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ピラミッドの起源3

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 3月22日(水)23時46分15秒
返信・引用
  弓張対さん、平さん、アストラアイさん、情報ありがとうございます。

平さんご指摘のピラミッドが、隕石等あの記録を示している可能性は面白いように感じますね。

聴くところによると、三大ピラミッドは、オリオン座の三ツ星の位置になっているとか。

確かに、この時期、つまり紀元前2690年ごろに、隕石が地中海から大西洋あたりに落下して、ノアの洪水のモチーフとなった洪水が発生した可能性を感じます。

どこに落下したかについては、平さんの推論をもとに考えると、海に落下したとすれば、この辞意はそれほど気温変化はなかったのかもしれませんね。

露の時代はちょうど縄文海進の時代で、ピラミッド周辺も港湾沿いにあったでしょう。

それでどこに落下したかですが、平さんご私的のイタリア、ギリシャ方面は可能性があります。
あの辺の封雑な地形にも注目すべきでしょうし、ノアの箱船の残骸がみつあったアララト山の位置を考慮すると、地中海でも北側、北西へと津波が凝縮してトルコのアララト山の斜面を船ごと競り上がっていった、そんなイメージも浮かびます。港湾の場合、津波はその湾の出口方向からくると、高さが増すようです。

リアス式海岸の場合は、特に津波の高さが増すようにできているそうで、地中海全体にそういうリアス式海岸のような津波の高さが増すような構造がないかどうかも調べてみると面白いかもしれません。

ともかくとんでもない衝撃だったので、3000mの高さから当時の巨大構造線の残骸がみつかっているのでしょう。
ほとんどの地中愛文明が滅んででしょうし、生き残ったのはノアの子孫や、その洪水へ恨みをいだいたエジプト人、つまりハム人の子孫のみで、彼らが洪水への対処策として、バベルの塔、つまりピラミッドを造営したと考えうることは以前お話したとおりです。

もっと関連の伝承が残っていてもよいですね。ただ、多くの地中海文明は滅んだでしょうから、内陸のシュメールとか、その辺の洪水記録を見るべきかもしれません。
 
 

マルコ・ポーロの東方見聞録

 投稿者:アストライアの会  投稿日:2017年 3月22日(水)12時11分36秒
返信・引用
  ベネチアから遥か元の都へ
マルコ・ポーロはローマ教皇と元帝国の皇帝の間を取り持つべく、故郷ベネチアより遥か未知の東方の地、ユーラシア世界へ旅立った。1271年の事とされる。それは駱駝(らくだ)の
隊列で雪のパミール高原を超え、熱砂と砂嵐のゴビ砂漠を渡り、戦乱や盗賊に悩まされながら、4年の歳月をかけて元のクビライ・ハーン待つ上都(じょうと)(元の夏の都)へ至る苦難の旅でもあっ
た。マルコとその一行はクビライにエルサレムから持参した聖なる油と教皇からの親書を渡し、その役目を果たした。
クビライはマルコの有能ぶりを認め、色目人(しきもくじん)として高位の役人に取り立て厚い信頼を置いた。こうしてマルコは中国本土はもとより雲南などの周辺地方に至る様々な土地に赴いて見聞を広める事になる。
クビライの許で既に17年の歳月が流れていた。ハーンはポーロ一家を手放したくなかったので、マルコらが望んでも帰国の許しを出さなかったのである。しかしついに元の同族国である西のイルハン国の皇帝に元の姫君を嫁がせる大命が下り、帰国の途に就く事が出来た。それはボルネオ、スマトラ、インドなどを過ぎて行く海路の旅であり、陸路の旅に劣らず危険なものであった…。

「世界古代文明の謎を探る」(9)マルコポーロの東方見聞録
主 催 アストライアの会  協 力 日本セカンドライフ協会
ゲスト 竹田多麻子横浜ユーラシア文化館学芸員
日 時 平成29年6月27日(火)午後2時から5時
会 場 豊島区生活産業プラザ601号室(池袋駅東口より8分)
費 用 お茶代込み参加費二千円
連絡先 TEL049(258)3218 松原まで
備 考 後半はゲストを交えたお茶会です。

http://www.gilishya-shinwa.com

 

< 隕石の冬 -1>

 投稿者:史実探偵: 平 素人  投稿日:2017年 3月21日(火)21時43分5秒
返信・引用 編集済
  こんばんわ。度に訪問はしていましたが体調優れずのことでコメントは控えておりました。どうぞ、おだいじに!
今回は、管理人さまが掲げたスレッドの海退と海進を「隕石の冬」にしぼって所感を申し述べます。(3/6)岩淵先生のいわれた衝突体(氷体、岩塊、隕鉄体)を総称して「小天体と呼ぶ」ことに大賛成です。 彗星衝突による「縄文超々大津波」岩淵國人 文芸社

隕石の冬とは、私がいうまでもありませんが、衝突時の粉塵が太陽光を遮り気温が降下し、ひどい場合は氷河期となるのものです。その小天体が衝突して隕石の冬を起こすにはある程度の大きさがなくてはなりません。その大きさを仮に衝突直前で1kmφとしておきましょう。その小天体が陸へ落ちるか、海へ落ちるか、はたまた空中爆発するかで、その様相はかなり変わります。海洋へ落ちれば平均深さ3700mが邪魔をして大量の水蒸気を上げるが、それは短期のうちに雨となり隕石の冬への可能性は少ないと思われます。空中爆発すればガス化しその影響も同様と思われます。陸へ落ちた場合は、もろに粉塵を舞い上げ、火山も誘発するかも知れないので浮遊塵の量としては最多だと思います。フィリピンのピナトゥボ火山の時は、約0.5℃の降下といわれました。ちなみに上空に舞い上がった粉塵は「濁水が沈殿するごとくに、時間をかけて雨によって降下する」が私の持論です。

<気温と人々の移動について>考えてみます。
次にいう温度は仮想推理でありその裏づけがあってではないと予めお断りしておきます。年間の平均気温が3℃の降下であれば人々は我慢して、そこに留まるかも知れません。しかし、採集を主とする生活では5℃が限界でしょうか?? 食料とする植物相が変わり、それにつれて猟ができる獲物も少なくなります。海が近くにあれば漁で我慢出来るでしょうが,それでも浅海は海退して陸地化します。10℃を超えると暖地を求めて移動を始めると思います。次は全くの私見ですが、その衝突の規模にもよりますが隕石の冬は2~3年の短期に進むものと考えています。人生50年、ゆっくりの気温降下であれば人々は、それを吸収するでしょう。時期は特定しませんがゲルマン民族の南下。アジア大陸北方民族の南下。日本でも北海道民族の南下がいわれ中部地方あたりには神室(?)の地名がありました。人々が栽培・畜産を得た生活で、一年だけなら我慢できる。二年続けば餓死者がでる。3年続きの凶作であれば我慢は限界、人々は移動を始める。これが隕石の冬は短期にとした理由です。「温暖化はゆっくりと、隕石の冬による寒冷化は短期に進む」が素人の持論です。あれほど何だかんだといわれた松林の減少は温暖化が原因だったと思います。

岩淵先生と私が掲げる四千年前の東北地方の衝突では、私は、15・16℃の降下とみています。これは北海道と沖縄あたりの温度差でしょうか? そして、海退では海水位の低下で5~6mでしょうか? 「15・16℃の降下」としたのは5~6mの海退をもとに「理科表」で過去30年間の気温を参考にしての素人計算ですから全くあてにはなりません^^!。ここで大切なのは、海進、海退は日本だけにとどまらず地球的規模でおこるということです。今私たちが目にする、その一ヶ所の遺跡の現象は全世界にあったということであり、その意味でより多くの人達の参加を求めます。

話は、変わり、シモ様>のナイル川流域を20mの水没線で塗っておられる図に衝撃を覚えました。何故なら90%が砂漠のエジプトでのピラミッドの造築の原因は、私には想像もつかないほどの謎だったからです。「その水辺ライン上にピラミッドあり」ならば、私の称する巨大隕石と大津波に結びつけることが出来るからです。津波は川を上るというから王家の谷もそうかも知れません。そこが津波の喫水線であれば、その驚愕を祖先が記しておきたいのが自然の理。そこには、その建設に追随する人々の「自然を畏怖する人々の共通認識→宗教」があったとみます。「巨石文化の構築には自然現象の畏怖(巨大隕石)が絡んでいて神格化した人物の発生がない限りそれを可能とする大集団社会には発展しない。
  祖先が云う「BC.2001年12月24・25日の未明6時ごろ衝突した巨大隕石」より抜粋、
衣食住以外に多くの日にちと工数を要するこれ等の巨石遺構物がなぜ造られたのか目的がはっきりと判っていない。この構築に小集団の男達がかかれば家族の口は干上がってしまう。石器時代で、狩猟採集・焼畑等の生活で婚姻だけをつながりとする社会では、結合力が弱く小集団にはなりえても大集団へとは発展しない。それが大集団社会となるには、なにかの「核」が必要で人々の心に共通した神の形成と、おれは、その神の代行者だ。 という者が出ないかぎり国という大集団社会へとは発展しない。神の発生は、自然の驚異から発生する。その脅威を与えたのが太陽系小天体の衝突である。これ等の巨石遺構物は、大集団分業化社会が出来上がった後でのみ可能であり、決して先ではない。

   http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-16.html

いかに強大なパラオであろうと、あれほどの巨大なヒラミッドは築けない。砂漠地帯のピラミッドに船の遺物ありの疑問も津波を考えればうなづけるような気がします。そして、食料の裏づけも大切であり、90%が砂漠地帯のエジプトでナイル川上流からの栄養分だけで大丈夫でしょうか。そこには津波が運んだ大量の魚介類の打上げがあった筈です。(4千年前の日本では魚沼産のコシヒカリがそうだとしました。)

では、<その巨大小天体の落下地はどこか?>
現段階では全く心当たりはありませんが、全ての道はローマに続くといわれるようにその辺りに、その巨大隕石は落ちたのかも知れません? それがシモ様やキシ先生の掲げるA・B群の隕石ラインに重なると面白いですね。私はイタリアや中米には、隕石銀座があったとみています。記憶のなかに、地中海に巨大な石柱が沈んでいました。津波の性質として上陸した津波が斜面を下るとき巨石を軽々と下流へ運ぶことがあります。それは、その体積分の泥流の重さが浮力として働くからです。欧州人がいう 『洪水は=巨大津波』 なのだとします。祖先は海が二つにわれたという。赤い下段の上に白い巨石を積んだピラミッドは空を飛ぶ巨石を表現している。その大事変がギリシャ神話となり星座の観測へと進んだのではないでしょうか。その小天体の落下地の捜索は今後の課題ですが、隕石の冬を伴った大事変がシモ様が図示された1万年前(?)の氷河期と重なると面白いですね。

つぎに<ピラミッドについて>の所感をもうし述べます。
私たち祖先が、このような巨大遺構物を築くとき、その方向性はとても大事な要件です。端的に言えば、その巨大な小天体は、どちらの空に現れ、どの方向から飛んできたのか。特に、初期のピラミッドは、その方向を示している筈です。スフィンクスはどちらの方向を向いているのですか。四千年前の地球を半周した巨大隕石は日の出の空に現れたことからナスカの巨鳥の地上絵は南東を向いていました。この方向性をいうとき、地球の歳差運動を考えなければならないのは勿論ですが、逆算すれば、そのピラミッドの造営年代が判ってきます。インドと日本語の共通点は面白いですね。最初は眉唾と思っていましたが、シモ様のグルド人とシルクロードの話を合わせて考えると現実実を帯びてきます。エジプトのスフィンクスは流れ、流れて日本の狛犬に!! というお人がいました。アラベスク柄、唐草模様、巴紋は、それらの文化も運んだ巨大津波模様だとするのは、素人探偵の思いすごしでしょうか。
   この素人のこども染みた発想を学問として昇華してくださることを望みます。

<隕石の冬-2>
与那国島の海底遺跡は、わたしも興味を持っています。しかし、未だにその緒さえつかめていません。水は地球に存在する安定物質であり簡単に増減するとは考えられません。水没25m~30mの海水量の全てを氷にして、陸地と海洋比3:7の陸上に積み上げてみましたが、そうすると今の私たちは存在しないことになりました^^!。 ところで、出雲半島西端の日御碕最深20~28m付近に海底階段を発見けたダイバーがおられました。http://www.san-in-tabi.net/travel/44.html 私はそれを玄武岩の噴出があることから、蛇の尾っぽの跳ね上がりに例えて、短期的な上下運動があったかとして、それを「地震波の船尾現象(自説)」と名付けています。短期といっても十年単位だと思います。その石段は「出雲半島・出雲竜が海水を飲み干した信仰」となり、後の神社の回廊(吉備津神社)等に変化し,伊豆半島・石廊崎にもそれがあるのではと予見しています。
      http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-24.html

与那国島の海底遺跡にある階段状の写真を見ましたが、一段の高さが1m前後はあろうかと思われます。ここは、前述のような地形的にも、そして人類史があるなかでの陸地隆起や陥没、隕石の冬による海水位の低下でも説明しがたいと思っています。何はともあれ、与那国島の海底遺跡(?)や、地中海の水没遺跡、インド・カンペイ湾の海底遺跡は現存する!。今の人知が及ばないだけだ。唯一の救いはシモさまの称される“赤道付近文明論”が残るだけかな・・・^^?
http://www.nazotoki.com/kaiteiiseki.html 

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.htm,

 

東国三社と冬の三角形(続き)

 投稿者:弓張月  投稿日:2017年 3月19日(日)13時00分27秒
返信・引用 編集済
  おじゃまします。今回はローカルなお話
「神社の縁起と伝承」志田諄一著の金砂大祭礼と水戸藩の項に「真弓山修験は、四歳の光圀の非凡な才能を一目で見透かしたという等覚院の有名な話があるほど、光圀との結びつきは格別なものがあったようである。元禄六年(一六九三)、久慈郡天神林の地に「七代天神宮」を創祀した光圀は、年中行事を新しく作成し、四月八日に磯浜(大洗町)に神幸することを定めた。光圀は諸社の神幸を水木や久慈浜に命じながら、七代天神宮と真弓権現は、特別に磯浜に神幸させたのである。このため正徳五年(一七十五)以降の金砂大祭礼に、真弓山は参加できなくなってしまったのである。
 こうした内容は、大先達長谷密蔵院、年行事森合南窓院、村松龍蔵院、真弓徳善院が光圀の意を支持することによって決められ、執行されたのであろう。」と書かれている。
大洗(茨城県)に、大洗磯前神社が、ひたちなか市磯崎町には、酒列磯崎神社があります。
どちらの神社も一度荒廃したものを徳川光圀により造営がなされていることが、「ウィキベディア」に書かれている。そして、どちらの神も斉衡3年(856年)に常陸国鹿島郡の大洗磯前に神が現れたとされる。とある。大洗町には、大洗磯前古墳群には日下ヵ塚〔常陸鏡塚〕古墳(前方後円墳),姫塚古墳(前方後方墳),車塚古墳(円墳)もある。そして、近くに涸沼(ひぬま)がある。涸沼の「涸」は「ひ」とは読めないし、「涸れる」でしょう。何を意味するのか?
大洗町には高速増殖実験炉「常陽」が、福井県敦賀市明神町には原型炉「もんじゅ」があり(敦賀は、都怒我阿羅斯等が地名の由来の人物)、産小屋,ウブスナ(産土)を考えると、なぜこの場所に立地したのかを理解するのに、なるほど。と思える。現人(あらひと)と読めるのは、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と巨勢楲田荒人(こせひだあらひと)だけかな?
大洗磯前神社の神輿は、四角形か、八角形か調べていませんが、八角形神輿は、水戸東照宮,筑波神社,酒列磯崎神社,東金砂神社,若宮八幡宮(常陸太田市宮本町),水戸八幡宮で、西金砂神社,馬場八幡宮(常陸太田市馬場町)は四角形である。そして、水戸八幡宮は、佐竹義宣が馬場八幡宮の神を勧請し、後世の水戸徳川家の社寺改革で編纂された「鎮守帳」には「若宮八幡」と記されている。とのこと。エジプトの三大ピラミットで、クフ王のヒラミットは八角形、その他は四角形で面白いですよね?
筑波神社の参道の神橋は徳川家光による寄進とのこと。橋を間人(はしひと)皇女や伊勢神宮の八開手(8回打った後に再度短拍手を1回打つ。=8.5回と考え)から、父と母と子の関係を考えると面白いですね?
大洗の「洗」はセンで、大セン=大山となります。センは、他にも千,川,山,船。

今回は、ここまでとします。
 

ピラミッドの起源 2

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 3月14日(火)23時09分22秒
返信・引用
  弓張月さん、かぐ山のはなこ さん、ご意見情報ありがとうございます。

平安時代ころから源平と中東勢力との関わりを考える味方があるそうですね。

個人的には、平氏;天智・高句麗系・ゾグド商人との関わりで追ってます。

ゾグド商人、渤海交易との関わりで、坂東平氏は東北、北海道、渤海経由の商業ルートをもっていたのでしょう。
そのころは、イスラム商人も新羅に出入りしていた時代ですから、中東系の伝承も渡来してきていても不思議はないです。

ゾグド人の交易ルートは、唐やシルクロード、ステップロードに及んでいたでしょうから、バビロニアやエジプトの古い伝承を持ち込んでいたかもしれません。正倉院にもゾグド文字のしるされた遺物がありますが、文字だけではなく、風習なり伝承なりも伝わっていたと考えるのが自然でしょうね。

その痕跡をどこに見出しうるかが課題です。

以前、探索した足利などの星宮神社のような星辰信仰、この辺は欧州藤原などともかかわっていて外来形のそれでしょうね。

そのゾグド商人の流れをおうにあたっては、やはり磐井にはじまる九州に渡来した今来漢人、つまり当時朝鮮半島にあふれていた北燕遺民と東欧径のおそらくはゾグド石人文化をもたらした集団との関わりを考える必要があります。

彼らはゾグ人人特有の石人、石馬文化、石窟寺院にみられるような風習などを朝鮮、日本へともたらしていきます。
甲冑などの製鉄遺物もそうですね。そしてガラス椀、金銀細工などの製品を、朝鮮、日本の天皇陵に埋葬しています。

その影響は、思った以上に大きく、そこには、ペガサスのような東欧径伝承、キリスト教文化などももたらしているわけです。

もちろん本題のエジプトの文物の痕跡も見えるわけですが、ピラミッドの影響というのは、どうなんでしょうね。将軍塚とか疎あ氏の墓とかにみえる階段状ピラミッドと関係あるのでしょうか。

高句麗のそれも蘇我氏のそれも、上にいくほど、角度がゆるくなるんですね。
ピラミッドは、角度は確かに風化でゆるくなっているようにも見えますが、その辺どうなんでしょうね。

蘇我氏というのは、伽耶でも百済寄りのソボル、蘇伐にアイデンティティーをもっていた集団の首長の家系で、百済の王族とも血縁で結ばれていたと思いますが、同時に高句麗の影響も受けていたように感じますね。

高麗という蘇我氏の首長がみえますが、当時の彼らの風習からいって、母方に高句麗系の王族がいて、その影響で子供にそういう名前をつけているわけです。

母方の墓制を受け継いでいるんですね。6世紀前半の高句麗には、先のようにゾグド人なり北燕遺民の影響がつよく、それが高句麗の古墳群に見えるような八角形天井構造などにも見えるのですが、それがさらに斉明・天智ごろに日本の皇族墓にも導入されて、八角墳ができてくるわけです。

高徳町の難波宮の八角塔などもそのころの影響、間接的には高句麗仏教の影響があるのでしょう。
当時の新羅などにもそういう八角構造物がみえてきますが、観音信仰とも関わります。

この辺の流れも一度整理しておく必要がありますね。

あと、ピラミッドは突然できたわけではなく、それ以前の数千年間にも同様な構造物があり、海底深いところに埋もれている可能性、この件をどう考えるかが課題です。

やはり再度沖縄を調査する必要があるでしょう。
 

東国三社と冬の三角形(続き)

 投稿者:弓張月  投稿日:2017年 3月14日(火)11時24分57秒
返信・引用 編集済
  おじゃまします。
「尾上」について、私は歴史に対して前にも書いたとおり、先祖は何者か?で始めた程度で、まったくの素人です。
そこで、素人として「尾上」とは何か?を書きこみます。
「尾上」とは、尻尾から見て一番上の頭、もしくは顔で、大江氏は産土(うぶすな)、つまりは、干支では、子,丑で、日下系(国津神)ではないでしょうか?桜は佐倉とすると、「佐」の元締めで、佐は、霞や雲となります。鎌倉幕府では、大江氏系が政所の初代別当を務め、幕府創建に貢献していますよね。源氏と大江氏は、天皇制の賛成組では?そして、霞や雲とは、我こそナンバーワンの考えの持ち主で、尾上とは、オンリーワン(和製英語)的な一門なのではないでしょうか?
出雲大社のご祭神は、十七世紀以前はスサノヲのようですね。「尾上」も歴史の途中で半々に別れたのでしょう。(伊勢神宮の遷宮20年ごと(=2重制では?))
それと、エジプトのナイル川は漢字の「人」の字にそっくりですよね。青ナイルと白ナイルが合流し、一本の川となる。面白いですよね?

今回は、ここまでとします。
 

高砂の

 投稿者:かぐ山のはなこ  投稿日:2017年 3月14日(火)01時37分12秒
返信・引用
  高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
                  大江匡房

>いつ頃にエジプト、シュメール文化を基に日本の歴史を文書化したかであるが、院政が安定した平安末期ではないかと考えています。・・白河院政時の大江氏(大江匡房)と藤原北家(藤原伊房,藤原為房,藤原正家)のころでは?と考えます。

・・アララト山の頂に咲く桜を遠視して識別するようなものですか?

吉野の桜なら霞か雲かでしょうから。・・シルクロードにしても砂の道でしょう。

九尾の狐をまことしやかに伝えたのは大江匡房だと想う。・・尾上って、そういう意味でしょう

か?

 

東国三社と冬の三角形(続き)

 投稿者:弓張月  投稿日:2017年 3月12日(日)10時54分48秒
返信・引用 編集済
  おじゃまします。
昨日のTBSの番組「世界不思議発見」は「世界初!ついに解明か?ピラミット王朝の秘密)」であったが、メンカフラー王のピラミットの下部は赤の御影石を使い、上部は白色の石を使って表面を飾っていたとのことですね。そして、その訳を上エジプト王の王冠は白色,下エジプト王の王冠は赤色であったことを述べられていた。
オリオン座の赤白の区分では、ペテルギウスは赤星,リゲルは白星で、源平で星を取り合っている。また、埼玉県さいたま市の大宮氷川神社、中山神社、氷川女体神社で三つ星に、(大宮を中心とする氷川神社群では、オリオン座の形、つまりカムド(神門)の形に並んでいる)と大阪府大阪市住吉区の住吉大社の三つ星がある。赤白星、そして三つ星の取り合いで、この関係の結果は天皇家の創設となった。対立軸は、麻呂系、つまりは、藤原仲麻呂系(安倍含む)の藤原不比等の不比等(ふひと)VS巨勢人,男人(=比等)と、大きく分けて、藤原南家VS比等(=ひら=平氏)。そして、欽明天皇VS雄略天皇で、男VS雄では?
いつ頃にエジプト、シュメール文化を基に日本の歴史を文書化したかであるが、院政が安定した平安末期ではないかと考えています。私の先祖も、中央では藤原北家を名乗っていたようで、白河院政時の大江氏(大江匡房)と藤原北家(藤原伊房,藤原為房,藤原正家)のころでは?と考えます。
当時は、民の平和と安定を第一と考えたのでしょうから、卑弥呼の歴史は抹殺し、古代史は(エジプト,シュメール文化を基に)神話化したのでしょう。
記紀で、
「歴史読本」に、京都府宮津市大垣の丹後一宮籠神社がある。この神社には、国宝指定の「祝部 海部直等氏系図」があると聞いている。これを訪れた関西大学の横田教授に、海部宮司は次のように言ったという。「わが家の系図・古伝承が公表されたら、これまでの記紀のもとづく皇室中心の古代史はひっくりかえってしまうじゃろう。それほど重大なことが書いてある大切なものだ。あんたは、どこの大学の出たか。あんたの師匠の京大教授西田直二博士でさえ、モーニングを着て、白手袋はめて、床の間に置かれた系図を謹んで拝見した。あんたは上衣姿じゃ。これでは見せてあげるわけにはいかん。服装を改めて出直して来なさい。」と書かれている。
となるのも当然だったでしょう。
これ以降は、禅宗的になりますよね。ヨガも調べると、インド辺りに「ハタヨガ」なるものがあり、根っこは一緒のようですね。それと、世界不思議発見で、エジプトで双六が発掘されていて遊び方は分からないとのことで、日本でも正倉院に聖武天皇時代の双六があるようですね。

今回は、ここまでとします。
 

ピラミッドの起源

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 3月10日(金)00時39分29秒
返信・引用
  弓張月さん、またお知らせ、お気遣いありがとうございます。
だいぶ体調のほうも回復してきまして、ちょくちょく考える余裕もでてきました。

特にご指摘あったエジプト上流の文化の件は興味深いですね。

エジプトのピラミッドが作成されはじめた紀元前2690年ころは、先日の海進曲線のグラフでいうと、海進がかなりすすんでいた時期において、おそらくは隕石衝突によって、一時的に一気に海退=気温低下がおこった時期だろうと予想します。

海進15mを超えていたはずですが、その後ある事件を気に一気に海退するわけです。
これが間接的にはノアの洪水とか、アララト山にある箱船の残骸のそれとも関わっているように感じます。

それで、その時期の海進状態を再現したのが、添付の海没地図です。
20m海進にしてあります。こうすると、ギザのプラミッドが当時、港湾沿いにあったことがわかります。
正確には三角州の中にあったのかもしれません。

洪水の時期には、王族はプラミッドの上に逃げたり、その中の船で脱出できたかもしれませんね。

かなり実唐的な目的もあったかと感じてます。バベルの塔の話は、パロ人つまりエジプト人が、神が起こした洪水に対抗して店にもそびえる塔をつくって、洪水への対策をおこなったことに起源があるわけですが、つまりバベルの塔というのは、ピラミッドなわけです。旧約世絵所によれば、アスファルトせ、その塔の接着を行ったとありますが、ピラミッドはセメント工法だそうですから、類似した技術を用いてます。

それで、そういう工法は、後代、ローマやギリシャに伝搬していくのですが、そのピラミッドが現れる以前はどこにあったのか?ここが課題です。

当時の都市は、塩の摂取の関係で、常に海岸沿いすぐ近くに建造されていたでしょうから、縄文海進以前の海退の時期には、逆に現在の海面下数十mの地点に都市を構築していた可能性が高いことは以前お話したとおりです。

またその辞意は氷河期に近いでしょうから、赤道周辺しか人裡は豊かな暮らしをできなかったでしょう。
青銅周辺にのみ、文明が存在していた可能性があるわけです。

その当時、つまり紀元前3000年~1万年の間に、エジプトのピラミッド構築Levelの技術水準をもった文明がどこかに存在していたならば、それは赤道周辺の低緯度地域で、かつ、当時の海岸沿い、つまり今の20~100m海進の海底地域にあるかもしれません。

いわゆるアトランティスとかムー大陸とかいう、赤道周辺域の海底地域となりそうですが、その海底下の遺跡を見つけるのは難しいでしょう。ただ遠浅の珊瑚礁のような地域、そういう意味では与那国島の海底遺跡というのは、やはり興味深いのですが、この遺跡の年代、これが、上記の年代で、かつその石造技術が、エジプトのそれに類するものであるならば、興味深いでしょう。

そもそも、突然エジプト人が、50年とか100年とかの短期間で、あれだけの石造技術を開発したというのは、近代文明並の発展がないと起こりえないわけでして、当時それが起こる可能性はほとんどないでしょう。

これはマヤのピラミッドの出現も同様です。可能性として零に近いわけです。
パピルスの技術もそうかもしれません。

長い蓄積や伝搬があって、はじめて、そういうものが短期安のうちに出現するわけです。

蘇我氏の墓がある日突然に、ああいう都塚みたいなものを開発したというイメージが常識化してしまっているとすると、ちょっと世界に通用する学会Levelの頭脳としては残念な気がします。まずは高句麗のお糞群の影響を考えるのが筋です。

だから、日本の前方後円墳なり、神社の祭祀なりも、突然弥生人が短期間で開発したと考えるのは間違いで、外来的な要素がふんだんに混じっていると予想したほうが正しいように感じます。

ともあれ、著名な神社にしろ古墳にしろ、海岸沿い、すぐ海のそばに造営されていたことは間違いなく、その原因の一つは、上記の塩の確保と集済の問題、またそれ以上に海岸沿いにそれを設け泣けれなならない特別な理由があったと考えます。

たぶん、ピラミッドは上記のように、洪水対策もかねているわけですが、古墳もあるいは、たとえば、洪水対策のマウンドとか、以前指摘したような灯台的な意味、あるいは船付場のような意味などおもいつくところです。

これらは、正確な方位と距離尺とで結ばれていることは以前から指摘しているとおりですが、正確な方向に目印をつくっておくことは、特に航路確保の上では、重要性を増します。
古墳の上にかがり火をたくわけです。それを鏡で反射して、沖合の船に伝える、この辺はローマ時代と同じです。

エジプト時代から、海岸沿いの建造物がどのような用途で用いられていたのか、またその影響が海のシルクロードなどに名残がないのかなど、調べるおとは無数にありますね。またご意見お待ちしてます。

 

東国三社と冬の三角形(続き)

 投稿者:弓張月  投稿日:2017年 3月 8日(水)15時18分25秒
返信・引用
  おじゃまします。
管理人様の投稿「エジプトとマヤ文明の紀元前1000年前に船で南米に渡った・・・」の件で、
青ナイルの上流エチオピアにあるタナ湖には、パピルス(カヤツリグサ科)で造った船があるようですね。また、パピルスは古代エジプトで紙として使用していた。
そして、南米のチチカカ湖では、湖上で生活するウル族がトトラ(カヤツリグサ科)で、浮島や家、そして、舟を造って生活している。
トトラは、日本のフトイの一種とのことで、フトイの古名はツクモ(九十九)であり、
〔前に書き込みしたもの〕
長崎県の九十九島、石川県の九十九湾、そして、千葉県の九十九里の「九十九」は、『百』という文字から『一』の線を取り去ると『白』という字になり、また、植物フトイの古名【太×藺/×莞】つまり「太い藺草」の意味とのことですね。南米チチカカ湖の湖上の民ウル族は、「フトイの一種・トトラを刈り取って乾燥させ、その束を水面上へ大量に積み重ねることによって浮島を作り、トトラで葺いた家をその上に建てて、水上の暮らしを営む。家の傍らに畑をもつ際にはトトラの根がその肥料にもなる。漁に用いる舟や移動用のボートもトトラから作る。」ようですね。
茨城県に百里飛行場があります。航空自衛隊の基地紹介に、「百里」の由来を「江戸時代に時の水戸藩主が、下総国(千葉)の九十九里海岸に対抗して命名したという説と、一里を約650メートルとしていた時代に、水戸からこの地を通り潮来まで伸びていた百里海道から名付けたとの説です。(街道ではなく海道と呼んでいたようです)」とあります。
長崎県佐世保市には弓張岳、愛知・静岡県に弓張山地(八名弓張山地(やなゆみはりさんち)とも。)があり、面白そうですよね?

トトラで、古代エジプトの神には「トト」がいて、ウィキペィアには、「トート(ギリシャ語:Θωθ;トトとも)は古代エジプトの知恵を司る神。古代エジプトでの発音は完全には解明されていないがジェフティ(エジプト語:??wty)と呼ばれる。聖獣はトキとヒヒ。数学や計量をつかさどる女神であるセシャト(英語版)を妻(または妹)としている。」とあり、「ラー」は太陽神。青ナイルの源流にはマントヒヒが住んでいて、オナガザル科ヒヒ属。日本には猿田彦がいて、日下を「くさか」と読むのも、エジプトの草文化が日本,南米へと伝わったためでしょうか?

今回は、ここまでとします。お返事の書き込みは結構ですよ。まずは、健康を
 

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