古代史掲示板

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カテゴリ:[ 歴史 ] キーワード: 日本古代史 古代史 渡来人


4016件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[4144] 東国三社と冬の三角形(続き)

投稿者: 弓張月 投稿日:2017年12月15日(金)11時11分4秒   通報   返信・引用   編集済

おじゃまします。
なぜ、加波山が日月星信仰なのか? その考察の一
加波山(かばさん)は、茨城県桜川市と同石岡市との境に位置する標高709mの山である。北から御嶽山、雨引山、燕山、加波山、丸山、足尾山、きのこ山、弁天山、筑波山の順に連なる筑波連山北部の山の一つである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%B3%A2%E5%B1%B1
北上は「きたかみ」、よって、=北神、南下は、そのまま「みなみはした」ですね。
となると、十二支にリンクさせると、御嶽山は子年となるので、お分かるの通り、母のお腹の子ですね。神の順番だから一番目、加波山は四番目の卯年となり、忍人命,アメノヒボコ,安寧天皇かな?筑波山はさる年の九番目であり、つくもは、=九十九であるから筑=九十(つく)かな。そして、筑波山は、男体山と女体山の二(双)山である。加波山は卯年であるから、東で六時ですね。月・太陽・星はすべて東の空から昇る。よって、加波山が日月星信仰かな?筑波山は三つ巴が八世の取り合いをしてるのかな?八世の物部守屋から、守屋は、守(かみ)の屋(矢)であるから、筑波山梅林があるのでしょう。御先祖様はよく考えてますね?それに比べて今の状況は、忖度,捏造,偽証,ミサイル(国難)と何でもあり。その中で、天皇か退位式はとにかく質素にと言われた。(週刊新潮が、陛下が華やいだ雰囲気で皇居を去りたいお気持ち持っている。と掲載したことに対する抗議文。)とのことですが、平和のために天皇制を創らなければならなかった時代に戻ったようですね?今の「目(天皇)の上のたんこぶ」良くないですよね。天皇のお言葉「安寧の世」は永遠に無理かな?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%B1%B1

今回は、ここまでとします。




[4143] ・・・ミトラ(弥勒)の奥様   土台(土盛り)の上に立つ人 馬子・・・「ろばの子」は選ばれたのです

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2017年12月13日(水)14時11分45秒   通報   返信・引用

聖徳太子が蘇我馬子に従軍してある山にさしかかったとき、 必勝の祈願をしところ、天高く毘沙門天王が現れ、必勝の秘法を授けたとされます。 ... http://www.shoudenji.jp/m/bisyamon.php
「ヴァイシュラヴァナ」は「神の息子」という意味ですが、「すべてのことを一切聞きもらすことのない知恵者」という意味ももつため、別名「多聞天」とよばれています。
昔から毘沙門天王様は、霊験あらたかな神様として信仰されてきました。
 毘沙門天王様の使いは、「寅(とら)」と、「百足(むかで)」 です。
寅(とら)・・・http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/1d28d272a1e7b91bc845852b51044261
水が停滞することなく、まっすぐのびるように流れる意。転じて、次第をもって事が円滑に行なわれること。

そそがれた
エホバの油そそがれた聖なる者たちは,神聖な奥義に関する 多くのことを理解するようになり,そのような知識を大勢の人々に分かち与えてきました。
「神聖な奥義の中の神の知恵」https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1102002043

知恵者・・・寅(とら)
ユダヤ人のトーラーの学び方. 「トーラーの知恵」という本がありますhttp://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%AD%A6%E3%81%B3%E6%96%B9

呉はその虎(とら)(諸葛瑾)を得http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/koumeihanazewakaretaka.html

王朝としての魯(紀元前1055年 - 紀元前249 年)は、中国大陸に周代、春秋時代、戦国時代に亘って存在した国である。代々の魯公( 魯の君主)の爵位は侯爵であり、姓は姫(き)である。首府は曲阜。 周公旦(周王朝の 開祖である武王の弟で、武王の子成王を補佐した)の子伯禽が成王によって封ぜられて 成立した。
魯(ロ)
、「春秋」は、隠公元年(紀元前722年)から、哀公14年(紀元前481年)までの魯国の年次記録が基になっている。
孔子の死後、国としての魯はますます衰退し、事実上として三桓氏に分割されてしまう。魯公室は細々と生き残るが、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。

三桓氏. 孔子、季氏(きし)を謂(い)ふ(論語); 三家者(さんかしゃ)雍(よう) を以て徹(てつ)す(論語); 季氏は魯の大夫季孫氏(きそんし)なり。(論語注:伊藤仁斎「 論語古義」); 三家は魯の大夫、孟孫、叔孫、季孫の家なり。(http://jigen.net/jyukugo/19977_26707_27663

諸葛瑾は、継母とともに江東(こうとう)に渡った。やがて 孫権(そんけん)の姉婿の弘咨(こうし)から、非凡さを高く評価され、孫権に魯肅(ろしゅく) と並んで賓客として待遇された。https://kotobank.jp/word/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E7%91%BE-1545924

諸葛瑾子瑜
諸葛瑾の顔は面長で驢馬(ロバ)に似ていました。http://3594.wiki.fc2.com/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E7%91%BE%E5%AD%90%E7%91%9C

驢馬 が朝廷に 献上
「聖徳太子伝暦 」に記され、 599年(推古7年)4月27日大和で地震があり、多くの家屋が倒潰し、9月 百済から日本初の駱駝(ラクダ)1頭、驢馬(ロバ)1頭、羊2匹、白雉(はくち)1羽が朝廷に 献上されました。 http://urano.org/kankou/topics/taishi/index.html
厩(うまや)の辺りで急に産気付き、太子が生れたので、名を厩戸豊聡耳皇子(うまやどノとよとみみノみこ)と称しました。

聖徳太子の時代
584年、百済から仏像(弥勒菩薩像)が倭国に送られてきた。
妖伝・蘇我馬子http://www.geocities.jp/minase_bungei/f22.html

蘇我馬子・蝦夷・入鹿の名前の不思議 https://ameblo.jp/nstrh066/entry-12052185202.html
聖徳太子も、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていたとされ、「馬」との関わりがあります。法隆寺にも、この「厩」が目立つようにあります。
今までの紐解きで、法隆寺の五重塔の鎌と、洞戸の星宮神社の鎌を結び付け、その星宮神社には「一つ目」が隠れていました。
そして、白山も「馬」が隠れていて、蝦夷の鍛冶屋(一つ目信仰)遺跡(仙台近くの白山岳)の白山信仰と、星宮神社の白山信仰と絡んできます。

日本書記は、聖徳太子や、蘇我馬子に編纂されたとされる事から、自分達の都合の悪い事を隠し、民衆の意識を政権に向かせるために日本の歴史を創作したのではと思うのです。

「馬子」は、大和の地、奈良を表し、「入鹿」は、ここから西は大和の地、「蝦夷(えみし)」は、東日本を勢力としていた「蝦夷」を、暗に表したのではないでしょうか?

聖徳太子=蘇我馬子説が正しいかもしれない。
古事記とシュメール語 その2 https://ameblo.jp/don1110/entry-12296412434.html
応神天皇283年に中央アジアのカザフスタンにある『弓月国(クンユエ)』から弓月君(ユダ族秦氏の祖)が127県の1万8670人を連れて渡来し、原始キリスト教、養蚕・機織・銅の鋳造・清酒・雅楽などの日本らしい文化を伝えており、古事記編纂作業の裏方としてダビデの血につながるユダ族の秦氏、例えば聖徳太子側近での一人であった秦河勝などの貢献があったと思われる。
 その後に秦氏の血が天皇家に入っているのは確実なので、そのような観点から古事記編纂の目的が果たされているのは間違いない。

607年、馬子は壬生部(みぶべ)を定めた。

 [外交・道路・港湾行政]
 大臣馬子は、隋との交流を図った。
「隋国は最大の文明国だ。人が集まるところに文明が栄え、進歩があるものだ。倭国など、足元にも及ばない。先進国の隋国には学ぶべきことが多くあるだろう。物質的にも豊かな国だ。交易も進めたいものだ」
 600年に馬子は最初の遣隋使を送り出した。しかし彼らは、門前で追い返されてしまった。追い返された理由は、一国の代表としての品格や礼儀に欠けていたのだろう。倭国の歴史書に第一回目の遣隋使のことが記録されていないのは、その編集者がおそらく国辱と感じたからだろう。
「倭国は隋の従属国でもないのに、倭国の使者を門にも入れてくれないとは、情けない。隋国に朝貢しなかったのがまずかったようだ。今度は朝貢を用意しよう。しかし、国書には、せめて対等の心意気を示したいものだ。」
 607年に馬子は使節を再編し、小野妹子を大使として二度目の遣隋使を送った。彼らは、隋の皇帝に接見することができた。しかし、その国書の内容が問題だった。『その国書曰く、日の出づるところの天子が、日の没するところの天子へ書を致す、つつがなきや云々……』
 これは中華思想の超大国、隋に対する外交文書としてさすがに非常識だった。煬帝(ようだい)は「蛮夷の書、礼なき者なり、二度と奏上するな」と不快感をあらわにした。煬帝は、こんな無礼な奴はどんな奴か見てこいと、臣下の裴成清(はいせいせい)に命じたに違いない。
 608年に中国から裴成清が小野妹子と共に倭国の都に来ることになった。馬子はその報せを聞いてこう言ったのだろう。
「隋国の高官がわが国を見に来るだと? 裴成清どのを丁重にもてなせ。遠来の客人には失礼のないようにするのだ。倭国の威信と親愛を示すのだ。都に来られたら、わしが国家元首として会って話そう」
 そのときの様子は、『隋書』によると、
 「その王、清と相見え、大いに悦んで曰く……」とある。裴成清は馬子に好感をもったのだろう。裴成清が帰途に着くとき、馬子はまた大使として小野妹子を通事(通訳)や学生たちと共に随行させた。交流が許されることになり、倭国はその後614年までの間に計五回隋遣使を送った。なお、裴成清が推古女帝に会った形跡はない。 馬子は中国からの使者のために山陽道とその宿泊拠点を重点的に整備させたという。そして馬子は都を中心として南は九州から北はおそらく関東北部まで古代の幹線道路網を整備させた。物流、人の往来、あるいは軍隊の派遣のため、道路は役に立った。また、海上輸送のための港湾として難波津(なにわつ)を整備した。 613年には、難波から京までの大道を作らせた。各地に灌漑のための池、腋上(わきのかみ)池、畝傍(うねび)池、和珥(わに)池などを作らせた

壬生部
みぶべhttps://kotobank.jp/word/%E5%A3%AC%E7%94%9F%E9%83%A8-1209623
古代の部(べ)の一種。「乳部(みぶべ)」にもつくる。文字どおり皇子女の資養のために設置されたものである。『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇7年8月条に、大兄去來穂別(おおえいざほわけ)のために壬生部を、推古(すいこ)天皇15年(607)2月条に、壬生部を定むとある。また皇極(こうぎょく)天皇2年(643)11月条には、蘇我臣入鹿(そがのおみいるか)に攻められた山背大兄(やましろのおおえ)皇子に、その従者が東国の乳部に依拠して再起を図るべく提言する所伝がみえ、その性格がうかがえる。なお今日の定説では、推古朝ごろ、それまで名代(なしろ)・子代(こしろ)として個々の皇子女に所属していた部を、再編・拡充して壬生部が成立したとみられている。[大橋信弥]

壬ジン(みずのえ)は下が短く、「ノ+土」のテイは下が長い。またテイ(ノ+土)が音符になったとき、「壬」や「王」の形に変化・・・
「壬テイ」 <ぬきんでる> と 「呈テイ 」 「廷テイ」
解字 甲骨文は、「土(つち)+立つ人」の会意。土の土台(土盛り)の上に立つ人のかたちで、ぬきんでる意。篆文は、土の上の人がすこし前かがみになっているが、意味は同じ。現代字は「ノ+土」の形だが、単独で使われないので、ワープロやネットで表現できる字が用意されていない。ここでは、とりあえず「壬ジン」で代用するが、本来、壬ジン(みずのえ)は下が短く、「ノ+土」のテイは下が長い。またテイ(ノ+土)が音符になったとき、「壬」や「王」の形に変化することが多い。
意味 ぬきんでる。つきでる。
イメージ 「ぬきんでる」「つきでる」

 呈 テイ <神に差し出す>
解字 「口サイ+壬テイ(ぬきんでる人)」の会意形声。口サイは、神への祈りの言葉である祝詞を入れる器。これを抜きん出て立つ人が高くかかげて神にささげ、神に内容を示すことをいう。新字体は、壬テイ⇒王に変化する。
意味 (1)さしだす。さしあげる。「贈呈ゾウテイ」「進呈シンテイ」 (2)しめす。あらわす。「呈示テイジ」(差し出してみせる)「露呈ロテイ」(隠れているものが外に表われ出る)
イメージ  原義の 「神に差し出す」 (呈)
       壬テイの意味である 「ぬきんでる」 (程・逞・酲)
       「その他」 (聖)

聖 セイ・ひじり  耳部
甲骨文は、「耳のおおきな人(良く聞こえる耳)+口サイ(祝詞のうつわ)」 の会意。祝詞(のりと)や占いごとを口サイに入れて神に祈り、よく聞こえる耳で神のお告げを聞くこと。神意に耳をかたむけ、よく聞くことのできる人を表す。篆文で「耳+口+壬テイ(ぬきんでる人)」 の会意となり、新字体で壬テイ⇒王に変化した聖となった。神意に耳を傾ける意から転じて、さとい・かしこい・物事の理に通じている人。一つの奥義をきわめた人。天子の尊称、宗教的な崇拝対象などを表す字となった。
意味 (1)ひじり(聖)。知徳がすぐれ物事の理に通じている人。 ①さとい。かしこい。「聖臣セイシン」(すぐれた臣下)「聖童セイドウ」(神童。天才児) ②一つの道で奥義を窮めた人。「剣聖ケンセイ」「詩聖シセイ」(傑出した詩人。また、詩仙の李白に対し、杜甫をいう)「聖堂セイドウ」(孔子をまつった廟) ③宗教的な崇拝対象。「聖人セイジン」 ④天子の尊称。「聖王セイオウ」⑤崇高な。荘厳な。「神聖シンセイ」「聖地セイチ」  (2)[国]ひじり(聖)。高徳の僧侶。「高野聖こうやひじり」

神に差し出す

創世記22章において、神がアブラハムに対して、ひとり子のイサクを全焼のいけにえ として捧げるように命じた、という記事が記されている。この記事に対する典型的な誤解 は、神が子どもを全焼のいけにえとして捧げることを命じるのは、聖書の他の箇所と矛盾 しているというものである。
イサクを捧げるアブラハム 創世記22:1~:19 http://metamorph.hatenablog.com/entry/20141004/1412424858
22:1 神はアブラハムを試練に会わせられた。
22:1 今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。
22:16-17 あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。
22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。

遊牧民アブラハムは,彼の子孫にカナンの地を与えるという神の約束を受けた(〈 アブラハム契約〉)。この契約に基づき,カナンは〈選民〉ユダヤ民族の〈約束の地〉になっ た。https://kotobank.jp/word/%E9%81%B8%E6%B0%91-551324

アブラハムがイサクを捧げるために、モリヤの地に行き、その山に登るときに、朝早く、 アブラハムはろばに鞍を置き、捧げ物に用いる薪を乗せて、イサクと共に山に向かっ ています。ろばは、ユダヤ人にとって日常生活の乗り物であります。あのイサクを捧げよ とアブラハムにかって言った神は、今度は薪でなく、イエスをろばに乗せて、エルサレム に向かわしめ、十字架の業を神は成し遂げるのです。

「選ばれた者」http://www.jelc-ikebukuro.org/pastor15/pastor151129.html

馬子 子馬・・・驢馬(ロバ)・・・「ろばの子」は選ばれたのです

驢馬(中国)
驢[馿] ロ・リョ・うさぎうま  馬部
字 「馬(うま)+盧(=轤。回転運動をする器械)」 の会意形声。盧ロは轤ロ(回転運動をする器械)に通じ、回転運動をする石臼を曳く馬でロバをいう。これはネットで見つけた写真からイメージした私見。
意味 うさぎうま(驢)。ろば(驢馬)。ウマ科の動物。馬に似るが馬より小さく忍耐力にとむ。耳が長いことから、「うさぎうま」と言われた。「驢背ロハイ」(ロバの背)「驢鳴犬吠ロメイケンバイ」(ロバの鳴き声と犬のほえる声。聞くにたえないこと)「海驢あしか」
「盧ロ」 <まるい器>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/39b6c30aca962377b6747f660aff5b34
解字 甲骨文第1字は、つぼ形のうつわ(皿)の横に虎を描いた象形で、つぼの中に2点があり何かが入っていることを示している。第2字は、虎の略体が上にきて下部が鼎(かなえ)状の脚がある器の象形。虎の絵がはいったつぼ形または鼎形のうつわを表す。
 金文を解くには盧姓のシンボルマークが参考になる。このマークはつぼ(皿)と虎が描かれているのは甲骨文と同じだが、つぼの中に描かれているのは胃イである。胃は「田(胃袋のなかの食べた物)+月(からだ)」からなる字で、胃袋を表す字[音符「胃イ」を参照]。したがって金文の盧は、食べ物をいれたつぼと考えられる。では虎は何を表しているのだろうか。盧が姓のマークであることから、虎は盧姓(盧の一族)を守護する動物、すなわちトーテム(崇拝対象)であると思われる。
 金文の字形は上から、「虎の略+胃の田の部分+月(胃の月の部分)+皿(つぼ)」となり、シンボルマークと同じ内容を表している。篆文は、胃袋の部分がザルのような形になり、現代字で田に変化し、「虍+田+皿」の盧となった。意味は、姓に用いられる他、食べ物をいれるつぼから「めしびつ」となる。盧を音符に含む字は、「つぼ型のうつわ」「まるい」イメージを持つ。
意味 (1)姓のひとつ。「盧生ロセイの夢」(盧生という青年が立身出世して富貴を極めたが夢だったという故事。はかないことのたとえ)(2)つぼ。めしびつ。「壺盧コロ」(まるいつぼ)(3)すびつ(=炉)。火入れ。(4)くろい。くろいもの。(5)梵語の音訳。「盧遮那仏ルシャナブツ」(大日如来のこと)

盧氏(ろし). 盧 - 漢姓のひとつ。

盧とは、東アジアの姓である。http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%9B%A7
頭盧は頭蓋骨、(鑪・罏・壚と通じて)酒店の、土を盛って作った酒瓶を置くところ。

馬子 子馬・・・驢馬(ロバ)?
シオンの娘よ、大いに喜べ、 エルサレムの娘よ、呼ばわれ。
見よ、あなたの王はあなたの所に来る。
彼は義なる者であって勝利を得、 柔和であって、ろばに乗る。
すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
わたしはエフライムから戦車を断ち、 エルサレムから軍馬を断つ。
また、いくさ弓も断たれる。
彼は国々の民に平和を告げ、 その政治は海から海に及び、 大川から地の果にまで及ぶ。
(ゼカリヤ9章9-10節)

ロバに乗った王 ルカhttp://blog.goo.ne.jp/ybunya/e/77086732c52d2d5028846da8a603596d
キリストは子ロバに乗った王である。旧約聖書の預言者ゼカリアは奇妙な預言をしていた。その預言はイスラエルの歴史において長い間謎であった。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ロバに乗って来る。」(ゼカリア書9:9 1721頁)王がロバに乗って来る。これは謎であった。王は戦いに勝ち、多くの兵士に囲まれ、威厳のある軍服を身に纏い立派な馬にまたがり、道路には美しい花がまかれ、エルサレムに入城する。民衆はそれをシュロの小枝を振って歓迎する。それが常識であり、民衆の期待である。まさか、王が子ロバに乗ってエルサレムに入城するとは、期待はずれであり、滑稽以外の何ものでもない。しかし、預言者ゼカリアは既にそれを預言していた。おそらく、ほとんどの人たちはその預言を気にもとめていなかったし、忘れてしまっていたに違いない。
イエスはエルサレムに近づいたとき、弟子たちにロバの準備を命じた。弟子たちは何のことか理解できず、不思議に思ったらしい。イエスもあえて説明しない。ただロバは弟子たちとは関係なく準備されていた。これも謎である。誰が、何の理由でロバを準備したのか、福音書は一切説明していない。誰かがそのために準備をしていた。弟子たちはただそれを連れてくるだけであった。その時の合い言葉が「主のお入り用なのです」であった。
イエス自身の服装もみすぼらしく、これまたみすぼらしい服装の数人の弟子たちとがエルサレムに入るとき、普段と違うことはイエスがロバに乗っていたということだけであった。その時エルサレムの民衆はイエスを大歓迎した、とされる。彼らにとって、ロバなど関係なかった。ロバに乗ろうと、馬に乗ろうと、徒歩であろうと、関係なかったのであろう。民衆はイエスに何かを期待した。現状に希望を持てない民衆はいつも現状を打破する何かを期待している。その意味では、彼らは本当の王を待っていた。これまでにも何度も、繰り返し「王」と称するものがエルサレムに入城してきた。そして民衆は常に裏切られてきた。イエスを歓迎した民衆がどれほど真面目にイエスを歓迎したのかわからない。半分は冗談の積もりだったのかも知れない。しかしユダヤ人の指導者やローマの権力者たちにとっては冗談ではすまされない。エルサレムは常に爆弾を抱える危険な町であった。一寸した冗談が火種になって大爆発を起こすかも知れない。権力者というものは威張り散らしてはいるが、実は常にびくびくしているものである。彼らは常に民衆の動向に過敏である。
私は想像する。おそらく民衆はイエスの一行を見て、一応歓迎したものの、実は幻滅したものと思う。第一印象は、馬も準備できず、その代わりにロバに乗るとは、あまりにもみすぼらしく、弱々しそうである。これでは大きな期待はできっそうもない。
6. ロバである王
これ以上、このことについての考察は止めよう。イエスの弟子たちが、「王はロバに乗ってくる」というゼカリヤの預言を発見するのにはそんなに時間はかからなかったものと思われる。しかし、それを発見したときに、イエスが語ったすべての言葉を理解し始めた。世界を支配する根本的原理は、力ではない。軍事力でも、経済力でもない。ロバに乗る王である。ロバに乗る王とは、ロバのような王と読み替えてもいい。現実の動物としての生物学的特徴ではなく、イメージとしてのロバの特徴は2つある。長い耳と柔和さである。長い耳とは、「聴き従う」という神との密接な関係を意味し、柔和さとは人々に対する働きを示す。ロバは本来「戦う」ための動物ではなく、また「乗る」ための動物でもない。ロバのもっぱらの役割は荷物を運ぶということにある。力は力でも、他人の苦労を自ら担い、仕えるための力である。キリストはまさにロバのような王であった。
キリストによる支配とは先ず第一に「神に聴き従う」ということに基づき、第二にお互いに仕え合うところに実現される。



[4142] シヴァ神の妻・・・ミトラの奥様

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2017年12月13日(水)11時39分59秒   通報   返信・引用

ミトラの奥様に当たるミーシャの苗字( パールヴァティー)はインド神話における最高神シヴァ神の妻であり、絶世の美女という ...http://www1.ocn.ne.jp/~delangel/shousetus_omake_mithra-rig-
弥勒菩薩とは、マイトレーヤで、ミスラ教の救世主である。
元々、ミトラス神は、古代インド・イランのアーリア人が共通の地域に住んでいた時代までさかのぼる古い神ミスラ(ミトラ)であり、イラン、インドの両地域において重要な神であった。特に『リグ・ヴェーダ』においてはアーディティヤ神群の一柱であり、魔術的なヴァルナ神と対をなす、契約・約束の神だった。アーリア人におけるこの神の重要性をよく示しているのがヒッタイトとミタンニとの間で交わされた条約文であり、そこにはヴァルナ、インドラ、アシュヴィン双神といった神々とともにミスラの名前が挙げられている。ミトラ教の神話体系が仏教では菩薩として受け入れられ、マイトレーヤを軸とした独特の終末論的な「弥勒信仰」が形成されたといわれる。マイトレーヤ信仰または弥勒信仰はのち中国など東アジアに伝わったことは確かだ。なお仏教の弥勒信仰以外にもインドではミトラ信仰・マイトレーヤ信仰があった。
[1032]http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/1032



[4141] 人面魚身にして足なし 墨翟の後を継ぐ指導者を鉅子(きよし)(巨子)

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2017年12月13日(水)11時26分42秒   通報   返信・引用

魚の神アシュケロンのディアン・ケフトと河の神からセミラミス(シュミラ―ム)が生れた。このように、宗教は太古一つだった頃のままここに聖なる地としておつくりになった。これは、伊勢神宮や出雲大社は、この御岳のそのような人物が世界の時空を終焉を設定された「神の導きで作られた中心」があってこそ、他は、どこそこへ持って行っていいけれど、中心を破壊しておいてそのままはまったく形骸的になるはずだったのであります。
太古のスミラミコトの歴史は日本の岐阜に原点があった!http://naokosumi.blog.fc2.com/

【中国神話】より …この〈形体を失った聖者〉は,〈人面魚身にして足なし〉という禹の神像 を思わせるが,《墨子》兼愛下,明鬼下に〈禹誓(うせい)〉,非命下に〈禹の総徳〉の名が みえ,これらは墨子学派のなかで成立した文献であり,いまの偽古文〈大禹謨(だいうぼ )〉はそこから出ている。墨家が禹を称道したのは,おそらく儒家が尭・舜を称するよりも 前のことであろう。孔子が理想としたのは周公であり,周の礼楽文化であった。
墨家の主張した学説。兼愛とは,すべての人間を無差別に愛すること。…
【中国神話】より …この〈形体を失った聖者〉は,〈人面魚身にして足なし〉という禹の神像 を思わせるが,《墨子》兼愛下,明鬼下に〈禹誓(うせい)〉,非命下に〈禹の総徳〉の名が みえ,これらは墨子学派のなかで成立した文献であり,いまの偽古文〈大禹謨(だいうぼ )〉はそこから出ている。墨家が禹を称道したのは,おそらく儒家が尭・舜を称するよりも 前のことであろう。孔子が理想としたのは周公であり,周の礼楽文化であった。
墨家とはhttps://kotobank.jp/word/%E5%A2%A8%E5%AE%B6-132676
中国の諸子百家の一つ。兼愛 (博愛) や非攻 (不侵略) などを説いた墨 翟 (ぼくてき) を祖とする一派で,先秦思想界の大勢力であったが,腹とんら数人以外は名が知られていない。
墨翟の後を継ぐ指導者を鉅子(きよし)(巨子)という。第2代は禽滑釐(きんかつり),第3代は許犯(孟勝)。

中国の思想史において道教という言葉(概念)を最初に用いているのは,〈儒者〉すなわち儒家の学者たちであり,次いでそれを批判是正する形で墨家すなわち墨子教団の学者たちがそれを用いていることである。そして,墨家のいわゆる真正の〈先王の道教〉とは,要するに夏王朝の禹王以来とされる上帝鬼神への敬虔な宗教的信仰,および祭祀祈禱その他の宗教儀礼の誠実な実践をその根幹とするものであり,儒家のいわゆる〈道教〉が似て非なるものときびしく批判されるのも,この宗教的な根幹を軽視もしくは無視していると見られたからであった。…

第2代は禽滑釐(きんかつり),第3代は許犯(孟勝)。墨家は明確なプログラムをもち,厳格な規律を守りつつ鉅子に率いられて行動する社会変革の実践集団であった。周代の各国の君主・貴族に隷属していた職能氏族が,封建的社会体制の解体過程で結束して作ったギルド的工人集団に由来する。…

鉅子(きょし)

「巨キョ」 <へだてる>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/1de03b47bd26b82e976b1a653f03e6b9
解字 工型の定規に、手で持つ取っ手のついた形の象形。矩クの原字。金文第二字は定規を持つ人を表す。通常の定規より大きいので、おおきい意を表わす。篆文は工に取っ手の形。現代字は匚に取っ手に変化。部首はもと工型なので工。
意味 (1)おおきい。「巨人キョジン」「巨大キョダイ」 (2)多い。はなはだ多い。「巨額キョガク」「巨万キョマン」 (3)すぐれた。「巨匠キョショウ」「巨星キョセイ」
イメージ  巨は定規のかたちなので 「定規」 (巨・矩)
       定規は工型で両端のあいだが離れているから 「へだてる」 (拒・距・炬・渠)

巨 キョ・おおきい 工部 解 ...http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/3554
巨旦大王(金神)・・・日ノ出の位置を計る

巨旦将来(こたんしょうらい)
讃岐國一宮 田村神社 大祓式・夏越祭http://tetsutanaka.blog58.fc2.com/blog-entry-220.html
蘇民将来伝説
「昔、北海に坐す武塔神(牛頭天王)が南海の神女のもとに行かれる途中、日が暮れ一夜の宿を求めて此の地で富み栄えていた弟の巨旦将来(こたんしょうらい)の所へ行ったが断られ、貧しかった兄の蘇民将来は快く宿をお貸しした。年を経て、命は八人の王子をつれて還られた時、蘇民将来の家に立ち寄られ「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり、後の世に疫病あらば、汝は蘇民将来の子孫と云いて、茅の輪を以って腰に着けたる人は免れるであろう」といわれ、巨旦を誅滅された伝説が残っている。これが今日伝わっている茅の輪くぐりの神事の起こりです。

巨大
夏安居
この世への誕生を繰り返すという利他を重視するチベット仏教独自の制度 で、高僧が亡くなると生まれ変わりの幼子を探してエリート教育をして後を継がせるの です。 http://www.isekineko.jp/tibet-zhebengsi.html
チベット仏教の特色の一つとしてダライ・ラマに代表される「転生活仏」という制度があります。
これは本来ならば解脱できるにも関わらず衆生を救済するために、この世への誕生を繰り返すという利他を重視するチベット仏教独自の制度で、高僧が亡くなると生まれ変わりの幼子を探してエリート教育をして後を継がせるのです。

チベットに仏教が広まったのは7世紀の吐蕃国の時代。
弥勒菩薩未来仏。お釈迦様が亡くなってから56億7000万年後に現れるとされる。 チベット語でチャンパ。http://www.kaze-travel.co.jp/tibet_kiji060.html
チベットに仏教が伝わる以前には、ボン教と呼ばれる土着の宗教があり、その特徴は自然神の信仰とシャーマニズムです。仏教がチベットに広がる過程で、ボン教の神様や儀式などを取り入れて、ボン教とうまく折り合いを付けました。現在でもチベット仏教にはボン教の要素を見ることができます。例えば五色の祈りの旗「タルチョ」に書かれている呪文、寺院で香草(サン)をたく習慣もボン教に由来していると言われています。

吐蕃の用語解説 - 7世紀初めに出現した チベット人による最初の統一国家をさす中国側の呼称。 https://kotobank.jp/word/%E5%90%90%E8%95%83-105612
吐蕃王朝の遠祖は、ネパール北西にあるカイラーサの北辺から4世紀なかばごろに東部チベットのカムに移り、5世紀後半に中央チベット南部のヤルルンに拠(よ)って、1世紀後に中央チベットを掌握し、やがてチベット全土を制覇した。

シバŚiva神の住居
カイラーサhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B5%5B%E5%B1%B1%5D-1153272
カイラーサ[山]の用語解説 - 古代インドの伝説上の山で, チベット南西部のカイラス山脈の西部に位置するカイラス山(チベット名カンリンボチェ, 中国語の音訳は岡仁波斉峰)がそれにあたるとされている。ヒンドゥー教およびラマ教の 聖地として,古くから崇敬されている山

ヒンドゥー教の破壊神「シヴァ」である。 アリオンは言う。 「スサノオは艮 の金神とも呼ばれている」
封印された鬼門の神と「スサノオ=国常立尊」太陽神「スサノオ」とルシファーの預言書「日月神示」の謎 https://ameblo.jp/aoisoradaisuki123/entry-12219259670.html
、スサノオは「牛頭天王」という異名を持っている。
暴風雨を司る荒ぶる牛神……ヒンドゥー教の破壊神「シヴァ」である。
艮(東北)は丑寅(牛虎)であり、牛の角と虎の毛皮を巻いた姿で「鬼」は描かれる。
艮の金神とは鬼門の神「国常立尊」である。

鬼門・裏鬼門ライン、さらに五色不動の配置などが目立ちます。 しかし実は、江戸時代 だけでなく、近代から現代に到るまで、レイラインや風水が都市計画に生かされている例 が多いのです。 http://hagiyan09.seesaa.net/article/381811493.html

カイラス山は、須弥山 北緯30度http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2371
世界軸 - Wikipedia
カイラス山でシヴァとパールヴァティーがガネーシャをあやしている姿. 世界軸 ... カイラス山はチベットの諸宗教にとっては神聖なものである。 古代メソポタミアにおいては、シュメール人やバビロニア人らが人工の山であるジグラットを川沿いの平野に建立した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%BB%B8
古代メソポタミアにおいては、シュメール人やバビロニア人らが人工の山であるジグラットを川沿いの平野に建立した。ジグラットは頂上に位置する神殿へとつながる階段の土台となっていた。

一湊灯台の緯度は、北緯30度27分54.28秒である。 西の方へは、中国杭州・成都カイラス山インド・プーナヨルダンカイロカナリア諸島大西洋となり、東へは伊豆諸島の島々から、カリフォルニア半島の付け根近くを通って大西洋へと抜ける線が、だいたい同緯度である。 ...
http://www17.ocn.ne.jp/~yjj/yjj/kotoba/2002-8_1.htm
屋久島は磁力の強い島である。全島が花崗岩で出来ており、2,000m近い山々が連なり、人間の邪(よこしま)な想念は、モノともしない力が残っている。その屋久島の真北に位置するのが、一湊の矢筈の鼻である。この御崎から北へ一直線に、開聞岳(開聞神社)-芦北-宇土-玉名-久留米(水天宮)-大宰府(天満宮)-宗像(宗像大社)と続いており、北はロシアのベルホヤンスク山脈を通って、ティクン市からウラプテフ海に抜けて、北極へと至っている。南は屋久島平内の大崎川から、沖大東島の西を通り、ニューギニア島の西鼻のワイゲア島を通って、オーストラリアのメルビル島から中央の(ナント・アボリニジの聖地)エアーズロックを通って、グレートオーストラリア湾へ抜けて、南極のグッドイナフ岬の右側スランス基地寄りを通って、南極点へと向っている。この経線は統計130度30分0.14秒の屋久島一湊灯台(矢筈崎灯台)の位置を、地図上で線を引いての事なので、少しのくるいはあるだろう。そこの処は大目に見て貰いたい。一湊灯台の緯度は、北緯30度27分54.28秒である。西の方へは、中国杭州・成都-カイラス山-インド・プーナ-ヨルダン-カイロ-カナリア諸島-大西洋となり、東へは伊豆諸島の島々から、カリフォルニア半島の付け根近くを通って大西洋へと抜ける線が、だいたい同緯度である。
緯度で、世界の同緯度の地名が分かり、気温の予想も付く。あまり暑くもなく、あまり寒くもないが、四季のある処の様である。世界に名の知れた聖者・老子、釈迦、イエスは、だいたいにおいてこの線上のようだ。

屋久島は北緯約30度の位置にありますが、地球上で同じ位の北緯の場所は・・・ エジプトの首都カイロ、ヒマラヤ山脈のあるネパール等があります ... ギザのビラミッドはこの地点より南に70マイル、東に5マイルのところにある。
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2173



[4140] 東国三社と冬の三角形(続き)

投稿者: 弓張月 投稿日:2017年12月12日(火)11時26分9秒   通報   返信・引用   編集済

おじゃまします。
桜川市の寺では、雨引山法楽寺(雨引観音)より、(旧岩瀬町)にある小山寺富谷観音に興味があります。前の投稿、「「小山」や「富谷」で、榎本氏(えのもとし)は、日本の氏族。下野国小山で栄えた名族小山氏の庶流である。とか、「富谷」は登彌と等彌で、谷は矢とか規則性が現れますね。」や筑波山のほぼ真北,仁王門に四つ菱(武田菱の様)、本堂の扉の卍。謎の蜂須賀氏の家紋は「蜂須賀万字」。そして、三重塔(明治39年指定の国宝であり、現在は国の重要文化財)で、何で、格下げされたのか?小山,榎本では、中国の夏の時代は紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃 [紀元前2000年頃からとする説もある]とのこと。また、小山は栃木県小山市大字梁にある寺野東遺跡を連想します。中国の「梁」は紀元前641年、穆公(ぼくこう)(秦・九代)に度重なる土木工事で増築して、国家自体が疲弊し同族の秦に滅ぼされた。弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。
弥生を、「矢が生まれる」と考えると、日本での矢の奪い合いの始まりなのかな。?
そう考えて三重塔の格下げを考えると歴史は繋がるのかな?
寺野東遺跡の環状遺構の中心と、環状遺構上にある盛土を結んだ延長線上には筑波山があり、冬至の日の日の出が、その筑波山の鞍部から上ることを確かめ、同遺構は、古代人が用いたカレンダーの役割を果たしていたのであろうとのこと。
旧真壁町の石「真壁小目(まかべこめ)」は、茨城県桜川市真壁町(旧真壁郡真壁町)の東部にある加波山(標高709m)の麓一帯の真壁町より採掘された石目の小さい花崗岩の称。」は、首都圏最寄りの大規模産地という地理的背景もあり、日本銀行、国会議事堂、皇居、東京駅をはじめ首都圏の多数の駅舎、天皇陵、皇居などの歴史的建造物などにも使用されている。とのこと。真弓山の石と同じですね。
https://www.city.oyama.tochigi.jp/kanko/rekishi/bunkazai/oyamajomonterano.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A3%81%E5%B0%8F%E7%9B%AE

今回は、ここまでとします。



[4139] 多肉之獸也   「勝つ、利益」

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2017年12月11日(月)12時36分16秒   通報   返信・引用

luó 須~ で 「カイツブリ」。過~ で 「ミソサザイ」。
yíng 「贏 の異体字」、「姓 の1つ」 http://open.mixi.jp/user/809109/diary/1201235045
yíng 「海」、「姓 の1つ」
 yíng 「担う、負う」

yíng 「竹カゴ」、「竹で編んだ箸入れ」

死者を竹で編んだかごの中に寝かせておき、自然に腐敗・ 白骨...
……バリ島に神秘の「風葬の村」があったhttps://matome.naver.jp/odai/2144825956708547001

箸入れ・・・箸箱・・・箸墓?

それで墓を名づけて箸墓といい ました。このお墓は昼は人が造り、夜は神が造ったのです。 ヤマトトトヒモモソヒメを、邪 馬台国の卑弥呼に比定する説もあります。 御諸山(みもろ)というのは、三輪山のことで 、三室山(みむろ)にも通じます。 あれ、ミムロなら? 竹取物語の登場人物 ...
竹取物語の謎を「うら」読みで解くhttps://ameblo.jp/taketori-no-nazo/entry-11605457409.html
竹取翁の本名、さぬきのみやつこは、「讃岐の宮つ子」とも読めます。
 讃岐の神社の子、という意味に取れます。
 讃岐の一宮は田村神社。祭神は吉備津彦・倭迹迹日百襲姫・猿田彦です。
?サルタヒコは、琵琶湖の比良明神の祭神でもあります。
 比良明神は別名、白髭明神ともいいます。
 竹取物語のなかで、竹取翁は自分の「髭が白くなった」と、語っています。
?また、サルタヒコを祀る神社は伊勢国に多く、伊勢神宮との関係がうかがえます。
 伊勢神宮は、天照大神を祀っています。

御諸山(みもろ)というのは、三輪山のことで、三室山(みむろ)にも通じます。
あれ、ミムロなら?
竹取物語の登場人物一覧*に出てきました。
かぐや姫の名づけ親が、「みむろどいむべのあきた」というのでした。
ミムロ

土着の神「ミシャグチ神」と共に洞で過ごす神事
「御室社(みむろしゃ)」と呼ばれた中世まで使われていた古代地下祭祀場の跡地 であり、ここでは諏訪で太古の昔より信仰の中心となっていた土着の神「ミシャグチ神」 と共に洞で過ごす神事が執り行われていました。 九州系をルーツに持つ渡来系 ... 洩矢 一族、後に守屋山の名前ともなっている「モリヤ」は、旧約聖書に登場する古代 エルサレムの古い呼び名モリヤであり、縄文の神「ミシャグチ」もまた、古代ヘブライ語の 「MShYCh(ミシャグチ)=救世主」を意味します。
出現した「水の眼」と黒龍(諏訪天龍) https://ameblo.jp/pure-tenkataihei/entry-12269802899.html
鳥居をくぐるとすぐに現れるのが、十間廊(じっけんろう)と呼ばれる祭祀場であり、ここの間取りや寸法、使われ方を含めて、古代ユダヤ祭祀とぴったり一致しており、ユダヤ教における幕屋と呼ばれるテント型の神殿と同じ構造となっています。
諏訪大社の4社の中でももっとも古く、もっとも古代ユダヤ、縄文シュメールの叡智が残された前宮。

九州系をルーツに持つ渡来系の出雲連合軍がやって来る前まで、諏訪は古代ヤマト縄文民族の中心地であり、この地を治めていた酋長の洩矢(もりや・もれや)一族。
彼らの信仰の中心にあった神「ミシャグチ」は大蛇であったと言われています。
洩矢一族、後に守屋山の名前ともなっている「モリヤ」は、旧約聖書に登場する古代エルサレムの古い呼び名モリヤであり、縄文の神「ミシャグチ」もまた、古代ヘブライ語の「MShYCh(ミシャグチ)=救世主」を意味します。

「タケミナカタとタケミカヅチは兄弟だった」
タケミカヅチ(武甕槌)は、茨城県の鹿島神宮に祀られている有名な神であり、出雲でオオクニヌシに剣を突き立てて国譲りを迫り、また諏訪の神であるタケミナカタにとっての宿敵として有名です。
この二神の力比べの戦いが現在の日本の相撲の起源となっており、そして相撲(すもう)という言葉は、古代ユダヤのヘブライ語における「スモー(シュモー)」と関係しており、シュモーはヘブライ語における「彼の名前」という意味だそうです。
天使と相撲をして勝ったユダヤ祖のヤコブは、神から“イスラエル”と名付けられましたが、いずれにしても相撲の原点は古代ユダヤとも深くリンクしています。

野見宿禰は、相撲の起源とされる、当麻(たいまの)蹶速(くゑはや)との力比べ(垂仁紀 七年条)の勝者としてもよく知られているが、ここでは、土部連の始祖らしく、埴輪の創始 者として語られている。 右の説話は、悲惨で残酷な殉葬の風習を、出雲国から呼んだ土 部百人に作らせた「人・馬と種々の物の形と」によって代替することで止めさせたという、 典型的な起源譚である。そして、この説話が、土部連が天皇の喪葬をつかさどる起源を 語るものであり、土部の功績譚として語られていたというのは、後の時代の次のような 歴史 ...
殉死と埴輪http://miuras-tiger.la.coocan.jp/junshi-to-haniwa.html
野見宿禰は、相撲の起源とされる、当麻(たいまの)蹶速(くゑはや)との力比べ(垂仁紀七年条)の勝者としてもよく知られているが、ここでは、土部連の始祖らしく、埴輪の創始者として語られている。
 右の説話は、悲惨で残酷な殉葬の風習を、出雲国から呼んだ土部百人に作らせた「人・馬と種々の物の形と」によって代替することで止めさせたという、典型的な起源譚である。そして、この説話が、土部連が天皇の喪葬をつかさどる起源を語るものであり、土部の功績譚として語られていたというのは、後の時代の次のような歴史記事からも確かめられる。

  土師(はじ)の先は、天穂日(あめのほひ)命より出づ。その十四世の孫は名を野見宿禰と曰ふ。昔者、纏向珠城宮に御宇(あめのしたしらしめ)しし垂仁天皇の世には、古風尚(なほ)存(あ)りて葬礼に節無し。凶事有る毎に、例として多く殉埋しき。時に皇后薨して、梓宮庭に在り。帝、群臣を顧み問ひて曰ひしく、「後宮の葬礼、これを為さむこと奈何にせむ」、と。群臣対へて曰ししく、「一に倭彦王子の故事に遵(したが)ひたまへ」と。時に、臣らが遠祖野見宿禰、進みて奏して曰ししく、「臣が愚意の如くは、殉埋の礼は殊に仁政に乖(そむ)けり。国を益し人を利(たす)くる道に非ず」と。
   仍(すなは)ち土部(はにへ)三百余人を率ゐて、自ら領(し)りて埴を取り、諸の物の象(かた)を造りて進(たてまつ)りき。帝、覧(みそなは)して甚だ悦びたまひて、以て殉人に代へたまひき。号(よ)びて埴輪と曰ふ。所謂(いはゆる)立物是なり。…… (『続日本紀』天応元年<781>六月二十五日条)

邪馬台国論争で大和にある箸墓古墳が 卑弥呼の墳墓ではないかと推定している研究者や古代史ファンが多いが私の推定通り 伽耶の国に現存していた。金官伽耶の近くにあるとの思いは間違いで大伽耶の ... また 殉死者は44号墳の周辺に小さな墳墓が集まっておりこれらも含めると百人近い人が 殉死したのではないかと思われる。
卑弥呼の殉葬墓が見つかった・・・箸墓古墳ではなかった http://gan205.at.webry.info/201401/article_11.html
殉葬墓というのは非常に珍しい存在で韓国でもこれを展示するために大伽耶王陵展示館を卑弥呼の墳墓の上に作っている。

ボシェト(bosheth)
モレク(Molech)は古代の中東で崇拝された神の名。男性神。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AC%E3%82%AF
元来はモロク(Moloch) という。ヘブライ語では ??? (mlk)。元来は「王」の意。また、「涙の国の君主」、「母親の 涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれており、人身供犠が行われたことで知られる。 パレスチナにもモレクの祭儀は伝わった。古代イスラエルでは、ヘブライ語で恥を意味 するボシェト(bosheth) と同じ母音をあて、モレクと呼ぶのが一般的であった。『レビ記』 では石打ちの対象となる大罪のうちに、「モレクに子供を捧げること」が挙げられている。

【ポチ袋の語源・由来】. ポチ袋の「ポチ」は、関西の方言で芸妓や茶屋女などに与える 祝儀のことであった。 祝儀を「ポチ」と呼び始めた由来は定かではないが、非常に少ない ことを「これっぽっち」というように、「ポチ」には「小さな点」や「ほんの僅か」という意味が ある。 祝儀を渡す相手が、芸妓や茶屋女などであったことから少額の祝儀と考えられ、「 ほんの僅かな金額」という意味で「ポチ」と呼ばれたのであろう。 また、フランス語の「 プチ」を語源とする説や、「ポーチ」を語源とする説もあるが、時代的に考えて不自然で ある。http://gogen-allguide.com/ho/pochibukuro.html

kotobank.jp/word/籠-461351 - キャッシュ

かご【籠】. 竹,蔓,木の小枝,針金などを編んでつくった入れ物。語源は定かではないが ,上代に〈こ〉と呼ばれていたことを考えれば,〈か〉の由来する言葉との合成語であること がわかる。すなわち〈か〉は竹の意とも堅の意ともいわれ,〈こ〉に形容的に冠している。 あるいはまた,構籠(かきご)や囲むの略義であろうとする説もある。籠の文献上の用例 としては,まず鎌倉時代に書かれた《名語記》の〈こころ流浪の行人のせなかに負たる籠 をかこおひとなつけたり〉をあげることができる。https://kotobank.jp/word/%E7%B1%A0-461351
【考古学からみた編物】https://kotobank.jp/word/%E7%B1%A0-461351
 人類は古くから編物を利用していたらしく,考古学的には網,籠(バスケット類),蓆(莚)(むしろ),網代などが確かめられる。

カゴ
西セイ・サイ・にし西部解字甲骨文・金文は荒目のザル、カゴを描いた象形。ザルやカゴ は、物をいれたり受けたりする。バスケットボールの球が上からバスケット(かご)に入る ように、丸い太陽が夕方、地平線に落ちるのを受け止めるカゴの意味から、日が沈む西 の方角を表わした。字形は篆文から上に余分なものが付き、現代字は西になり、甲骨・ 金文の面影を残していない。意味にし(西)。日の沈む方角。「西方セイホウ」「西洋 セイヨウ」「西暦セイレキ」「東西トウザイ」イメージ「にし・夕日」(西・茜)ザルの ...
「西セイ」 <荒目のザル、カゴ>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/72594c356ebd789437eeaaf602d2dfc0
解字 甲骨文・金文は荒目のザル、カゴを描いた象形。ザルやカゴは、物をいれたり受けたりする。バスケットボールの球が上からバスケット(かご)に入るように、丸い太陽が夕方、地平線に落ちるのを受け止めるカゴの意味から、日が沈む西の方角を表わした。字形は篆文から上に余分なものが付き、現代字は西になり、甲骨・金文の面影を残していない。
意味 にし(西)。日の沈む方角。「西方セイホウ」「西洋セイヨウ」「西暦セイレキ」「東西トウザイ」
イメージ  「にし・夕日」 (西・茜)
       ザルの象形から 「荒目のザル」 (栖)
       ザルの目を 「通る」 (晒・洒)
栖 セイ・すむ・すみか  木部
解字 「木+西(荒目のザル)」 の会意形声。木の上にあるザル状の鳥の巣。
意味 (1)すみか(栖)。鳥の巣。 (2)すむ(栖む)。巣を作り、そこにすむ。「栖息セイソク」(=生息)「隠栖インセイ」(=隠棲)
通る
晒 サイ・さらす  日部
解字 「日(太陽)+西(通る)」 の会意形声。太陽の光をよく通すこと。
意味 さらす(晒す)。①日にほす。「晒布さらし」(さらして白くした布) ②広く人々の目に触れる。「人目に晒す」
洒 サイ・シャ・すすぐ  氵部
解字 「氵(水)+西(通る)」 の会意形声。水が通りよく流れること。また、水が通ってきれいになること。
意味 Ⅰサイの発音。すすぐ。そそぐ。あらう。「洒掃サイソウ」(水を撒きほうきで掃く)
Ⅱシャの発音。さっぱりとしているさま。「洒脱シャダツ」(あかぬけしてさっぱりしている)「洒落シャラク」(さっぱりして物事にこだわらないこと)「洒落しゃれ」(機知に富む。美しい装

広く人々の目に触れる。「人目に晒す」・・・

籠 解字 龍の画像https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E7%B1%A0++%E8%A7%A3%E5%AD%97++%E9%BE%8D

籠とは。意味や解説。自由を束縛されて、思い通りに生きられないもののたとえ。かごの 中に閉じ込められた鳥と、おりに閉じ込められた猿の意からhttps://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E7%B1%A0/m0u/
籠の出典白居易はくきょい「山中さんちゅうにて元九げんきゅうに書しょを与あたえ因よりて書後しょごに題だいす」(詩)。「籠鳥檻猿倶ともに未いまだ死せず、人間じんかん相あい見るは是これ何いずれの年ぞ」(かごの鳥もおりの猿もまだ死んではいない。この世の中、会えるのはいつのことか)

監 獄 禹・・・

水を制する龍https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%87%E7%AF%AD

禹は帝顓頊の孫にあたる。また、帝顓頊は同じく五帝の一人の黄帝の 孫である ...https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B9

「黄泉比良坂」(よもつひらさか)も同じで、「黄帝(こうてい)の子孫達の住む比羅の佐賀」。
豊受大神(お稲荷さん)の元伊勢だと言われる「龍」の籠神社(このじんじゃ)や、天智 天皇と天武天皇を祀っていると思われる「鹿」の麓神社(ふもとじんじゃ)は鹿児島の秦氏 と同族だという事のようです。 京都市左京区にある貴船神社(きふねじんじゃ)と 呼ばれる神社 .... 史記によると、「越王勾践の先祖は禹王(うおう)の末裔」だと書かれ ていて、前334年頃に、「越」が「楚」に滅ぼされ、越都のあった紹興近くには、今も禹(う )を蛇神として祀る廟が残っていると言います。 禹王(うおう)は、黄帝の玄孫で、秦王朝( しんおうちょう) ...
  島根県松江市東出雲町の黄泉比良坂http://tsukinoshizuku5.webnode.jp/%E6%B3%A8%E6%96%87%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E5%AE%9D%E7%9F%B3%E5%BA%97/%E5%B7%9D/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3/
死者の国への入口と呼ばれる国です。

霊を受けるために着る呪衣
「襲」について字義の一に「おそふ」をあげ、二以下に「かさねる」「 着る」「死者に衣をきせる」「死者に着せるえりが左まえの衣」、「おほふ」といった義をあげ ている。http://hccweb6.bai.ne.jp/~hgd17901/hirorinhp/1%20kanji/1%20ronkou/syuuosou!.html
世 襲
「九州を開き、九道を通じ、九沢を陂(堤防)し、九山を度(はか)る」功績を挙げたとあります。
鯀は堯の 時代、四獄によって堯の後継者のひとりとして推薦されるも、治水に失敗したため舜 によって羽山に殛された(幽閉された)人物です。https://ameblo.jp/ktka1972/entry-12255658688.html
夏王朝は、中国初の世襲王朝とされています。 開祖は禹(う)。姓は姒(じ)で、名は文命。禹は死語に贈られた諡号です。

不思議なことに、海を隔てた日本において、禹廟こそ京都にひとつあるだけですが、禹を称える碑は全国の河川沿いに多く見受けられます。

禹という漢字は、へびと九、九はすなわち糾であり、曲がりくねった蛇、それは水を制する龍を表すともされています。
水を制する龍・・・
蛇籠/蛇篭(じゃかご)とは、竹材や鉄線で編んだ長い籠に砕石を詰め込んだもので、 河川の護岸や斜面の補強などに使用されてきた。

御笠郡(みかさぐん)は、福岡県(筑前国)にあった郡https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%AC%A0%E9%83%A1
「御笠席田那珂郡役所」の管轄区域をもって筑紫郡が発足。

御笠?
青竹を3本組んでつくる棚に蓑笠みのかさをつけた「カリヤ」(図2)というものを設置する。http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/46/273-276.pdf#search=%27%E7%AE%95+%E7%AB%B9+%E6%9F%A9+%E6%A3%BA%27

蓑(みの)の原字。現代字は、冄ゼン⇒日の両側が突き出た形に変化した「 衰」になった。中国では葬式のとき親族は粗末な麻布を用いて、縁(へり)を縫わない 喪服を作って着た。
「衰スイ」 <みのに似た粗末な喪服>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/89f52084bb8bd8c628b8364da97251c1
衰サイと呼ばれ喪服の意味となった。

口=サイ
甲骨文におけるサイ (サイ)は「口( くち)」の意味で使用されている明確な例はないという。 また、「曰」は 甲骨文における サイ (サイ)の中に祝詞を収めている形という。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4_(%E6%BC%A2%E5%AD%97%E5%AD%A6)
「阜」が従来小高い丘の形とされていたのを、白川静は神梯の形としている。https://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/13906697.html?__ysp=56We5qKv
 「貞ふ、陟降せんか。十月。」(『白川静著作集 2』p280)

「鼎テイ」<かなえ> と「貞テイ」<鼎による占い>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/ed08f168932e140822db7232ef713e77
貞 テイ・ただしい  貝部

「貞」
鼎 テイ・かなえ 鼎部 鼎 解字 食べ物を煮る三本脚の容器である鼎(かなえ)の象形。鼎 はもともと食物を煮炊きする土器として出現したが、青銅製も作られるようになり、宗廟 において祖先神を祀る際に、いけにえの肉を煮るために用いられたこと ...http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/ed08f168932e140822db7232ef713e77
貞卜問するなり、卜と貝に従ふ、貝は以て贄(し)# 5と為すなり、一に曰く、鼎 の省聲なり、http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/3664
【貞】は鼎なり・アリダード ... http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2000 命〔A+叩〕 「叩 」=「口」+「卩」:=くち+たれた男根のおとこ=>口の利いてはいけない種類のおとこ ... 「叩」 解字:形声。 意符の卩(人がひざまずいているさま)と、音符の口(うつ ...http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2491
Re: 漢字http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3460

神の陟降する神梯の前はいわば神人の相交わるところであると白川静先生がそう分析 しています。

石棺 【甘】 カンは、禹の父【鯀】コンの甕棺http://8906.teacup.com/toraijin/bbs/3995

禹は死に際して、益に帝位を譲ろうとしたが、3年間の禹の喪 が終わると禹の子である啓に帝位を譲って箕山に隠棲した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E8%A9%B1)

箕山
箕山とは? 中国,河南省登封県南東にある山。尭(ぎよう)のとき,隠士の巣父(そうほ)・ 許由(きよゆう)が隠れた所という。 .https://www.weblio.jp/content/%E7%AE%95%E5%B1%B1

ミアレとは?歴史民俗用語。 読み方:ミアレ(miare)神・貴人の誕生・来臨、又は加茂 神社の祭、みあれ祭。別名 御阿礼.https://www.weblio.jp/content/%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%AC

みあれ祭(みあれさい)は、毎年10月1日に福岡県宗像市の宗像大社秋季大祭(田島放生会)の最初に行われる海上、航海安全や大漁などを願って行われる祭礼である。https://www.weblio.jp/content/%E3%81%BF%E3%81%82%E3%82%8C%E7%A5%AD

この船は昼間 はマンデトと呼ばれ、東側(生者の国)を航海し、夜はメセクテトと名を変え、西側(死者の 国)を航海するとされる。https://kotobank.jp/word/%E3%82%AF%E3%83%95%E7%8E%8B%E3%81%AE%E8%88%B9-189142
東側の切り石の下に長さ31.2メートル、幅2.6メートル、深さ3.5メートルの石室があり、中には解体した状態の木造船が収蔵されていた。

埋葬の際,遺体を納める容器をいう。日本では古くは「ふね」といったが,のちに「ひつぎ」というようになった。https://kotobank.jp/word/%E6%A3%BA-48407
歴史的にみると,死体の埋葬は旧石器時代からみ られるが,棺のようなものは用いられず,新石器時代に入って死体を石室に入れるよう になり,それがやがて特定の容器,つまり棺に納めて葬る形となった。棺には,籠,木箱 ,甕,壺,桶などが多く使用されて ... キリスト教国でも最初石棺が用いられたが,やがて 簡素化して,中世以降は木棺が多くなった。


船形がある船山は万灯籠山(まんどうろうやま)・西賀茂山とも言われています。http://kyototravel.info/%E8%88%B9%E5%BD%A2

禦 ギョ・ふせぐ  示部
解字 「示(祭壇)+御(路上でおがむ)」 の会意形声。御は杵形の神を迎える形。そこに示(祭壇)のついた禦は、神を迎えて祭ること。災いのないよう神に祈ることから、災いから身をふせぐ・まもる意となった。
御  ギョ <路上でおがむ>http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/458801e945ede4eaa4f5f577211d4d99
解字 金文は 「彳(ゆく)+(午:きね形の信仰対象物)+止(あし:あるく)+(卩:ひざまずく人)」の会意形声。午(きね)は杵形の信仰対象物で、この下に止(あし)を加え杵形の信仰対象物が歩いている意。さらに卩(ひざまずく人)を加え、歩く杵形をひざまずいておがむ形。これに彳(ゆく)をつけた御は、歩いて行く杵形の信仰対象物(貴人)をひざまずいて拝む意。路上でひざまずいて貴人を迎えること。篆文以降も同じ形である。なお、馭ギョ(馬をあやつる)に通じ、あやつる意もある。
意味 (1)おん(御)。お(御)。み(御)。敬意やていねいさを表わす語。「御意ギョイ」(ごもっとも)「御覧ゴラン」「御礼おんれい」「御節おせち」「御簾みす」(簾すだれの敬語、特に神前・宮殿などに用いるすだれ) (2)天皇につけて敬意を表わす。「御物ギョブツ」「崩御ホウギョ」(3)あやつる。おさめる。(=馭ギョ)。「御者ギョシャ」「制御セイギョ」 (4)ふせぐ。まもる(=禦)

御 ( ミ ) 姿から、
ミムロ・・・おむろ

棺の上に「おむろ」を置いて葬式を行っていた。
ご精霊船を作りその年に亡くなった人(新仏)を乗せて西方浄土 へと流す行事が行われている。http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/035/035220.html

襲(世襲)姫?
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の「百襲姫」の「百」に置き換えることができました。
百済(くだら)を訓読、大和言葉的にすると、百済(ももたら)になることですね。http://tacchan.hatenablog.com/?page=1502991389
卑弥呼は死ぬと百人が殉葬した(生贄)、この出来事が百襲姫(百人を襲う姫)の名の由来である



[4138] 東国三社と冬の三角形(続き)

投稿者: 弓張月 投稿日:2017年12月10日(日)09時17分16秒   通報   返信・引用   編集済

おじゃまします。
もうすぐ正月月ですね。毎年行われる西宮神社の「福男選び」は毎年、テレビのニュースで放送されますね。
皆さんも気づいていると思いますが福男選びの賞品(景品)は、
・一番福
えびす様の御木像(大),えべっさんの酒菰樽,えべっさんの米1俵,半被
・二番福
えびす様の御木像(小).えべっさんの米1俵,半被
・三番福
えびす様の御金像,八喜鯛(焼き鯛) ,半被 ですね。

オリンピックのメダルは、金銀銅ですね。三番福が「えびす様の御金像」は不思議ですよね?でも、古代史を加味すればこれが日本の常識ですかね?
武内宿禰の子の順番は、第一子は、羽田矢代宿禰、次は許勢小柄宿禰、三番は『日本書紀』では「石川宿禰」、『古事記』では「蘇賀石河宿禰」ですね。
であるから、三番福の賞品がえびす様の御金像になるのかな?
漢字「金・銀・銅」は、銀は、金の良=ラー(太陽神)アマテラス、銅は、金と同じ、と考えると金と銅は月でスサノオ。御先祖たちは、考える時間は現代人よりはるかに多くあったでしょうし、脳が人間脳の大きさになれば、後はいかに脳を鍛えるか(見聞から六感へ)でしょうから、現代人より頭は良かったのでしょうね。
また、坂上田村麻呂と徳川光圀が常陸太田市の鯨が丘の城とできなかったのは、金の良=ラー(太陽神)アマテラスはシャチ(ワニ)さんで、鯨がシャチに食べられ、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で政権を金と銅の鯨(スサノヲ)に戻した。坂上田村麻呂と徳川光圀は天皇制(源氏のみ月日の両目持ち)ができてからの氏族(梅)のため鯨が丘には城は持てないのではないでしょうか?
争いを無くすには、ナンバーワンでなく、天皇制を取り入れたオンリーワンの政治なんでしょう。
今回は、ここまでとします。




[4137] 嬴姓・・・

投稿者: 荊の紀氏 投稿日:2017年12月 9日(土)16時36分54秒   通報   返信・引用

「同盟した国が滅ん だのだ(秦と江は同じ嬴姓の国で、同盟もしていたようです)。救うことはできなかったが 、憐れま ... 九] 冬十一月壬寅(初一日)、魯の夫人・風氏(釐公の母。成風)が死にました
前623年 戊戍https://blogs.yahoo.co.jp/sanokuangxian/34744869.html?__ysp=5ay0ICDpoqjmsI8%3D

1.太皞庖犠氏
   風姓
   燧人氏に代わって王となった
   母の名 華胥
   華胥は神人の足跡を踏んで庖犠を生んだ
   庖犠は蛇身人首
     ・・・・
   陳に都した
   太山に登り封を行った
   王位について百十一年で崩じた
   春秋戦国時代での末裔は 任、宿、須、句、顓叟

2.女媧氏
   風姓
   蛇身人首

庖犠氏 ? ほうぎし(逆引き). 日本に於ても 素盞嗚尊 ( すさのをのみこと ) が 八岐大蛇 ( やまたのおろち ) を退治した話は周知のことであり、支那では三皇の 一人 ( いちにん ) 庖犠氏 ( ほうぎし ) が 蛇身人首 ( じやしんじんしゆ ) であつたと伝へられ、 印度 ( インド ) の神話とも見るべき 梨倶吠陀 ( リーグヴエダ ) の中にはセシアと称する 千頭の怪蛇のことが記されてある。? ほうぎし(逆引き). 日本に於ても 素盞嗚尊 ( すさのをのみこと ) が 八岐大蛇 ( やまたのおろち ) を退治した話は周知のことであり、支那では三皇の 一人 ( いちにん ) 庖犠氏 ( ほうぎし ) が 蛇身人首 ( じやしんじんしゆ ) であつたと伝へられ、 印度 ( インド ) の神話とも見るべき 梨倶吠陀 ( リーグヴエダ ) の中にはセシアと称する 千頭の怪蛇のことが記されてある。

中国の史書に詳細に伝えられる天皇氏がウ、地皇氏がガヤに相当し、大昊伏義氏、 又は庖犠氏と呼ばれるもののことである。その「フッキシ」「ホーキシ」が、ギリシャ語の Phorcysとの同一性を示しており、また、伏義氏、あるいは庖犠氏が竜蛇で表象される ことでも一致している。
邪馬台国と鉄http://21seikinokadai.blog15.fc2.com/blog-entry-49.html?sp
ヤマタノオロチ退治の時にスサノオが使った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」が登場します。

タケミカヅチと天鳥船神は、出雲国伊那佐の小濱に降り立って、十束の 剣を抜いて逆さまに立て、その切っ先に胡坐をかいて座り、大国主に『この国は我が 御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。http://izumo2012.jp/sub_izumo/asihara.html

武甕槌命・タケミカズチノミコト・・建御名方命・タケミナカタノミコト・・八坂刀売命・ヤサカ トメノミコト天照大神は今の皇室に繋がり、大国主命は出雲系祭神で、確かにこの二大 勢力は、”国盗り”で争ったのかも知れません。このことは古事記に記載された内容だが、 日本書紀には記載されていません。 それでは、この金刺氏を追ってみます。

金刺氏の 成立は、かなり不鮮明で、科野国造家から分かれて同化した説、あるいは、東征から 戻った源氏の氏族が信濃に帰化・婚姻して金刺氏と同化した説などありますが、どうも 外部からの有力氏族が金刺氏と婚姻を通して同化したのは確かではない ...
諏訪大社の上社と下社の対立 ・・金刺家の没落http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/e/6939cb10616458cda242d92c668dd455
諏訪大社の成立は、神話の時代に、天照大神と大国主命が”国盗り”を争い、天照大神の側の武甕槌命と大国主命の次男・建御名方命が相撲で決着し、敗れた建御名方命が諏訪に逃れた上社を造り、その妃・八坂刀売命が下社を造ったとされ、本来は一体とするのが習わしだったようです。
・・武甕槌命・タケミカズチノミコト
・・建御名方命・タケミナカタノミコト
・・八坂刀売命・ヤサカトメノミコト
天照大神は今の皇室に繋がり、大国主命は出雲系祭神で、確かにこの二大勢力は、”国盗り”で争ったのかも知れません。このことは古事記に記載された内容だが、日本書紀には記載されていません。

治承四年(1180)甲斐の武田信義が、頼朝の挙兵に応じ、諏訪明神に祈って武勲をあげたとき、その奉賽として上社に平出・宮処両郷、下社に龍市・岡仁谷両郷を寄進しており、承久三年(1231)には幕府が越前国宇津目保を寄進している。すでに前九年の役(1051)の頃から、両社の大祝および社人は祭祀のかたわら武士としても活躍し、族党を結束して神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していた。

平安時代の後期になると、諏訪大社の上社・下社の神主系は、別流として独歩に系譜してきたことが顕著になります。上社の神主大祝は当初は神(ミワ)家後に諏訪家・諏訪一族として、下社の神主大祝は金刺家・金刺一族(当初は諏訪家)として、一族を主張し始めます。

下社の金刺氏の祖は、金刺舎人と言うことになっているが、「金刺系図」によれば、貞継のとき下社の大祝となったことが記されているのをみると、ここまでにも混乱があったことが覗われます。『信濃史科』によれば、一族に諏訪・上泉・手塚の諸氏がある、と述べてあり、再び諏訪氏も同族であったことが記されています。

鎌倉期晩期と室町期前期まで、諏訪大社の下社の金刺氏と上社の諏訪氏は、ともに北条側・南朝側に立って戦っている。
変化が起こったのは、桔梗ヶ原の合戦以降で、下社金刺氏は両軍に属さず、傍観の立場を取っている。

これを、小笠原守護を交えた立場から見て見ると・・・北条氏に代わり小笠原貞宗が信濃守護として入ってきたのが建武2(1335)年であった。小笠原氏は鎌倉に館を構える「鎌倉中」の有力御家人であった。ただ鎌倉末期には、「御内人」でもあった。しかし、北条氏を見限るのも早く、足利高氏に従い戦功を挙げ、それで信濃守護に補任された。

三枝家関係(③)のお話です。ちなみに、家紋は、「五三の桐」だそうです。http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101275.html
高松の笠井家は、水戸徳川家の家臣笠井権衛門の次男喜左衛門が、松平頼重が高松藩主になった際、水戸から同行し、二百五十石取りの重臣になっのが始まりのです。これは水戸家徳川家の水府系纂という資料に出ています。笠井権衛門は、武田勝頼の家臣で設楽が原の戦いで戦死した笠井満秀吉の子利昌です。
笠井家は、長い長い歴史を持つ、秩父平氏良文流葛西家の分家です。もし、上記喜左衛門の家系だとすれば、桓武天皇まで遡る事が可能です。ちなみに、私は、葛西家の始まりの葛西清重から32代目になります。葛西家は、奥州藤原氏滅亡から、豊臣秀吉の奥州仕置きで滅亡するまで400年間宮城・岩手を治めた大大名です。日本の歴史の教科書には出てきませんが。
ただ、何故葛西家なのに笠井という姓が違うのかと言うのが、系譜的には意味があります。笠井という姓の始祖は、笠井義邦(南北朝期)で源氏です。平氏である奥州笠井家に源義邦が養子として入り、それで源氏姓に改姓し、笠井を称するようになっています。まだまだ、書ききれない長い長い歴史がある家系です。

笠臣国造 ( 吉備 )
鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖 と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命 を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の・・・
笠かさ
笠 カサ 上サ、賀佐、風(かざ)に同じ。上西(かさ)、上在(かさ)はカサイとも称す。和名抄の讃岐国香川郡笠居郷(高松市)は、天暦十一年太政官符に讃岐国香河郡笠郷と見え、江戸時代は★笠井村、或は葛西とも書いた。足立郡遊馬村字上サ(大宮市)は古の村名にて、★八幡社宝暦七年庚申塔に「笠」と見ゆ。
風(かざ)


葛西氏と笠氏熊本県球磨郡に「十島菅原神社」があり何か関係ないか?と思って豊島氏 を検索。http://hikoshima.com/bbs/heike/101259.html
古代の笠氏
①嬴姓高丘系図
秦王26代・恵文王・諱駟((BC356-BC311))の子・昭襄王(BC325-BC251)の兄弟の高陵君・諱参の子孫で高軌の女子・真華姫と百済の百済蓋鹵王との間の子・百済第25代武寧王(斯摩(462-523))。

②武寧王の子孫が和史になり、1つの流れが桓武天皇后・高野新笠を出す。
1つのながれが若狭彦神社の笠氏になる。

※昭襄王の子孫が秦始皇帝。島津氏の祖・弓月君(太秦の君)
武寧王の子・聖王の子・琳聖太子。推古19年(611)渡來於日本國周防多々良濱

※大内氏がこの太子の子孫とする。

蓋 カサ
紀元前の三韓時代に馬韓(後の百済)、辰韓(後の新羅)、弁韓(後の迦耶)あり。弁韓の弁(べん)は蓋(ふた)に通じ、カサと称した。
★蓋馬韓 蓋国と書かれる。解に通ずる。

「令集解」の百済戸・狛戸の条に蓋縫(かさぬい)と見ゆ。
神武東征以前の渡来にて、先代旧事本紀の天神本紀に「饒速日尊(にぎはやひのみこと)河内国に天降坐す。五部人を副従為て天降(あまくだり)供奉(つかへまつ)らしむ、笠縫部(かさぬいべ)等の祖天勇蘇(あまのゆそ)。船長(ふねのおさ)同く共に梶取(かじとり)等を率領(ひきい)て、天降供奉る、笠縫等の祖天津麻占(あまつまうら)、曽曽笠縫等の祖天都赤麻良(あまつのあかまろ)」と見ゆ。

河西 カサイ
弁韓の笠(かさい)族なり。各市町村に存す。甲信地方に多く存す。

笠井 カサイ
葛西清重を曽我物語に笠井三郎清重と載る。弁韓の笠(かさい)族なり。

葛西 カサイ
下総国葛飾郡葛西庄(江戸川区、葛飾区、墨田区)あり、伊勢神宮領となり葛西御厨と云う。

秩父氏流葛西氏 千葉上総系図に「村岡次郎忠頼―武蔵守将恒―武常(一説秩父武綱三男)―常家―康家(号豊島太郎)以下系あり

鍛冶師の葛西氏 隅田川流域は古代より砂鉄を採取していた土師族の居住地なり。沙石集に「故河西ノ壹岐ノ前司(清重)と云しは、秩父のすえにて、弓箭の道ゆりたりし人なり」と見ゆ。葛西氏が秩父氏の一門を称していたのは、東国の鍛冶統領秩父氏の配下であって、川越氏、稲毛氏、江戸氏、豊島氏等と同じく鍛冶集団である。

★葛西氏の本名は石井氏にて、葛西庄の鍛冶頭であろう。秩父条参照。

笠臣国造 ( 吉備 )
鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖 と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命 を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の・・・

以上を考えるに 一軒一軒を尋ねてみても わからない。嬴姓高丘氏だけをみてもわからない。あっちからこっちから見なければ・・・


この時費は嬴姓を授かった。 その子孫らは殷に仕え諸侯となり、周の 穆王の頃、造父が馬をよく御するので寵幸された。造父は四疋の珍しい色の馬を献し たり御者として乱が起こった地に馬を馳せ、乱を鎮めた。そこで穆王は趙城に造父を封じ た。
益(えき)は、古代中国の伝説上の人物。帝舜と帝禹に仕えた。伯益、柏益(はくえき)、伯翳(はくえい)[1]、大費(たいひ)とも。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E8%A9%B1)
帝舜の時代には、虞(山沢を司る官)を務め、禹とともに治水などの政治を行った。禹が帝になったあとは、禹に仕えた。帝禹のもとで政治を取り仕切った皋陶(こうよう)が死んだ後に、益は政治の取り仕切り役となった。

非子は秦嬴と号した。その後その子孫、襄公の時になっ て周が犬戎に侵された。この時よく周を助け、爵を賜った。これが始皇帝の家系の直系 であるとする。 『史記索隠』によればこの大費は『尚書』や『漢書』にいう伯益と同一人物 である。

伯益は禹から嬴(えい)という姓を与えられた。子供には大廉(中国語版)(たい れん)若木(中国語版)(じゃくぼく)がおり、いずれも鳥と縁のある一族であると伝えられ ている。また、伯益の末裔にあたる子孫たちが秦王朝の王族になった、とも伝説では語 られている。 日本では、上述の子孫たち(秦王朝の遺民)が日本に帰化をして、秦氏に なったという説を見ることが出来、国学者・松田敏足などがこの説を著作に記している。

伯益・・・佐伯・・・道臣・・・鴉・・・諜報部員(忍者)http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2052
①「トラジ(桔梗)伝説」
現在北朝鮮ではアヘンはペグトラジ(白桔梗)という「隠語」で呼ばれ大変な問題になっています。おかげで、海外の朝鮮民族はおろか外国人まで、北朝鮮のペクトラジはアヘンだと混同するようになりました。朝鮮伝統民謡の「アリラン」と「トラジ」は日本の年寄り世代なら題名位は誰でも知っています。朝鮮民族とトラジとは切り離す事の出来ない言葉であります。

若木は、堯、舜、禹の 三代に仕えた宰相、伯益(はくえき)の次男だ。 .....
日本人に占める縄文人の比率は8%ほどであり、残りは弥生人と古墳人だ。
弥生人は、フェニキア人とユダヤ人で、地中海からアレクサンドロスⅢの東征で中国・朝鮮を経由して来日したと考えられる。
古墳人は、神功皇后以降に来日した秦氏や新羅人、百済人などの朝鮮半島人で西日本に多い。
部落は、東日本の蝦夷(弥生人)が西日本に連れて来られた佐伯部とする説があり、明治維新以降、多くの朝鮮人が部落に流入した。

朝日神社教祖・井出国子は、元天理教信者だった。
アッセンブリー三木アガペー教会と三木アガペーチャペルは、ほぼ同じ場所にあり、共に日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属している。この教団は、戦前は日本基督教団に属していた。

ウィキペディアによれば、大神氏は三輪氏の子孫で、三輪氏は神功皇后(白)の四大夫の1人だったが、後に物部氏や中臣氏と共に排仏派(赤)になったり、天智天皇(赤)の新羅討伐に従軍したり、大海人皇子(白)の壬申の乱に加わったりしている。
三輪氏は、三輪明神(ニニギ)の子の事代主(アジスキ)の子孫のオオタタネコの子孫と考えられる。(*22)
三輪氏の子孫の三好吉房が、豊臣秀吉の姉と結婚した。
三好氏は、信濃小笠原氏の分家、阿波小笠原氏の子孫で、同じ小笠原氏の子孫に丹波国亀岡穴太村出身の上田吉松がいて、その子が、牧口常三郎、出口王仁三郎、笹川良一とする説がある。

葛城は、ホアカリ系賀茂氏の地盤と思われる。

秦氏だけでなく、ホアカリも妙見信仰となる。
ホアカリは、日下部と共に九州南部から出雲経由で丹後に来たと考えられるからだ。
使主は、渡来人の姓だから、日下部は渡来人だ。

北欧神話の主神オーディンが、知恵を得る事と引き換えに差し出した左目が、月を象徴しているとされる。(*2)
北欧神話は、アーリア人とされるゲルマン民族の神話だ。

道教の万物創造の神、盤古も左目から太陽を、右目から月を産んだ。

ミトラ教は、太陽神崇拝だ。

両目を日月とする神話が、日月紋の由来だろう。
片目の神が、天目一箇神の由来だろう。
ミトラやホルスが、太陽信仰の由来だろう。
隼人がホルスだけに結びつくのは、ハヤブサしかないが、ホルスと日本神話の共通点は多い。

九州南部には、阿多、阿蘇という地名があるが、これらも阿和、阿保などと同じく、国王の名前だろう。(*3)

紀元前219年  秦の徐福が不老長寿の薬を求めて出航
   後 57年  倭の奴国が秦に使いを出す
    100年頃 オオナムチが出雲へ行く
    107年  倭の国王の帥升が後漢に朝貢する
146~189年頃 倭国大乱(大乱の後、卑弥呼が国王になる)
    248年  台与が邪馬台国女王就任
    2??年  神武東征
    406年頃 百済の弓月君(ゆづきのきみ)が
          秦(はた)氏を引き連れて日本に帰化
    635年  唐に景教伝来
    835年  唐の景教消滅

徐福の子孫が賀茂氏で、賀茂氏はニニギと姻戚関係を結び、アジスキタカヒコネとシタテルヒメが生まれた。
ホアカリとシタテルヒメが結婚して、物部氏の先祖のウマシマデが生まれた。
そのため、物部氏が徐福の子孫とする説は辻褄が合う。(*5)

桓武天皇の子の嵯峨天皇が源氏の始まりで、源頼朝は八幡宮だけでなく妙見信仰者でもあった。

妙見信仰は、北辰信仰の事だ。
北辰は「北天の星々」という意味で、北極星や北斗七星の事だ。
星辰崇拝は、バビロニアからインドを経由して、中国の道教に伝わり、北極星=皇帝となり、北極星や北斗七星を模した紫禁城が建てられた。
中国では、北極星は皇帝の居城、北斗七星は皇帝の車(乗り物)とされる。

中国では、黒い妖狐は、北極星の化身とされる。
日本では、狐は、稲荷神社の守り神だ。

中国では、泰山北斗と言い、北極星(太一)と共に泰山も崇拝対象だ。
太一は、万物創造を意味し、泰山は冥界だ。
泰山は、太山とも書け、太と泰は同じ意味だ。
太一と秦山で太秦(うずまさ)だ。

八咫烏は、金烏に由来し、金烏は太陽の象徴だ。
賀茂氏の子孫のアジスキと下照姫は太陽神だ。

縄文時代の卜占は、鹿や猪の骨だったが、神功皇后に重用された中臣烏賊津使主が、亀卜(きぼく)の始祖とされる。
中臣烏賊津使主は百済人と結婚したとされるが、亀卜は朝鮮半島では見つかっておらず、中国で殷の時代に始まった。

黄泉の国から戻ったイザナギが右目を洗った時に生まれたのが月読命で、左目を洗った時に生まれたのが天照大神で、鼻を洗った時に生まれたのが須佐之男命だ。



[4136] 東国三社と冬の三角形(続き)

投稿者: 弓張月 投稿日:2017年12月 9日(土)15時47分19秒   通報   返信・引用

おじゃまします。
常陸風土記の「白壁郡」について追記。延暦4年 清寧天皇由来という白壁(白髪部)郡が真壁郡と改称される。治承3年 平長幹が真壁郡司として入部、真壁氏の祖となる。だそうです。「謎解きコード「応神天皇=宇摩志麻遅命」の清寧天皇の通りですね。
http://www.city.sakuragawa.lg.jp/data/doc/1394591744_doc_296_0.pdf
そして、白壁郡には、雨引山法楽寺(雨引観音)がある。御本尊は当たり前の観音菩薩。平家の宮島には厳島神社の他に、大聖院(だいしょういん)もある。御本尊は十一面観音(観音堂),波切不動明王(勅願堂)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E6%B3%95%E5%AF%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%81%96%E9%99%A2_(%E5%AE%AE%E5%B3%B6)
雨引観音は「マダラ鬼神祭」なる祭りが行われているようで、日本国内ではマダラ鬼神の祭礼を行っているのは京都の太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)と当山のみであり、広隆寺(こうりゅうじ)のそれはマダラ鬼神が鬼面を着け牛に乗り唐風(からふう)の衣装を着けていることに対し、当山のマダラ鬼神は馬に乗り弓箭(きゅうせん)を帯し破魔矢(はまや)を天空に放つという違いが有ることである。だそうです。
http://www.amabiki.or.jp/annualevents/kijin/
また、桜川市(旧岩瀬町)には、小山寺富谷観音があるそうです。「小山」や「富谷」で、榎本氏(えのもとし)は、日本の氏族。下野国小山で栄えた名族小山氏の庶流である。とか、「富谷」は登彌と等彌で、谷は矢とか規則性が現れますね。
http://blog.goo.ne.jp/hanako1033/e/5eb8947572b05f0cdc2a5b6fd5f7fa63
関連性と言えば、秋篠宮家のお子さんの眞子さん,佳子さん,悠仁様で、「ま」は真壁=真夏(=下)部、「か」はそのまま夏(嘉)、悠(ひさ)は、久=九(まる)とか、古代史を加味してるのかな?と感じられますね。

今回は、ここまでとします。



[4135] 東国三社と冬の三角形(続き)

投稿者: 弓張月 投稿日:2017年12月 8日(金)11時14分52秒   通報   返信・引用   編集済

おじゃまします。
前回の「金刺部氏(かなさしべし)の金刺は、素直に読めば「かなさ」になますね。よって、金砂神社では?そして、諏訪氏の正体も何となく分かりますかね?(具体的にグループ分けすると、崇峻天皇と穴穂部間人皇女かな?)」とし、常陸風土記から消された「河内と白壁郡(現桜川市)」で、河内郡は、もうお分かりですね。河=せん=山,内=だい=台とすると、やまたい(邪馬台国)ですね。地名には、仙台,川内,河内と沢山ありますね。あたり前ですかね?白壁(しらかべ)は、白髪部だとすると「白髭・白髪神社」は一緒ですかね。そして、「滋賀県高島市の「白鬚神社」は、白鳳2年(674年)に、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。となると、厳島神社は、比良=平家となり、つじつまが合うのかな?」も、信ぴょう性ありますかね?菅原道真が藤原氏に左遷させられる訳ですね。また、桜川市は情緒ある街並みで、雛飾りを大切にしているようで、歴史文化は嘘をつきませんね。よって、常陸国河内郡は蘇我系・源氏、常陸国白壁郡は波多八代系・平家でしょう。白壁郡の羽鳥天神塚古墳は、「平成15年に発掘調査され径44m(周堀の外径?)と判明。横穴式石室が検出されたが、戦国時代にほとんど破壊されたようだ。6世紀末ないし7世紀初頭の築造と推定されている。」とのこと。被葬者がばれると困るんでしょう?雛飾りから想像すると穴穂部間人皇女かな。
http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/sakuraga_hatori/
富岡八幡宮の殺傷事件は、古代史のに戻った感がありますね。富岡神社の「富(とみ)」が、富むのではなく登彌と等彌で対立している感じですね。「おごれる者は久しからず」心の勉強が足らないようですね?
今回は、ここまでとします。


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