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弥生時代の津波堆積物 3

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月19日(火)10時44分44秒
返信・引用 編集済
  昨日は、また先日の続きで、2000年前とされる巨大津波の年代確定のために、土器編年を調べていたのですが、寺沢薫氏の『弥生時代の年代と交流』に、全国各地の土器形式と編年に関する図がありましたので、まず図1として引用します。(図2も同じく引用の較正曲線です)

こうみると、先日の仙台平野における津波堆積物に関する報告書で出てきた「中在家南」形式が、その第Ⅲ様式になることがわかりますね。それらの土器の共伴関係から、地域間の横のつながりについては、年代が確定されているようです。

ただ、その年代が、BC100~0年に位置づけられている点が課題でしたね。

それで図2のC14の較正曲線からいくと、yBP2000となるのが、BC50~AD50くらいまでとなりそうですから、その前後にあわせて、大津波の発生年代を考えるのが自然ではないかとも感じます。

ただ、先日指摘したように、また別の報告書に現れてくるBP1900前後の数値をどう理解すべきかですね。

つまりBP2000前後と1900前後の2つの時期に大津波が発生したのか、あるいは1つの津波の誤差としてそれら2つの数値がでてきているのかとの問題です。

そして、BP1900となると、AD100~230といった期間に対応してくるはずです。

そこで再度、先日からの全国各地のBP値をみていくと、

まず岩手から仙台方面ですね、これはyBP1900~2000ですが、仙台平野のはyBP2000前後でした。

一方で、先日の南西諸島方面での記録でも、1890~1930yBP前後、1980~2030yBP前後で2つの中心値があるように見受けられました。

宮崎平野の場合も、1900yBPで、高知土佐市蟹ヶ池の場合も1900yBP、一方で三重は2000~2300yBPです。

ただ、前者では、浜堤に古墳時代の土器が発見されていますね。大津波の年代からはかなり後の400~500年代と考えられているようですが、同時期の可能性はないのかな?
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10569345_po_ART0010429483.pdf


ここで、大津波が紀元前後とAD100~で2回起こったと考えて、前者の中心地を高知・宮崎・南西諸島、後者を東海方面とするとどうでしょう。

どちらも巨大津波をともなっていたものの、後者のほうが大きく、高知の内陸400m地点に50cmの堆積物を残すほどの威力があったと想定するとどうでしょうか。

その大きかった原因としては、連動型だったことに加えて、海進や満潮など他の要素もあったかもしれません。

そして、その後者が、弥生末の北部九州の遺跡放棄や移住に関係していると睨んでいるわけですが、その1900yBPに対応する土器年代がどこにあたるかが今回の課題と言えるでしょう。

その1900yBPの地層から出てくる土器が、やはり、先の第Ⅲ様式だったならば、これは一つの大津波の誤差として、上記の2つのBP数値が生じていることになるでしょうし、まったく別の土器形式ならば、2つの可能性が強くなります。

関連して、下記の東南海地震に関する報告に、次のような記載がありましたので、引用いたします。

「少し遡って,卑弥呼の時代である庄内式併行期(  3 世 紀前半頃),弥生時代後期中頃(  1~2 世紀),弥生時代中 期中頃でIII様式からIV様式に移行する年代(  紀元前 1 世 紀頃) などについても,広い範囲で地震痕跡が存在し, 南海トラフの巨大地震が発生した可能性が高い(  寒川, 2011b,2013 など).」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua/52/5/52_191/_pdf


そこで、再度、前述の高知・九州に関する下記の報告書をみていくと、次図がありましたので図3として引用添付します。
http://www.gsi.go.jp/common/000075128.pdf

やはり、こうみると、~AD0と、AD250~の2つ大津波があるように見えますね。

だから、後者の年代は邪馬台国と関係すると予想するのです。

もうすこし、その後者の大津波の実像を浮き彫りにできないかと感じますが、また以前掲示板で論議した地磁気による年代測定法などの新資料も手に入れましたので、追ってお知らせいたします。
 
 

Re: 隕石 3

 投稿者: 平 素人(ヒイラ モト)  投稿日:2018年 6月18日(月)21時51分26秒
返信・引用 編集済
  先様がたへ>
「南極大陸は6500万年前の衝突惑星だ」を 新設の「隕石・クレーター研究掲示板」へ
6/18  に 投稿しました。

興味のある方は、こちらへもどうぞ^^。
https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs/2

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html

 

弥生時代の津波堆積物 2

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月17日(日)10時20分53秒
返信・引用 編集済
  昨晩の投稿の続きになりますが、弥生時代、2000BP前後の津波堆積物と、弥生土器との関係について、下記の報告がありましたので、お知らせします。

http://archaeology.jp/about/award/saino2012.pdf

こうみると、弥生時代中期中葉にあたる弥生IIIa1期の前後に大津波があった可能性が高そうですね。

その年代が実年代でどうなのかが課題ですが、それは後回しにして、関連資料として下記の東北関連の報告もありました。
http://www.thm.pref.miyagi.jp/media_files/cms/upfile/424/K_13web.pdf

ここで、平さんご注目の紀元前2000年前後の大津波や、私が注目する紀元前2680年前後の大津波に関連しそうなデータもありますね。図を引用添付しておきます。

こちらも東北関連の報告。
https://www.city.sendai.jp/sebikatsuyo/kurashi/manabu/kyoiku/inkai/bunkazai/kankobutsu/documents/araihirose.pdf

やはり、この種の大津波が起こると、弥生遺跡はしばらく放棄されるようですね。

こちらの南海トラフ関連の報告にも、BP2000~2400、~4000に関連するデータがあります。
http://www.bousai.go.jp/jishin/nankai/model/35/pdf/sub2.pdf

前者はやはり弥生中期の土器のようですね。


こちらも同じく東北の資料ですが、こちらの図も引用添付しておきます。
http://www.thm.pref.miyagi.jp/media_files/cms/upfile/424/K_13web.pdf

こうみると、白鳳地震の他、BP1900~2000、3100、3700、4000、4500・・といったものが大きいようですね。

ただ、やはりそのBP1900~2000については、1900に中心点が寄っているようにも見えますから、年代もAD0~230までのどこかが課題となりそうです。

その弥生中期中葉とされる土器編年が、畿内より東北のそれが遅れる可能性もあるでしょうし、その辺、どう考えるかですね。土器編年の図を下記サイトから引用添付しておきます。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku304.htm

こうみると、その弥生IIIa1期の第Ⅲ様式というのが、(一部の学者の編年によると)AD100年前後になるのでしょうか。ただ、その年代幅があるので、もう少し遅れる可能性も感じますね。

こちらの報告も参考になりそうです。
http://www.museum.kagoshima-u.ac.jp/publications/pdf_images/narikawa/67-84.pdf

そのIIIa期古相、新相と庄内式・布留式土器の年代との関係が課題ですね。

弥生末に、東北の上記の遺跡と同様に、遺跡放棄が見えてくるわけです。それらが同じ大津波イベントによるとするならば、どうなるか?


その「AMS 法による 14 C年代測定、OxCal3.10 による暦年較正、海洋リザーバ効果 400 年と仮定し、 年代は算出された。」との点が少し気になります。

この 海洋リザーバ効果の精度ですね、これも大きく年代を左右することになるでしょうか・・。

その他、古墳時代あたりの堆積物は、渡来人の移住とも関係してくるかもしれません。
 

弥生時代の津波堆積物

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月16日(土)20時51分42秒
返信・引用 編集済
  ちょっと、以前話題としていた弥生末の津波堆積物に関して、興味深い報告があったので紹介します。

こちらです。図も引用添付します。
http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/project/Japan_Sea/2-1-2nihonkai_170328.pdf
http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/project/Japan_Sea/2-1-2nihonkai_160928.pdf


先日、九州各地の弥生時代の遺跡の放棄・住民移動と、2000年前(BP2000~1900)の地層に見える津波堆積物との件を指摘したとおりですが、ここでは、さらに下関から、山陰、佐渡方面の遺跡にも2000年前と予想される津波堆積物が見られるとのことで、先日の南西諸島における同年代の津波堆積物の件を考慮すると、いかにこの弥生末の津波の威力が大きかったかがわかります。

さらに、こちらの仙台平野からも2000BP前後の津波堆積物がみられるようです。図も引用添付します。
http://www.dcrc.tohoku.ac.jp/surveys/20110311/docs/20110610_1-5_matsumoto.pdf

このBP・地層年代を確定することによって、全国の海岸沿いにある弥生遺跡年代を、その津波堆積物の有無から確定できる可能性が見えてきます。

そして、土器年代や遺跡・墳丘墓の年代もそこから逆算で明らかにしうるはずです。

なお、弥生・縄文遺跡は、塩分摂取の関係で、比較的海岸沿いに近い位置にあることが多いものですから、その確定がもたらす意義は大変大きいはずです。

先の仙台平野の弥生時代の堆積物の位置が海岸から3.3~4.1kmで東日本大震災の津波と同規模とされることからみても、この弥生末の大津波が南西諸島~東南海地震によるものと考えるならば、その仙台までは相当な距離があるのにもかかわらず、東日本大震災並みの津波をもたらしているとのことで、東日本大震災の津波の数倍の威力・高さがあったであろうことも予想しうるでしょう。

そして、九州の有明海沿いの吉野ヶ里・弥生遺跡にも、津波の影響があったことが予想されうるでしょう。
それゆえに、弥生末になり突然、遺跡が放棄され、住民の移住が行われるに至ったと考えると理解しやすくなります。

そこで問題となるのが、以前も指摘したように、BP2000前後の較正曲線(図3参照)における年代確定および、特にBP1900前後の年代が紀元後130~230年にまたがる点をどう解決するかでしょう。

この件について、また少し考えてみたいところですね。
 

東国三社と冬の三角形(続き)

 投稿者:弓張月  投稿日:2018年 6月16日(土)07時46分40秒
返信・引用 編集済
  今朝の新聞に、「最古級の地図発見 広島の博物館」とあったので、ネットで調べたら、

「博物館によれば、確認されたのは「日本扶桑(ふそう)国之図」(縦122センチ、横57センチ)。広島出身の収集家から博物館に寄託された。国内68カ国が描かれ、地図の欄外には国名と郡名、人口や田畑の面積、寺の数なども記された。近畿を中心に九州を上に描き、京都から各地へ街道が伸びている。当時は「琉球(りゅうきゅう)」と呼ばれ、日本と中国などとの中継ぎ貿易で栄えた沖縄も記されている。沖縄を「龍及(りゅうきゅう)国」と表現する鎌倉時代の地図の特徴と」のこと。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180615-00000034-asahi-soci

沖縄は、龍と泉(水)の国だったのですね。
 

東国三社と冬の三角形(続き)

 投稿者:弓張月  投稿日:2018年 6月16日(土)05時53分7秒
返信・引用 編集済
  おじゃまします。
密筑(みつき)。水木とは、三つの月,三日月,三つの筑(九十・つく)と言っているのかもしれませんね。安寧天皇は三世でアメノヒボコも同じ。伊達政宗の兜の「三日月の前立て」となりますね。そして、大草香皇子ですか。母は日向髪長媛ですからね。髪は、=神,長は、=長いでナガスネヒコ。長いは、息長(おきなが)で翁長(息が長い・長命)で、白髪、または白鬚の翁のことですかね?
沖の意味は、「わく。水がわき上がる。」 なので、沖縄は、まさに縄(文)がわく。縄文の「縄(じょう)」は、=饒,上(かみ)で、神ですね。沖縄の湧き水の水場(樋川),龍樋(りゅうひ)で水を吐き出している龍の口で、出雲風土記の樋氏とリンクするのかな?そして、長野県の川柳将軍塚古墳も。〔柳(りゅう)=龍,青柳(あおやぎ)なので、=山羊・八木,柳川(やながわ)なので、=梁(中国王朝名)〕
それと、偶然なのか志田諄一先生は、学校法人茨城キリスト教学園の学長をしてましたよね。志田は、例の「ひ⇒し」変換で「ひだ」で、常陸国信太郡(しだぐん)は、「もと日高見国なり」ですから、ひだ神国ですか。面白いですね。
例の「ひ⇒し」変換とは、「「ひら」と「しら」について「秦氏の研究」 大和岩雄著に、もう一か所見つけました。「『播磨国風土記』と播磨の秦氏系氏族」の項に、
「同じ飾磨郡の枚野(ひらの)里は新羅訓国(しらくに)村というが、「新羅訓と号(なぐ)くる所以(ゆえ)は、昔、新羅の国の人、来朝(まゐき)ける時、この村に宿りき。故、新羅訓と号く。山の名も同じ」とある。「しら」「ひら」は同義であるから、「ヒラノ」も「白野」である。「シラクニ」は、今も「白国」と書かれるが(姫路市白国)、「山の名も同じ」といわれる山は、広峯山のことである。「ひろ」も、シラ-ヒラ-ヒロと転じたのであり、白国(新羅訓)山が白峯山になり、更に広峯山になったのであろう。
現在広峯神社があるが、現在地の広峯山に移る前は、西方の白峯山にあったという。(現在地は、天禄三年〈972〉に遷座)。秦氏の赤松氏が城をかまえた白旗山と同じに、白神信仰による名が白幣山である。幣・旗を神の依代にして降臨することは、宇佐八幡宮の項で詳述したが、山頂の上社(広峯神社)に対する下社が、広峯山の山麓にある式内社の白国神社である。」とある。同じ本に2か所もあるのは歴史上で「ひら」から「しら」へ、または、「しら」から「ひら」へ変えなければならないことが起こり、「しら」「ひら」は同義となったのでしょうかね?」です。

今回は、ここまでとします。
 

隕石落下と地層年代 5

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月15日(金)15時18分30秒
返信・引用 編集済
  弓張月さんも触れている千葉方面、ここ数日は千葉東方沖でスロースリップが生じているようですね。かなりひずみ計も動いているようです。数日が山でしょうか。
http://www.hinet.bosai.go.jp/topics/press/2018/pdf/20180614_01.pdf

さて、また本の紹介ですが、今日は高橋正樹著『島弧・マグマ・テクトニクス』読んでいます。
その中に、日本列島の重力異常図があり、その図と先日の北海道のクレーター状地形を結んだライン図と重ね合わせたのが図1です。

こうみると、プレート沿いに重力異常があることがわかるのですが、そうではないところにもいくらか異常地点があり、ここに隕石落下の可能性を感じます。つまり隕石中の鉄分が重力異常を引き起こすわけです。

特に、先日指摘した厚岸湾、支笏湖・屈斜路湖周辺域、帯広・留萌方面に異常がみうけられます。

また、浦河沖にも、中心点がありますね。この地域にはプレートの潜り込みもありますが、それにしてもおかしい感じです。プレートの潜り込み図はこちら。図2として引用します。
http://www.mri-jma.go.jp/Dep/sv/2ken/fhirose/ja/PAC.html

あと、関連して会報7号に掲載したように、世界の海洋上の重力異常値を示す地域を、ラインで結んで、隕石落下地点との関係を予測したことがありました。図3参照。

赤い部分が異常値を示す地域です。地球地軸角と同じ23度前後でそれらの地点が結ばれることから、太陽系平面から地球へと侵入した隕石が、地中・海底に潜り込んだために引きおこされた重力異常を予想したことがあります。

そして、平さんご指摘の南極への隕石落下を思わせる南極周辺域での異常値も見えますね。

このようなことから、日本周辺域でも、浦河沖などの異常重力値を示す地域から、日本列島への隕石落下地点を割り出せる可能性も感じますが、この辺について、またもう少し考えていきましょう。
 

東国三社と冬の三角形(続き)

 投稿者:弓張月  投稿日:2018年 6月15日(金)11時36分26秒
返信・引用 編集済
  大切なこと忘れてました。「男神は八世,女神は8.5世となりますか」続き、子は九世ですから、八・九世で、「薬師」。また、8×9=72で、72年に1度の大祭礼,第72代天皇:白河天皇(法勝寺(ほっしょうじ)は、1083年(永保3年)に高さ約80メートルとされる八角九重塔と愛染堂が完成した。高い九重の塔は京に東から出入りする人から良く見えたという。そして、法勝寺の地は藤原氏の別荘地(白河別業)だったが、藤原師実が白河天皇に献上した。)。
「72」とは、太陽:男神と金星(女神:ビーナス)が描く五芒星(「金星が黄道上に8年周期で黄道上に五芒星を描く」)でしょうね。360°÷5=72° http://occult.blog.jp/archives/27891300.html
そしておまけ。何と第72代横綱は、牛久出身の「稀勢の里」。まさしく、牛久大仏。でも、持ってる人の歴史は切ないですね。(源三位頼政,源義経,明智光秀,真田幸村もかな?)

今回は、ここまでとします。
 

東国三社と冬の三角形(続き)

 投稿者:弓張月  投稿日:2018年 6月15日(金)10時47分36秒
返信・引用 編集済
  おじゃまします。
72年に1度の金砂大祭礼は水木浜への渡御。水木は、密筑(みつき)と書いたようですね。
『常陸国風土記』には、
「此より東北二里に密筑(みつき)の里あり、村の中に浄泉あり、俗に大井と謂う。夏冷かにして冬は温なり。湧き流れて川と成る。夏の暑い時、遠近の郷里より酒肴をもたらし、男女会集いて、遊び
楽しめり。其東南は海浜に望み、石決明(あわび)・けうに・魚貝等の類其多し。西北は山野を帯び、椎・櫟・榧・栗生い、鹿・猪住めり。」とある。http://mizuki.ehoh.net/izumigamori.htm
密筑(みつき)は、密儀,密議を連想します。密筑の「筑」は、「九十(つく)」と考え、前に投稿した筑波連山で筑波山は、九番目の申年で男体山,女体山でしたね。謎解きのコード「応神天皇=宇摩志麻遅命」を使った先代旧事本紀の物部氏系図は、初代は零世ですから、九番目は八世ですね。
伊勢神宮の「八開手(やひらて)」:8回打った後に再度短拍手を1回打つ。と伊勢神宮は天照大神で女神ですから、男神は八世,女神は8.5世となりますか。水木浜は、亀(甕)の産卵場所、泉が森は神産みの場所でしょう?そして、水木町のお隣の大甕町には大甕神社があり、学校法人茨城キリスト教学園もある訳ですね。
そして、秦野北斗様から最初の投稿のころ頂いた東国三社と千葉県銚子市妙見町の妙福寺の北辰妙見大菩薩の質問ですが、

妙福寺と息栖神社の角度は、南北ラインから、約15°傾いていて、妙福寺と鹿嶋神宮は約20°ですね。シリウス星を意識してるのかな。竜神川の伝承の「亀ヶ淵の底は上小川(大子町)のわにヶ淵に通じているとも天下野(水府村)百目木の源太淵に続いているとも言われ、
また淵の水は、水木(日立市)の泉ヶ森に吹き出しているのだとも云い伝えられている。」と一緒で、星神(北極星)のから三つ巴の争いへと歴史が続いた結果を表してるのでしょう。
千葉県の九十九里浜の「九十九里」は、「つくもり」であるから、筑森浜ですね。そして、秦氏の研究(大和岩雄 著)の「弓月君と弓月嶽」の項に、「萱森(かやもり)という部落があるが、「カヤ」は伽耶、「モリ」は朝鮮語の」「頭(かしら・頭領)」だから、「伽耶の頭」のいたところと解する説もある。」とありますから、「筑(九十)の頭」の浜と言うことですね。千葉県の九十九里から茨城空港の百里(百目木の源太淵)へ歴史が移動した。
ウィキペディアに百里と言う名の由来は諸説あり、
・江戸時代の水戸藩主が、九十九里浜に対抗して名づけた。
・この地をとおり水戸と潮来を結んでいた百里海道から名付けた(この時代、1里 = 約650m)。とある。
http://www.myokensama.jp/engi.html
https://blog.goo.ne.jp/umasan1828/e/f0038a0c4ad6a4a699a20051cf8937b2
密議とした訳は、争いの歴史のエレサレムを見ればわかりますかね。日本に平和が訪れたのは「おごれる者は久しからず」の精神をよく理解し、行動した者がいたからでしょうね。


今回は、ここまでとします。

http://

 

Re: 東国三社と冬の三角形(続き)

 投稿者:吾亞風  投稿日:2018年 6月14日(木)10時46分45秒
返信・引用
  > No.4600[元記事へ]

弓張月さんへのお返事です。

シズ・・・ジズ?
ジズは: レナニン(Renanin)、セクウィ(Sekwi: 見るもの)。
ジズは、ユダヤ教における世界の終末の日に、ベヘモト、レヴィアタンとともに義人(つまりユダヤ教徒)の食料になるとされる巨大な鳥である。
鳥の味はゼー(zeh: これ)であり、ゼー(あれ)である。
ジズはギリシアのフェニックスとも結び付けられた。
フェニックス
フェニックスはアラビアまたはフェニキアにすみ、史家タキトゥスによれば、500年ごとに太陽の都ヘリオポリスを訪れ、生命の終わりが近づくと、香木を山と重ねて火をつけ、自らを焼き、たえなる歌声とともに死に至るといわれている。https://kotobank.jp/word/フェニックス%28不死鳥%29-1584906
キリスト教のシンボルとしては、再生するキリストを表し、一般にはその不死の姿から薬屋の看板として長く用いられてきている。イギリスのエリザベス1世はフェニックスをメダルに刻ませていた。[船戸英夫]

天孫降臨とは、フェニキア人マゴ王家の日本進出 https://blogs.yahoo.co.jp/small_creeps/47098115.html
「マゴ」が漢字に当て字されて「孫」となった。つまり、天孫降臨とはマゴ王家の日本進出のことだった。
東方ルートをとったマゴ王家はイスラエルの失われた10支族のガド族・アシェル族を同行させていた。このガド族・アシェル族はヘブライ人(月を信仰するウルの神官団の末裔)ではなく、太陽神ミトラを信仰するソグド人の神官団の末裔だった。太陽神ミトラを祀る神官団がシリアに進出した際、太陽神シャマシュを祀る神官団を形成したが、ガド族・アシェル族はカナンに進出した太陽神シャマシュを祀る神官団の後裔だと考えられる。
この、太陽神を信仰する神官団であったソグド人がフェニキア人に同行して日本に来た際、アマテラスに太陽神の一面を加味した。
ソグド人は、日本をイスラエル語の「ヤハウェの民」を意味する「ヤーマト」と呼び、表記の際は太陽神の神官団らしく、日を取り入れ「日本」と記した。一方、フェニキア人はヤマトを表記する際は「大和」と記した。
この「大和」の表記は、フェニキア人の末裔である多氏と福建のビン人の連合を意味する。多氏のオオはフェニキア文字のオメガ(読みオー)から来ており、ビンもフェニキア文字のパイ(読みピー)から来ている。パイがワと訛り、多氏のオオ(大)とビンのワ(和)が合わさって「大和」となったのだ。



> おじゃまします。
> 阿弥陀三尊と埴科古墳群の東西線を重ねて見ると、富山県(西)は新川郡,新川県で、大新川命となって右脇侍の勢至菩薩、茨城県(東)は常陸国(日高見国,常世国)で、穴穂部間人皇女(茨城県那珂市の静神社)の実家の秦宗家となって左脇侍の観音菩薩、そして、真ん中は長野県の埴科古墳群で阿弥陀如来でしたね。
> 阿弥陀三尊と埴科古墳群の南北線上には、諏訪神社と妙高山(別名、須弥山)の他にも、埴科古墳群の南に長野県上田市の北向観音(きたむきかんのん)があり、埴科古墳群の北の善光寺には、「【長野善光寺の謎と七不思議!】「知られざる本堂・守屋柱の謎」とは?」とあり、「守屋柱」があるんですね。守屋は物部守屋ですね。守は、「かみ」、屋は、「矢」でしょうから、「矢」は物部守(もののべのかみ)となりますから物部氏の宗家でしょう。また、埴科古墳群の森将軍塚古墳の「森」とは、=守でしょうね。秦氏の研究(大和岩雄 著)の「弓月君と弓月嶽」の項に、「萱森(かやもり)という部落があるが、「カヤ」は伽耶、「モリ」は朝鮮語の」「頭(かしら・頭領)」だから、「伽耶の頭」のいたところと解する説もある。」とあり、不思議と解釈が合いますかね?常陸風土記には多珂郡の条に、「国宰、川原宿禰黒麻呂時、大海之辺石壁、彫造観世音菩薩像。今存矣。因号仏浜。とある。訓読みすれば、「くにのみこともち、かわらのすくねくろまろのときに、おほうみのほとりのいわぎしに、くわんぜおむぼさちのみかたをゑりつくりき。いまもあり。よりてほとけのはまとなづく。」とある訳ですね。
> 東西南北を考える場合の一つのヒントにしてください。
> http://kitamuki-kannon.com/kannon/
> https://善光寺-御朱印.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/category/【長野善光寺の謎と七不思議%ef%bc%81】「知られざる本
>
> 今回は、ここまでとします。
>
 

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