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阿須賀神社の境内には徐福の宮が

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2018年 9月23日(日)01時21分13秒
  須賀神社?阿須賀神社・・・

銅鐸(青銅器文化)と徐福伝説https://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/42751237.html

阿須賀神社の境内には徐福の宮が摂社として祀られ、徒歩で北に数分行ったところには徐福の墓もあります。・・・

須賀神社(すがじんじゃ)は、牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社。日本全国に存在する。「すが」は「須我」「清」「酒賀」「素鵞」などとも表記される。島根県・高知県に特に多い。https://ja.wikipedia.org/wiki/須賀神社
他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、祇園神社、広峯神社、天王神社、八雲神社、素盞嗚神社があり、時代や資料によって通用される。
社名は、日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するものである。須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していた。

須佐之男命(スサノオノミコト)は、稲田姫と共にこの須賀の地に 至り、美しい雲の立ち昇るのを見て、「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる この八重垣を」とhttps://kojiki.ys-ray.com/1_7_5_suga_1.html

ピスガ(裂け目)
ピスガの崖https://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/21949801.html
フアスガ、する所は 彼が存在し続けている

『ピスガ山の山頂に登る』
申命記34章1~21節https://blog.goo.ne.jp/goo17nakagawa/e/bfe6a94cdf86cb60f8ed87ffbe1afadf
 この聖書の箇所は、いよいよ神様が約束された土地に入るという直前で、モーセが入ることを神様によって閉ざされた場面です。ゴールを目前にして、その前で終わってしまうというのは、実に悔しいことのように思えます。しかし、モーセは、それを受け入れたのです。頑張って、努力したにも関わらず、それが報われないとしたら、しかも40年の苦労が報われないとしたならば、どれほど失望し辛かったことでしょう。
 荒れ野の40年の旅というのは、神に従うか、それとも自分の思いに従うかを問われ続けた旅でした。神様は、モーセに十戒を与え、様々な律法を与えたのですが、その極みは、「あなたは、わたし(神)に従うか」を問われているところにあるのです。念願かなって、自己実現をするというのではなく、神様に従うことを選びとることを教えているのです。私たちは、自分の人生ですから、獲得し自己実現したいと思います。しかし、私たちは、神の御手によって生かされ、神のご計画の中にある喜びを見い出すものでもあるのです。
 神様は、モーセに対して、「そこに渡って行くことはできない」と言われるのですが、その前に、「(アブラハムや、イサク、ヤコブに約束された土地)を自分の目で見るようにした。」と言われます。モーセは、神様の導きに従う中で、神様の御業を見せて頂いたのです。彼が自分にこだわっていたら、神様が見せようとしたものを見ることができなかったことでしょう。
 この神様に徹底的に従っていこうとした歩みは、イエス・キリストにおいても見られます。イエス様は、その当時社会から疎外されていた人のもとに歩み寄り、その癒しと解放を与えられたのです。しかし、それは、自分自身にも危機が及びかねない状況でした。そして、イエス様も神の国の到来を告げていたにも関わらず、十字架にかけられてしまいます。ある意味で無駄に思える事柄を、神様は逆転して下さいます。その神様の御業を見い出すものでありましょう。

『申命記』第34章http://www.geocities.jp/gur_bahram/jo12/jo1206.htm
次いでモーセは、モアブの砂漠平原からネボ山へ、ピスガの頂きへ上って行った。そこはエリコに面する位置にある。そしてヤハウェは彼にその全地を見せてゆかれた。すなわち、ギレアデをダンに至るまで、また、全ナフタリ、エフライムとマナセの地、そしてユダの全土を西の海に至るまで、さらにネゲブと[ヨルダン]地域、やしの木の都市であるエリコの谷あい平原をゾアルに至るまでである。
そしてヤハウェは彼にこう言われた。「これが、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの胤に与える』と言ったその土地である。わたしはあなたが自分の目でそれを見るようにした。あなたはそこに渡っては行かないからである。」
その後、ヤハウェの僕モーセは、ヤハウェの指示どおり、そのモアブの地で死んだ。そして[神]は、ベト・ペオルに面するモアブの地の谷にこれを葬った。今日に至るまで彼の墓を知っている者はいない。…

標高650メートルのネボ山はモーゼ終焉の地とされる。旧約聖書の記述にあるとおり、ここはイスラエル領エリコの向いに位置する。エルサレムでさえ、ここから50キロ足らずの距離に過ぎないのだ。聖書ゆかりの地とあって、やはりクリスチャンの巡礼客が多いようだ。

平安京もエルサレムも、どちらもその東方に湖、水源があるのです。
神の平安が宿る新しいエルサレムとは?http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=95

、予言者イザヤが書き記した「日の出ずる国」、東の方角にある「海の島々で神を崇めよ」という言葉にあることは、前述した通りです。http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=95

聖書には、終末に「東」の「地の果て」の「日の上るところ」の「島々」から、イスラエルのために救いが起こることが何ヵ所かで預言されています(イザヤ41章、 黙示録7章等)https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1227157672

愛知 尾張北部 山めぐり 秘境、岩崎山① https://blogs.yahoo.co.jp/area19192003/33280378.html
愛知県小牧市 久保一色の岩崎山 この山は、小牧市の北端にあり、奇祭で知られる田縣神社の西南1kmほどの、町中に在り、海抜54,9mの独山で、古代より人が神聖,信仰の場で、秋葉社、観音、庚申、天神、地蔵、妙見,金毘羅、大日、と産土神の熊野社がある

最近発見したこと。 小牧市の外山神社出土銅鐸あたり。 この出土地近辺は現在も深井戸の水源地です。 すぐそばに、外山水源地なんてのも現在あります。
銅鐸コミュの銅鐸と水(神)http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2761186&id=26418732
神戸市東灘区の阪神御影駅前に「澤の井(さわのい)」と呼ばれる湧水があり、
http://homepage1.nifty.com/ishiyagawa/sawanoi.htm
神功皇后の伝説もある霊泉なのですが、
実はこの御影駅の北側の山中に有名な桜ヶ丘銅鐸と渦ヶ森銅鐸の出土地があります。
甲骨文字を調べてみると、
http://newtaoyuangu.blogspot.com/2007/09/blog-post_30.html
申、電、雷が元もと同じ字を源流に発達したと考えられ、 時代が下って、電や雷の字に「雨」が冠せられるのは、稲光が雨と共に発生するから
そして、一説には申は「神」の字の古体なんだそうです。
確かに神のつくりは「申」ですね~
申は稲妻の形を表していて、古代中国では稲妻は神の威光と考えられていたようです

銅鐸と水神
アサヒグラフ「別冊」
銅鐸の谷
加茂岩倉遺跡と出雲  朝日新聞社 1997
この冊子のP94に、森浩一さんの記述があった。
内容を抜粋するならば、 1997年6月14日付の京都新聞の記事
京都市梅ケ畑向ノ地町の丘陵の山頂近くで雨乞いの祭祀遺跡が見つかった。
銅鐸が出土した場所から10mほどしか変わらない場所だった。
といった内容だ。

銅鐸は神社の境内でもよく見つかるそうですが、それは逆で神社が水源に建ってるからでしょう。
手水舎は水源ですから。

カモ、ミワ地名の以外にもオオタ、太田が訛化したタダも銅鐸出土と絡んでる気がします。
また須賀神社も示唆的ですね。
和歌山のの太田遺跡の近くに須賀神社、 東奈良遺跡の近くにも須賀神社、 ことごとく出雲系が絡んでいるのは偶然とは思えません。

阿須賀神社https://nihonshinwa.com/archives/6004
阿須賀神社は和歌山県新宮市にある神社。 新宮川の河口付近、蓬莱山ほうらいさんの南麓に鎮座する阿須賀神社。日本最古の書物の一つ『日本書紀』における神武東征神話で登場する場所。言わば「新宮発祥の地

阿須賀神社は、熊野神邑の地に第五代孝昭天皇53年に創祀されたと伝わります。 また、境内からは弥生時代の竪穴式住居趾や土器類などが出土され、 背後の蓬莱山には古代祭祀遺跡が残されています。 https://blogs.yahoo.co.jp/koro_koro_ishikoro/56305484.html
公園には、徐福のものとされる墓もあります。
徐福は今から二千二百年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて三千人の童男童女を引き連れ、熊野に渡来したと伝わります。
しかし、この地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術を伝えたと言われています。

徐福が持ち込んだ銅鐸をベースにした勢力は、その後、どうなったのか? 徐福が銅鐸を倭国に持ち込んだのは、紀元前3世紀第四四半期。https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12238927930.html
 
 

水器の形 它 完 「銅鐸と水」

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2018年 9月23日(日)00時01分26秒
  「銅鐸と水」の関係を指摘した論考がいくつか出てきた。
『銅鐸の谷-加茂岩倉遺跡と出雲(アサヒグラフ別冊)』という1997年に出た加茂岩倉発見時に出た大判の雑誌があるが、この中(p.94)であの森浩一さんが「銅鐸と水神」というコラムを書いている。このコラムで紹介された論文を図書館で探してみたところ、森浩一1967「銅鐸の出土地をたずねて」『文化史研究』19(同志社大学日本文化史研究会)という研究ノートがあることが判明!1960年、和歌山市の紀ノ川の中州で見つかった「紀ノ川(砂山)銅鐸」。その5年後の1965年に紀ノ川銅鐸発見場所から西方2kmで発見された「有本銅鐸」。森先生はこの2例から紀ノ川からの支流分岐点の祭祀を想定され、茨田堤近くの門真市大和田銅鐸出土地も「川神の祭り」に使われた可能性が多いとみる(他にも岐阜県大垣市の十六銅鐸、奈良県五條市火打野銅鐸も共通した出土状況と指摘)。また香川県綾歌郡綾南町陶、徳島県阿南市の畑田銅鐸、奈良県天理市石上銅鐸の出土地については「水源に近い水神を祭った」可能性がつよいと指摘している。
水の祭祀ということで、湧水、井戸などいろいろ探していると、『湿原祭祀』(1975年/法政大学出版局)という本があることを知った(写真)。早速近くの図書館で読んでみたのだが、著者は金井典美さんというどちらかというと民俗学系の研究者で、長野諏訪の御射山(みさやま)信仰の研究が有名な方らしい。最初銅鐸とはちょっと関係ない本だったかと思ったが、p.120~の弥生時代の湿原聖地の項では、「銅鐸出土地点の一つの顕著な特徴は、丘陵の谷にのぞんだ水辺の傾斜地であり…谷の水辺の地とむすびつけることは、十分可能のようにおもわれる」と指摘し、香川県高松市の源氏ヶ峯、徳島県源田、那賀郡桑野村、大阪府八尾市恩智など、金井さんもいくつかの事例を上げている。
銅鐸と水http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_bbe3.html
『常陸国風土記』の「夜刀(ヤツ)神」についても触れ「蛇(谷の神)は地霊の代表的な出現形相であり、また水霊(ミヅチ)でもあった。いずれにしても山ノ口は地霊を鎮め祀る聖地である」とも書いている。

「地的宗儀」説の実態は「水神祭祀」説と変わらない。それでは何故三品説が「水神祭祀」として紹介されないかというと、「銅鐸小考」の後段に、戦争の時、国境の峠に甕を埋める「境界の呪儀」が長々と論じられているからとみられる。
80年代に青銅器埋納の有力な解釈として登場した「境界祭祀」だが、淵源というか元ネタはどうもこの「銅鐸小考」にあるらしい。確かに古墳時代の祭祀に峠に甕を埋める「甕坂」の祭祀があったことは、辰巳和弘さんが書いてある通りだが(※『新古代学の視点―「かたち」から考える日本の「こころ」』(2006年/小学館))これと青銅器祭祀を結びつけるのはいかがなものだろうか?考古学者の青銅器埋納に関する論文を読むと「境界」「呪禁」「非常事態」「共同幻想」「シンボル」といった言葉がバンバン出てくる。

三河内の銅鐸 加悦谷は三河内を境として加悦町と野田川町にわかれる。http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/migoti.html
倭文氏は鳥取氏とは同類か前身のようである。捕鳥部万が物部氏が亡ぼされる際に第一線で防戦に当たったように、もともとは物部氏の一族であろうと思われる。
丹後の場合は倭文氏がいる位置が、三河内は銅鐸の位置、今田は舞鶴鉱山の位置なので、単に織物専門氏ではなかろうとは察せられるが、新撰姓氏録など見てみれば、それが裏付けられる。

目立った弥生遺跡や古墳が少ないのに何故か銅鐸出土の多い
淡路島・南あわじ市慶野地区には「瑞井(みつい)」と呼ばれる霊泉があります。
http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/129/129.html
http://web.pref.hyogo.jp/aw01/aw01_1_000000105.html
「銅鐸」と「水」とが何らかの形で結びついても不思議ではないでしょう。 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2761186&id=26418732
6個の銅鐸が一つの川筋沿いに出土しています。
古代人が想像しイメージできたカミの姿としは「蛇」…まあ雷と蛇-形も似てるといえば似てます。

雷は水をもたらす神様・・・

「水は方円の器に随う」https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1233530722
「方」は四角という意味があります。方形は四角形ということです。
正方形、立方体の「方」、方眼紙の「方」です。前方後円墳も、前が四角(台形)で後ろが円形の墳墓という意味です。
中国には「天円地方」という概念があります。天は丸く、地面は四角いというのが、古代中国の宇宙観だったのです。ですから、方と円は対概念としてよく使われるのです。
「水は方円の器に随う」も、水が融通無碍に姿を変えるということを強調するために、方と円という両極の形を比喩として用いているのです。

「宀(宗廟)+元(あたま)」https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/e7cab2e36184fbd493870c4c7ce2e79d


この文字については、水器の形[字統]、平らにのびたサソリの形[学研漢和]などの説がある。しかし、金文の形が、它(へび)と同じであり、音符に現れるイメージも、ヘビと一致することから、ヘビを表した象形と考えられる。
「也ヤ」 <へび>https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/6ecaa6089a32877884cf279852002ec0
也 尓

はかる・はかり・あげるの意味
音符の尓は、もと別形で、ショウという音を 表し、てんびんで物をもちあげるの意味。穀物をてんびんであげることから、はか る・はかり・あげるの意味を表す。

「端までゆきわたる」意となる。新字体は、旧字の爾 ⇒ 尓に変化した。
弥[彌] ビ・ミ・や  弓部
解字 旧字は彌で、「弓(ゆみ)+爾(ビ)」 の形声。ビは弭ビ(ゆはず)に通じる。ゆはずは弓の両端にあり、弦輪(つるわ)を掛ける部分。耳のかたちに似ているので弭ビと書く。弓を引くと両端のゆはずに力が伝わるので、「端までゆきわたる」意となる。新字体は、旧字の爾 ⇒ 尓に変化した。
意味 (1)あまねし。ひろくゆきわたる。「弥漫ビマン」(一面に広がる)「弥縫ビホウ」(広くひろがるほころびを縫いつくろう=根本的な解決でなく一時的にとりつくろう) (2)時を経る。ひさしい。「弥久ビキュウ」 (3)いよいよ。ますます。 (4)梵語の音訳語。「弥陀ミダ」「弥勒菩薩ミロクボサツ」 (5)[国]いや(弥)。や(弥)。「いよいよ」の意。「弥栄いやさか」(いよいよ栄える)「弥生やよい」(旧暦三月の別名・イヤオイ[草木がいよいよ生い茂る]の転)

它 タ
「它タ」 <頭の大きいヘビ>
解字 甲骨文第一字は蛇をリアルに描いた象形、第二字は単純化されており、この字形が後代に引き継がれている。金文・篆文は、この系統の字形だが頭が大きく描かれており、コブラなど頭の大きな蛇の象形。現代字は上が宀、下がヒに分離した它になった。
 古くは、ヘビの多い地域で安否を尋ねるとき「它無きか」(ヘビの害はないか)と聞いた。転じて「別条ないか」の意となり、そこから它は「別のこと・ほかの」などの意となった。
意味 (1)へび。まむし。 (2)ほか。よそ。別の。「它人タニン」(=他人)
※他と同じ意味だが、現代中国では三人称代名詞で、人なら「他」(あの人)、女性なら「她」(彼女)、人以外のものなら「它」(それ)と書いて使い分けている。
イメージ  「ほか(仮借)」 (它・佗)
       「へび」 (蛇・舵・柁・鉈)
       「蛇行する」(駝)
       「ダの音」(陀)

「諏訪大社」には竜蛇との関係・信仰の深さを感じさせる言い伝えがいくつも存在しています。http://fushigi-chikara.jp/sonota/6559/
日本最古の巫女の姿かも知れない、頭にとぐろを巻いたヘビを載せた「巳を戴く神子」の土偶が発掘されたのは、長野県の八ヶ岳山麓「井戸尻遺跡群」の「藤内遺跡」でした。
この井戸尻遺跡群があるのは諏訪郡富士見町ですが、この信濃国の諏訪の地にある日本最古の神社のひとつとも言われるのが「諏訪大社」です。諏訪大社は日本全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社で、7年目ごとに行われる「御柱祭(おんばしらさい)」は日本三大奇祭のひとつとされる、とても有名な神社です。
出雲から来た諏訪大社の神様・・・
ミシャグチ神は「塞の神(さいのかみ)」という境界を護る神様、ソソウ神は蛇神、チカト神は狩猟の神、モレヤ神(モリヤ神/洩矢神)は石木の神。また本宮の南方の「守屋山」が上社のご神体山とされました。ミシャグチ神は東日本各地にいる古い神様ですが、諏訪ではソソウ神と同一とされ、白蛇の姿をした蛇神でもあり、同時にモレヤ神とも同じとされています。つまり諏訪は、日本の古い竜蛇神が護る地であったと考えられるのです。

蛇は水神として信仰され、川や池沼の神として農耕の神となり、雨と結びついて雷神となりまた海の神ともなり豊漁を祈り、また龍宮の神とも呼ばれてきました。
出雲の龍蛇神https://izumo-murasakino.jp/izumo-ryujya.html

ウロボロス (ouroboros, uroboros) は、古代の象徴の1つで、己の尾を噛んで環となったヘビもしくは竜を図案化したもの。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ウロボロス#/media/File:Ouroboros.png
始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味が備わった。

「端までゆきわたる」・・・完・・・元
はじめ(元め)
「元ゲン」 <人の丸いあたま> と 「兀コツ」https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/bf186d79363636d91939f11df1ecc6dc
人のまるい頭の意。頭部は人間のもと(元)になるところの意。また。上の端にあるので、転じて先端・はじめの意となる。元を音符に含む字は、「あたま」「まるい」イメージを持つ。

やりとげる。
「あたま」 (元・冠)https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/e7cab2e36184fbd493870c4c7ce2e79d
完 カン  宀部
解字 「宀(宗廟)+元(あたま)」 の会意形声。戦争から元(あたま)を全うして帰ったことを祖先の霊を祭る宗廟に報告すること[字統]。無事(まったし)に帰り、任務をやりとげ、任務が終了する意となる。
意味 (1)まったし。欠けめがない。「完全カンゼン」(2)まっとうする。やりとげる。「完遂カンスイ」 (3)おわる。「完成カンセイ」「完結カンケツ」
イメージ  「欠けめない」 (完・院・浣・寇)
       「同音代替」 (莞)
音の変化  カン:完・浣・莞  イン:院  コウ:寇
 

諏訪の鉄鐸

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2018年 9月22日(土)00時09分16秒
  出雲の国と遠江の国を両極とする座標のうえに、銅鐸の出土状況を位置づけ、古典を参照することによって、各国の歴史的特徴が浮かびあがる」
消えた「銅鐸」の祭祀を残した諏訪大社の「鉄鐸」 https://kodaishi.net/archeology/tettaku
古くは「佐奈伎(さなぎ)鈴」「御宝鈴(ごほうれい)」と呼んでいました。
毎年の重要神事の御頭祭(おんとうさい)のなかで、大祝(おおはふり)の代理となる神使(おこう)が、御杖とともに持ち出します。
そして県(あがた)といわれた祭祀圏を巡行して、人々を集めて鉄鐸を鳴らし神事を行いました。
県(あがた)
かなめ。中心。
解字 金文は、「木(き)+系(ひもでつなぐ)+首(あたま)」 の会意。首をひもで結んで木につり下げた形。篆文は、「系(ひもでつなぐ)+県(逆さにした首)」 の会意。県は篆文の首を逆さにして反転させた形。そこに系(ひもでつなぐ)がついた縣は、切った首を見せしめのため高いところへ紐でぶら下げること。かける意だが、転じて、中央政府と郷村との中間にぶら下がっている行政区をさす。新字体は、旧字の縣から系を省いた形。漢字検索のための部首は目。
意味 (1)かける。つりさげる。かかげる。 (2)けん(県)。日本の地方行政区画。「県庁ケンチョウ」 (2)あがた(県)。古代に国の下に置かれた行政区。「県主あがたぬし」 (3)中国の地方行政区のひとつ。省の下位。
イメージ  「高いところから吊るす」 (県・懸)https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/6890caae19a0e94eeee7294f3d70d307
懸 ケン・ケ・かける・かかる  心部
解字 「心(こころ)+縣(高いところから吊るす)」 の会意形声。高いところから吊るされたように心が不安で気がかりなこと。また、県(縣)が地方行政組織の意味に専用されたので元の意である、つりさげる・ひっかける意もこの字で表わす。
意味 (1)気がかりな。心をむける。「懸念ケネン」 (2)ぶらさげる。かける(懸ける)。かかる(懸かる)。「懸賞金ケンショウキン」「懸垂ケンスイ」(垂れさがること)「懸樋かけひ」(樋を地上に懸けわたしたもの) (3)遠くへだたる。「懸隔ケンカク」
導 ドウ・みちびく・・・ 「寸(手)+道(みち)」 の会意形声。手引きして道をゆくこと。

高いところから吊る・・・銅鐸?

銅鐸と諏訪大社https://ameblo.jp/kokorotosekai/
諏訪大社といえば、最も古い祭神であるミシャグジ神の祭祀と、旧約聖書のアブラハムとイサク奉献のエピソードが似ているということで、ここの神事は旧約聖書の民、ユダヤ人がルーツであると言われたりしています。
http://mojimojisk.cocolog-nifty.com/lilyyarn/2013/03/post-58c5.html
http://tankyu.hatenablog.com/entry/20070106/suwa

じゃあ、きっと旧約聖書の中にもこの銅鐸…サナギの鈴に相当するエピソードがあるかもしれない、と思って検索してみたところ、それらしきものを発見しました。

「青銅の蛇」というものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%8A%85%E3%81%AE%E8%9B%87

エジプトを出発したイスラエル人の一行が、旅の苦しみに不平を言った時、神の怒りを買って燃える蛇に噛まれて死ぬ人が出たのですが、モーセが神の指示に従って旗竿の先に青銅の蛇を付け、それを見た人は助かったといいます。
 

同緯度と同経度の地点?" #

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2018年 9月21日(金)23時37分57秒
  諏訪神社が関係しているかも?「御用柿」伝説
加茂岩倉遺跡と同緯度 桜ヶ丘遺跡と同経度
35.376511 135.240496

加茂岩倉遺跡と同緯度 桜ヶ丘遺跡と同経度 付近
35.375951
京都府綾部市志賀郷町
天王山は諏訪神社のある山(諏訪山・北野山)
園部藩記録(「何鹿郡町村誌」所引)は、近江国志賀郡の人何某なる者来つて吾雀を襲ひ、宅を岡田の中にいとなみ田中石見守といふ。地名も改めて志賀といふ。今此の岳に天王の祠ありて天王山といふ。
と記し、地名変化の来由を伝える。
とある。天王山は諏訪神社のある山(諏訪山・北野山)で志賀小学校より少し北にある山ではなかろうか、その西側麓の地名は「天王」である。(天王山は興隆寺の裏山ともする「天王山城」)「北野(志賀)城」
どうも関ヶ原前後のことのようで、向田というのも彼らの故郷の村名らしい。
諏訪神社
志賀小学校の先、490号(物部西舞鶴)線が犀川を越す橋のたもとから参道がある。
今からおよそ一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。
すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによもものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の〝藤浪〝〝金宮″〝若宮〝〝諏訪″〝白田(後の篠田の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して、藤波大明神には「藤」、金宮大明神には「茗荷」、若宮大明神には「萩」、諏訪大明神には「柿」、白田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。
その奇瑞 諏訪神社=諏訪大明神の「御用柿」伝説
毎年、旧暦の正月六日午前十時になると、不思議にもお手植えの柿の木に、柿の実が三つなり、日中になると色艶がよくなるというのです。それで御用柿とも、五色の柿、御所柿ともいわれ、毎年、宮廷に献上する習わしになっていました。ところが、鎌倉時代、白藤事件より十三年後の花園天皇の正和元年(一三一二年)に、飛脚がこの柿を持って京都ヘ上る途中、喉が渇いたので、和知の民家に入りお茶を飲んだところにわかに腹痛がおこり、それと一緒柿の箱は北の空へ飛び立ってしまいました。それ以来、この奇瑞は絶えてしまったということです。これまで、精進潔斎して身と心を清めてきたのに、火を通したお茶を飲み「火のくい合わせ」の掟をやぶったのがいけなかったのです。
現在、境内に柿の木が残っていて、秋になると、たまに渋柿がなります。また、毎年、七月二十三日の『諏訪祭』には、こども相撲が奉納されます。        志賀郷公民館

南の物部にある諏訪神社は上原氏の勧請という。別に志賀氏や上原氏と何の関係のない所、丹後の三重神社や成願寺にもある、星野周防という人がいたという、そのほか舞鶴市などでも祀られていて、まずどの社も由緒不明である。鉱山冶金鍜冶の地と思われる所に見られ志賀氏上原氏勧請説はアヤシイ。(この近くにあった諏訪神社を彼らの居城近くに勧請したとの意味なら納得)
諏訪大社ならフツーには建御名方命と八坂刀売命だが、当社も金丸親王が篤く信仰されたというだけあって、本当の祭神は鍜冶神(金山彦+金山媛。≒天目一箇神)とも見られている。建御名方命というのは、威力ある南方の神ということのようで、諏訪大社は南宮社とも呼ばれる北向きの神であり、出雲の神でもあり権力側からは抵抗神叛逆神であり、そうしたことでなかなか正体は明確にならないことになっているのかも。。。
柿というのも何か金属と関係があるかも。柿本人麻呂を思い起こすが、この人が祀られている所は金属のカホリすることがある。
「柿本人麻呂」http://www.geocities.jp/tyuou59/hitomaromain.html
柿本氏は春日氏、小野氏と同族でワニ氏からわかれた。
この氏族はともに金属伝承をもっている。

暗号文としての「いろは歌」http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=165

諏訪神社 レイラインの画像https://www.bing.com/images/search?q=%e8%ab%8f%e8%a8%aa%e7%a5%9e%e7%a4%be+%e3%83%ac%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%b3&qpvt=%e8%ab%8f%e8%a8%aa%e7%a5%9e%e7%a4%be+%e3%83%ac%e3%82%a4%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%b3&FORM=IGRE
 

同緯度と同経度の地点?"

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2018年 9月21日(金)16時54分18秒
  神明遺跡
岡山県総社市福井 神明遺跡
場所(緯度):34.68412845983034
場所(経度):133.7538456916809

加茂岩倉遺跡
北緯35度21分36.5秒 東経132度53分0.6秒
35.360113 132.883437

関金町
35.360113 133.75384569168
約1200年前に行基が発見 弘法大使が再興
関金町は鳥取と岡山を結ぶ作州街道沿いの宿場町として賑わったところで、約1200年前に行基が発見し、その後弘法大使が再興したと伝わる歴史の湯でもある
関金温泉(とっとり梨の花温泉郷)https://www.jalan.net/310000/LRG_310500/SML_310508/
倉吉市の北西、南西に蒜山を望むのどかな自然に囲まれた山間の出湯。関金町は鳥取と岡山を結ぶ作州街道沿いの宿場町として賑わったところで、約1200年前に行基が発見し、その後弘法大使が再興したと伝わる歴史の湯でもある。無色無臭の湯はその透明度から「白金の湯」と呼ばれ、肌を透き通るかの様にみせてくれる美人の湯としても有名

【 行基・伝説 】-天平3年(731)、行基菩薩が当地に千光寺(大滝山地蔵院の前身)を創建した際、湯谷川で傷付いた鶴が温泉に浸かり傷口を治している姿を見て源泉の存在を知ったのが始まりとされます。
行基と関金温泉https://www.kusatuyu.com/gyouki/sekigane.html
関金温泉は行基が去った後に忘れ去られましたが、弘法大師空海が巡錫で大滝山地蔵院を訪れ、宿泊した次の朝、境内の前に流れる湯谷川で顔を洗うと、温かい水を感じられた事から、村人と相談し川底を掘ったところ源泉が湧出てきたそうです。文治4年(1188)に源頼朝の命により地蔵院が再興されると最盛期には境内には七堂伽藍、参道には42坊が建ち並び昼夜往来絶える事なしと言われる程繁栄した事から関金温泉も寺院の関係者や参拝者、湯治客が利用したと思われます。江戸時代に入ると備中街道(美作街道)が開削され関金温泉の温泉街は宿場町としての機能も持った事から旅人や商人達も汗を流したと思われます。
【 行基・周辺・史跡 】-大滝山地蔵院(島根県倉吉市関金町:天平3年:731年に行基が前身である千光寺を創建)

鳥取県は東部の因幡(いなば)と西部の伯耆(ほうき)とに分かれていますが、因幡といって思い出されるのは「因幡の白うさぎ」ではないでしょうか。
『古事記』に伝えられる神話で、ワニに皮を剥ぎ取られて、泣いている兎のそばに袋を背負った大国主命(おおくにぬしのみこと)が通りかかり、この兎を助けたという話です。
この話からも分かるように、この国は古代においては神話にあらわれる文化の中心地だったのです。
この因幡と伯耆という2つの国は、江戸時代に入ると合併して鳥取藩となり、明治以降はそのまま鳥取県になったのです。
日本で初めて正確な日本地図をつくった人物と言えば伊能忠敬を思い浮かべる人が多いでしょう。
伊能忠敬は江戸時代に大日本沿海輿地全図を完成させました。
しかし、じつは奈良時代の大僧正行基がつくった行基図と呼ばれる地図が日本地図の元祖と考えられているのです。http://www.carlos-ranch.com/
行基図は、五畿七道の諸国を楕円や円で記して、平安京から諸国への経路を記しています。
江戸時代までにつくられた日本地図は基本的にこの行基図が手本とされ、多くの書写も存在したといわれています。

古代日本の遺跡の分布 - 古代日本の歴史を謎解き
おおざっぱな意見ですが
旧石器、縄文時代は東日本に多い
・長野や山梨など内陸部の盆地も
・文化の広がりは東北から西へ移動したのでしょうか。
弥生時代
・九州など西日本に多い
・農耕文化は河川地域
・高床式建物などで定着して住む
・弥生文化は大陸から伝わり九州から東へ移動していった。
古墳時代
遺跡と云えば、古墳になります。
古墳の分布図です。
・弥生時代同様、西日本に多い
・大型古墳と云えば近畿である。
近畿、山陽、福岡(玄界灘側)、宮崎(太平洋側)に集中しています。
(有明海側にありません)
何となく、神武東征の移動図に一致します。
日本神話の「天孫降臨」から「神武東征」は古墳時代を表現しているのではないでしょうか。
出雲の国造(大国主命)も同じ時代の山陰地方です。
瀬戸内海の山陽連合国 VS 出雲を中心とする山陰 に権力が二分していた事を表現しています。
高天原の天照大神と素戔嗚は、弥生時代で間違いないと思いますが、如何でしょうか。
 

同緯度と同経度の地点?

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2018年 9月21日(金)16時17分59秒
  同緯度と同経度の地点?

浜松市の貴船神社~加茂岩倉遺跡
距離 451.325407㎞
方位角 280.54584°

浜松市の貴船神社~荒神谷遺跡
距離 454.351632㎞
方位角 280.726543°

荒神谷遺跡~浜松市の貴船神社
方位角 97.900006°

34.715517(荒神谷遺跡と同緯度) 132.852548 (荒神谷遺跡と同経度)

34.708272 132.834127 鬼ヶ城山(282.4m)は広島市佐伯区と西区の境界

鬼ヶ城山(282.4m)は広島市佐伯区と西区の境界にあり四等三角点が置かれ、広島デルタの西側を囲む柚木城、鈴ヶ峰城と並ぶ中世の山城、鬼ヶ城跡http://hirosimasatoyamakikou.web.fc2.com/hirosima/29nen/29-12onigajyou/hontai/onigajyo.html
八条岩は草津八幡宮の奥の院としてスサノオノミコトなどを祭った岩倉とされ、見上げるような大岩ですが右を巻くと簡単に岩の上に出ることができます。テーブル状の岩からは360°の展望が開け広島湾に浮かぶ安芸の宮島、安芸小富士、呉方面の灰が峰、鈴が峰、極楽寺山、窓が山などが望めます。

巻35.【13:20】八畳岩の下におりました。きれいな岩です。下山します。https://sancyou.com/vhachimaki.html

浜松市の貴船神社と同経度で荒神谷遺跡と同緯度
35.360113  137.772712

下条村 庄田山
35.359914 137.780432

下伊那郡下条村https://plaza.rakuten.co.jp/daimonmatumoto/diary/200405070000/
下条村陽沢(ひさわ)の鎮西地籍には、大山田神社という「『延喜式神祇名帳』延長5年(927)完成」に掲載されている神社がある。
 「延喜式」には、信濃関係の48座の大小神社が掲載されていて現存する大きなものとしては、諏訪大社、穂高神社がある。
 伊那郡下には、阿智村の阿智神社と下条村の大山田神社の2社のみが掲載されている。
 延喜式とは、平安時代(794年から1184年)のいわゆる律令社会にあって「延喜式」の式とは、律令格式の式すなわち律令の施行細則である。
 延喜5年(905)に編纂が開始されたことから延喜式と呼ばれ50巻からなり9巻・10巻が神名帳と呼ばれる神々のリストである。
 この時代の中央政府には、神祇官という役所があり年に4回、四時祭という4つの祭りがあり、その内2月4日の祈年祭りが一番重要な祭りで、これは天皇の名で行う稲の豊作祈願の行事である。
 この祈年祭には、朝廷から幣帛というお供え物が下賜(かし)されこの下賜される対象神社の名が延喜式内に記載されていることから式内社と呼ばれる。
 大山田神社の祭神は、「大己貴命(おおなむちのみこと)本社」「応神天皇 八幡社」「建御名方命 摂社」「鎮西八郎明神(源為朝)末社」である。
 摂社とは、本社のに付属して本社に縁故のある神様を祭るものであり、本社の神が大己貴命(別名大国主命)で、その子である諏訪神の建御名方命をお祭りしてある。
 応神天皇は源氏の神様で、源氏の勢力下には必ず八幡社として存在する。
 大山田神社は元々鎮西地籍にあったわけではなく最初の鎮座地については、「下条村睦沢山田河内(かわちではなくゴウチ)説」「阿南町深見字東条の山田説」があるが、山田河内説は地元に伝承もなく説得力に欠く。
 山田説は、山田地籍に山田池明神という古い神社があり祭神が大国主命であることからこの地が最初の鎮座地といわれている。
 鎮西地籍には、鎮西というお名前のお宅が3戸あり、その中の造園業を営む鎮西家は、歴代大山田神社の神主の家で古文書には神社を山田から下条村の菅野に移し、その後現在の地に奉祀したと書かれている。
 ここで疑問に思うのは、今でこそ道路が整備され飯田からもさほど遠くない阿南町の山田の地だが、古代においては大変交通弁が悪かった場所に見える。

長野県の遺跡 9,561 件中 1501 - 1530 件http://www.isekiwalker.com/pref/長野県/51
長野県の遺跡 下条村http://www.isekiwalker.com/pref/長野県/53
長野県の遺跡 9,561 件中 1561 - 1590 件http://www.isekiwalker.com/pref/長野県/53

東は天竜川を隔てて泰阜村と、北は阿智川や鶯巣川を隔てて飯田市・阿智村と、西は下條山脈により阿智村と、南は阿南町と接している。村名は、室町時代のはじめ甲斐の国からこの地に入り、室町中期から戦国期に全盛を極めた下條氏に由来する。
大山田神社(重要文化財)https://ja.wikipedia.org/wiki/下條村

古代この辺り一帯は「菅野荒野」と呼ばれ、万葉集に歌われ、菅野朝臣真道縁の地とされている。神社の創立年代は詳らかではないが、平安時代醍醐天皇による延喜式神名帳に載る信濃国四十八座伊那郡二座の一座で、千年以上の歴史を持つ神社である。
大山田神社 下伊那郡下條村http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/ooyamada.htm

荒神谷遺跡
北緯35度22分35.4秒 東経132度51分8.7秒
35.376511 132.852548

加茂岩倉遺跡
北緯35度21分36.5秒 東経132度53分0.6秒
35.360113 132.883437

高塚遺跡

神明遺跡
岡山県総社市福井 神明遺跡
場所(緯度):34.68412845983034
場所(経度):133.7538456916809

桜ヶ丘遺跡
34.724673,135.240496

貴船遺跡
浜松市東区和田町の貴船神社(木船神社)遠州の銅鐸では、都田の「銅鐸の谷」が有名ですが,それ以外でも、三ヶ日や湖西や磐田郡敷地、そして天竜川下流の平野で銅鐸が出土しています。
34.715517 137.772712
 

銅鐸方位ライン 5

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 9月20日(木)14時41分25秒
  キシさん、また情報ありがとうございます。ところでキシさんは掲示板に添付する図を見ることができてますか?_

さて、しばらく期間があきましたが、また銅鐸方位ラインの分析を再開したいと思います。

先日の続きで、特に初期段階の銅鐸を結んだラインが図1です。

ここでは、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、岡山県の神名遺跡、そして、先日もとりあげた兵庫県の桜ヶ丘遺跡を結んでいます。

銅鐸と遺跡詳細はこちら参照。
http://www.geocities.jp/yamauo1945/doutaku.html


神荒谷遺跡は菱環鈕式 横置き 鰭垂直、また加茂岩倉遺跡、岡山県の神名遺跡、そして、先日もとりあげた兵庫県の桜ヶ丘遺跡は、 外縁付鈕式 横置き 鰭垂直です。


こう見ると、弥生初期のラインと言えるでしょう。

それで、特に、神明遺跡から、加茂岩倉遺跡・荒神谷へは図のように45度の偏角となっています。
(図は、先日のとおり、1.5度の東偏角を修正してあります)

そして、図2は、ここ数週間分析してきた銅鐸ラインを、重ねあわせた図です。

黄緑ラインは初期の銅鐸、青ラインが中期から後期、紫ラインが末期のそれとなるでしょう。

初期のラインは、先のとおり1.5度前後の東偏角を有しています。

中期から末期のそれは、偏角は修正されているようです。

その尺度ですが、図をみるとわかるように、黒ラインの方格メッシュの交点および、その半分の地点に、遺跡が存在していることからみて、この方格メッシュ(17km)の半分の(8.5km)尺度が基礎になっていると考えうるでしょう。

以前論じたように、弥生時代の九州地方の遺跡は、52~3km前後の尺度を基礎単位としていますから、17kmはその1/3、8.5kmはその1/6と言えそうです。

その半分の4.25kmが、後代の漢尺の420m前後の10倍尺となる点にも留意すべきでしょう。

これらの尺度は、中国戦国時代の測量技術における尺度を、日本の弥生時代のそれに適用した結果だろうと思います。

そして、それらは最終的に邪馬台国時代の尺度に関係してくるのです。

 

RE銅鐸方位ライン 4

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2018年 9月15日(土)23時14分32秒
  松帆銅鐸
南あわじ市、慶野松原の海岸付近から松帆銅鐸が発見されたhttps://kobecco.hpg.co.jp/3860/

慶野松原は、古くは柿本人麻呂らにより「万葉集」に『飼飯(けひ)の海の 庭好くあらし 刈薦の 乱れ出づ見ゆ 海人の釣舟』柿本人麻呂(万葉集・巻3-256)と詠まれ、江戸時代には井原西鶴が『慶野松原は数万本の木振り、ことごとく異風にして、これ近くにあらば公家の昼寝所なるべきものを』と記された風光明媚で知られた景勝地。https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.php?bid=19https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/soshiki/shoukou/keinomatsubara.html

銅鐸が発見された場所は、たぶん、西淡中学校(旧御原中)の南側の工場敷地だったと思います。(間違っていたら、ごめんなさい)
兵庫県南あわじ市松帆古津路577番地66
北緯34度20分4.5秒東経134度44分9.2秒
慶野松原
たぶん
34.332987
134.7354

火打遺跡
34.335306
135.680238

梅ヶ畑遺跡
京都府京都市右京区梅ヶ畑向ノ地町
35.0335
135.695778

慶野松原~火打遺跡
距離 86.852829㎞
方位角89.563249°・・・約90°

慶野松原~梅ヶ畑遺跡
距離 117.512819 ㎞
方位角48.153609°

火打遺跡 ~梅ヶ畑遺跡
距離 77.735617 ㎞
方位角1.04411°・・・約 1°

参考になれば幸いです。
 

古代の方位線が経緯線に近い

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2018年 9月15日(土)09時16分0秒
     管理人さん お世話になって居ります、地震の被害お見舞い申し上げます。
古代の方位線が経緯線に近い、考え過ぎでしょうか?

九州地方(緯度32°33°34°経度131°)
四国地方(緯度34° 経度134°)
近畿地方(緯度34° 経度136°)
中部地方(緯度36° 経度138°)
関東地方(緯度36° 経度139°・140°)
東北地方(緯度40°41° 経度141°)
北海道地方(緯度43°44° 経度142°)

緯度は大昔から北極星(天の北極に近い)の高度を測ることにより、その地点の緯度が求められた。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054688685
紀元前2世紀、ギリシアのヒッパルカスという人が、現在我々が使用しているような、緯度経度システムを提案しています。ここから歴史は始まります。かの有名な、地球の大きさを測定したエラトステネスも、緯度の概念をもっていました。つまり、古くギリシアの時代から、そういう概念はあったわけです。地球が球というのは、タレスやアリストテレスによっても知られていましたから、自分の位置はどこなのか、ということで、こういう概念はでてくるわけです。
しかし、それから長い間、測定できない状態が続きます。
これは、あくまで経度のことで、緯度については、求め方が比較的簡単なので(以下、に書いていますが)、古くから測定があっただろうと言われています。経度は、1494年のトリデシャス条約で初めて経度の問題が出てきたとされています。

ピラミッドの座標と光速度の定数が一致していることが判明 https://tocana.jp/2016/12/post_11743_entry.html
ギザの大ピラミッド内、大回廊が位置する中心部の座標は、北緯29度58分45.28秒、すなわち北緯29.9792度。そして、真空中における光の速度の定数は、299,792.458km/sである。ちなみにこの数値は1983年に定義されたもので、マイクロ波やレーザーを使用することにによって測定されたものだ。桁数は違うものの、2つの数字の並びはぴたりと一致するのだ。誤差は0.01%未満で、ピラミッドの中心部からほんの少し足を動かせば、座標と光速は完全に一致するという。古代人は光の速度を正確に把握していたということだろうか……!?
 経度はイギリスの旧グリニッチ天文台を基準としているが、緯度は地球そのものに基準を置いている。もしも古代エジプト人が、意図的にピラミッドの緯度と光速を符合させていたなら、彼らは光の速さとともに、地球上の正確な位置情報も把握していたことになる。現代に匹敵するレベル(かそれ以上)の数学、物理学、天文学の知識を持っていたことになりそうだが、実はピラミッドには地球や宇宙に関する数字の符合も見つかっているのだ。

北緯30度の謎 - 三星堆玉器の古代文字https://blog.goo.ne.jp/sanxingduiyuqi/e/e101062a92de8840790971049adc6d8e
ピラミッドは約6000年前に建てられたといわれているが、なぜその時代にあれほどの巨大な石(重さ約2.5トン)を寸分の狂いもなく加工し、組上げられたか? 石の総数230万個、4辺は正確に東西南北を向いている。 方位の精度は、0.015% 底部の4辺(230m)はいまでも数センチの差しかないという。 誤差でいったら、1%以下だ。 現代の建築技術でもおいそれと達成できる精度ではない。 ファラオの墓といわれているピラミッドに、なぜ、そんなに高い精度で建設する必要があったのか?
さらに、三大ピラミッドは三星堆と同じ北緯30度に位置している。

古代メソポタミアの位置は、北緯 33 度線上 ... という《神話》」https://indeep.jp/perfect-circular-rainbow-appeared-in-33rd-parallel/
北緯 33度は、現代の社会の中で非常に大きな役割を演じている。
33の数字の意味は、フリーメーソンの階級の中で最も高い階層を示す。
イエスにまつわる伝説の縁の地であるイスラエルのガリラヤ湖も 33度線上
「この世で最初に貨幣制度が作られた」古代メソポタミアの位置は、北緯 33度線上にあったり・・・

「バミューダトライアングル」も北緯33度に位置している。
地球上の北緯33度近辺には、多数のパワースポットも存在しており(直線的に並ぶことから地球規模の「レイライン」と呼ぶ人もいるほどだ)https://tocana.jp/2016/04/post_9568_entry.html
、米国が原爆を投下した長崎。そして米国が軍事介入・内政干渉したイラクの首都バグダッド、リビアの首都トリポリ、シリアの首都ダマスカスなどは、いずれも北緯33度近辺に位置するとともに、多くの古代遺跡を抱えるまさにパワースポットそのものである。そして今回、地震の直撃を受けた熊本もまた北緯33度線上に位置するうえ、“全人類にとってのパワースポット”ともいうべき場所が存在しているのだ。

方位角が270度になる地点の緯度を求めてみると、出雲大社より1度43分低い、北緯33度 41分となりました 。https://8628.teacup.com/toraijin/bbs/mobile/index/detail/comm_id/3197/http://www.geocities.jp/yasuko8787/80621.htm

ギザの大ピラミッドは北緯30度の地点だから10度ほど上になっているが、やはり古代文明の発祥した地であることに変わりはない。

『延喜式』に書かれている日出・日入時刻を、緯度毎の理論曲線上にプロットすると、夏至の日出と冬至の日入の辺りを除いて全般的に京都がある北緯35度より、九州を通る北緯33度の曲線に合うことを著書『古代の時刻制度』の中で示しています。天体観測はその都がある地域で行われたはずですから、このことは北緯33度付近、現在の熊本県菊池・玉名辺りに国の中心となるような都があった可能性を示唆することにもなります。http://minami-aso.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/33-096c.html
北緯33°00′08.00″にある鞠智城跡の八角楼閣http://minami-aso.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/33-096c.html

正四面体と球 https://matome.naver.jp/odai/2137000037094147401
球に内接する正四面体のひとつの頂点を球の南極に合わせると、残りの三つの頂点が北緯約19.5度になります。
同様に球に内接する正四面体のひとつの頂点を球の北極に合わせると残りの三つの頂点は南緯約19.5度です。
この正多面体の4つの頂点のうちの一つを南極点に据えるとすれば、正4面体の中心角109.5度との関係から、残る3頂点は北緯19.5度の位置に120度ずつずれて並ぶ。
 

銅鐸方位ライン 4

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 9月14日(金)22時10分51秒
編集済
  キシさん、いろいろ調べておられるようですね。

また先日の続きで、銅鐸出土地を結ぶ方位ラインの分析ですが、今回は最近話題の松帆銅鐸に関するラインが判明しましたので、紹介します。図1のとおりです。

淡路島の松帆から出土した松帆銅鐸出土地から、東にラインを伸ばすと、奈良県五條市火打町の火打遺跡に至ります。

さらにそこから北へラインを伸ばすと図のように、京都市右京区梅ヶ畑向ノ地の梅ヶ畑に至ります。

それで図1の偏角を1.5度東へ修正したのが図2です。

測量手段の関係で、だいたいこの時代は1.5度前後の西偏角が生じていたようですね。

それで、各遺跡の銅鐸について分析していくと、
まずは、松帆銅鐸については下記のサイトに詳細が記されています。
https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/soshiki/maizou/doutakuhakken.html
https://kankouawaji.com/matsuhobronzebell/

古いものは弥生中期・菱環鈕式段階とされていますね。紀元前4~2世紀で、先日分析した銅鐸群より古いものです。


次の梅ヶ畑遺跡の銅鐸については、下記のページによると、 外縁付鈕式 横置き 鰭垂直ですね。
http://www.geocities.jp/yamauo1945/doutaku.html

同じく火打遺跡のそれは、扁平鈕式 横置き 鰭垂直となっています。

どちらも、先日分析した突線鈕式の銅鐸出土地を結んだラインのそれより古い形式であることがわかります。

こちらが銅鐸の形式分類と年代についてのサイトで参考になります。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku02.html


そうすると、今回の松帆銅鐸などを結んだライン・区画では古い形式の弥生中期頃の銅鐸、つまり古い時代の区画であり、前回の突線鈕式のそれを結んだライン・区画は、後代、弥生末期のそれであることが予想されます。

年代ごとに、区画やラインが新しくされていったことが伺えますね。この件は、以前分析した銅鏡出土地を結ぶライン・区画と同様です。

それでさらに言うと、それらの出土地を結ぶラインから算出される距離尺度の相違が有るか否かの問題があります。

その距離尺は図3のとおりです。

79kmおよび84kmの尺度となりますから、前回の17km尺から考えていくと、後者はその5倍尺ですね。

まだこれだけでは断定はできませんが、双方、同じ尺度を使用していた可能性がありますね。

ただ、後者は偏角がない分、方位測量に関する精度が高くなった可能性があります。

この件、もう少し分析を重ねて、その是非を確かめていきましょう。
 

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