の条(推定462年)に、后妃への養蚕を勧める雄略天皇から日本国内の蚕(こ)を集めるよう命令されたが、スガルは誤って児(嬰児)を集めてしまった。雄略天皇は大笑いして、スガルに「お前自身で養いなさい」と言って皇居の垣の近くで養育させた。同時に少子部連の姓を賜った。とある[3]。

さらに同七年七月の条には、雄略天皇はスガルに「私は三輪山の神の姿を見たい。お前は腕力が優れているから、行って捕らえてこい。」と命令した。スガルは「ためしにやってみましょう。」と答え、三輪山に登って大蛇を捕らえ天皇に献じた。大蛇は雷のような音をたて目をきらきらと輝かせた。恐れた雄略天皇は目を覆い、殿中へ逃げ込んだ。大蛇は山に放たれ、その山を雷(イカズチ)と名付けた。とある[4]。

また『日本霊異記』によると、天皇が磐余の宮の大極殿(大安殿)で后と寝ているとき、あやまって栖軽がそこへ入ってしまった。天皇は恥じた。そこへ雷鳴がとどろいたので、天皇は栖軽に「あの雷をお招きしてこい」と命じた。そこで栖軽は赤色のかづらを額につけ、赤旗を付けた鉾を捧げ持って馬に乗り、阿部の山田村の前から豊浦寺の前の道を走り、軽の諸越の分かれ道のところに来て、大声で「天の雷の神よ、天皇がお呼びですぞ」と叫んだ。そこから馬を引き返しながら「雷神といえども、天皇のお召しに応じないことができようか」と言った。その途中、豊浦寺と飯岡との間で雷が落ちていた。栖軽は雷を輿に入れて天皇の元へお運びした。雷は光を放って明るく輝いたので、天皇は畏れて幣帛を供えて雷をもとのところに返させた。その場所は飛鳥の小治田の宮にあり、いま雷の丘と呼んでいる。そののち栖軽は死に、忠臣ぶりを偲んだ天皇は雷が落ちた場所に墓を作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と碑文の柱をお立てになった。雷はこれを怒って鳴り落ちて碑文の柱を踏みつぶした。ところが柱の裂け目に足が挟まって捕らえられた。天皇は雷を逃がしてやり、碑文の柱を立て「生きても死んでも雷を捕まえた栖軽の墓」となさった、とある[5]。

『新撰姓氏録』「山城諸蕃」の泰忌寸の項には、大隅・阿多の隼人らを率い、諸国に分散した秦氏の92部1万8670人を集めたという伝承が付記としてあり、『和州五郡神社神名帳大略注解』の引用する、久安5年(1149年)3月、多神宮注進状の子部神社の条にも、スガルにまつわる記録が掲載されている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%AD%90%E9%83%A8%E3%82%B9%E3%82%AC%E3%83%AB



[9085] ファイアー大将軍が知らない縄文時代

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月21日(水)00時06分44秒   通報   返信・引用

最近の発掘で、縄文時代の青森で、米や栗などの品種改良が行われ、寒さに優れ、味のよいものが作り出されていたことが判明しました。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10203189800
ちなみに、世界最古の火を使った調理の遺跡も青森の縄文遺跡ですし、世界最古の土器も縄文土器です。
それから人類史上最長の時代が縄文時代の1万年です。これもすぐれた文化だという考えもあります。

縄文時代から使われてきたクリの木材 日本において、クリの木材を使って建てられた建物は、最も古いものでは縄文時代の遺跡から出土しています。 有名なもので言えば、青森県青森市にある三内丸山遺跡があります。http://moripmorip.jp/mrp0000037/

三内丸山遺跡は、縄文時代の定説を覆すびっくりすることがたくさんあります。
縄文へと思いを巡らせながら、遺跡を歩いてみるのもいいかもしれませんね。
ヒスイ 黒曜石は交易の証拠https://kaiketsushiyou.net/699.html
三内丸山遺跡では、新潟産のヒスイ・長野産の黒曜石なども出土していて、どうやらほかの地域と交流していたことがうかがえます。
植物調査から、現在よりも気温がすこし高く、海岸線も現在よりも山よりであったことからこの三内丸山遺跡も今よりはずっと海が近かったようです。
海岸線から陸路で、もしくは船をつかってほかの地域との交流を積極的に行っていたとすれば、まったく閉ざされた世界ではなかったことがうかがえます。
…もしかして当時は、青森三内丸山遺跡が日本の中心だったんじゃない??と思わせられます。
単位まであったかも?
中心にそびえる6本柱は、遺跡からその太さとその圧力から14.7mの高さを計算して再現されたものです。
わからないのは、その使用法と屋根などの有無です…周辺を見渡す櫓(やぐら)だったのか?それとも祭りなどにつかわれるものだったのか?
まぁ、それは思いを勝手に馳せることにして、すごいのはその6本柱の間隔なんです。
栗の木の直径は約1mで、中心から中心までの間隔は4.2m、そのほかの建物でも計測したところ、単位は35㎝か70㎝ではないかと言われます。
基準とする単位があったからこそ、大きな建物を建てることができたと考えられます。
…とすると、きちんと計算して建てていたのかも??と思えますね!
そうやって単位を使ってあらかじめ計算してから6本柱と32mにも及ぶ大型竪穴住居が作られていたのではないでしょうか?



[9084] Re: 新羅・慶州

投稿者: 管理人 投稿日:2019年 8月20日(火)23時52分53秒   通報   返信・引用 > No.9062[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > 古代新羅の瞻星台は天文台ですが、どこからこんな技術が伝搬してきたのか?について考えていくと面白いですね。図も添付します。
> >
>
>
>  例の貴婦人が虐殺されクーデターを思わせる陶寺遺跡(紀元前2500~紀元前2000年前)にも天文台があったて言いますね。世界最古の天体観測施設だとか?
> 新羅にはO-JST002611とO-M117が多いですね。
>
陶寺遺跡は初耳です。龍山文化に属するそうですね。

龍山文化

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96


これはすごいですね!インダス文明とかいわゆる文明レベルのものが中國に生じている。

金属精錬技術にしても、社会システムをみても、あきらかに文明ですね。

遼河や三星堆文明もそのあたりの時期だったと思いますが、この前3000~2500あたりで急激に世界各地で文明が発展していて、そのあおりを縄文人も受けているはずです。環状列石などもそうですし、でも、これだけの文明を発生させるには、かならず文字が必要です。数量計算も必要だし、官僚システムを維持するのには、口頭伝達だけでは無理でしょう。スケジュールたてたり、給与計算したり、文字なしでは無理ですね。

そうすると、この時期にすでに甲骨文字の原型はできてないといけないでしょうし、おそらくは当時、インドや中東各地で文字文化を発生させた原エラム文字あたりが、中国にも伝搬したか、中国から伝搬したか、あるいは、イラン北部や南ロシアから東西に分かれたのか、その辺の流れがきになりますね。

> ちなみに、この遺跡のyDNAが分かっていてO3(xO-M134)です。
> →因此,F11表?出新石器?代??的?烈迹象,可能是黄河中下游地区,新石器?代?夫族群的核心成分之一。8,000年前?湖的O3-M122,4000年前陶寺中?期占3/4的O3(xM134),都很可能是F11。
>
> O-F11はシナ系O-JST002611のサブグループで中国に遍く拡がるハプロです。
> 彼らが新羅に天体観測技術持ち込んだとか?!
>
> 殷族をやったのは殷族の後に黄河上流域から中原に移動してきたO-M134か。
> 紀元前2000年頃中国で多くの文化が滅びる中、最後に生き残ったのが夏王朝=羌族です。
>
> 陶寺遺跡より北東の遼河地域では、夏家店下層文化(2200ー1600 BC)の出土物が殷のものと良く似ていることから、殷族と関わるともされます。
>
> 遼河の夏家店下層文化から夏家店上層文化には600年のタイムラグがあります。夏家店上層文化の古人骨ではO-JST002611が皆無なので、600年の間にこの地域でかなりの入れ替えがあったと想像できます。
>
> 紀元前3000年頃の気候変化を受けて牧畜型農耕に移行した甘青集団=羌族が西から、まず山西で、後に遼河で殷族を襲い、南下させたのでしょう。
>
> 陶寺遺跡は堯・舜・禹の都だと見られているようです。
> 五帝の系譜でも、帝嚳系から顓頊系にガラッと系譜が変わるので、堯→舜の交代にクーデターがあったとする説もあります。
>
> おもしろ。
>


チャン族や月氏の祖先が、その東西文化の仲介役を果たしていたことは間違いないでしょう。。

かなり短時間で一機に東アジア各地に拡散したようにも感じますね。彼らは天文学にちなんだ建造物の構築とか、高度な文明を継承していて、やはり文字をもっていたんじゃないかな。。言語も洗練されていたのかもしれない・・・。



[9083] 吉備も、集安・ソウル・慶州と並んで、東アジア墳墓文化の五大中心地としての威容を誇る。

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月20日(火)23時50分31秒   通報   返信・引用   編集済

墳丘墓と古墳の間には断絶がある。
弥生時代の墳丘墓は古墳時代に続かなかった

古墳に繋がるような墳丘墓は紀元後2世紀後半から出雲と吉備、北陸を中心に出現する。
その特徴とは、中国の影響が色濃いこと。

大きいものには木槨がある。最近の研究では楽浪郡に起源があり、朝鮮半島を南下し、日本海を渡って中国地方に伝わったことが分かっている。日本海沿岸で成立し古墳時代に受け継がれていく。(以上、洋泉社『日本人の起源』より)

古墳文化とは、巨視的に見れば「東アジア墳墓文化」とも称される動きのひとつとして位置付けることができる。

吉備も、集安・ソウル・慶州・近畿と並んで、東アジア墳墓文化の五大中心地としての威容を誇る。青銅器の馬具には朝鮮半島を媒介とした北方騎馬文化との結び付きがうかがえる。
この時期の吉備の基盤は私達の想像をこえる国際的な広がりを持っていたのである。
しかし、東アジアの他の中心地とは違い、吉備は国家の「首都」になり得なかったのである。
(以上、山川出版社『ユーラシアの風 新羅へ』)

北陸のO-M188、近畿のO-M117とO-F444。吉備のハプログループが気になる...
→調べたら、岡山はO-M117が8%と全国平均5%に比べて少し多い。
奈良にO-JST002611が10%で多い(ただサンプル数が30と少ない)。
O-M117は長崎と宮城で10%と多い。和歌山にO-F444が多い(9%)。



[9082] Re: 日本人の祖先がアメリカにも渡って、アメリカインディアンの祖先になった、わきゃねぇだろ!www

投稿者: バカ2の原人 投稿日:2019年 8月20日(火)23時48分47秒   通報   返信・引用 > No.9078[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> > バカ2,3の原人さんへのお返事です。
> >
> >
>
>
> アメリカ先住民が下等な縄文人...
> アメリカ先住民のみなさんに失礼だとは思わないのかね!


縄文時代には、現代人の想像を超える規模で日本列島を縦横に物資の移送が行われていた。
 各地の製品・特産品がどのような交換・交易ルールに基づいて流通していたのか、数百年・数千年もの期間にわたって継続した縄文経済の活動基盤となる製品の交換価値がどのように決められていたのか、これが縄文時代のもうひとつの大きな謎となっている。
縄文の謎 (2) 交易http://www.ekoko.jp/blog/files/5dfc186c070ff62ee9a80c0e94ffbf1a-64.php
(2) 縄文時代の生産
 かつては、縄文時代は個々に孤立した自給自足の局地的な社会であった、という見方がなされていた。使う道具も全て身近に手に入る材料を使って使う人自身が作り、食料も必要にせまられて季節ごとに移動しながら狩猟したり採取していた、という旧石器時代の延長として自給自足の生活をしていた原始社会のイメージでとらえていた。
 石斧にしても近所の石を拾ってきて叩いたり擦り合わせながら形を整え拾ってきた木の枝に結びつけて作った、土器にしても近場で見つけた粘土をこねてツボの形にして焚き火で焼いた、というような見方である。
 しかしながら石斧にしても縄文土器にしても、その製品の完成度の高さから判断すると、実際に製作するには、適した材料・原料の確保、また場合によっては接着や着色のための特殊材料の入手、加工のための工具・器具の準備、製作のためのそれなりの高度な技巧・技術の習得、十分な作業時間と労働力の確保、など非常に大きな障壁が存在していた。
 自給自足で製作した生活用具は多々あったはずであるが、磨製石斧や縄文土器、漆器、硬玉装飾品などは専業的な作業者の存在とそれを支えるムラの社会組織がないととてもできないような先進製品であった。
 このような製品が作られたムラにおいても、通常の自給自足の生活の遺物も残されている場合が多いことより、通常の狩猟や食料採取などを行いながら合間をぬって製品の製作作業が行われた、と主張する見方もあるが、私は初期の作業兼務時期にはこのようなこともあったとは思うが、縄文時代の全期を通じて専業化が進んだというのが事実に則した見方であると思っている。
 ムラ人の全てが製品製作に関わること自体がありえることではなく、大多数のムラ人は自給自足のための日常の生活をしており、その上で専業的な製品製作者の活動の生活基盤を支えていた、ということであると思う。すなわち、製作専業者がいた、というのが遺物・遺跡から判断できる的確な見方であると思える。
 また、製品を大量に生産するということは、この製品を他の地域に運び別の産品・物品と交換するために行うことであり、製品の運搬と交換をするための専業的な人もいたはずであり、その専業的運搬者の生活基盤をも支えていたことになる。すなわち、交易専業者も製作専業者と合わせてムラとして抱えていたことになる。
 次に紹介する例は、縄文時代に特定の場所で大量に生産された特産品である。いずれの製品も生産・製作した工房やムラの居住者が必要とする以上の数量が生産されたことが明らかになっている。
 ① 貝
   [生産場所] 東京都北区 中里貝塚
   [生産品目] ハマグリ、マガキ(の乾燥品?)
   [補足説明] ハマグリとマガキの効率的な加工(剥き身処理)施設(木枠付土坑など)の遺構が多数発見され、その廃棄した貝殻による巨大な貝塚が発掘された。
       殻長3cm以下のハマグリは採取対象外とされ製品のサイズ基準が設けられると同時に資源の保存が図られていた。
 ② 塩
   [生産場所] 茨城県 広畑貝塚、茨城県 法堂遺跡
   [生産品目] 土器製塩(土器を使って海水を煮沸し粗塩の生産と二次焼成による固形塩の製造)
   [補足説明] 生産された塩は土器に入れられ北関東各地に送られた。
 ③ 磨製石斧
   [生産場所] 富山県境A遺跡
   [生産品目] 蛇紋岩性磨製石斧
   [補足説明] 磨製石斧の完成品1031点・未製品35,812点が発見された、富山県産の磨製石斧は統一的な形状で生産され日本全国で使われた。
 ④ アスファルト
   [産出場所] 秋田県昭和町豊川槻木、秋田県能代駒形、新潟県新潟市新津蒲ヶ沢大入、サハリン(ヌトボ?)
   [生産品目] 天然アスファルト
   [補足説明] アスファルトの主用途は石鏃(やじり)・銛(もり)の装着材で他に土器の補修や骨角製釣針の紐巻きなどに使われた。
       秋田県産などのアスファルトは北海道を含む東日本各地に流通し、流通経路途中ではアスファルトの分割工房遺跡も発見されている。
       アスファルトの産地特定が化学分析により可能となっている。
       皮袋や土器に入れて運搬・保管された。
 ⑤ 漆器
   [生産場所] 東京都東村山市 下宅部遺跡
   [生産品目] 漆塗り木製品(飾り弓、杓子、匙、皿、櫛、ヘアピンなど)、樹皮製品(容器など)
   [補足説明] 漆は塗装だけではなく土器などの補修にも使われた。
 ⑥ 黒曜石
   [産出場所] 長野県長和町 鷹山遺跡群糞峠、長野県下諏訪町 星ヶ塔遺跡
   [生産品目] 黒曜石原石
   [補足説明] 縄文時代の黒曜石の原産地は100カ所以上確認されているが、良質の黒曜石は、北海道の白滝・十勝、長野県の霧ヶ峰周辺、九州の腰岳などに限られる。
        鷹山遺跡群糞峠・星ヶ塔遺跡の黒曜石鉱山からは縄文時代全期にわたって膨大な量の黒曜石が採掘されている。
       この黒曜石は関東・東海地方などに幾つかの流通ルートを経由して供給された。
       また、産出地での採取・採掘の後、周辺のムラでの石器製作、取捨選択された剥離片の移送、など一連のサプライチェーンが組織化されていた。
        黒曜石の有力産地として伊豆諸島の神津島があり、旧石器時代から縄文時代を通じて海路で伊豆や南関東に運び出されていた。
       九州産黒曜石は琉球列島にも海送され、一部はトカラ海峡を越えて900km離れた慶良間諸島や朝鮮半島南部(東三洞貝塚)にも送られていた。
       また、北海道産(十勝産)黒曜石は津軽海峡をわたって青森県にも供給されていた。
 ⑦ 硬玉(ヒスイ輝石)
  [硬玉ヒスイ製品の分布地域](中国・四国を除く)北海道から九州までの全般
  [採取場所] 新潟県 糸魚川市周辺の河川流域、海岸
  [産出場所] 青海川上流、小滝川上流
  [玉造りを行っていた遺跡] 新潟県・富山県(細池遺跡、長者ヶ原遺跡、三ツ又遺跡、森下遺跡、大角地遺跡、寺池遺跡、境A遺跡、浜山遺跡、広野新遺跡)
  [補足説明] 硬玉は装飾品(威信財、奢侈品)として穿孔(細孔の穴あけ)の高度な技術を使って加工された。
 ⑧ 上述の製品以外にも、専業的な作業員が大量生産を行っていたとみられる製品は、打製石斧、土器・土製品、石棒、木製容器、貝製装身具、サヌカイト(讃岐岩)、ベンガラ(赤色顔料)、琥珀など多様であった。遺物として残ることが少ないため不明な部分があるが、布や食料なども特産品として生産されたモノもあったはずである。
(3) 縄文時代の交易
 縄文人はほぼ日本列島全域に居住域を広げており人種的にもほぼ均一化が図られていたことより、縄文言語ともいうべき原日本語・原アイヌ語が流布しており、他地域のムラとのコミュニケーションは十分に可能な状況にあったと思われる。
 運搬の方法についていえば、人が物を背負って歩いて運ぶ、これが縄文時代の一般的なモノの移送方法であった。また、舟に人と物を積んで河川や沿海を移動することも決して珍しいことではなかった。
 しかし、人や舟が何日もかけて遠隔地に物の運搬を行うことは決して誰にでも簡単にできることではなかったはずである。
 片手間に産地情報を入手し、片手間に舟を作り、片手間に航海術を身につけ、片手間に神津島や霧ヶ峰山麓で黒曜石を採掘し、片手間に重い荷物を長い道のりを踏破して、自分のムラまで運ぶ、ということは極めて困難なことでとても片手間でできることではない。
 舟を操って海上航海を行う人たちもいたはずであり、獣道に近い自然道を見極めながら目的地に到達する道案内人や経験者も必要となる。道中の食料の調達も簡単なことではなかろう。動ける時期も気候の許す期間に限られよう。
 このように多くの専業製作者の労働力を経て生産されたモノを、更に専業の運搬者や交易者やその他の関係者が多大な労力と時間と危険をも費やして他の地域に運び、また、他の場所(やムラ)で産出・生産された原材料や産品を自分のムラに運び込むことを行っていた。
 当然のことながら、モノの流れが定期的に行われるようになると、産品の輸送ルートの途中での中継地(ハブ拠点)や交換・交易を行う場所、すなわち交易市場の機能をもった場所・ムラもできてきたはずである。
(4) 縄文時代の貨幣
 自分のムラのモノを他のムラに運んで自分のムラに必要なモノに交換する。これが何回も繰り返されるうちに、自然と等価交換のルールが決まってくる。例えば、磨製石斧10丁に対して塩2壺、というような交換レートである。
 しかしながらこのような交換を行う場所には、他のモノも自然と集まってくるようになり、複数のモノについて等価交換のルールが必要となってくる。このような複数種類のモノの交換が何回も行われるようになると、自然な形でいわゆる自然貨幣が必要にせまられて誕生してくる。この自然貨幣は物品貨幣とも原始貨幣とも呼ばれることがあるが、通貨に準ずる条件を満たすモノであり、このモノを基準としてさまざまなモノとの等価交換ルール(レート)が決まってくる。
 縄文時代には通貨そのものは無い時代であり、モノの交換に伴う不便を除くために、準通貨としての自然貨幣が幾つか誕生した、というのが私の見解である。誤解をさけるために確認しておきたいが、全ての交換と交易がこの自然貨幣を使ってなされたということではなく、あくまで部分的に必要がある場合のみに使われた、ということであろう。
 ただ、このような自然貨幣が誕生すると、実際にはこの自然貨幣が無い場合でも、モノの価値を自然貨幣で幾つ分であると言うことができるようになり、モノの価値が容易に比較できるようになる大きなメリットが生じてくる。
 自然貨幣となるモノはどのような条件が整っている必要があるのであろうか。その条件はおそらく次の五つであろうと思う。
 ? ほぼ同等の品質(規格・価値)のものが十分に生産されていること(例外的に、
  貴重品の場合は生産量が限られていても自然貨幣として使われる可能性がある)。
 ? 移動時に携帯・運搬しやすい重さ、大きさであること。
 ? 多くの人が欲しがるものであること(いつでも他のモノに替えられること)。
 ? 保管・保存に適していること。
 ? 誰でも簡単には生産できるものではないこと。
 縄文時代においては、自然貨幣はこの自然貨幣(モノ)の流通した特定の地域においてのみ通用したもので、決して日本全域で共通に通用していたものではないことを念頭に置いてほしいが、それでもモノによってはかなり広範囲(現在でいえば、数県から十数県にまたがる地域)に移出・流通していたのも事実であり、準通貨としての存在価値はあったと考えられる。
 上記の5条件が備わった自然貨幣とはどのようなモノであったのであろうか。
 これが本抄を書いた目的であり結論でもあるが、私は次の製品が縄文時代の自然貨幣となっていたのではないかと考えている。
  ① (定角式)磨製石斧(柄を付けていない石部)
  ② 良質黒曜石製鏃(やじり)(2cm長前後)
  ③ 硬玉(ヒスイ)大珠と小珠
 これらの他にも自然貨幣であった可能性があるのは、小型板状土偶、黒曜石(原石)、オオツタノハのような貝装飾加工品などがあるが、5条件を十分には満たしていないと思われる部分があり参考として止めておきたい。
 縄文時代には、ムラに帰属する(製作)専業者が特産品を作り、それをムラに帰属する(流通)専業者が別のムラとの交易を行っていた。
 その交易には少なからず準貨幣としての自然貨幣が使われていた。
 これが私の想定する縄文経済の姿であり、全ての縄文人が全て同じように自給自足の日常活動を行っていたという停滞したイメージの社会ではなく、クニ作りが始まる次の弥生時代につながるダイナミックなムラの動きが始まったのが縄文時代であると述べて、本抄を終えたい。



[9081] Re: 新羅・慶州

投稿者: 管理人 投稿日:2019年 8月20日(火)23時37分0秒   通報   返信・引用 > No.9060[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> この写真の勾玉は日本からの影響かな?その辺、ご存知でしょうか?
>

そうですね、この韓国の勾玉はなんなんでしょうね・・。

以前、クルガン墓で有名なアルタイのパジリク古墳群の騎馬人像に勾玉がついていることに気づいて、それで、月氏の月トーテムではないかと指摘したことを思い出しますが、遊牧民系の南下の流れでもたらされたのか、あるいは日本の縄文人時代以来の勾玉が朝鮮へ伝搬したのかが気になるところですが、wikiに下記のようにありますね!


日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる[注 1]。縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化する。縄文時代を通じて勾玉の大きさは、比較的小さかった。
弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉が作られ始め、古墳時代頃から威信財とされるようになった。1993年(平成5年)に東京都板橋区四葉遺跡の弥生末期の方形周濠墓から長さ7.4センチメートルのヒスイの勾玉が出土している。
魏志倭人伝によれば、邪馬台国女王の臺與から魏への進貢品に「孔青大句珠二枚(穴が空いて曲がった青い大きな玉2個)」があり、ヒスイ製勾玉であろうと推測されている(進貢時期は248年-266年の間)。https://ja.wikipedia.org/wiki/勾玉


一応、通説では、日本側から朝鮮へ伝搬したことになってますが、気になるところですね。

縄文系の勾玉と、大陸系の勾玉、その相違を調べる必要がありますね。




[9080] Re: 新羅・慶州

投稿者: 管理人 投稿日:2019年 8月20日(火)23時30分10秒   通報   返信・引用 > No.9058[元記事へ]

これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ)さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> > トカラ人の場合は、乾豆波斯達阿との名前も残っていて、波斯はペルシャのことですが、その前の乾豆(ケンズ)、達阿(たつあ・だつあ)は、どこかの地名や称号であろうと考えうるでしょう。
> > カンズ・ケンズ方面からきたペルシャ人のダッ・シャーとかいう具合ではないでしょうか。
> >
>
>
> 違います。
> だっしゃーっ!って、もうどうでもよくなってるでしょ?w
>


ええ(汗)、テキトーです!
>
> > ここからは妄想ですが、トカラ語は、ケントゥム語群に属しているそうで、ケルト系なんですかね。
> >
>
>
> 違います。
> ケントゥム・サテム語のkとsの対立は、印欧語のひとつの分類法に過ぎません。
> トカラ語が西ヨーロッパの印欧語に近いというわけではないんです。
>
>
> サテム語群とケントゥム語群との対立は「100」という数詞が良く例に出されますがが、
> 「犬」にも当てはまります。
>
> すなわち、印欧祖語の「犬」 *kwoがサタム語群の原インド・アーリア語では*swaになります。
> (狗がトカラ語由来という話もあります)
>

狗は方位と関連していて、南だったと思うのですが、たとえば朝鮮最南端のプサンにあった狗邪韓国などにも狗が用いられていて、その北の新羅あたりにあったとされる辰韓の辰も楽浪からみての南東、同じく百済の前身の馬韓の馬も同様な方位観念によるものと考えてます。

それで狗なんですが、日本でも邪馬台国の南にあったとされる狗奴国ですね、これも狗=南の観念をかかわっているのではないかと考えてますが、狗自体が、そもそも中国のいつごろからでてきて、それが十二支・方角とどうかかわっていったのかを考えていくと、おそらくインドとか中東起源の方術の導入にあったかもしれません。そうすると、狗もただの中国語じゃなくて、そっち系の起源があったりするかもしれず、面白くなります。
  



[9079] Re: 日本人の祖先がアメリカにも渡って、アメリカインディアンの祖先になった, 、というのは10年も前のテレビ番組w(今はキッパリ否定されてますwww)

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月20日(火)23時28分16秒   通報   返信・引用 > No.9077[元記事へ]

秦野北斗さんへのお返事です。



[9078] Re: 日本人の祖先がアメリカにも渡って、アメリカインディアンの祖先になった、わきゃねぇだろ!www

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月20日(火)23時17分15秒   通報   返信・引用 > No.9076[元記事へ]

> バカ2,3の原人さんへのお返事です。
>
>


アメリカ先住民が下等な縄文人...
アメリカ先住民のみなさんに失礼だとは思わないのかね!



[9077] Re: 日本人の祖先がアメリカにも渡って、アメリカインディアンの祖先になった

投稿者: 秦野北斗 投稿日:2019年 8月20日(火)22時03分19秒   通報   返信・引用   編集済 > No.9075[元記事へ]

バカ2の原人さんへのお返事です。

> 『ネイティブ・アメリカンが証明した・・・古代、アメリカは日本だった・・・失われた旭日帝国の謎を解く』

アイヌは海洋民族でクジラを追って南米まで行ったんですな。アイヌに航海術が記録される。アイヌはロシアのマンモスを喰らうは、クジラを喰らい、南米までの航海日数は一年ですから、南米など近いものです。
また、韓半島には紀元前5000年には到達し、その後、混血した日本人はシルクロードへ進出、紀元前100年頃になる。中国の古文書、古事記に記録される。中国四川は此のときの末裔ですな。


> 日本人とネイティブアメリカンのインディアンと、エスキモーのイヌイットは顔も似ていますし。日本古神道とインディアンスピリツトに共通の精神があるように思います。
> 『ネイティブ・アメリカンが証明した・・・古代、アメリカは日本だった・・・失われた旭日帝国の謎を解く』
> オレゴン州ユージーンにあるオレゴン大学考古学によると環太平洋の古代海洋民族が縄文人だと断定されます。
>
> 9500万年前の頭蓋骨ケネウィック人(アメリカ人の祖先)が見つかります。
> 紀元はアジアで シベリアとアラスカの間であることが遺伝子からわかります。
> アイヌの祖先と共通の遺伝子が見つかっているのです。
> アイヌもインディアンも母系社会であるところが似ています。
> どちらも目に見えないものに対する畏敬があり、共通のスピリットがあるように思います。
> 齋藤成也教授が調べた縄文人の歯髄により、16000年前に縄文人の一部がカムチャッカ アラスカから渡った可能性もあると言います。
> アイヌ イヌイット どちらも人という意味です。
> 伊豆の神津島の黒曜石が本土から見つかる 二万年前から舟を使う縄文人の証拠が見つかります。
> 7500万年前の丸木舟が見つかります。
> オレゴンの洞窟から
> なんと14500年前の人の糞石が見つかったのです。世界最古の糞石です。それのdna採取するとアジアの人だとわかりました。
> 南米エクアドルの 縄文土器に似た土器が見つかっています。
> バルディヴィア土器紀元前3500~1800年頃のものです。
> 日向洞窟遺跡14000年前の削石の有舌尖頭器が見つかります。
> 上白滝のものがアラスカのものと似ているのです。
> 作り方の手順が似ていることがわかります。
> チャンネル諸島のは山形県の石器と似ています。
> 15000年前からあるケルプハイウエー 海藻の森です。
> カモメやアザラシ、貝類、カニ、ウニと日本の海洋生物と似ているのです。
> 90%の海産物が共通しているのが 日本と カルフォルニアの海岸です。
> 大平山元I遺跡は16500年のものです。
> 大平山元I遺跡 ? Wikipedia : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%85%83I%E9%81%BA%E8%B7%A1
> 日本人の祖先がアメリカにも渡って、アメリカインディアンの祖先になったと思います。
> けっこう縄文人は、海洋民族として世界中を旅していたように思います。
> 出雲の古代から続く向家には、先祖はインドのドビダラ族という伝承があります。ドビダラ族は、北上してカスピ海を北上し、アムール川を下り、日本に渡り、出雲まで南下してきたそうです。
> 現代日本人は世界中の民族との混血ですね。様々な顔や形質の種類がありますね。
> YAP遺伝子は日本人の半数の男性だけに伝わる日本人固有の遺伝子と言われています。
> シルクロード添いにYAP遺伝子を持つ人たちが見つかっています。YAP遺伝子D系は チベット人 ユダヤ人(白人ではなく中東系の古代ユダヤ人)に見つかっています。
>



[9076] Re: 日本人の祖先がアメリカにも渡って、アメリカインディアンの祖先になった、わきゃねぇだろ!www

投稿者: これぞ!ファイアー大将軍!(dos/日本人のルーツ) 投稿日:2019年 8月20日(火)21時36分32秒   通報   返信・引用 > No.9075[元記事へ]

バカ2の原人さんへのお返事です。


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