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海進関連 4

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 2月22日(水)23時04分51秒
返信・引用 編集済
  鳩摩羅童子 さん、情報ありがとうございます。
特に縄文人については、いわゆるモンゴロイドではなく、中東・インドあたりの人種に遺伝的に近いようですね。
遺伝的に近いと、言語的にも相関性があるのようなので、縄文人やインド人の言語にも相関性がみえてきても不思議はないような気もします。細かい比較分析が必要ですね。


ともあれ、岩淵先生も注目の縄文人、縄文時代、この当時の気候変動なりをどのように予測するかが課題ですが、以前もお話したミランコビッチサイクルを再度確認する必要がありそうです。

ミランコビッチサイクル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB

それで、先日の投稿で地軸の傾きの変化周期が2万5800年と記してしまったのですが、これは歳差周期のことで、地軸の傾きの周期は4.1万年だそうです。21.5~24.5度まで最大で3度変化するようですね。軸の傾斜は1.5度前後となるでしょうか。

10万年の離心率の変化より、気候変動への影響力が強いようです。

それで、先日問題にした縄文海進の海進の原因が、気温上昇にともなう氷床の融解によるのか、あるいは地軸傾斜による重力面における海水膨張の核緯度における変化によるのかが課題でした。


もちろん、双方の影響あるのですが、その割合がどのくらいの比率なのかを見極める必要があります。

それで、その地軸傾斜の周期が4.1万年とすると、それによる海進の周期もその期間となるので、日射量の変化のそれと微妙に異なって来る可能性があるでしょう。

その日射量変化の最大要因自体は、この地軸傾斜角の変化なのですが、図でいうと青い曲線になりますね。
1番下の黒い曲線が温度変化のそれでしょうから、そのどちらのグラフに、先日引用した海水面変動のグラフ図2が似ているjか、この辺で海進の問題を解決できるかもしれません。

 
 

出雲方言はインド語

 投稿者:鳩摩羅童子  投稿日:2017年 2月22日(水)07時22分45秒
返信・引用
  ■ ご報告:
出雲の方言(出雲弁、石見弁)の単語は、全てインド語(サンスクリツト語 + タミル語)単語でした。
100 % です。

シュメール系メガネで日本語を見た。 痕跡例
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20.html

検証は難しくありませんでした。
なぜなら、全ての単語がインド辞書の中に、素直に、ありました。

つまり、出雲と東北※ の方言は全て、インド語です。
--- 誰か、日本語の歴史を塗り替えて下さい。----

※ 東北弁に関しては、一年前に提起した。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20.html

 

Re: 太陽系小天体衝突と民族移動

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 2月21日(火)22時07分31秒
返信・引用
  > No.3806[元記事へ]

岩淵國人(医師)さんへのお返事です。

岩淵先生、昨年も大変お世話になりました。
また、さっそくアドバイスありがとうございました。

そうですね、まだ隕石か彗星かで未確定な段階では、小天体としておくのがよいかもしれませんね。
海王星より遠いところ、つまりオールトの雲の周辺から飛来したとの説には共感します。

個人的には、冥王星型惑星の残骸ではないかと考えているのですが、この辺は先生の氷惑星(メタンハイドレード主体)、平さんの金属核中心の隕石とも異なり、惑星表面の氷床や、ケイ素などの岩石類、そして金属核の3つ以上の成分が、含有されていたことになりそうですが、またこの辺も、さらに調べていきたいですね。


また縄文人などの古代民族の移動と、天体衝突の影響について、伝承等も含めて調べる必要がありますね。

先日お知らせした海面水位の変化曲線でも、1万3000年前と、4000年前に、不自然な水位の低下がみられることは、以前も指摘したとおりです。この場合は、火山噴火や天体衝突で気温が下がったと考えるのげ妥当かもしれません、

またその辺、情報考察をすすめていきたいと思いますので、今年も宜しくお願いします!
 

太陽系小天体衝突と民族移動

 投稿者:岩淵國人(医師)  投稿日:2017年 2月21日(火)11時43分40秒
返信・引用
  先日の投稿者管理人さんの記述に気になるところがありました。2017年1月28日及び同月31日のteacup上の「隕石衝突と民族移動」のテーマについてです。
管理人さんは「その隕石をもたらしたのは、685年周期で地球に接近するおうし座流星群の母天体であると予想したとおりですが、この735年に衝突をもたらしたA群の彗星群とは別に、それと同じ軌道を巡るB群があり、これが535年のクラカタウ島の火山噴火を誘発した隕石衝突だと推測したことがありました。この535年の衝突で地球環境が激変し、遊牧民の移動なども起こり、結果としてその前後で渡来人が大量に日本に渡ってきたと考えた経緯があります。具体的には秦氏の渡来、欽明朝の擁立にかかわっていきます。」と記述しておられます。

英国北アイルランドのアーマー天文台に席を置くエンケ彗星研究の第一人者であるアッシャー氏らの説では、おうし座流星群およびおうし座流星群複合体の母天体は隕石(鉄や岩石の塊)では無く、現在は直径数Km弱に小さくなったエンケ彗星(主に氷の塊で、2~3万年ほど前にオールトの雲より来た時の直径は約100Km)と見做されております。彗星の大部分は氷成分ですが、岩石成分も含まれており、太陽熱により揮発成分を宇宙に蒸発拡散させた後のやせ細った彗星の核には、確かに岩石成分が残ります。そのため、彗星から分かれた破片であるデブリの集団であるおうし座流星群複合体の中に、岩石成分が含まれていても不思議ではありません。が、デブリの主成分はあくまで氷ですので、溶けて蒸発してしまうと衝突クレーター以外の痕跡は残らないようです。特に、シベリアのツングースカにある2000K㎡ほどの焼けた倒木の原因は衝突クレーターも残っていないため不詳でしたが、現在では直径50mほどのおうし座流星群複合体デブリが1908年に上空で空中爆発したためと推定されており、この母天体は現在では、隕石ではなくエンケ彗星と推定されております。
そして、この10年ほど隕石や彗星等を包含する用語として太陽系小天体が使われています。つきましては、管理人さんのテーマを「隕石衝突と民族移動」よりは「太陽系小天体衝突と民族移動」と記す方がベターと考えますが、いかがでしょうか。
ウィキペディアには、「太陽系小天体(たいようけい しょうてんたい)とは、太陽の周りをまわる天体のうち、惑星と準惑星を除くすべての天体のことである。太陽系外縁天体(冥王星型天体を除く)や従来の小惑星、彗星、惑星間塵などが該当する[1]。渡部潤一他編, ed. (2008), 太陽系と惑星, シリーズ現代の天文学, 9, 日本評論社, ISBN 978-4-535-60729-3」 と記載されています。
太陽系小天体 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/太陽系小天体

管理者さんの例のほかに、太陽系小天体衝突後に起きたと推測される民族移動の記述を2つ紹介します。

1つ目は アッシャー氏の引用しているイギリスの例です。
 多くの文化においてその歴史の中に見られる彗星への恐怖感というものは、ときどき分裂が起こるということやツングースカのような衝突が起こることに根ざしているのであろう。いろいろな文化の中に、空から岩が落ちてきて火災が死をもたらすという伝説がある。イギリス人の司祭であったジルダス(Gildas)は、5世紀にイギリスであった大きな災害のように思える事実を記している(図を参照)。その災害の後、多くの人々が北フランスへと移住した。この時期は、ローマ帝国の衰亡とヨーロッパの暗黒時代の始まりとも符合しているのである。
人類の歴史における天体衝突現象の変遷 - 日本スペースガード協会
www.spaceguard.or.jp/asute/a22/Asher22H/Asher22.html
人類の歴史における天体衝突現象の変遷:デイビッド・アッシャー(通信総合研究所)(日本語訳  吉川 真:アッシャーさんの原稿(英文)あり。ぜひご覧下さい。)
2つ目は 紀元前2000年ごろから前1500年頃間までの間に、世界的な民族移動が起きた例です。特に、インド=ヨーロッパ語族の南下を中心とした大規模な民族の移動が起きました。・・・・(中略)・・・・ 世界史上にはこれ以降にもたびたび民族移動の波が起きますが、その要因としては、気象の変化・食糧事情の変化・なんらかの社会的変化が考えらます。しかしまだ解明されたとは言い難い。         民族移動 - 世界史の窓www.y-history.net/appendix/wh0101-022.html
そして、この紀元前2000年頃からの民族移動の中に、日本の中での民族移動(東日本から西日本へ)も含まれましょう。 縄文時代、中期まで本邦の人口は北海道と北東北に集中していたと考えられています。その理由のひとつに、地球温暖化の影響でこれまで福島県が北限とされた暖かいところに生息するイノシシが今では宮城県から岩手県でも目撃されるようになりました。が、当時(4000年以前)は青森の三内丸山でも獲れたように、北東北は暖かかったのです。然るに関東から西は亜熱帯気候で、蚊が蔓延しており、マラリヤ等の蚊が媒介する伝染病の巣窟だったと考えられ、縄文人には住み難い環境だったのでしょう。
1908年に起きたシベリアのツングースカ上空での空中爆発の原因は、直径50mほどのおうし座流星群複合体由来のデブリ爆発と推定され、広島型原爆の1,000倍の威力と考えられています。また、4000年ほど前にはおうし座流星群複合体由来の直径数百メートルのデブリが三陸沖に衝突し(威力は広島型原爆の約1,000,000倍と推定)、高さ250m程の超々巨大津波が発生しました。津波は波高の2~4倍の高さまで遡上することが知られていますので、この津波は標高600メートルほどの北上山地の谷間を楽に乗り越え、奥羽山脈と北上高地の間に在る北上盆地に注いでいます。そしてこの津波は、太平洋・インド洋を伝播し、長江(中国)、インダス川(パキスタン・インド)、シャットゥルアラブ川・チグリス川・ユーフラテス川(クウェート・イラク)、チャンガイ川(ペルー)に達し、それらの流域を遡上し、それらの地の古代文明(長江文明、インダス文明、メソポタミア文明、シクラス・カラル文明を滅ぼしました。
また、本邦では湖底に溶岩が無いにもかかわらずカルデラ湖といわれている田沢湖(秋田県)がありますが、ここは直径約350mのおうし座流星群複合体デブリが衝突してできたクレーター湖と推察できます。また、カルデラと喧伝されています赤井川村(北海道)は直径約550mのデブリが衝突したために出来た外リムと内リムに囲まれた多重リングクレーターと推察されます。
本邦の縄文人口の急激な減少(縄文中期末約26万人⇒約16万人)の主原因としては、4000年ほど前の天体デブリ空中爆撃・天体衝突・絨毯爆撃等による爆風や大火災や超々巨大津波等による大惨事が最も考えられます。三内丸山(青森県)や御所野(岩手県)等の縄文文明はほぼ同時に終焉しました(ミネルヴァ論争)。が、それでも縄文人は生き残り、そして大惨事後、本邦では住み易い東日本から住み難い西日本への民族移動が起きました。(岩淵國人)
古代史掲示板Teacup8220.teacup.com/toraijin/bbs/mobile/index/detail/comm_id/3274/?dmy

参考: 縄文時代の人口は、縄文早期の2万人から縄文中期の最盛期の26万1千人まで順調に増加したが、縄文中期を過ぎると反転し急激に落ち込み、縄文後期は16万人、縄文晩期は7万6千人まで減少した。
人口から読む日本の歴史 - Biglobe
www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/hito.htm
人口から読む日本の歴史       鬼頭宏著
縄文
 

海進関連 3

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 2月21日(火)00時58分56秒
返信・引用 編集済
  また昨晩の投稿の続きになりますが、思うに、昨晩推測したような、干満差が7m海進の原因ではなく、2万5800年集周期で地軸が1度傾斜することにより、緯度1度あたりの基礎水位が、変化することによる可能性を考えはじめています。

つまり、図1のように、月の引力F2と太陽のそれF1、そして遠心力F3による地球球体が楕円形に引き延ばされるわけですが、昨日引用した論文がマントルを液体として換算したことをヒントとして、海水面自体もマントル同様な液体として引き延ばされると考えるわけです。

ここで、F=F2+F1cos5度+F3cos23.4度
F1=0.45F2
がなりたつとしましょう。

そうすると、基本的には極地点での水位がもっとも低く、赤道方向あたりがMAXになるでしょう。

その極における水位をX1とし、赤道あたりのそれをX2として、

X2-X1=αとしましょう。

そのαは緯度θに左右されるので、αcosθ=dXとして差分となるでしょうか。


この極と赤道との水位の差分α(m)をどのくらいと見積もるかが課題ですが、
思うに地球を流体と想定して、マントルもひっくるめて液体が膨張すると考えるならば、
赤道半径-極半径
=  6378 - 6356
=22km

0.3455% だけ赤道方向に膨張すると考えると、

たとえば、地球の平均水深が3,800mなので、
その0.3455%は13m前後の相違になるでしょう。

α=13mとなるわけですね。

緯度1度あたりの相違は、概ね0.145mだけ相違してくることになるでしょうか。

この分だけ、25800年周期で変化するということになりそうですが、ちょっとやはり小さいですね。

そこで、マントルや地殻の膨張率とは別に海水自体の膨張率をその100倍くらいにもっていくとどうなるでしょうか。

そうすると、上記の論理ならば、0.3455%を34.55%にして、1300mの水位差が極方向と赤道方向で生じるとすると、14m前後、緯度1度あたりの水位差が生じることになるでしょう。

この半分くらいならば7m海進が定期的に引き起こされた要因となりうるかもしれませんね。

ただ、実際そんなに海水の膨張率が高いのかという疑問もでてくるのですが、南極の氷の厚さは最も厚い所で4,500m、平均2,450mですから、500~1000m前後、赤道方面の水位より極方向のそれが低い可能性があるでしょう。

北極の氷の厚さは10m前後しかないらしく、これは氷が浮いているようなものですね。
90%の氷は南極にあるとのことです。


思うに、縄文海進をもたらした海進の理由というのが、単にその南極なりの氷河が1度の地軸のズレによる温暖化で溶け出したのではなく、上記のような海水面膨張が起こることによるのではないでしょうか。

その溶け出した氷床の量+海水面膨張=海進mとなるわけです。

これが2万5800年周期で1度地軸がズレることによって、同じ地点でも7~15m前後変化するので、海進がそのようにして起こって来るということになるでしょうか。

もっとも、氷河期の海水面は50~100mも下がってますから、地軸1度のズレによる温暖化だけで、そこまで海水面が変化するほど氷床が溶け出したと考えるのは無理があるようにも感じますね。

地軸変化による重力的な要因が海進を産み出している、ちょっとおもいつくままに書いてますが、この辺、もう少し考えていきましょう。

結果として、縄文海進以降の海水面の変化が、その気温の上下にほとんど影響されていない現実を解きあかすことにつながるかもしれません。実際、近代に入って気温が数度も上昇しても、海水面はそれ以前とほとんど変化してないわけです。

逆にいえば、縄文海進はなおもしばらくの間、その後の気温低下によりすぐに終わるのではなく、弥生時代以降も平安時代までなおしばらく7m海進状態を保っていたとする拙論を立証しうるかもしれません。
 

海進関連 2

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 2月20日(月)01時29分48秒
返信・引用 編集済
  なかなか体調すぐれず、研究が進まない感じですが、先日の海進の件について、朝夕力の件について考えなおしています。

以前からお話しているように、古代の古墳や都市・遺跡の位置から、縄文海進時代のみならず、弥生時代、古墳、奈良時代にいたっても、7m前後の海進があったのではないかと推定してきたわけですが、実際は現在の海水面と当時のそれとはほぼ同じであると通説で考えられている矛盾をどう考えるべきかということがありました。


そこで、おもいついたのが、現在より当時のほうが、海面の干満座が大きかったのではないかとの予想です。
つまり極端にいうと、現在1m前後の干潮と満潮との海面差が生じる地点において、古代ではそれが2mとかそれ以上になっていた可能性がないかとのことです。

その干満を生じる朝夕力の仕組みについては下記のwikiをご参照ください、図も引用します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%AE%E6%B1%90

さらに詳しい計算はこちら参照。
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~heki/pdf/Phys_inter.pdf#search=%27月+軌道傾斜角+周期+朝夕力%27

朝夕の原因は、月の重力が最も大きく、次にその0.45倍の太陽の重力、そして地球と月との間の遠心力などが主な現委員となるようです。

それで地軸が23.4度太陽軌道面に傾いており、さらに月も太陽軌道面に5度傾いているので、その傾斜による重力積算の相違も朝夕に影響してくるでしょう。

ここで、気がついたのは、地球の地軸の傾斜は一定ではなく、2万5800年周期で2度前後変化することがあります。

この傾斜核から、太陽軌道面方向から侵入する隕石の落下角度にも時代によって変化が生じ、その誤差を検察することで、その隕石の落下年代を特定できることも以前指摘したとおりですね。

つまり、地軸がその2万5800年周期の回転軸において1度ほど太陽軌道面からずれた位置を中心にして回転しているということです。コマの軸が1度ズレているわけです。

そうすると、どういうことが起こるかというと、その2万5800年周期で地軸が1度ほど、太陽軌道面に近づいたり、遠遠のいたりするので、結果として、極部の氷床が解けて、海進や海退が起こるのですが、それと同時に現在の緯度より1度前後南北へズレた位置へとシフトした緯度での干満差が、その磁気に起こったであろうことも予想しうるでしょう。

その緯度が1度異なるとどのくらい干満差が違うのかについて調べていくと極方向ほど、基本的には太陽や月の引力を受けないので、緩慢差が小さくなるようです。

その差ですが、下記の日本の各地での干満データをみると、
http://www.data.jma.go.jp/kaiyou/db/tide/suisan/suisan.php

たとえば、干満差が大きい3月1日前後だと、北海道方面で80センチ前後、鹿児島、沖縄方面だと1m50以上になり、1m以上の相違があるように身うけられます。

もっとも北緯45度と30度で15度の相違で、1mしか異ならないとすると、仮に地軸傾斜が22度から25度まで変化しても、前述の7m海進を引き起こすほどの影響はないのかもしれませんが、とりあえず海進に影響を与える要素として、ひとまず留意しておきましょう。なにかその辺の干満差の問題も、この7m海進問題にはかかわってくるような気がします。
 

海進関連

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 2月14日(火)22時20分55秒
返信・引用 編集済
  平さん、皆さん、情報ありがとうございます。
未だ体調すぐれず、あまり書き込みする意欲がわかないのですが、ここ数日は以前ふれた海進関連についておもいをはせています。

拙論としては、縄文海進は弥生時代はもとより平安時代ごろまで続いていて、その高さは7mにも達していたというのが、最新のグーグルの海没地図と遺跡の位置から割り出した結論でした。


ただ通説では、平安海進時でも1m程度しか海進はなく、弥生時代以降は現在の海水面とほぼ同じ水準にあったとするものです。

そこで、その矛盾をどう説明するかが課題となっていたのですが、まず、気温の変化におうじて、海水面が上下するという現象から考え直してみたいと思います。

図1のように、数十年単位で、まず気温変動サイクルが普遍的に存在していることがわかります。
これに応じて、若干の海水面変動もあると考えるのは自然でしょう。

次に、もっと大局的な気温変動、つまりミランコビッチ曲線の変動となるわけですが、その中でも2万5800年の地軸の角度変更の周期がもっとも海進に影響を及ぼしていると考えるのが妥当です。

つまり、その半分の1万2900年で、海面が最大で数十mの相違するわけですね。

ここで、仮に平安海進時を気温がピークだった時期、つまり海進の最大値とすると、その1万2900年前に、気温と海水面が最低だった時期がくるでしょう。

また仮に縄文時代末期をそのピークとするならば、その時期より1万2900年前に最低の時期がこないといけないわけですね

これは以前紹介した図2のグラフから、概ね予測をつけることができそうです。


そのグラフがどういう曲線になるかについては、地軸の変化率にそって、極方面の氷が溶け出すわけですから、地軸が最大で2度変化する間に、その2度分の極方面の氷床領域が溶け出す結果となるでしょう。図3の上図ようにです。

そうすると、基本的にはサインカーブで気温も海水面も上下動するとおもうのですが、初期より中簡期のほうが、氷が解ける量が加速度的に増えていくようにみえますので、結果として、サインカーブより、さらに加速度的な海水面上昇をひき起こした可能性がでてきます。


それが図2のグラフにもみてとれるでしょう。

それで、もうひとつ留意しなければならないのが、数百年遅れて上昇してくる二酸化炭素濃度の問題です。
この濃度が濃くなることで、温度上昇しますから、理論敵な気温上昇のピークから数百年遅れてもうひとつの温度のポーウが生じて来る、これがお恥部の学者が指摘する現代の気温上昇と二酸化炭素濃度上昇の原因と考えられている由縁なのでしょう。

したがって、この説にのって逆さんすると、平安時代にやはり本来の地軸傾斜による気温上昇のピークがあったと考えうるわけです。

平安時代以降、地軸が直立に向かうにつれて気温降下がおこり、おそらくは海水面もさがっていったはずですが、そこから近代にいたって二酸化炭素濃度があがって、気温降下が止まったので、それほど海水面が下がってない状況にあるのかもしれません。

それで平安時代にピークがあるとすると、サインカーブの特徴からして、その前の奈良時代、古墳時代もそれほど変わらない程度で、海進が起きていて、さらにいえば、それが縄文海進Levelのままであったという結論になるわけです。


このLevelを7m海進と考えるわけですが、もちろん上記のように、数十年単位での気温変動サイクルが別にありますから、それにしたがって若干の上下動があったことも予想できます、

この7m海進状態を考慮しないと、どうしてもその標高以下の地域に弥生・古墳時代の遺跡や古墳が見えない理由を説明できないことも自明の理であり、逆にこの7m海進をもって、はじめて、「吉備津」「児島」のような「津・島」といった地名が、はるか内陸奥深い地域に多く存在していることを説明できるようになる点で重要です。

実際ほとんどの大型古墳は、7m海進地図では港湾沿いに位置しており、その存在意義そのもにも関わることなのですが、この重要性は、縄文時代以来の日本人の移住形態を予測していく上でも欠かせない要素となってくることでしょう。

そこで、とりあえずこの海進問題について、体調の許す限りで、これから考えてみたいと思いますので、また情報、ご意見よろしくお願いします。
 

Re:「ふる」は「隕石」

 投稿者:史実探偵: 平 素人  投稿日:2017年 2月11日(土)16時57分38秒
返信・引用 編集済
  シモさま>お疲れが蓄積されたのでしょうか。どうぞお大事に!
キシ先生>先生の大河のような識量の万分の一も解しえない素人ですが、こちらこそよろしくお願いいたします。そうですか。ふるは隕石ですか。
わたしは、BC2001年末に竜飛崎から釜石付近に降臨した巨大隕石を!
シモさまは(キシ先生も?)735年の出雲→熊野ラインの巨大隕石を掲げています。
  http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-16.html

『千早振る、神代も聞かず竜田川、からくれないに水くぐる』 に思うこと。
この「うた」の記憶は、かすかにしかありませんが、先生の『ふるは、隕石』を受けてヒラメクものがあり、このうたを素人流に解してみます。
「血速降る、神代の昔の神龍川(たつたがわ)、唐紅の竜のごと」
巨大隕石の衝突は多大な災害を生みます。と同時に津々浦々へとどいた津波は、瑞穂や大量の魚介を陸に打ち上げ、舞い上がった水蒸気や粉塵は、干天の地に大雨という慈雨をもたらしました。
千早振る」の「千」は血の色であり、千々に砕け散る巨大隕石でもあります。北海道では、その巨塊が赤かったことと、そのスピードがビリバリと天地を揺るがすほどの衝撃音であったことから「空知」や「美唄」の地名を遺しています。時は過ぎ、紅葉に染まる奈良の竜田川は、その大事変を神代の昔から口伝とし、命をつなぐ川であったのでしょうか。

<唐紅(からくれない)と龍・竜について>
この朱色と龍・竜は、大陸から列島へ渡って来たとされるのが定説ですが、私はそうは思いません。四千年前の東北へ降臨した巨大隕石は列島を揺るがし、北上山地を越えるほどの巨大津波を発生し、急速な隕石の冬に移行しました。列島各地では、この大事変による津波が押し寄せ三重・嬉野市、名古屋・瑞穂区へ生鮮や穂類を打ち上げたことから、災害と共に天地(あめつち)をうむ恵みの神と思うようになりました。一方半島では「朝鮮」「方魚津」にその名を遺しています。大陸では杭州湾を代表として「良渚文明滅亡→「彗星衝突による縄文超々巨大津波」文芸社・岩淵國人先生著があり、その恵みよりも厄災の方が重きにあり、東海に厄龍神あり!これを討伐することで国を平定する思想が生まれました。

中国は医食同源の国。深山のレイシ、絶壁のツバメの巣、熊の肉球のように入手困難なものほど高価に売れる。その恐れ何たるものぞ! その“神仙の地”には不老長寿の薬石が必ずある。その任をおうたのが「徐福達」でした。徐福は、出雲にその本拠地をおき列島を探索し、年一にその蒐集した珍宝を唐津を経て中国へ送り届ける通商網もつくり上げました。そして、列島の住人からその「大事変を聞く」に、その飛翔体の「頭は赤く大きく、その咆哮は天地をゆるがし、八方に分裂した」と、その言をモンタージュして竜を描いた。龍画は中国から逆輸入したものだ。
  http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-77.html
 唐紅(からくれない)も逆輸入
この隕石の赤色は重要な意味を持つ。赤いということは700~800℃。地球に衝突する隕石は、その中心を目指すものより、斜めに衝突するものが圧倒的に多い。空中を斜めに飛べば、擦過熱はゆうに1000℃を超えその光りは白色となる。また衝突直前まで赤かったということは、その塊が巨塊であったことを意味する。シモさまの掲げる熊野に「熊野速玉大社」がある。この大社には鮮やかな朱色が使われています。そのことは、その飛翔体が巨塊であったと祖先は言っている。

わたしの知りえた二つの巨大隕石の赤色は、キシ先生が言及されるように洋の東西を問わず赤色火星に不吉な星として結びついている。また、四千年前の巨大隕石は彗星軌道をとったことから、明けの明星、暮れの明星・金星として、妙見信仰にも結びついている。各地に残る妙見山の山名は、その山の東西南北に住むどの地の人達がつけたのか興味があります。今後の御教示をお願いいたします。

以上、『千早振る』のうたに、そのような歴史の覚醒(歴史が覚えている←私が先生と仰ぐブログいずものこころより)があったかどうかは分かりませんが、素人探偵のコジツケ咄^^!と笑止くだされば幸いです。
  http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/20501461.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.htm,

 

王家のハプログループ

 投稿者:記憶喪失した男  投稿日:2017年 2月10日(金)15時42分13秒
返信・引用
  すいません。むかしどっかの掲示板に書いた王家のハプログループがまちがっていたので、訂正版をのせます。これでもまだ載せるのは早計という人もいますが、とりあえず、以前のよりは正確です。

中国[編集]
夏 ?
殷 Q1a2(Q-M346)[24](殷の王族は十支族いた。最後の紂王のY染色体ハプロ)
周 Q1a1a1(Q-M120)[25]
秦 O2a2b1a1a(O-M133)[26]
項羽 O2a2a1a2(O-M7)
漢 O2a1c(O-IMS-JST002611)[27]
曹魏 O1b1a2a(O-F993)[28]
孫呉 O2(O-M122)(O2だとしかわかってない)
晋 O1b(O-M268)(謎)
北魏 O2a2b1a2(O-F444)[29](どうやら北魏の鮮卑の拓跋氏の子孫はO2のハプロのようだ)
隋 ? (要再調査)
唐 ? (要再調査)
後唐 Q(Q-M242)[30](唐の後継者として李姓を賜った突厥沙陀族出身の李克用の子が建てた王朝)
宋 ? (要再調査)
元(モンゴル帝国) C2c1a1a1(C-M407)[31](有名なチンギス・ハンのハプロ)
明 O1b1a1a1a1b(O-F2890)[32][33]
清 C2b1a3a*(C-M401*)[34](ヌルハチのハプロ)

朝鮮[編集]
箕子朝鮮 O2a2b1a2(O-F444)(北魏と同祖、殷王室に連なる朝鮮の始祖王朝)
衛氏朝鮮 ?
馬韓(百済) ?
辰韓(新羅) ?
弁韓(任那) ?
高句麗 C2c1a(C-Z1300) 百済と同祖。
百済 C2c1a(C-Z1300)
新羅 朴氏王統:O1b2a1a(O-F1204)
新羅 昔氏王統:倭人王朝。要再調査。
新羅 金氏王統:C2c1b(C-F845, CTS10923)[35]
任那 倭人王朝。要再調査。
高麗 O2a2a(O-M188)
李氏朝鮮 O2a2b1a2b(O-F743)
北朝鮮 ?(公式には「全州金氏」の出身と言われるが、系譜に出てくる祖名を比較した結果、実際には「善山金氏[36]」の出身であろうと言われている。要調査)
 

「ふる」は「隕石」

 投稿者:荊の紀氏  投稿日:2017年 2月10日(金)01時38分31秒
返信・引用
   管理人さん 平 素人さん 遅ればせながら 今年もよろしくお願いします。
              的外れの投稿お許しください。


ふる
「ふる」は「隕石」の古語。http://lunabura.exblog.jp/14692368/
奈良の石上神宮の地名も「布留」であり、どちらも「物部氏」の祭祀する所。

布留
祭神の名前については「布留と布都」と両方ありました。
「ふる」と「ふつ」が材料の違いなら、その違いは一般の人には分かりません。
だんだん混乱して行って、「ふるの御魂」とも「ふつの御魂」とも、なって行ったと考えられます。

振る
「『千早振る、神代も聞かず竜田川、からくれないに水くぐる』
「ちはやふる」(ちはやぶる)は「神」などにかかる枕詞https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A9%E6%8C%AF%E3%82%8B

布瑠
『一(ひ)二(ふ)三(み)四(よ)五(い)六(む)七(な)八(や)九十(ここのたり)布瑠部(ふるべ)由良由良止(ゆらゆらと)布瑠部(ふるべ)』
ゆらゆら

うろうろ
火星が心宿( アンタレスあたり)で順行・逆行を繰り返してうろうろする現象は熒惑守心と呼ばれ,戦乱 が起こる,君主の身に異変が起こるなど不吉な予告と言われてきました。『
熒 惑 守 http://www.kyoto-kcg.ac.jp/kcg/sakka/oldchina/tenpen/keiwaku.htm
三十六年(BC211年)熒惑星が,心星の宿るところに止まって動かなかった。星が東郡に落ちて石となった。
 この事件は始皇帝の死を暗示するように書かれています。翌三十七年(BC210年)始皇帝は末子の胡亥(=二世皇帝)・宦官の趙高らを従え大規模な巡行に出かけます。会稽山(かいけいざん:浙江省)に赴き自分の偉業を讃える石碑を作らせて禹に報告したり,瑯邪(ろうや:山東省)では自ら大魚を射たりしましたが,帰路病に倒れ七月丙寅の日(=9月10日)に亡くなりました。この年火星は2月~7月心宿(さそり座西部)で徘徊し,4月中旬(逆行)にも7月中旬(順行)にもアンタレスに接近し,そして東へ去って行った9月に始皇帝が亡くなるのです。ところが上述のように『史記始皇本紀』には熒惑守心は前年の始皇三十六年(=BC211年)の天象と書かれていますが,なぜ1年ズレているのでしょうか?単なる記載ミス?それとも暦変換の間違いなのでしょうか?それとも・・・?ここで注目すべきは『漢書天文志』の次の記載です。
十二年の春熒惑が心宿に留まった。四月,天子が崩御した。
すなわち高祖劉邦の没年BC195年にも類似の天象が起こっていることです。火星はこの年の初から7月まで,心宿(さそり座の西部)ではなく氐宿(てんびん座)でほとんど停止しています。3月4月は逆行中,5月末より順行に転じ,心宿に向います。病に伏した劉邦は「四月甲辰に崩じた」と記されていますが,この日を干支をもとにして求めると6月1日に当たります。やはり火星が逆行から順行に転じたころ亡くなっているのです。漢の歴史官・天文官にとって熒惑星の徘徊は初代皇帝崩御の兆候と思いたかったでしょうが,現王朝の創立者と前王朝の暴君が同じような天象のもとで亡くなったとは書きにくかったので,始皇帝没に関する天象を1年繰り上げて記したのかもしれません。 ちなみに高祖劉邦の皇后で悪名高き呂后が亡くなったBC180年8月18日にも火星はアンタレスの側にいました。

惑星が順行留逆行を繰り返す(だからこそ惑星)のは衝の前後で,火星の場合その周期は2.135年です。これを7回繰り返すと14.948年,15年には約19日足りない。すなわち15年後には約19日前に衝が起こることになります。また地球は1日~1度公転しているのでこれは約19度に相当し,衝の起こる位置もこの角度だけ西に移動していることになります。
 BC210年4月下旬  アンタレス付近
 BC195年4月上旬  てんびん座α星付近
 BC180年3月中旬  スピカ付近
 次回の熒惑守心は2016年の春から夏にかけて起ります。火星がてんびん座からアンタレスあたりを東へ西へ徘徊します。衝は5月22日で,7月に順行に移り,8月25日ころアンタレス最接近する様子を眺めましょう。なお火星が地球へ大接近するのは2018年8月1日,その時火星はいて座に進んでいます。

赤い色から不吉な星とされてきました。

赤烏
持統天皇(四十一)直丁に官位・赤烏を捕らえた褒賞・熒惑と?星http://nihonsinwa.com/page/2451.html

中には火星から飛んできた珍しい隕石もあります。
奥出雲多根自然博物館http://mypage.okuizumo.ne.jp/my/tanehaku/2011/10/post-42.html

隕石(いんせき)はどこから飛んでくるんですか?http://www.kids.isas.jaxa.jp/faq/solarsystem/ss10/000117.html
地球の大気の中に飛び込んでくるものの多くは火星の外側にある小惑星帯からやってきたものと考えられます。

土星衛星エンセラダスの岩石が、地球の岩石の主成分で あるマントルのような組成ではなく、隕石に近いことを実験から明らかにした。
NASAのカッシーニ探査http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2015/49.html


加具 火の神  ↓  投稿ミスです スミマセンデシタ。
 

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