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カテゴリ:[ 歴史 ] キーワード: 日本古代史 古代史 渡来人


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[3981] 日枝山(比叡山:日吉大社)

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2017年 8月22日(火)21時10分9秒   通報   返信・引用

山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を指したものである。
日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。
神仏習合期には「山王権現」や「日吉山王」とも称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。なお、日吉大社では猿を神使とするが、猿との関連性についてはよく分かっていない。おそらくは原始信仰の名残りではないかと推測されている。
山王信仰https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%8E%8B%E4%BF%A1%E4%BB%B0
日吉大社の創建と延暦寺[編集]
日吉大社は、もともと近江国日枝山(ひえのやま:後に比叡山の字が充てられた)の神である「大山咋神」(おおやまくいのかみ)を祀っていたもので、後に近江京遷都の翌年である天智天皇七年(668年)、大津京鎮護のため大和国三輪山(三諸山(みもろやま)とも)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神(おおものぬしのかみ)を勧請しともに祀られた。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、大山咋神・大物主神は地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされた。延暦寺を開いた最澄は寺の周囲に結界を定め、その地主神を比叡山の「諸山王」として比叡社に祀った[1]。唐の天台山国清寺が地主神として「山王弼真君」を祀っていることに因み、延暦寺ではこの両神を「山王」と称した。なお、最澄にとって比叡山の「山王」とは、山岳信仰に基づく、アニミズム的な形態に近い信仰対象であった[1]。
最澄にとって、「山王」とは山の地主神を仏教的に表現したものであるといわれる[1]。最澄が著したと思われる文書には、神名ではなくほとんど「山王 が使われており、あえて「神」とは呼ばなかった点に、仏教徒としての配慮がうかがわれるという[1]。このような、最澄による「山王」の扱いが、後に、神仏習合の「山王神道」の成立を導いていったともされる[1]。

松尾大明神が一本の鏑矢に姿を変えて 川を流れ、拾った女性を妊娠させたという伝承がある。http://www.genbu.net/saijin/ooyamakui.htm
『古事記』には、大山咋神のまたの名は山末之大主神といい、 日枝山(比叡山:日吉大社)に坐す、 また葛野の松尾(松尾大社)に坐す鳴鏑神ともいうとある。
山末は山裾、あるいは山頂の意味で、山の境界の神という意味だろうか。
弟神・羽山戸神の御子に、若山咋神という神がいる。

山の境界の神
役行者」が生死の境界に まで達した時に出現した神様なのであろう。http://d.hatena.ne.jp/momiyama67+priest/20141011/1413035293

>その昔、山城国(京都市)の愛宕権現を勧請、毎年6月29日に鎮火の祈祷が行われ、火難消除をしたそうですと「神々の島、壱岐の神社を訪ねて」で田村睦氏は書いています。
壱岐の神社
さて、京都の愛宕神社は全国約800社ある愛宕神社の総本社、山城・丹波国境(京都市右京区)の愛宕山(924m)の山頂近くにあり、急峻な山道を徒歩で行くしかなく、近代以前は神仏習合の霊山として愛宕権現とも呼ばれ、火伏の神としての信仰篤く「火廼要慎」の火伏札が今も京都の多くの家庭や会社の炊事場等に貼られています。
創建の詳細・変遷は不明だが、飛鳥時代の大宝年間(701-704)に修験道開祖の役小角と修験道僧の泰澄が愛宕山頂に神廟を造立したと縁起は記し、天応元年(781)和気清麻呂が勅を奉じ、王城鎮護の神として阿多古社を鎮座したのに始まりともいう。祭神は本宮に稚産日命・伊弉由尊・火産霊神(ホムスビノカミ)等があり、
修験道七高山の一つと言われる通り、狭く急峻な山道を登りましたが大変でした。通夜祭は毎年7月31日夕刻から8月1日早朝に参拝すると千日分のご利益があるとして「千日詣り」と呼ばれます。
壱岐の小島神社と京都の愛宕神社http://www.kansaiikinokai.com/sp/charm.html

神仏習合の進展に伴い、愛宕山は修験者の修行場となり、祭神も天狗の姿をした愛宕 権現太郎坊とも称された。こう云うことは開創伝承に役小角(修験道の開祖)と泰澄( 白山の開祖)が山頂に神廟を造立したとの伝承を生んでいる。

京都の愛宕山は、飛鳥時代終盤の700年代の初め頃に、修験道の開祖と言われる役 小角(えんのおづぬ)と修験僧である泰澄(た ... わけのきよまろ)と僧の慶俊が「愛宕大 権現」を祀り、山頂の白雲寺とそれを含む愛宕五坊という5つの寺が建立されました。
役小角と泰澄が太郎坊と出会う天狗伝説http://fushigi-chikara.jp/sonota/6326/
役小角と泰澄が愛宕山の清滝を訪れると、にわかに雷雲が起こり激しい雷雨となって先に進めなくなってしまいました。ふたりが祈祷を行うと空は晴れ、ふと見上げると大きな杉の木の上に天竺(インド)の日良、唐の善界、日本の太郎坊という、3つの国の大天狗の統領(親玉)がそれぞれ数万の眷属の天狗を率いて現れました。
大天狗は「われらは二千年もの昔に仏に命じられてこの地を領地とし、人々に恩恵をもたらす者だ」と告げ、姿を消して去って行きました。
泰澄はその天狗が現れた大きな杉を「清滝四所明神」とし、朝廷の命によって山頂に神廟を造立したのが愛宕大権現と白雲寺(愛宕神社)の始まりだと言うことです。

  役行者の出自がヤマト の葛城の〝高賀茂”氏の出身であるとすると、その〝高 ... 山城国葛野の賀茂県主は、 大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したもの、とする説がある。
賀茂県主

鴨県主家伝では、賀茂社の禰宜 黒彦の弟の伊侶具と都理が秦の姓を賜り、それぞれ伏見稲荷と松尾大社を作ったことに なる。http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/2006-05-27.html
松尾大社の桂は、神仙思想や摂社の月読神社と深く関係していそうだ。月読神社は顕宗天皇三年=487年、阿閉臣事代が任那に使したとき、月神のお告げを受け、天皇に奏上して山城国葛野郡の荒樔田の地に神領を賜り、社を創建し、壱岐県主の祖先・押見宿禰が神職として奉仕したという。
松尾大社(月読神社)の象徴である桂(桂は中国・神仙思想において月にあるという想像上の樹だ。壱岐から勧請されたとする京都で最も古い月読神社と関係していそうである。
松尾大社(月読神社)の象徴である桂(桂は中国・神仙思想において月にあるという想像上の樹だ。壱岐から勧請されたとする京都で最も古い月読神社と関係していそうである。

壱岐島(いきのしま)は、九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmの島である。 九州と対馬の中間に位置する。『古事記』によれば、別名を天比登都柱(あめひとつば しら)というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B1%E5%B2%90%E5%B3%B6
北緯33度47分0秒 東経129度43分0秒
対馬とともに、古くから朝鮮半島と九州を結ぶ海上交通の中継点となっている。なお、15世紀の朝鮮王朝との通交を記述した『海東諸国紀』(ヘドンチェグッキ)[6]にも、壱岐島や対馬島についての記事がみられる。
縄文時代の遺跡としては、後期と推定される郷ノ浦町片原触吉ヶ崎遺跡がある。弥生時代には、ほぼ全島に人々が住んだと思われる。中でも河川流域に遺跡が濃密に分布している。下流域の原の辻やミヤクリ、上流域の柳田田原地域の物部、戸田遺跡などは、その域内も広く遺物も豊富である[7]。
律令制
令制国としては、壱岐国となった。『和名抄』には壱岐郡と石田郡の2郡と11郷が伝えられる。原方と山方に相当する。壱岐値は壱岐県主で、中央に出仕した伊吉連や雪連は一族であると考えられる[7]。
平安時代の1019年(寛仁3年)には、女真族(満州族)と見られる賊徒が高麗沿岸を襲い、さらに対馬・壱岐にも現れた。この時、壱岐国国司・藤原理忠は賊徒と戦い、討ち死にしている。一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された(刀伊の入寇)。

月讀神社(つきよみじんじゃ)は、長崎県壱岐市芦辺町国分東触に鎮座する神社である。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E8%AE%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A3%B1%E5%B2%90%E5%B8%82)
月夜見命、月弓命、月読命の3柱を祀るがいずれも同神である。古くは「山の神」と称されていた。
壱岐島の月読神社に関しては、『日本書紀』顕宗天皇紀に、同天皇3年(西暦487年)、阿閉臣事代が任那に使いに出された時、壱岐島で月神が憑りついて宣託をしたので天皇に奏上し、壱岐島から月神を勧請して山城国葛野郡歌荒樔田の地に葛野坐月読神社を創建したとあり[2]、その元宮とされる(詳しくは「八幡神社 (壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)」参照)。

月読神社(つきよみじんじゃ、月讀神社)は、京都府京都市西京区松室山添町にある神社。式内社(名神大社)で、現在は松尾大社摂社。
「松尾七社」の一社。松尾大社の南400メートルの地に鎮座する。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%87%8E%E5%9D%90%E6%9C%88%E8%AA%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
ツクヨミ(月読尊)は、『古事記』『日本書紀』の神話においてアマテラス(天照大神)の兄弟神として知られるが、月読神社祭神の神格はその記紀神話とは別の伝承で伝えられた月神であると考えられている[1]。『日本書紀』顕宗天皇3年2月条[原 1]における月読神社の創建伝承では、高皇産霊(タカミムスビ)を祖とする「月神」は壱岐県主(いきのあがたぬし)に奉斎されたとある[2]。また『先代旧事本紀』[原 2]では、「天月神命」の神名で壱岐県主祖と見える[2][3]。これらから、当社祭神の神格は海人の壱岐氏(いきうじ)によって祀られた月神(海の干満を司る神)と推定される[1]。また別の神格として、壱岐氏が卜部を輩出したことから亀卜の神とする説もある[3]。
関連して、『日本書紀』顕宗天皇3年4月条[原 3]では対馬下県直が奉斎した「日神」の記載があるが、こちらもまたアマテラスとは異なる太陽信仰を出自とする神とされる[4]。同条では、月神と同様にこの日神も高皇産霊を祖とすると記されている[4]。
壱岐・対馬の氏族が卜部として中央の祭祀に携わるようになった時期を併せ考えると、月読神社の実際の創建は6世紀中頃から後半と推測されている[8]。

神職
月読神社の禰宜は、松室氏(まつむろし)が担っている[10]。松室氏は『日本書紀』顕宗天皇3年条に見える押見宿禰を祖とするといわれ、壱岐氏(いきうじ、壱岐県主のち壱岐直)の後裔とされる[1]。この壱岐氏について、『新撰姓氏録』[原 7]では壱伎直条に「天児屋命九世孫の雷大臣の後」として、中臣氏(天児屋命後裔)系であるかのような記載があるが、これは壱岐氏が卜部として朝廷に奉祀するにあたって中臣氏に統率されたためと考えられている[11]。このような中臣氏との関係は、大宝元年(701年)に社地を中臣氏に給するという記事にも見える[原 5]。なお松尾大社や月読神社に伝わる系図によると、月読神社社家は源平時代に松尾社家(秦氏)の女を母とし、秦氏を名乗ったという[12]。

月読神社の京都への勧請に際しては渡来系氏族(特に秦氏)の関わりがあったと考えられており、古代京都の祭祀や渡来文化の考証上重要な神社であるとして、境内は京都市指定史跡に指定されている[13]。

出羽三山の主峰月山山頂の「月山神社」には月読大神を祀り、約千年前につくられた 延喜式神名帳にのる名神大社です。 ... http://passy-and-bossy.com/powerspot/

伊勢神宮の内宮の傍には月読宮、外宮の傍には月夜見宮があります。更には京都の松尾大社の摂社である月読神社があります。
そして山形の月山の頂上に月山神社の奥宮としても祀られています。これらの元宮は意外にも長崎県の壱岐の島にあることは皆さんご存知の方は殆ど居ないと思います。
壱岐の県主の先祖「忍見宿弥(おしみのすくね)」が西暦478年にここの月讀神社の分霊を壱岐から京都に祭り、これが中央で神道が根付く元になったとも言われています。

忍見(押見)命
占部家の源流系図総覧http://urabe-roots.net/urabe-keizu2.htm
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
父:興台産霊神(こことむすびのかみ)
「日本書紀」神代巻に「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、中臣氏の祖神とされている。
父同様、高天原で祭祀をつかさどり、天照大神の侍臣として仕えた。
天照大神が天の岩戸に隠れた時、非常な美声の持ち主であった命(みこと)は、岩戸の前で祝詞(のりと)を奏する役を務めた。
後に、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に従い、国政に参与し国土経営を助けた。
主な任務は祭祀(神と人との中を取り持ち仕える役)をつかさどることである。
神社:枚岡神社(大阪府東大阪市出雲井町)・春日大社(奈良県奈良市春日野町)・春日神社(福岡県春日市春日) 他全国多数

壱岐には卜部の始祖として真根子の伝説が残っており、通常は壱岐直(いきのあたい)真根子と呼ばれている。この系図によれば、壱岐系と対馬系に分かれたのは真根子の子供の代である。
大臣として国政を補佐していた竹内宿祢(たけうちのすくね)に従っていたと考えられ、宿祢が異母弟の讒言によって応神天皇に殺されそうになった時、容貌が似ていたということで竹内宿祢の身代わりとなって死んだという。母が竹内宿祢の妹だとすれば、うなずける話である。

嵯峨天皇(809-823)のとき比叡山廷暦寺に、酒呑童子という不思議な術を心得た稚児がいました。http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/onihaku/densetu/
人々が怪しんで素性を調べたところ、井口の住人須川殿という長者の娘王姫の子であり、伊吹山の山の神=伊吹大明神の申し子であったというもので、3才のころから酒を飲んだので酒呑童子と名付け、10才のとき比叡山の伝教大師のもとへ稚児として弟子入りします。
 帝が新しい内裏に移ったお祝いの祭日の日、「鬼踊り」をしようということで三千人の僧の鬼の面をつくり、とくに精魂こめて作った自分用のお面をつけ京の都へくり出し、大変な人気でありました。
 山に戻って、大宴会ののち、酔いがさめ鬼面をとろうとしましたが、肉にくいついてとれません。伝教大師は、酒呑童子を山から追い出し国に戻しますが、肉親からも見すてられ、山々を転々とし、ついに大江山にいたったというものです。

酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが、源頼光(みなものとのよりみつ)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに四天王の面々、坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、ト部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名です。

頼光は四天王とともに出発前に石清水八幡宮、日吉、住吉、熊野大社に詣でたところ、 大江山に向かう道中に旅人たちに遭遇した。この旅人たちは「山伏の姿で酒呑童子に 近づきなさい」と助言をし、頼光の一行に兜と「神便鬼毒酒」を与えた。http://kowabana.jp/specters/195
源頼光と、その四天王と呼ばれていた渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)、そして藤原保昌(ふじわらのやすまさ)が鬼退治に向かうこととなった
、酒呑童子伝説については、大江山以外にも山城国(京都府南部)と丹波国の国境にあった大枝(老の坂)に住んでいたという説もある。また、越後国(新潟県)の国上寺や近江国(滋賀県)の伊吹山、大和国(奈良県)の白毫寺などにも酒呑童子が存在したとの文献が残る。

土師氏には「大枝氏」がhttp://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-26.html
土師氏は天穂日命の裔「韓日狭命(からひさ・うましからひさ)」の子供で埴輪の発明者、
日本の相撲の元祖とも言われている「野見宿禰」を元祖とする一族である。勿論「神別氏族」である。殉死の代わりに埴輪を制作した功により、11垂仁天皇から「土師職」を仁徳天皇朝には土師連姓が与えられたとされている。古墳の造成、葬送儀礼にも代々携わった。とされている。

. 【大江氏】 天穂日命の後裔、野見宿禰に始まる山城国乙訓郡大枝郷を 本拠とする土師氏が、桓武天皇の遠戚となるに因り大枝朝臣姓を賜り、後に奏請して 大江に改める。http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02102.htm
【大枝氏】【大江氏】【花井氏】【青木氏】【徳岡氏】【梅津氏】
【大江氏】【北小路家】【樟葉氏】【今富氏】【山村氏】
※上記の他【塩見氏】【中島氏】【朝長氏】【染石氏】【田崎氏】【秋次氏】が今富氏支族。
【大江氏】【上田氏】【柴橋氏】【小沢氏】【貫見氏】【古川氏】【西目氏】【水谷氏】
※上記の他【安田氏】【星野氏】【下田氏】【浅田氏】【宮地氏】【秦氏】【田中氏】【内藤氏】
【宮脇氏】【丸田氏】【増井氏】【長山氏】【岩橋氏】【竹井氏】【日置氏】【須山氏】【陶山氏】
【片倉氏】【山名氏】【竹尾氏】【倉内氏】【滝野氏】【郷原氏】【多胡氏】【長門氏】【丸川氏】
【境氏】【境野氏】【桐野氏】【久川氏】【神川氏】【白樫氏】【竹藤氏】【竹生氏】【本原氏】
【桜山氏】【相野氏】【光富氏】【大掛氏】【大懸氏】【忠津氏】【懸田氏】【清水谷氏】【盛下氏】
【仲津氏】【大屋戸氏】【都濃氏】【多度津氏】【棡氏】は大江姓を称する。

日置氏https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E7%BD%AE%E6%B0%8F-1397579
9世紀後半には負名氏以外からも殿部に任用されるようになった。令制前には,上毛野(かみつけぬ)氏の一族の車持氏は,天皇の乗物の挙行(くるまもち)に奉仕し,笠取氏は行幸の際の蓋の挙持に奉仕し,日置氏は灯燭等に奉仕した。鴨氏は山城の葛野(かどの)の県主(鴨県主)で,《下鴨系図》には舒明・皇極朝に久治良が〈殿寮〉に出仕したこと,主水司水部に多数出仕したことが記されている。…
日置氏はこの神の妻という阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)をまつっていた(《尾張国風土記》)。…

、「私は多具の国の神、名を阿麻乃 弥加都比女というのだ。私はまだ祭ってくれる祝をもっていない。もし私のために祭る人 を宛てがってくれるならば、皇子はよく物を言い、また御寿命も長くなる ...
出雲王家の伝承から考察した元伊勢伝説より導いた瀬織津姫のモデル https://ameblo.jp/amahiko/entry-12138334540.html
奪衣婆が瀬織津姫だと言われているのも関係あるかもしれません。
奪衣婆(だつえば)とは、三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆です。
奪衣婆
   役行者の老母と呼ばれる像(本来奪衣婆像であったのかもしれない)

狭穂姫と同名異神(僕は同源だと思っていますが)と言われる佐保姫は、春の女神だとされていますが、春といえば芽吹く季節そして花咲く季節です。
木花開耶姫は、花咲く季節に山から下りてきて里の花を咲かせる女神だとされますが、これも同質を感じさせます。
花を咲かせる女神


「夭ヨウ」<舞い祈る巫女>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/a6fd93a4e7559d87937d7efc190a706f
解字 若い巫女フジョが身をくねらせながら舞い祈る形の象形。若い、また、殀ヨウに通じて若死の意がある[字統]。
意味 (1)わかい(夭い)。わかく美しい。「夭桃ヨウトウ」(若々しく美しい桃の花)(2)若死にする(=殀)。「夭折ヨウセツ」
イメージ  若い巫女が舞い祈る形から「若くなよなよとした」 (夭・妖・殀)
       舞う姿から「身をくねらせる」 (笑・咲・呑)
        「同音代替」 (沃)
咲 ショウ・さく   口部
解字 篆文は、「竹+夭」で笑と同じ。現代字は、「口+?(笑の俗字)」 の会意形声。?は笑(わらう)の俗字(略字)で、咲は口をあけて笑う意。日本では、笑ったとき口もとのほころびるさまを花の開くさまに例えた。
意味 (1)わらう。(2)[国]さく(咲く)。花がさく。「遅咲(おそざ)き」
呑 ドン・のむ  口部
解字 「夭ヨウ(身をくねらす)+口(くち)」の会意。夭は人が頭を傾け、身をくねらせているさま。それに口がついた呑ドンは、口からものをのみこんで身をくねらせているさまで、ものをまる呑みすること。「天+口」も同字となっている。
意味 (1)のむ(呑む)。まるのみする。「呑舟ドンシュウ」(舟をまる呑みにする)「呑舟の魚」(舟をまる呑みするほどの大きな魚。転じて、大物。大人物)(2)とりこむ。「併呑ヘイドン」(あわせのむ。したがえる)

 「?ソウ」 <ささげ持つ> と 「送ソウ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/90d2bdbfa362b5b71542b2b483ac0175
解字 現在の漢和辞典には収録されていない字。古代文字は「朕チン」から月を省いて作成した。?の字も中国簡体字からの借用である。甲骨文字は両手で棒状のものを持って奉ずるかたち。このタテ線が何を表しているか不明だが、貴重な品物であろう。金文はタテ線に肥点がつき上に八が加わった。篆文で火に似た形となったが、旧字で下部の両手と一体となって「八+天」の形になり、さらに新字体で「?」となった。貴重なものを両手でささげ持つ意を表わす。送ソウの原字。
イメージ  「ささげ持つ」 (送・朕)
音の変化  ソウ:送  チン:朕

朕 チン・われ  月部
解字 「月(ふね)+?(両手でささげ持つ)」 の会意形声。月はここでは舟形で、盤バン(物をのせる台)の意味。盤に物を盛って人にささげること。のち、天子に物をささげる意味から転じて、天子の自称に用いられた。旧字はパソコンで表示されないので省略した。
意味 われ(朕)。天子の自称。天皇の自称。

月(ふね)+?(両手でささげ持つ)

舟の上では、赤装束の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)に扮 した男が「くも舞(蜘蛛舞)」を演じる。 ...
道の駅にあったくも舞の船の模型http://deracine.fool.jp/photos/cosmo/cosmo12akita10_l.jpg

奪衣婆・・・役行者の老母
役小角、通称役行者は奈良時代以前に実在 した人物だが、修験道の開祖として信仰を広く集めるようになったのは死後何百年も たってからで、その像は中世、近世のものが ... 堂内にはこのほかに、役行者の老母と 呼ばれる像(本来奪衣婆像であったのかもしれない)や厨子入りの童子像が安置されて いる。
円楽寺には、現存最古の役行者像ありhttps://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C/%E5%86%86%E6%A5%BD%E5%AF%BA%E3%81%A8%E5%AE%89%E5%9B%BD%E5%AF%BA/
堂内にはこのほかに、役行者の老母と呼ばれる像(本来奪衣婆像であったのかもしれない)や厨子入りの童子像が安置されている。




[3980] 比叡山

投稿者: 管理人 投稿日:2017年 8月22日(火)00時15分13秒   通報   返信・引用

弓張月さん、キシさん、情報ありがとうございます。

私のほうは、比叡山の歴史について調べはじめています。

歴史[編集]
古事記では比叡山は日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神が近江国の日枝山に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となった[2]。京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた[2]。
延暦寺が日枝山に開かれて以降、大比叡を大物主神とし小比叡を大山咋神とし地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされ、大山咋神に対する山王信仰が広まった。また比叡山山頂の諸堂や山麓の日吉大社などを参拝して歩く回峰行も行われ信仰の山である。「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をぞいふ」と慈円が詠んだことでも知られる[4]。https://ja.wikipedia.org/wiki/比叡山

大山咋神について[編集]

日吉大社(滋賀県大津市)
大山咋神を祀る日吉大社東本宮。『古事記』によると、松尾・日吉には大山咋神が鎮座するという。
祭神2柱のうち大山咋神(おおやまぐいのかみ)は、『古事記』(和銅5年(712年)成立)[原 1]や『先代旧事本紀』[原 2]において、大年神と天知迦流美豆比売(あめのかるみずひめ)の間の子であると記されるほか、
大山咋神。亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山[注 1]に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑(なりかぶら)を用つ神ぞ。
??『古事記』大国主命段(原文漢文)[原 1][9]
と記されており、比叡山の日吉大社(滋賀県大津市)の祭神と同じくする神である[10]。神名の字義は定かでないが、「くい(咋)」を「杭・杙」と見て、山頂にあって境をなす神であるともいわれる[11]。また、上記に見える「鳴鏑」に関連する伝承として、『本朝月令』所引の『秦氏本系帳』[原 3][注 2]では、
初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を澣濯す。時に一矢あり。上より流下す。女子これを取りて還り来、戸上に刺し置く。ここに女子、夫なくして妊む。既にして男児を生む。(中略)戸上の矢は松尾大明神これなり。(中略)而して鴨氏人は秦氏の聟なり。
??『本朝月令』「4月中酉賀茂祭事」所引『秦氏本系帳』(原文漢文)[原 3][9]
と見える[9]。このような神婚譚は、大神神社や賀茂別雷神社でも知られる[9]。特に『山城国風土記』逸文[原 4]に記される、賀茂建角身命の子の玉依日売が川上から流れてきた丹塗矢(ここでは乙訓郡の火雷神)により妊娠して賀茂別雷命を産んだという、賀茂氏の伝承との関連が指摘される[12]。https://ja.wikipedia.org/wiki/松尾大社



この日枝山と、秦氏との関わりですね、方位ライン面からみると、添付の図のようになりますが、その比叡山は、西側に三宅八幡社があります。その側に岩倉の地名が残っていて、比叡山・松尾大社の磐座信仰とのつながりを思わせますね。

また比叡山から西にラインを伸ばすと、日吉などの関連地名が出てきて、さらに琵琶湖を超えて、やはり三宅の字名が残る地点につきます。

さらに、三宅八幡から南にラインを伸ばすと、稲荷山そばの深草の字名が残る地域、つまり深草屯倉の位置になり、ここが秦氏の本拠となります。

松尾社も秦氏の氏寺ですし、これらは総じて、秦氏・蘇我氏の6世紀の屯倉展開の時代の名残だと言えるでしょう。その屯倉を結ぶ方位区画の上に位置しているわけです。

この辺の屯倉方位区画の件は、以前こちらで論議して、会報でも掲載したとおりですね。

だから、比叡山、つまり日枝山は、その当時の秦・蘇我氏系の信仰の影響を受けているだろうとおもうのですが、先の大山咋神が出て来る大年神系譜というのも、韓神など、渡来系の神々を記した系譜と見てよいでしょう。

鳴鏑を持つ神というのが、気になりますね。

鏑矢は、中国・遊牧民族の習俗のようです。


古くはユーラシア大陸に於いては、戦国時代の中原に於いて、荘子在宥篇に「嚆矢」の故事成語を成した話が記されている。また、北アジアの草原地帯に於いて遊牧国家匈奴を大帝国に発展させた冒頓単于が、親衛隊に冒頓の射る鏑矢の向けられた先を一斉に射るよう厳命し訓練をほどこし、クーデターに成功した逸話が前漢期に匈奴と全面戦争を永年にわたって展開した武帝の時代に編纂された史記に語られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/鏑矢


ゾグド人の影響を受けた渡来系集団のそれでしょう。
秦氏のオオカミの話と同様、遊牧民系の影響が見えます。

日枝の意味ですが、装飾古墳に見える日と樹木の組み合わせ、つまり、扶桑木信仰ですね、この辺を高句麗あたりで拾ってきたように見えます。

最澄が比叡山の場所を選んだのも、彼が近江出身であるとともに、渡来系の出自であることと関係しているかもしれません。

最澄(さいちょう)は、平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。 中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となった。
先祖は後漢の孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/最澄

彼自身は漢氏の出かもしれませんね。古市郷の古市は河内の応神天皇陵のある地域のそれでしょう。

元々、屯倉の方位区画と、その上に三宅の地名、社名、磐座があって、そのうちのひとつが、比叡山のそばにあり、日枝という場所だったろうとおもうのですが、それを何らかの方法で、最澄が知っていて、そこに本拠を構えたと考えるのが自然でしょう。

もう少し調べてみましょう。

大津の出ですから、大津から比較的近い比叡山を選ぶのも判るような気がします。




[3979] Re: 東国三社と冬の三角形(続き)

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2017年 8月21日(月)11時12分34秒   通報   返信・引用 > No.3978[元記事へ]

弓張月さんへのお返事です。


>太陽の上る方角である日本に、遅くとも縄文までには知的好奇心の旺盛な人間が来ていたのではないでしょうか?

 縄文遺跡と神社の関係は発祥も時代も異なるとするのが一般の常識です。したがって、図 K15はどう考えても偶然に違いないと考える人が多いでしょう。そこで、図 K18を示します。ここでは、美作国一宮である中山神社を出発した線が竹島を経由して90.05゜の高い直角精度で釜石環状列石に到着していることを示しています。
竹島と一宮・環状列石の不思議な関係http://w312.k.fiw-web.net/hscp/Beginning%20of%20Shinto%20shrine/landscape.html
 摩多羅神はどこから来たのかには牛頭天皇について興味あることが書かれています。ここでも、はてはシュメールにつながることになっていますが、はたしてこれが関係しているかどうかは全くわかりません。もう一つ、興味があることは、先にも書いたことがあるように、縄文遺跡から金製品が全く発見されないとした大きな謎があります。その中で、はじめて大湯環状列石を発掘したとき、金鉱石も一緒に出土した記録があるのはとても気にかかる事実です。徳之島にイシャンダリ丘(鹿児島県大島郡伊仙町)と呼ぶ丘があります。もしかしたら、この意味は「イシュタル(戦いの女神)の丘」の意味ではないか-などと考えたりしていますがはたして当たっているでしょうか-

関東の縄文遺跡の位置と精密な幾何学的な関係を持っていることを考えると、九州王朝だけが特別であるとする理由を通史で説明しない限り説得力のないことになります。ただし、寸沢嵐石器時代遺跡の扁平な石を敷き詰めた敷石構造の配石遺構としては最も良く出来ていると考えています。しかし、この出来の差はその地域に於ける現地人の能力や人口、はては材料の入手の都合などに大きく左右されていると考えています。
 いつも主張しているように、ここから見ても寸沢嵐石器時代遺跡は住居跡ではなく、祭祀用に用いられた何らかの構造物であることになります。最も大切な用途は位置を知るためであったことがわかります。寸沢嵐石器時代遺跡に行って見るとわかりますが、この位置は決して見晴らしの良い位置にはありません。そうしたことから考えると、位置を知るには適した位置ではないと考えることもできます。しかし、その位置の謎はいずれ明確になります。

牛石遺跡にあった大型環状列石の中心位置は、寸沢嵐石器時代遺跡から、三ッ峠山に引いた線の真上にあり、ずれがほとんどありません。また、後に説明するように、HSCPで求めた正確な神社群中心の位置にあります。これは、古代人の位置を決める能力がきわめて高かかった証拠でもあります。同時に、ここでは春分を意識したものではなく、秋分を意識していたことが後に明らかになります。

注;図K34に小さな赤十字線で示した位置は大形環状列石の中心位置として都留市教育委員会による記録は北緯35度33分36秒、東経 138度53分56秒となっています。こちらは残念なことに緯度・経度ともに秒の値までしかありません。遺跡は現在埋め戻されていて、それを正確に確かめることはできません。そこで、とりあえず教育委員会の記録している遺跡の位置のデータを用いて1998年3月21日(春分)の日の落日をシミュレーションして見ました。この日を選んだ理由は「縄文ランドスケープ 小林達雄 編著」の166ページにある「牛石遺跡 春分 三ッ峠山への日没」に合わせたものです。

①勝坂遺跡は神奈川県相模原市南区磯部にある遺跡で縄文時代中期前半の遺跡とされています。また①高ヶ坂石器時代遺跡東京都町田市高ケ坂にあり、縄文時代の中期末~後期の遺跡とされています。どちらも、扁平な川原石を敷き詰め、しかも一つの穴を持つ特徴的な配石遺構です。何度も書きますが、この遺跡は通説では住居跡とされていますが、決して住居跡ではなく、方位や太陽の運行などに関わる何らかの祭祀を目的とする構造物であると考えています。

24節気は中国では考古学的に確認されている最古の王朝、殷の時代(紀元前17世紀頃)にはすでにあったことが知られています。これと同じ考えであったかどうかを知ることは困難ですが、大山の頂上に落日する様子から、太陽の運行を知り、年間のうちに最も寒くなりやすい大寒の日を正確に知ることができるように遺跡が配置されていたことになります。図45では落日するポイントは少し左寄りに見えますが、背景になる山の頂上付近の分解能が低く、それが強く表現されています。大山の頂上に落日するポイントは地球の歳差運動の影響で年度によって、わずかにずれます。それは図45で見ると、およそ太陽の半径に相当するほどで、ここで仮定した年度(BC2000年)は比較的左側になっていて、年度によっては、さらに右側に沈む年度もあります、この様子から遺跡の直列配置が決められた年度を推測することも可能かも知れませんが、ここではそれを棚に上げておきます

 松本氏は風水の研究家で、この知見から田端遺跡から見た夕日が冬至の日に蛭ヶ岳に落日することを思い付いたようです。この発見はその後の縄文人が目にした景観を研究する走りとなり、「縄文ランドスケープ」へと発展して行くことになります。残念なことに、神社の配置から見ると、これまでその研究者が書いてきた内容が決して正しいとは言い切れないことが多いことがわかってきました。しかし、その中で松本氏の発見はHSCPから見ても間違いなくそのとおりであることがわかります。図K52はそのシミュレーション結果です。背景データの分解能が低く山のピークがあまりはっきりしていませんが、参考に示しました。

図K56と同じように、図K33にある寸沢嵐石器時代遺跡から竹島を経由する線も89.76°、図K44の高ヶ坂石器時代遺跡を出て竹島を経由する線も89.68°の高い直角精度で高良大社に到着していました。何度も言うように一宮は一般の神社と違って極めて分布密度の低い特殊な神社です、しかも出発点である遺跡も、敷石状配石遺構を持つ特異な縄文遺跡であることは、このような配列がとても偶然であるとすることはできません。ましてや、この到達点である高良大社の祭神が九州王朝の歴代倭王であるとするような、古代人が狭隘な地理感しか持っていなかったことを前提とする説は全く説得力に欠けることになってしまいます。

山岳-縄文遺跡-神社群中心が直列になった例をあげ、最終の端点が遺跡ではなく、神社群中心として、三峰神社、浅草神社、香取神社の三つの神社が出てきました。この例は「日本は神社が多いのでなんらかの神社に行き着くのは当たり前だ」としてとして古代人が計画的にこの配列を行っていると考えようともしない頑固な人たちがまだ多く先の三つのの神社は恣意的な結線によるものだと未だに考えている人も多いでしょう。このような人たちは確率論も信ぜず、学問そのものをを否定している人たちです。未だに古代人がそんなに精密に方向を知ることができるわけはないと信じている人がたくさんいます。後の説明で、先の三つの神社が別の観点から見ても特異の点であることを知れば、そのような疑念はなくなるのですが、それより前にもっとわかりやすい三重点の例を説明いたします。
金生遺跡から見た冬至の日の甲斐駒ヶ岳への落日
 ちょうどこの例を説明しようと考えているときに、とても都合の良い記載が山梨県のホームページに掲載されました。「遺跡トピックスNo.323国史跡金生遺跡(きんせいいせき)〔北杜市」とした9月24日の記載です。この例でも、金生遺跡から見た甲斐駒ヶ岳の落日が冬至の日になるのは単なる偶然に過ぎないと覚めた見方をする人たちが未だにいます。縄文時代の人たちがそのような知識を持ちあわせているわけはないと本気で考えているのです。このような人たちが考えを変えてくれるように説明を急遽入れることにしました。
 実はこの例もこれまで説明してきた山岳-縄文遺跡-縄文遺跡の三重点が直列となっている好例なのです。ここでは甲斐駒ヶ岳-金生遺跡-中大塚縄文時代敷石遺構が三重点となって直列に配列されています。

どの例も24節気に関係する太陽の運行と一致する線を持ち、しかも山岳の反対側に当たる端末の遺跡(寸沢嵐石器時代遺跡、高ヶ坂石器時代遺跡、中大塚縄文時代敷石遺構)はすべて扁平な敷石を持つ配石遺構となっています。この遺跡には、俗に「炉跡」と呼ばれている穴を一個持ちますが、柱穴に相当する遺構は見つかっていません。

甲斐駒ヶ岳-金生遺跡-中大塚縄文時代敷石遺構 の直列の配列がどのような精度で配列しているかを示したものが、図K59です。

中大塚縄文時代遺構から竹島を経由した直角線がどこに到達するかを見た図です。ここでも、まるで神が決めたような90.02°のすばらしい直角精度で大隅国一宮である鹿児島神宮に到達しているのです。これまで、同様な線を偶然に違いないと考えていた専門家はこの事実に声も出なくなるに違いありません。ランダムな配列で、このような直角精度の発生する大雑把な確率は5千回に一回程度しかありません。この事実を否定することは学問を否定することを意味します。

、縄文時代である今からおよそ4千年前、冬至の日に金生遺跡から望んだ夕日は甲斐駒ヶ岳の山頂に落日し、しかも遺跡から山頂を望んだ線は大塚縄文時代敷石遺遺構-金生遺跡を結んだ線の延長線と一致していたことになります。
 言い換えれば、大塚縄文時代敷石遺遺構-金生遺跡の位置が決められたのは大雑把に見てほぼ4,000年前の縄文時代に決められたことになります。これは考古学的に見た遺跡の年代とほぼ一致していることになります。このように、古代人が太陽の運行を正確に把握する能力があり、しかもそれを利用するとができたその時期がおよそ4,000年前であったことを直接証明するものです。これは、14Cや年輪年代法とは別の方法で縄文遺跡の年代を決定した最初の証拠ではないかと考えています。

これまで、縄文時代の遺跡の絶対年代を知る比較的に確かな方法として、14Cまたは年輪年代法の二つがありましたが、ここに新しい方法が加わったことになります。ここから金生遺跡と中大塚縄文時代敷石遺構の遺跡が作られた年代がBC2,777年頃であることがわかったのです。ここで、同様な遺跡の配置を見つけ、さらに多くの例で検証すれば、縄文時代の遺跡の作られた年代が次々と明らかになる可能性が出てきたことになります。
注;ここで得られた年代は次にあげる誤差が考えられます。まず、古代人が基準とした金生遺跡の正確な位置です、今回は石棒の検出された付近でシミュレーションを行いましたが、HSCPで求めた遺跡の中心位置はこの位置よりも東側の未発掘の位置にあることがわかっています。さらに、遺跡から駒ヶ岳を見上げた迎角もまだ近似値です。気差の問題や正確なジオイド高を考慮すれば、さらに精度が上がります。

国土地理院の地図に表記された縄文遺跡のほとんどが山岳と神社の配列に正確な幾何学的関係を持っていることが明らかになったのです。やはり、神社の配列と縄文遺跡、山岳の位置とは密接な関係があることは絶対に間違いないのです。明治期にできたと常識的に考えられている神社にこのような配列規則があることに驚き、まさか-と考える人は多いでしょう。しかし、これは疑いのない事実です。
 さらに牛石遺跡だけでなく、関東地方の縄文遺跡と神社の関係も新しい発見が続いています。例えば、縄文ランドスケープ アムプロモーションでは、寺野東遺跡と筑波山、冬至の落日との関係や小山修三氏の「天文観測と祭りの場」とする説がなど書かれています。
 そこで、寺野東遺跡の位置を検討したところ、ここで最も強く意識されている山岳は筑波山ではなく、90kmも離れた榛名富士(1390m)であることがわかりました。それでは、筑波山は間違いかと言うとそうも言い切れないところがあります。寺野東遺跡と筑波山、加波山(茨城県桜川市)なども三重点ではないもの、山岳-遺跡とそれに付随するピギーバックの明らかな配列を持っていることがわかりました。しかし、シミュレーションの結果からは、これを二十四節気と結びつけるには無理があることがわかりました。
 これと同じ例が北海道でもありました。環状列石(ニセコ)と、ウサクマイ遺跡が羊蹄山に対してそれぞれ三重点を持っています。しかし、西崎山ストーンサークルや忍路環状列石は羊蹄山に対して山岳-遺跡とそれに付随するピギーバックの配列となっていて、先の筑波山、加波山の例と同じになっています。

沖津宮-下田神社間に引いた線は、吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市)のHSCPによって求めた中心位置(北緯33度19分32秒14、東経130度23分02秒78)の真上を通っています。これらの精度は誤差が認められないほど精度が高く、偶然ではあり得ないような精度になっていて、弥生時代の遺跡とされている吉野ヶ里遺跡が縄文時代にすでに位置が決まっていたことをうかがわせる位置にあります。

このように、吉武高木遺跡も、吉野ヶ里遺跡も周辺の神社と同じ思想で配置されていることがわかります。ここから見ても、弥生時代とされる二つの遺跡の位置は縄文時代からすでに決まっていたことが確かではないかと考えられます。

反論は大歓迎です。HSCPを理論的に否定された最初の方には500万円の礼金を用意してあります。




> おじゃまします。
> プロサッカー選手の本田圭佑選手の移籍会見での、移籍先の背番号は2、2がVサインで平和の意味の続き
>
> 前回、平和の印とVサインの関係は、Vサインがギリシャ文字のⅤ(=5)を意味しているから平和のシンボルで、「オリンピックは平和の祭典で、オリンピックマークは、五輪マークである。」ことから、世界共通の平和のシンボルではないか?
> でも、日本では「2」が平和のシンボルでは、と考えられることがある。
> それは、世界共通の「ナンバーワン」の考え方に対する「オンリーワン」(和製英語)を大切にする考えがある。歴史上では、敏達天皇(=聖徳太子)系,称徳(=聖徳),孝謙(=貢献)天皇,源三位頼政,明智光秀の行動が私には想像される。歴史書には、明智光秀の三日天下のように書かれているが、自分は「竹」であること、摂津源氏の末裔であること、そして、聖徳太子が忍者の元祖(甲賀忍術書)であり、天下取りなと眼中になかったのではないでしょうか?(光秀の大義は、ナンバーワンを倒すことのみ、日本が世界で一番平和な国になったのは、「ナンバーワン」と「オンリーワン」の区別を大切にした者たちの苦労の結果では?)
> そして、「大」は、人の一,「天」は、人の二であり、人は=比等,平(=平良)ではないでしょうか
> なぜ、日本が独特の平和への文化が興ったかは、飛騨にある金山巨石群で太陽観測が縄文時代に行われていたようで、人類発祥の地から遠く、太陽の上る方角である日本に、遅くとも縄文までには知的好奇心の旺盛な人間が来ていたのではないでしょうか?
> 聖徳太子も日出る国と言っていたとか
> 三内丸山遺跡の三内は、三(さん)=やま,内(ない)=内(だい)裏であるから、「やまだい」となり邪馬台国と変えられる。
>
> 今回は、ここまでとします。
>



[3978] 東国三社と冬の三角形(続き)

投稿者: 弓張月 投稿日:2017年 8月20日(日)10時52分19秒   通報   返信・引用   編集済

おじゃまします。
プロサッカー選手の本田圭佑選手の移籍会見での、移籍先の背番号は2、2がVサインで平和の意味の続き

前回、平和の印とVサインの関係は、Vサインがギリシャ文字のⅤ(=5)を意味しているから平和のシンボルで、「オリンピックは平和の祭典で、オリンピックマークは、五輪マークである。」ことから、世界共通の平和のシンボルではないか?
でも、日本では「2」が平和のシンボルでは、と考えられることがある。
それは、世界共通の「ナンバーワン」の考え方に対する「オンリーワン」(和製英語)を大切にする考えがある。歴史上では、敏達天皇(=聖徳太子)系,称徳(=聖徳),孝謙(=貢献)天皇,源三位頼政,明智光秀の行動が私には想像される。歴史書には、明智光秀の三日天下のように書かれているが、自分は「竹」であること、摂津源氏の末裔であること、そして、聖徳太子が忍者の元祖(甲賀忍術書)であり、天下取りなと眼中になかったのではないでしょうか?(光秀の大義は、ナンバーワンを倒すことのみ、日本が世界で一番平和な国になったのは、「ナンバーワン」と「オンリーワン」の区別を大切にした者たちの苦労の結果では?)
そして、「大」は、人の一,「天」は、人の二であり、人は=比等,平(=平良)ではないでしょうか
なぜ、日本が独特の平和への文化が興ったかは、飛騨にある金山巨石群で太陽観測が縄文時代に行われていたようで、人類発祥の地から遠く、太陽の上る方角である日本に、遅くとも縄文までには知的好奇心の旺盛な人間が来ていたのではないでしょうか?
聖徳太子も日出る国と言っていたとか
三内丸山遺跡の三内は、三(さん)=やま,内(ない)=内(だい)裏であるから、「やまだい」となり邪馬台国と変えられる。

今回は、ここまでとします。



[3977] Re: 降水量と海進

投稿者: 管理人 投稿日:2017年 8月18日(金)00時39分52秒   通報   返信・引用 > No.3976[元記事へ]

弓張月さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
> 古市古墳群や百舌鳥古墳群は古墳時代後期以降に作られたことになりますね。やっぱり、川柳将軍塚古墳の「川柳」の575となり、倭の五王の古河と新川で、後側の新川(大新川(にいかわ=二の井川)命)さんとなりますか?八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)や彌彦神社(いやひこじんじゃ)のように、フリガナによけいな文字がある必要がある訳ですね?
>

弓張月さん、また情報ありがとうございます。古市、百舌古墳群の年代の件は重要です。

ライン的には、吉備の造山古墳と同区画になりますから、それらの年代を決める必要がありそうです。

個人的には、倭の五王の前の王、応神天皇に象徴される渡来系集団の首長の墓だと考えてます。

370年代から吉備から畿内へと進出して行くなかで、その古墳造営が始まったのでしょうか。

これらの古墳は、王としての墓という機能より、別の要素があるんですね。

応神陵と仁徳陵が東西にあるのも、その中間にある河内王朝の都が、中国式で、東西に帝廟を構えているのを真似てそうしているわけです。

おそらく都市計画の際に、すでに東西にそのサイズの古墳を造ることがきまっていて、これらは同時に造営されているはずです。その延長線上に吉備の古墳があったりするのですが、これも計画的になされています。

それらは、それ以前の奈良の中国式の都にならっていて、奈良にも馬見古墳群と、柳本古墳群が東西に配置されています。その延長線上にわざわざ河内王朝の仁徳・応神陵を造営しているのも計画的な造営で、王権の継承を意味するものです。

3世紀後半までに、奈良にそのような東西に古墳群が造営されたのですが、その当時は、先日お話した雨量の件で、奈良盆地の中心部は湖となっていて、それらの古墳が船着き場のようになっていたのではないかと思います。

大型のマウンドとなっていて、そこで灯火を円筒埴輪などをもちいて炊くことで光通信できたわけです。昼間は狼煙台ですね。

狼煙台は中国では古代から重要で、しばしば遊牧民の侵入に備えるものでもありました。

それらが変形しながら、古墳などになっていったのが、日本式といえますね。
川柳みたいなものです。

中国起源のものが、渡来してきて、日本的に再構築される、大陸の石造建築が、日本で木造になったりするそれですね。

金属製の刃物も、日本では石器や土器になる、そういう材質変化が多くみられます。

あと、 川柳将軍塚古墳というのは、初耳ですね。森将軍塚同様、4世紀前半とされているようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/川柳将軍塚古墳

森将軍塚は、円筒埴輪沢山並んでいましたが、木簡自体はかなり奈良のそれにちかい長大なものだったように覚えてます。

あの高さに古墳をもってきたのは、その位置しか造れなかったのか、あるいは、目立つようにしたのか、どちらかでしょう。王の威光云々だったかどうかは疑問です。

弘法山古墳も同様に高い位置にありますが、この古墳が、全国の前方後方墳をライン的に結ぶ上で、重要な拠点となっていたことは確かで、確かに中心的な人物が埋葬されていてもおかしくはない古墳ですね。


彌彦神社は、古い伝承がありますね。


天香山命 (あめのかごやまのみこと)
「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。
弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が神廟にあたるとされる。
なお祭神に関しては、大屋彦命・大彦命とする説もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/彌彦神社


ヤヒコのように感じますね。イ音をつけるのは、海人族の風習で、伊勢とか伊都、イザナギとかの接頭辞のイ音でしょう。

逆算すると、海人族の接頭辞のイ音は、大きいの意味があるかもしれませんね。伊勢は、大きい勢、伊都は大きい都となるでしょうか。

そうすると、日本風に治すと、大屋彦になりますね。

五十猛神

神道
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表 話 編 歴
五十猛神(イソタケル)は、日本神話に登場する神[1]。「イタケル」とも読まれる[2]。『日本書紀』『先代旧事本紀』に登場するが、『古事記』に登場する大屋毘古神(オホヤビコ)と同一神とされる[1]。射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれる[3]。須佐之男命(スサノオ)の子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメは妹[1]。
『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述から、五十猛神は林業の神として信仰されている[1]。紀伊は古来より林業の盛んな地であったので、それらの人々が信仰していた神と考えられる。また、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳もある[3]。紀伊国(かつては「木の国」と言った)に祀られているとの記述と『先代旧事本紀』分注に「亦云 大屋彦神」とあることから、『古事記』で大穴牟遅神(オオナムジ、後の大国主)がその元に逃げ込んだ木国の大屋毘古神と同一神とされる[1]。イザナギ・イザナミの子である大屋毘古神(禍津日神と同一神とされる)とは別神であるが、同一神とされることもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/五十猛神


この五十タケルのイソがのイ音が、つまり大きいとか多いの意味なのでしょう。

伊勢も五十鈴川からきているように、大きい・多いすずの意味かもしれません。


だから、五十タケルという場合、それは=で多いタケルなわけで、イソタケルで、タケルというのが、つまりヤマトタケルのそれと同類です。

大屋彦を、射楯神(いたてのかみ)と読んでいるのも、イヤヒコ、イタケルの音からくるものでしょう。

そこに武神のイメージがかさなって、武器の神の名前になっているわけです。


それで、ヤマトタケルというのは、父の景行天皇とセットで、これは大彦と息子の武て河別のセットと共通してきます。

結局、大彦伝承と大屋彦のそれはかかわっていくわけです。

地方に派遣した武神のイメージですね。

その影響が、新潟のこの地に残っている。

イザナギ伝承と関わるのは、海人族の首長の系譜をひいているからで、その首長というのが、4世紀台に奈良に入って北であろう南方海人族の象徴・大彦で、阿倍氏の祖でしょう。阿倍氏は代々航海に長けていたのもそのせいですね。

多分日本海側にも、阿倍氏は拠点をもっていたので、後代、蝦夷遠征の際に日本海側にルートを用いているように感じます。元は出雲や北九州にも彼らの拠点があり、瀬戸内にもあったでしょう。






[3976] Re: 降水量と海進

投稿者: 弓張月 投稿日:2017年 8月16日(水)12時00分8秒   通報   返信・引用 > No.3967[元記事へ]

管理人さんへのお返事です。
> 鹿島神宮はなぜ今、あんなに高い断崖の上にあるのかも、河川の水量が多かったと理解すればよいことになるでしょう。奈良盆地は弥生末から古墳時代中期まで、おそらくは湖とかしていたはずです。だから盆地の中部には遺跡も古墳もないんですね。であるとすると、
古市古墳群や百舌鳥古墳群は古墳時代後期以降に作られたことになりますね。やっぱり、川柳将軍塚古墳の「川柳」の575となり、倭の五王の古河と新川で、後側の新川(大新川(にいかわ=二の井川)命)さんとなりますか?八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)や彌彦神社(いやひこじんじゃ)のように、フリガナによけいな文字がある必要がある訳ですね?

> 弓張月さん、キシさん、情報ありがとうございます。
>
> 以前、ピラミッドと洪水伝承との兼ね合いで、海進の件で論議したのですが、その海進の原因について不可解なことがあり、未解決なところがありましたね。
>
> 具体的には、弥生時代、奈良、平安時代まで続いたであろう7m海進の問題です。
>
> それは、日本のみならず、世界規模で起こっていたであろうことも指摘したとおりなのですが、その原因がまだ未解明でした。
>
> 通説では、弥生時代までにはほぼ現在の海水面0mになっていたとされるわけですが、実際は古代のすべての遺跡も古墳も7m以上の場所に立地しており、矛盾が生じていました。
>
> それでその原因として、小さな寒冷期などの気温差における海水面変動や、プレートによる陸地の隆起あるいは、干満差の問題まで取り上げたのですが、いまいち決め手となるものがないのが現状です。
>
> 河内湖なども、ただ干拓されていったのではなく、古墳時代のある時期になって、海退に転じて、河口が沼地と化したので、埋め立てがしやすくなったのだろうと考えています。
>
> それで、奈良盆地が、その時代、やはり湖のようになっていたであろうことを考慮すると、降水量の増加も、河口周辺の海進の問題と関わって来るかもしれません。
>
>
> こちらは、過去8500年間の降水量と、アジアなどでの湿潤化の報告です。
> https://www.nies.go.jp/whatsnew/2014/20141127/20141127-2.html
>
> こちらから、そのグラフを引用添付します。
>
> 難しいのですが、北大西洋の氷河の量が経ると、東アジアの夏期のモンスーンによる雨量が多くなっているように見受けられます。
>
> 細かくみていくと、弥生時代末から古墳時代中期くらいまでは、雨量が多かったのでしょう。その後古墳時代後期に一時雨量が減り、同時に氷河が増える時期があるのですが、これが以前お話した535年のクラウチオ火山もしくは隕石衝突による塵による寒冷期とすると、その後また白鳳時代から奈良時代にかけては、雨量が増加して平安時代末ごろから、雨量が減少して近代まで続いたように見えますね。
>
> その雨量が増加していた時期は、おそらくは河川や河口周辺の水量も多かったでしょうから、海進のような状態になっていたのかもしれません。つまり、以前から指定してきた7m海進状態です。7m以下の場所には、遺跡も古墳も造営できなかったのでしょう。
>
> これが、東アジア全体に起こっていたと考えれば、白村江の戦いで、なぜ内陸にある扶余の城まで、唐や日本の船が遡っていけたのかなどの疑問も解消されていきます。
>
> 鹿島神宮はなぜ今、あんなに高い断崖の上にあるのかも、河川の水量が多かったと理解すればよいことになるでしょう。奈良盆地は弥生末から古墳時代中期まで、おそらくは湖とかしていたはずです。だから盆地の中部には遺跡も古墳もないんですね。
>
> なお、唐子・鍵遺跡などは、その中心部にあるわけですが、それは逆に雨量がすくない弥生時代中期のそれだったと考えれば合点がいくでしょう。後期になって雨量が増えて、湖のようになってしまったので、あわてて、山麓の桜井とかマキムク方面へと都を移動していったのでしょう。盆地南西の秋津の津は、文字どおり、港だったはずです。
>
> 再度奈良盆地の中心部を活用しはじめるのは、飛鳥時代くらいになるでしょうか。
> 豊浦などの地名もまだ水が多かった名残でしょうね。白鳳・奈良時代になると、再度雨量が増えていったはずですが、そのころには、河川整備がなされて、湖と化すことはなかったのでしょう。
>
> ただ、その渡来人による河川整備ができたのも、その雨量の減少によって、工事がしやすくなったからでしょう。河内湖の干拓も同様で、その減少で埋め立てなどがしやすくなったので、そのようにできたと考えるのが自然です。中世から近代の干拓も同様ですね。
>
> 雨量と河口周辺の海進の件について、もう少し調べてみましょう。
>
>
> しかし、7mも河口の水量が増加するというのは、相当な量の氷河が溶けたと考えるべきでしょうね。
>
> おそらくは、西洋やエジプトでも同様な雨量の増減があったでしょうし、それに対応する遺跡なりが見つかって然るべきでしょう。
>
>



[3975] 八尺瓊の曲玉・・・指南魚

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2017年 8月12日(土)12時37分38秒   通報   返信・引用

八尺瓊の曲玉
「夂」・・・
足がなえて曲がって いる形にかたどる。もと、「足なえ」の意。借りて、「さじ」の意に用いる。
「さじ」

夐・・・ケイきょう
夐は俗字 ?(04457:[夐:夂→攴])は本字
「もとめる」http://blog.goo.ne.jp/kanji-circle/e/99a453387c13eb52affe5de6f3358b9c/?st=1
攵(攴)部ぼくづくり
攵(=攴ボク。うつ)
攴ボクは攵の古い形で、「卜(木の枝)+又(て)」からなり、手に木の枝をもち、打つ意。
「夂」・・・足をひきずって歩くさまを示している・・・夏の禹?http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/3091

卜(木の枝)・・・占ー口(台ーム)
卜することならんといえども  卜し晨に喜鵲を占う  卜してゐた  卜したのだろうと思うが  卜するに足るべし  卜ひを伴ふ  卜うたら神が祟つたと言ふ  卜をいたします  卜もくだらないもあった  卜を立てた  卜うのだといって  卜すべき者なきにあらず  卜して大いに自分が盛宴を設け  卜してくれといわれて  卜をよくした  卜が的中しない  卜をたてて答えた  卜の上手がいたな  卜い給えと乞うと  卜を乞いにきた  卜って観てくれぬか  卜う旨を聞かせてもらいたい  卜されるので  卜して相会見せんとす  卜するにいたる  卜するには足りるだろう  卜して園にとび込みました  卜をした  卜せしむるに至った  卜の卦の示現する  卜してその門出を祝した  卜して執行の法会をお会式とはいい  卜せしは即ちこの川の北岸にして  卜ふ術まで傳へて還られました  卜ひをする  卜って貰った  卜ひ定めて行うた  卜にもぞ問ふ  卜することを伝えておる  卜しうる  卜などを観てもらいに行きますかね  卜で空しく探索した  卜した名士にして  卜して経営せられべき  卜としている  卜して新藩を置くからには  卜せんとした  卜とする  卜することは出来ない  卜するは不安であることを示します  卜したが近々其第一詩集を編輯する  卜することを得るなり  卜するものがある  卜することがあります  卜し得るという  卜するに当たり  卜見すべしと信ずるをもって  卜するに足る  卜することを得べしというも  卜を業として居たが  卜を稽古して置かなかった  卜し訖りて手を拱いて  卜ひてよろこびありと  卜せんと欲す  卜ってみると  卜していた  卜い当てた  卜したことになった  卜したりするがごとき
卜[名詞]http://collocation.hyogen.info/word/%E5%8D%9C

古代の占い:亀ト(きぼく)http://www.hyogo-c.ed.jp/~mukosogo-hs/tpcs/kiboku/tpcs.html
陸ガメのミシシッピアカミミガメの甲羅に四角い窪みを彫り込み、そこに「ははか木(桜の木か)」と呼ばれる木の棒を押し当てて焼くというものです。窪みの中には「マチ」という占いの記号を刻み、焼いた時にそこに熱が伝わってひびが入ります。裏面に現れたひびをみて吉凶を判断するというものです。このような最新の研究に基づいた古代の占いを、授業で再現します。
①まずは亀に感謝しながら甲羅を用意します。
②鑽(さん)を彫る。
※鑽とは、四方一センチメートル程の小さい四角形の名前です。
甲羅の大きさによって彫ることができる数は違いますが、私たちが使用させて頂
いた甲羅では四つ程の鑽が彫ることができました。
鑽(さん)
「賛 サン」 <財貨を差し出して助ける>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/4dede8de9d6c14edb48c83a3dc4877e4
解字 旧字は贊で、「貝(財貨)+兟シン」 の会意。兟は先(進む足さき)を二つ並べ「そろって進む」意。それに貝(財貨)を加えた贊サンは、財貨を持ち大勢がそろって進み、相手に差し出すこと。相手を助けて賛成する意となる。転じて、相手をたたえる意ともなる。新字体は旧字の兟⇒夫夫に変化した。夫に変わっても「夫(おとこ)二人が貝(財貨)を差し出してたすける」と解釈することができる。
意味 (1)たすける(賛ける)。力を添える。「賛助サンジョ」「協賛キョウサン」 (2)同意する。「賛成サンセイ」「賛同サンドウ」 (3)ほめる。たたえる(賛える)。「賛美サンビ=讃美)」
イメージ  「たたえる」 (賛・讃)
       旧字の贊に含まれる兟シンの意である 「先へ進む」 (鑽)
音の変化  サン:賛・讃・鑽
先に進む
鑽(鑚) サン・きり・きる  金部
解字 「金(金属)+贊(先へ進む)」の会意形声。先へ進んで穴をあける金属の工具。
意味 (1)きり(鑽)。錐スイとも書く。物に穴をあける工具。 (2)きる(鑽る)。きりもみする。ほる。うがつ。「鑽(き)り火」(きりもみした熱で起こした火)「鑽灼サンシャク」(鑽はうがつ、灼は焼く。穴をうがって焼くこと。占いのため亀甲に穴をうがって焼くこと) (3)物事を深くきわめる。「研鑽ケンサン」(研究。学問など深くきわめる)

兟は先(進む足さき)を二つ並べ「そろって進む」意。
それに貝(鼎)


もと鼎(てい、かなえ)の形を描いた象形文字で、、貝ではない。のち、卜(うらない)を加えて、「卜+(音符)鼎」。

贊・賛
「二つの先+貝}。先(足先)を二つ並べて、主役を助けて、かいぞえ役が並んで進むことを示し、貝印は手に持つ礼物をあらわす。儀式のさい、わきから主役をたすけること。


來(らい)(=来)は、両わきに穂のついたむぎを描いた象形文字で、天からたまわったむぎをあらわす。転じて、上から下へ送られてくるという意味を派生した。賚は「貝+(音符)來」で、金品を上から下へ授けること。→麥(=麦)の字は、この來に夂(あしをひきずる形)を加えたもので、元来はこちらが「来る」という意味の原字で、來がむぎをしめしたものだが、のちその逆となった。
夂(あしをひきずる形)
>「夂」・・・

足鼎(あしがなえ)といい、足のないものは丸鼎(まろがなえ)という。元来は、古代中国 の祭器。炊事用 ... 中国の夏(か)の禹王(うおう)が洪水を治めて開いた九つの地から銅 を集めて九鼎(きゅうてい)をつくり、宝としたところからいう。 ③(足鼎が三本足で立って  ...

足なえ. 禹が足を引きずって歩く姿を示す言葉として使われている。http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2984

>足がなえて曲がって いる形にかたどる。もと、「足なえ」の意。借りて、「さじ」の意に用いる。
「さじ」
匙形の方位磁石を置いたものである『指南』が、後に風水で使用される羅盤の原型ではないかと推測されている
「指南」(漢代)六壬式の式盤との関連が推測される。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E5%8D%A0

釣針
「眞」で「匕」(さじ 指南魚?)+「鼎」http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1814
磁力?  水を器  器にくっついて離れなくなった
侍女が水を器に入れて差し出すと、火遠理命は水を飲まずに首にかけていた玉を口に含んでその器に吐き入れた。すると玉が器にくっついて離れなくなった
海神が魚たちを集め、釣針を持っている者はいないかと問うと、赤鯛の喉に引っかかっ ているとわかった。
指南魚 「大昔の中国で使われた方位を示すと言われた道具で、永久磁石が 組み込まれていた。」 中国では大昔、すで指南車という方位を示す機械製品が作 られ、実用化していた。紀元前2600年頃には黄帝軒轅(けんえん)が造らせたという説や ...http://www.neomag.jp/mag_navi/mames/mame_glossary_main.php?title_id=328&PHPSESSID=tmsfdapdqo
指南魚なんです。魚型の 木片に磁化された鉄針 ... 或は云う、赤鯛。 疑うらくはこれが呑めるか」 ...

禹、 治水の功績により天子に. 「禹微かりせば、吾れ其れ魚ならんや」. http://blog.goo.ne.jp/independman/e/dcdab9574ecb05ac6bedc461caf328bb
魚ならんや

脛の 曲がった禹も蛇(竜) ... (曲脛)くぐせ、せむし(僂) 魚あり、扁枯、魚婦 というhttp://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1128

出典日本書紀 神功「針をまげて鉤(ち)をつくり」[訳] 針を曲げて釣り針をつくりhttp://kobun.weblio.jp/content/%E6%9E%89%E3%81%90

・・・釣り針  まがたま

釣り針起源説
勾玉には不思議な力が宿るとされ、魔除けや厄除けといった呪的な意味で身 につけられてきました。 ... 釣り針起源説http://www.magatama-sato.com/sp/about/
1.魚形起源説
魚の形に似ているため。
2.腎臓模倣説
腎臓を取り出し乾燥させると深い緑色の勾玉のような形になるため。
3.胎児模倣説
胎児の形は人や獣に魂が宿る「宿りの形」とされていた。そのため呪的な力が宿るとされていた。
4.釣り針起源説
5.獣牙起源説
獣類の牙の威力に恐怖し、それ自体を身につけることことによってお守りとした。牙に穴を開けた物を模倣し勾玉となった説。

原型となるものとしては、方位磁針相当の磁力を持った針を木片に埋め込んだ「指南魚」が3世紀頃から中国国内で使われていた[10][11]。指南魚を水に浮かべることで、現代の方位磁針とほぼ同様の機能を実現する。名前に「魚」とつくのは、多くの場合木片を魚の形に仕上げ、魚の口の部分が南を向くようにしたもの(文字通り「南を指す魚」=「指南魚」)が使われていたため[11]。
方位磁針の改良によって航海術は著しく発達し、大航海時代が始まった。
方位磁針https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D%E7%A3%81%E9%87%9D

瑪瑙メノウとして使われる。
馬 バ・メ・マ・うま・ま 馬部 解字 ウマを描いた象形。甲骨文はウマをタテに描い ... 解字 「 罒(=网:あみ)+馬(うま)」 の会意形声。罒は网(あみ)の形だが ... 馬に王偏を付けた 字。同じく、脳に王をつけた瑙ノウとともに瑪瑙メノウとして使われる。
 「馬バ」 <うま> と 「匹ヒツ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/1fa908ee195e51cd028ef0c1c0fd21b1
解字 ウマを描いた象形。甲骨文はウマをタテに描いており、上に頭、その下にたてがみと足、最後に尻尾をつけている。金文はその流れを引き継ぎ、篆文にいたって抽象化された芸術的な馬の字が完成した。現代字の馬は、足を四つの点で表現している。馬は部首にもなる。
意味 うま(馬)。「騎馬キバ」「馬具バグ」「馬蹄バテイ」(馬のひづめ)「駿馬ションメ」「伝馬テンマ」(運送用の馬)「馬子まご」(馬引き)
参考 馬は部首「馬うま・うまへん」になる。左辺や下部について馬にかんする意味を表す。常用漢字で11字(馬を含む)あり、約14,600字を収録する『新漢語林』では133字が収録されている。常用漢字は以下のとおり。
 駄ダ ・駅エキ・うまや・駆ク・かける・駐チュウ・とどまる・駒ク・こま・騎キ・のる・騒ソウ・さわぐ・
 験ケン・ためす・騰トウ・あがる・驚キョウ・おどろく
イメージ  「うま」 (馬・罵・闖・瑪)
       「マの音」 (媽)
音の変化  バ:馬・罵  チン:闖  マ:媽  メ:瑪
う ま
罵 バ・ののしる  あみがしら部
解字 「罒(=网:あみ)+馬(うま)」 の会意形声。罒は网(あみ)の形だが馬に網をかぶせても、ののしる意は出てこない。ののしる意の字は、詈リである。この字は 「网(あみ)+言(神に誓って言う)」 の会意で、神への言葉を網をかぶせて無効とする、転じて、ののしる意となる。馬に罪人をのせて市中を引き回し、人々から罵りを受ける刑罰のことを「馬+詈(ののしる)」⇒罵と表現したものと思われる。[字統]
意味 ののしる(罵る)。口ぎたなくけなす。「罵声バセイ」「罵倒バトウ」「罵詈雑言バリゾウゴン」

瑪 メ・バ  王部
解字 「王(玉)+馬(うま)」 の会意形声。馬の脳に似た宝石の意から、馬に王偏を付けた字。同じく、脳に王をつけた瑙ノウとともに瑪瑙メノウとして使われる。
意味 瑪瑙メノウに用いられる字。瑪瑙とは、石英・蛋白石などの結晶の混合物。赤褐色・緑・白などの美しい縞模様があり、装飾品・彫刻材料などに用いられる。

?ノウの原字
囟 シ・シン 口部 解字 脳をおおう頭蓋骨(ずがいこつ)の形。?ノウの原字。また、生後間 もない赤ちゃんの完全に閉じきっていない ... 瑙 ノウ 王部 解字 「王(たま)+?(のう)」 の会意形声。馬の脳に似た宝石の意で、瑪瑙メノウに使われる字。
 「囟シ」 <ひよめき> と 「?ノウ」 「脳ノウ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/8883e91f157afd6277da55b7794bcd42
解字 「囟シ・シン(ひよめき)+巛(毛の生えているさま)」 の会意。囟は、まだ頭骨のすきまが開いている赤子の頭。これに毛をつけたのが?で、赤子に毛が生えて成長した頭のかたち。転じて、頭の中の「脳」を意味し、脳の原字。単独で使われることはない。新字体の音符になるとき、囟 ⇒「ツ+メ+凵」(脳の右辺)に変化する。
(ひよめき)
ひよめき澪標, みおつくし, 「れいひょう」 とも。 船に航路を知らせる杭。
慈石(磁石)http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/1143
一説にはやはり紀元前、古く中国の慈州が磁鉄鉱の産地であったため、これを利用したのが人類最初の磁石であるともいわれています。
この鉱石を慈石と呼んでいたことから磁石の語源ともいわれます。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1328845418

呂氏春秋」に、「慈石召鉄」の記述がある, 中国の本「呂氏春秋」に、「慈石召鉄」と書かれ ている 中国の河北省南端近くに磁県(ツーシエン)ここは昔良質の慈石を産出したことから 慈州と呼ばれていた. 713. ・, 慈石の記述がある, 日本では「続日本紀」の和銅6 ...
日本では「続日本紀」の和銅6年(713年)に「近江より慈石を献ず」とあるのが最初である
地球が巨大な天然磁石であるとしコンパスが南北を指すことを説明、電気の流れは琥珀を布でこすることによって発生することを発見した

「琥珀( こはく)で勾玉作り」
中国語:琥珀≫ 「虎死して、則ち精魂地に入りて石と為る」それすなわち琥珀なり。と 古代中国の書物にあり、の玉に似ているところ ... 古墳時代に入ると、琥珀製玉類の出土 遺跡は、奈良県を中心とする近畿地方に集中しており、有力者達の古墳からは、勾玉・ ...http://www.kuji.co.jp/amber/santi.html
“太陽の石” ギリシャ神話の一説によると、太陽神の息子パエートンは、父の忠告も聞かずに無理に“太陽の馬車”に乗って天まで駆け登って暴走し、大地は火に包まれた。暴走を見かねた全知全能の神ゼウスはパエートンに雷霆を投げて打ち落とし、パエートンはエーリダノス川の河口付近に落ちて死んだ。この死を悲しんで姉妹が流した涙が固まって琥珀となり、姉妹はその場を立ち去れないままポプラの木になった。

古代ギリシャ( ... アルマゲドンの時は大地震があるという悪魔学 において、地震をおこす悪魔がみられる ・ブリヤート族(東北アジア) 魚、魚類 ・ ツングース族(東北 ...http://www.jiten.info/dic/world/jishin.html

<田>の原形は<囟・しん=ひよめき>という字形に由来し、<田>そのものは”丸い頭の部分”を指す字形を示しています。したがって、≪思≫の下部に添えてある<心>と合わせ、≪思≫は人の頭脳と心臓が拍動と共にシンクロナイズして”意識そのもがヒヨヒヨと動いている”という意味を持っています。
ひよめき
澪標, みおつくし, 「れいひょう」 とも。 船に航路を知らせる杭。 2596, 御薪, みか まぎ, 社寺に奉納するまき ... 「頭蓋(ひよめき)」と北欧神話「エッダ」の「頭蓋」・「天空」 | pmmuoummq エンデの「亀」と「頭蓋(ひよめき)」 北欧神話「エッダ」の「 ...http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/220
澪標(みおつくし、みおづくし、みおじるし、みをつくし)とは、航路を示す標識。川の 河口などに港が開かれている場合、土砂の堆積により浅くて舟の航行が不可能な場所が 多いため、比較的深く舟の航行可能な場所との境界に並べて設置され、航路を示した。 ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%AA%E6%A8%99
顋門, ひよめき, 乳児の頭蓋骨の接着していない部分。 "顋"は"あご""あぎと"" えら"と読む。 2306, 日和, ひより ..... 2595, 澪標, みおつくし, 「れいひょう」 とも。 船に航路を知らせる杭。 2596, 御薪, みかまぎ, 社寺に奉納するまき ...
震 零(澪)
羌の先零と言う一種族が、湟水の北で遊牧すること を 許されていた。 彼らが草 ...... 震」 解字:形声。意符の雨(かみなり)と、音符の辰( ふるわせる意)とから成る。雷がものをふるわせる意。ひいて、「ふるう」「ふるえる」意に 用いる。http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/j-keijiban9.htm

古代中国の書物の中で最初に慈石(磁石)という言葉が使われたのは、紀元前239年に秦の宰相である呂不韋が編さんし、当時の天地万物の知識や学説等をすべて網羅していたとされる『呂氏春秋』です。
慈石については「石鉄之母也 以有慈石 故能引其子」(慈石は鉄の母のようだ 慈石は母が子どもを引寄せるかのように鉄を呼寄せる)と記述されています。
ここで使われている磁石の「磁」には「慈」の字が当てられていました。「慈」には「かわいがって大事にする」という意味があります。
磁石を見て子供をかわいがる母親を連想する感性には心が温まります。http://www.26magnet.co.jp/database/mag-history/no03.html

・・・磁石を見て子供をかわいがる母親を連想する・・・胎児の形は人や獣に魂が宿る「宿りの形」とされていた。

磁性の結晶を構成する元素は, 閉殻の電子殻を持つ元素で,磁場におかれてはじめて磁気モーメントを持つようになる.
反磁性https://staff.aist.go.jp/nakano.shun/Jap/tatara/iron/iron6.html



[3974] 雨量と海進

投稿者: 管理人 投稿日:2017年 8月11日(金)23時32分47秒   通報   返信・引用

秦野さん、キシさん、情報ありがとうございます。
また今月末は関西向かう予定ですので、そこでオフ会でも開こうかと思いますが、ご参加できる方は、お知らせください。

それで、先日お話した古代の降水量の変化と、河口周辺地域の水面の上昇、およびsオレに伴う遺跡の移動について、さらに調べをすすめています。

こちらは、降水量と河川の水位の変化を予測する報告です。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejb/66/1/66_1_93/_pdf


こうみると、降雨が2日前後続くと、4~5mくらいまで河川が増水して、洪水などが起こる様子がみてとれますね。

それが、降雨の多い時代になると、頻繁に起こったでしょうから、古墳や都市遺跡もそれを見越して、その5m以上の高台に立地していたであろうことも予想できます。

おおよそ日本のすべての古墳や遺跡は、7m以下の場所にはないわけでして、それは、それらの河川の増水から氾濫までを見越していた可能性もあるでしょう。

なお、ピラミッドの時代は、以前もお話したように、縄文海進の時代ですから、ナイル川も、ピラミッド側まできていた可能性もあるわけですね。

それで、洪水対策として、つまり王族の避難所の意味もこめて、ピラミッドが造営され、内部に船まで保管していたと考えたことがあります。

ハム人が神が起こした洪水に対抗して建てたバベルの塔、これは洪水対策であり、つまりハム人の子孫のエジプト人が造ったピラミッドのことなんですが、そのような遺物の河口からの位置、標高と、当時の海水面との関係をもっと調べていく必要がありそうです。

それで降雨量が、特にそこに影響してくると思うのですが、間接的には、光量の増加は、東アジアの場合、先日お話したように氷河の溶解が関係していますから、河口の水位上昇には、2つの要因があると言えるでしょう、

ひとつは、降雨量増大による河川の増水、もうひとつは、氷河の溶解による海水面の上昇です。その2つが重なって、河口付近の平野部では、高潮や洪水が起こりやすくなり、結果として、河口付近から内陸へ移動する集団が出てきたり、逆に河口付近へと移住したり、干拓する集団がでてきたりするのでしょう。

その移動を解明するにあたって、上記の要素と計算が必要となってくることはいうまでもなく、それは吉野ヶ里の住民の移動とか、河内湖の干拓の推定などにもかかわってくるわけです。

その計算ですが、先の報告書にあるように、

Q=α1(H+α2)^2

Qは予想流量、 Hは予想水位 αはパラメータ


古代史の場合、単位時間あたりの水位予測は必要ないので、水位と流量と、当時の降水量の変化との関係式で、当時の状態を割り出せばよいわけですね。


河川や河口の構造で変化が出て来るでしょうし、湖面などの場合ではどうなるかも課題です。結果として、その予測にあった位置に古墳なり遺跡なりが、位置して、移動して行く様子を再現できれば、研究として結果を出すことができるかもしれまsねんが、どのようにそれをするかですね。考えていきましょう。




[3973] 「耑タン」 <長髪・あごひげの長老・シャーマン>

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2017年 8月11日(金)16時51分54秒   通報   返信・引用

「耑タン」
「端倪すべからず」(初めから終わりまで、その全貌が測り知れない)
「艮」字は『易』の八卦あるいは六 十四卦の一つである艮を意味する。艮卦は止まることや山・手などの象徴である。方位 は東北方を指し、十二支の丑と寅に相当する。
艮部(ごんぶ)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AE%E9%83%A8
「目」が「人」の反転字である「ヒ」(「比」などを参照)の上にある会意文字である。
「ヒ」
真[眞] シン・ま・まこと 目部 解字 金文は、「ヒ(さじ)+鼎(かなえ。煮炊きの器)」 の会意 。
「真 シン」  <中身が詰まる>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/681d475fedeb03084ca2729aef9694bf
解字 金文は、「ヒ(さじ)+鼎(かなえ。煮炊きの器)」 の会意。鼎で煮炊きした食べ物を匙ですくう形で、鼎のなかに食べ物がいっぱい入っているさまを表す。その中身がいっぱいに詰まっていることから、「ほんもの」「まこと」の意味に仮借カシャ(当て字)された。篆文から眞の形になり、新字体は、さらに真に変化する。
意味 (1)まこと(真)。ほんとうの。「真実シンジツ」「真理シンリ」 (2)まったくそのままの。「純真ジュンシン」「真性シンセイ」 (3)ものの姿。「写真シャシン」
イメージ  「まこと(仮借)」 (真・槙)
       「中身がつまる」 (鎮・塡・嗔・瞋)
       中身がすみずみまで 「ゆきとどく」 (慎)
       「同音代替」 (顚・癲)
音の変化  シン:真・槙・慎・嗔・瞋  チン:鎮  テン:填・顚・癲
瞋 シン・いかる  目部
解字 「目(め)+眞(=嗔。いかる)」 の会意形声。目をいからせること。
意味 いかる(瞋る)。目をいからせる。「瞋目シンモク」(目をいからす)
ゆきとどく
慎 シン・つつしむ  忄部
解字 旧字は愼で、「忄(心)+眞(ゆきとどく)」の会意形声。すみずみまで行き届いた心。愼⇒慎に変化。
意味 (1)つつしむ(慎む)。念をいれる。気を配る。「慎重シンチョウ」「謹慎キンシン」

>【測】
>会意兼形声。則は「鼎(かなえ)+刀」からなり、食器のそばにナイフをくっつけて置いたさま。側と同系で、そばにくっつける意を含む。また、そのそばにくっついて離れえない基準や法則の意となる。測は「水+音符則」で、物さしや基準をそばにつけて、水の深さをはかること。
そばにくっついて離れえない基準や法則の意

総とはhttp://dic.nicovideo.jp/a/%E7%B7%8F
意味旧字は總。まとめる、集める、合わせる、すべて、全体、ふさ、束ねる、総角(あげまき)、髪づつみ、稲束、青色という意味がある。總は〔説文解字〕に「聚むる束なり」とある。
総角
フウ
双とは、2つ対になった、両方のという意味の漢字である。また一対のものを数えるときの助数詞に使われる。http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8F%8C
意味2つ対の、両方の、2つの、並ぶ、並ぶもの、仲間。旧字体は雙。雙は〔説文解字・巻四上〕には「隹二枚なり」とある。

角:点となる星宿
角宿(音読:かくしゅく(かくしゅう)、訓読:すぼし)は、二十八宿の一つで東方青龍七宿の 第一宿。二十八宿の起点となる星宿でもある。距星はおとめ座α星(スピカ)。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%AE%BF
起点

終る所であって始まる所
二十八宿 艮http://seishikai-uranai.com/kigaku0/kigaku2-8-1
二黒は大地の土で陰性です。五黄土星は二黒と八白の中央に位して、両土星を司どり、強力なエネルギーを含んだ土星です。八白は山の土で陽性の土です。易経には「兼山艮」と書いてあります。「重なりあった山が艮である」と言う意味です。又、易経の説卦伝には「艮東北之卦也。萬物所成終而所成始也」とあるように、八白の定位は東北で、東北は万物が終る所であって始まる所です。なぜかといえば左の図でも解るように、九気盤を四季に配すと、八白の定位は冬と春の境目にあります。旧暦では二月の立春からを新年としていますから丑月(一月)は年の終りであり、寅月(二月)は年の始めとなります。

おとめ座https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%A8%E3%82%81%E5%BA%A7
古代メソポタミアに由来する。そこでは Furrow(畝)とFrond(葉)の2つの星座があり、2人の女性が描かれていた。「畝」は隣のしし座の尾と鞭、または麦穂を持ち、「葉」は「エルアの葉」と呼ばれるナツメヤシの葉を持っていた。のちのヨーロッパではこれらが統合され1人の女性になり、それぞれの手に麦穂と葉を持つようになった[5]。

亠(天秤?) 田(中心) 久

久 キュウ・ク・ひさしい ノ部 解字 篆文第一字は、「尸(しかばね)+タテ棒」の会意。尸(し かばね)は、人が椅子などに坐る姿の象形で、祭祀のとき死者である祖先に代わって 近親者が神座に坐る形。祭主であるとともに死者の意も表す。http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/9a4453c5efc4810caed273268d44419b
畝 ホ・せ・うね  田部
解字 篆文の俗字は畞で、「田(田畑)+十(タテとヨコの意)+久(=あし[夂]の変わった形)」 の会意。十はタテとヨコを表し、久は夂(あし)の変形とみて、農夫が田畑をタテとヨコに歩いて測った田の面積の意[角川新字源]。現代字は俗字の十 ⇒ 亠に変化した畝となった。
意味 (1)土地の面積の単位。周代では6尺平方を歩とし、百歩を畝とした。約1.82アール。 (2)[国]せ(畝)。面積の単位。1反(300坪)の十分の一。30坪(約1アール)。 (3)うね(畝)。畑で一定の間隔をおいて土を細長く盛り上げた所。


「田」という字 http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/kadomatsu/7_01.html
、「田」という字は、「全体として広がっている耕地を畝や道路などで区切った様子を示している」とあります

昔、人間が仲良く暮らしていた時代は、神もまた地上で人間と仲良く暮らしていた[1]。しかし後に現れた人間たちは争ってばかりだったので、神は1人ずつ天に帰っていった[1]。最後まで残ったのが正義と天文の女神アストライアーで、1人地上に残り、人間に正義を教えていたが、彼女も人間に失望し、自ら天に昇っておとめ座となり、持っている天秤はてんびん座となった[1]。
正義と天文の女神アストライアー

天秤座の女神アストライアの持ち物の一つが. アストロラーベです。https://ameblo.jp/peroko-0221/entry-12200514286.html
アストロラーベとは現代のスマホです。
星の位置で現在の時間まで分かってしまう優れものです。
女神アストライアの持ち物

魔女とされる女性が持つ特徴
「艮コン」 <後ろを向いて睨みつける>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/b0e40cde788c80da20fb6f0f715fba7d
解字 甲骨文は目を大きく描いた人の形で、見ケンと向きが反対の字。見ケンが前を向いて見るのに対し、艮コンは後ろを向いて見る形で、悪意を持って相手を睨みつける意となる。対象者に呪いを掛ける魔術で、呪いを掛けられた方は、その場で動けなくなるとされる。篆文は目の下に右向きの人をつける。現代字は形が大きく変化した「艮」になった。
 悪意を持って相手を睨みつけるのは、邪眼ジャガン・邪視ジャシ・魔眼マガンなどと呼ばれ、世界に広範囲に分布する民間伝承の一つ。魔女とされる女性が持つ特徴とされ、邪眼にあうと病気になって衰弱し、ついには死に至ることさえあるといわれる。艮の意味は、邪眼にあって進めず「とまる・とどまる」意だが、仮借カシャ(当て字)され、「易の八卦のひとつ」および「うしとら(方角)」の意味で使われる。
意味 (1)とまる。とどまる。 (2)易の八卦の一つ。 (3)うしとら(艮)。北東の方角。鬼門。 (4)もとる。さからう。(=很)
イメージ  「後ろを向いてにらむ」 (艮・限)
       「後ろを向く」 (跟・銀・很)
       にらまれて動けず、その場に 「とどまる」 (根・恨・齦・痕)
       「同音代替」 (眼)
       「同体異字」 (退・腿・褪)

睨みつける
兒(げい
児[兒] ジ・ニ・ゲイ・こ 儿部 総角に似た髪型の唐代の人形 解字 総角(あげまき)という 髪型に結っている幼児の象形。総角とは、のびた髪を左右二つに分けて頭上に巻き上げ 、角状に両輪をつくったもの。
「児ジ」 <幼児の髪型>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/ec8e1d89d778dca7f4eadad05e308951
解字 総角(あげまき)という髪型に結っている幼児の象形。総角とは、のびた髪を左右二つに分けて頭上に巻き上げ、角状に両輪をつくったもの。幼年男女の髪形であるが、男の子の意味も表わす。篆文から頭部が臼の形に変化し、新字体では上部が、臼⇒旧に変わった。[甲骨文字小字典]によると、この字は甲骨文字で地名(国名)や、その領主の呼称として使われていた。のち、幼児の意に用いられるようになり、地名(国名)は「?ゲイ(周代の国名)」、人名(姓)は「倪ゲイ」に分化したものと思われる。
意味 (1)幼い子ども。わらべ。こ(児)。「児童ジドウ」「幼児ヨウジ」「小児麻痺ショウニマヒ」 (2)親にとっての我が子。「愛児アイジ」 (3)若者。青年。「健児ケンジ」
イメージ  幼児の髪型から 「幼児」 (児・麑)
       髪を 「左右にわける」 (睨・猊・鯢・霓)
       「その他」 (倪)
音の変化  ジ:児  ゲイ:麑・睨・猊・鯢・霓・倪
左右にわける
睨 ゲイ・にらむ  目部
解字 「目(め)+兒(左右にわける)」 の会意形声。目を右と左にむけて見つめること。
意味 にらむ(睨む)。 (1)横目で見る。顔を正面に向けたまま、目玉を左右にむけて見る。「睥睨ヘイゲイ」(①横目でじろりとみる。②あたりを睨めつける) (2)鋭い目をして見つめる。「睨競にらみくらべ」
倪 ゲイ  イ部
解字 「イ(人)+兒(人名)」 の会意形声。兒は甲骨文字で人名(姓)としても使われており、イ(ひと)を付けて、その意味を明確にした。また、兒のイメージの「左右」から、左右の両端の意で用いられる。
意味 (1)姓のひとつ。(2)両端のきわ。はて。「端倪タンゲイ」(端は、いとぐち、倪は、はての意。はじめから終わりまで。全体)「端倪すべからず」(初めから終わりまで、その全貌が測り知れない)(3)ながしめ。(=睨)「俾倪ヘイゲイ」(=睥睨)

両端
「耑タン」 <長髪・あごひげの長老・シャーマン> と 「端タン」
解字 金文・篆文とも、山の部分は長髪、而はあごひげを表し、長髪・あごひげの長老をあらわす。古代において長老はまた、神託を告げるシャーマンでもあった。<参考> 音符「而ジ」
意味 はし(=端)
イメージ  「長老・シャーマン」 (端・瑞・湍・揣)
       「ゼンの音」 (喘)
       「同音代替」 (湍)
音の変化  タン:端・湍  シ:揣  ズイ:瑞・惴  ゼン:喘
長老・シャーマン
端 タン・はし・は・はた  立部
解字 「立(立つ)+耑(長老・シャーマン)」 の会意形声。一族の長老・シャーマンが立ったさま。長老は「きちんとしている」、長老の坐る席は一番奥にあるので「はし・すえ」、長老から話を始めるので「はじめ・いとぐち」の意味を持つ[字統を参考]。中国で端公はシャーマンの意味がある。
意味 (1)ただしい。きちんとしている。「端正タンセイ」「端厳タンゲン」 (2)はし(端)。すえ。はた(端)。は(端)。「先端センタン」「端末タンマツ」「端境期はざかいき」(境のはし・はた。果物・野菜などが市場に出回らなくなる時期) (3)はじめ。いとぐち。はな(端)。「端緒タンチョ」「発端ホッタン」 (4)[はし(端)の派生義]はんぱ。はした。「端数はスウ」 (5)[中国]男性のシャーマン。「端公タンコウ」
 中国のシャーマン「端公
はた(端)

瑞 ズイ・しるし・みず  王部
解字 「王(たま)+耑(長老・シャーマン)」 の会意。シャーマンが用いる玉。シャーマンがこの玉を見て、兆しを占うこと。よい兆しを瑞という。めでたいしるしの意。
意味 (1)しるし(瑞)。めでたいしるし。「瑞雲ズイウン」(めでたい兆しの雲)「瑞祥ズイショウ」(めでたいことの起きるきざし=祥瑞) (2)[国]みず(瑞)。みずみずしい。他の語頭に付いて、美しい・清らかな意を表す。「瑞穂みずほ」(みずみずしいイネの穂)「瑞穂国みずほのくに」(日本の美称)

「発端ホッタン」


顓頊(せんぎょく)であり、子に夏(か)の帝となる禹(う)がいる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%80
鯀の子孫たちが東の方角にすむ東夷たちになったと記されている[1]。

ホータン
秦一族の故郷は 巨丹 ( こたん ) (現・新疆ウイグル自治区ホータン)である。http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/0-10.htm

ホータン 和田http://www.saiyu.co.jp/special/silkroad/midokoro/hotan/hotan.html

字形諸説ある。〔説文〕は、禾声の形声とする。白川静は、和が従う禾を、穀物ではなく軍門にたてる標木の字とし、禾+口の会意で軍門のことをいい、さらに講和の意を持つようになったとしている。音が調和する、協和する意味は、金文では龢が使われていて和と別の字だが、現在ではその意味でも和を使う。
軍門にたてる標木

龢とは、和の異体とされる字である。http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%BE%A2
意味音が調和する、調子を合わせる、協和する、かなう、という意味がある。また鐘の名。金文のころから和と混同され、現在では異体字とされる。〔説文解字〕には和と別に載っていて〔説文・巻二〕に「調(ととの)ふなり」とある。字形形声で声符は禾。音訓音読みはカ(漢音)、ワ(呉音)。訓読みは、ととのう、あう、やわらぐ。〔説文〕に「讀みて和と同じうす」とある。

「龠ヤク」<吹き口が複数あるたて笛>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/3c13b3d539e130fcb2ec8f7f7f98b923
解字 甲骨文は吹き口のある竹二つを紐でくくった形。金文第一字は、「口口(くち二つ)+冊サク(竹を並べて結んだもの)」の会意。吹き口が複数ある竹の管を並べた笛の形。金文第二字は、上にA(あつまる)がつき、吹き口が集まった笛を表す。篆文は、口の数が三つになった龠ヤクとなった。吹き口が三つ、または複数ある竹製の笛。籥ヤクの原字。現物が残っていないので形は不明であるが、竹を丸く集めた笙(しょう)、または一列に並べた「排簫ハイショウ」と思われる。
 龠ヤクは、ふえの意で部首になる。一番画数が多いので漢和辞典の部首索引の最後「17画」にくる。
意味 (1)ふえ(龠)。ふえの一種。あなが三つある笛。(6つのものもある)(2)ふえの総称。
イメージ 「ふえ」(龠・籥)
     「穴がある」(鑰)
音の変化 ヤク:龠・籥・鑰

左右対称となるよう平らに並べて
肅(規則正しい文様をえがく)」
粛 シュウ:繍 ショウ:簫・嘯・蕭・瀟http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/47184c35aa53e5b30ecc93995549b6f1
解字 甲骨文は「聿イツ(手に筆をもつ形)+ぶんまわし(コンパス)」の会意で、筆を用いて器物にコンパスで模様を描くこと。コンパスで描く模様は規則正しく、器物を神聖なものとするので、その器物は「おごそか」なものとなり、その前では身を「つつしむ」意となる[字統]。篆文は、聿の下にコンパスに代わって上下左右対称の模様が描かれる。旧字は聿(ふで)の下部が一画減った肅となり、新字体は、肅⇒粛に略された。部首は筆を示す聿。
意味 (1)つつしむ(粛む)。おごそか。「自粛ジシュク」「静粛セイシュク」「厳粛ゲンシュク」「粛粛シュクシュク」(2)ただす。いましめる。「粛清シュクセイ」(反対者を逮捕し排除する)「粛正シュクセイ」(きびしくただす)「綱紀粛正コウキシュクセイ」
イメージ  「規則正しい文様をえがく」 (粛・繍・蕭)
       「規則正しい」 (簫)
       「同音代替」 (嘯)
       「ショウの音」 (瀟)
音の変化 シュク:粛  シュウ:繍  ショウ:簫・嘯・蕭・瀟



[3972] Re: (無題)

投稿者: 秦野北斗 投稿日:2017年 8月11日(金)07時44分10秒   通報   返信・引用 > No.3971[元記事へ]

荊の紀氏さんへのお返事です。


「山海経」の丑寅は現在の方位では東を指す。中国の東は鬼門は日本でしょう、鬼門の異民族は日本。

> 鬼門の出所は中国最古の地理書「山海経」 であるが、「山海経」 には天門(乾)、人門(坤)、風門(巽)、に並んで鬼門(艮)が挙げられている。
> ただし「山海経」 では、北東の方向に鬼の出入りする門があるとされているだけで特に不吉な方位とされていたわけではない。
> ここで言われている鬼とは、単に死者の霊魂を意味する語であったが、日本では艮は邪悪な鬼が出入りする不吉な忌むべき方位という解釈が定着したのである。
> さらに時代が下がると艮=丑寅=牛+虎という連想から、牛のような角を生やし、虎の皮の褌をはいた鬼のイメージが生まれて来た

2千年前の古墳の大きさは縦三五〇m、横一八〇m、・縦四八〇m、横二七〇m、の二ケ所になる。
出所は身近な古事記、万葉集になる。現在の古墳の説は創作ですな。

> > 久々です、万葉集の翻訳に嵌っています。
> > 最新情報になりますが、古墳には喪(も)が有った模様。万葉集を翻訳した文章に喪と記される。現在の日本の古墳の年代は喪の最終年代になっている可能性がある。
> >
> > 古墳の年代が崩れました。古事記に最古は2千年前になる模様。
> > 因みに神武天皇は二千六百年、古墳かは不明。裏着けが欲しいですな、ダメだと思います?。
>
>
> 市の調査では、約2千年前の古墳とのこと。
> 2千年前の古墳 https://ameblo.jp/pankurabu-non/entry-12285452376.html
> 丑寅方位の角に「古墳」があります。
>
> 中国では、昔から北東からの異民族の侵略に悩まされていたよう で、万里の長城などを作りました。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1481216024?__ysp=77yI5bmy5pSv44Gr44KI44KL5pa56KeS44Gv44CB5YyX44GM5a2Q44CB5p2x44GM5Y2v44CB5Y2X44GM5Y2I44Gu5pa56KeS44Gn44CB5YyX5p2x44Gv5LiR44Go5a%2BF44Gu5Lit6ZaT44Gq44Gu44Gn4oCd5LiR5a%2BF4oCd44Gn44GZ44CC77yJ
> (干支による方角は、北が子、東が卯、南が午の方角で、北東は丑と寅の中間なので”丑寅”です。)
>
> 鬼門の出所は中国最古の地理書「山海経」 であるが、「山海経」 には天門(乾)、人門(坤)、風門(巽)、に並んで鬼門(艮)が挙げられている。
> ただし「山海経」 では、北東の方向に鬼の出入りする門があるとされているだけで特に不吉な方位とされていたわけではない。
> ここで言われている鬼とは、単に死者の霊魂を意味する語であったが、日本では艮は邪悪な鬼が出入りする不吉な忌むべき方位という解釈が定着したのである。
> さらに時代が下がると艮=丑寅=牛+虎という連想から、牛のような角を生やし、虎の皮の褌をはいた鬼のイメージが生まれて来た
>
> 弥生時代、古墳時代は便宜上の区分で大した線引きがあるわけではありません。 古墳 があるかどうかで区別されているだけです。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1477298294?__ysp=5byl55Sf5pmC5Luj44Gu5Y%2Bk5aKz
>
> 古墳の発生、起源はよくわからないが、(弥生時代の墳丘墓からの発展?)とにかく昔の権力者の墓である。形は円墳、方墳、前方後円墳、八角墳などいろいろあり、古墳が盛んに作られた時代を古墳時代という。(だいたい西暦250年~600年くらい、異説あり)奈良時代の初期にはまだ少し作られていたが、だんだん作られなくなっていった。http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8F%A4%E5%A2%B3
>


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